2015年2月28日土曜日

如説修行ということ

御教歌                 平成二十七年一月 教区御講

妙法は折伏せねばひろまらず

故に三類あだみねたまん

佛立要義録(四)62オ・扇全二十九巻二二八頁

佛立開導日扇聖人、お示しの御教歌で御座います。

 

十五世日晨上人が、この御教歌に大意を寄せてくださっています。

「妙法の弘通は、坐り込んでお客が来るのを待つようなやり方ではだめ。お客を見付けて進んで売り歩く積極性が必要、自然風当たりが強くなり同業者にも憎まれる、その覚悟が肝要、但し功徳多し。」

 

待っていてはダメ。本当のご信心が出来たら、邪魔も怨嫉もつきもの。

三類の強敵の前に、三類の弱敵に負けているようではダメ。

罪障消滅、定業能転の、まさに正しい佛立信行、菩薩行をさせていただこうと、勧め励ましていただく御教歌で御座います。

 

御教歌を再拝いたします。「妙法は折伏せねばひろまらず 故に三類あだみねたまん」

 

年頭、元旦の御法門では、今年一年は恋する人のように、「よろこび」や「うれしさ」を胸に包み抱いてご奉公させていただこうと申しました。

 

「未(ひつじ)辛抱」って。

きっと当たらないけれど、辛抱しているだけでは始まりません。

何のために辛抱して、何のために苦労しているかが大切。

ジッと待っていても、ダメなモノはダメ。自分の謗法や罪障にやられて、トラブルに巻き込まれ、病気になり、人に騙され、苦しめられ、泣いて、哀しんで、もがいて、一生を終えるなんて、こんな馬鹿なことはありません。

それは、仏教徒の人生、佛立信者の人生ではありません。

何もしなくても、人生いろいろありますよね。

だから、何のために苦しんで、何のために辛抱して、結果、どうなるのか、ということが大事。

 

病気で苦しむよりも、病気が良くなるために苦しむ。病気を治すために苦しむ方がいい。

罪障に振り回される苦しみではなく、どうせ苦しむならば罪障消滅のために苦しむ方がいい。

それが、ご信心です。それが、菩薩行、折伏行という生き方です。

それならば、苦しんだって、いいじゃないですか。むしろ、よろこんで苦しめるじゃないですか。

 

「妙法の弘通は、坐り込んでお客が来るのを待つようなやり方ではだめ。お客を見付けて進んで売り歩く積極性が必要、自然風当たりが強くなり同業者にも憎まれる、その覚悟が肝要、但し功徳多し。」

 

このご信心は、お折伏できるようになったら、ご奉公が成就する。誰かが来るのを待っているのではなく、自分から進んでさせていただくことによって、本物のご信心になります。

 

「妙法は折伏せねばひろまらず 故に三類あだみねたまん」

 

罪障消滅のご信心、定業能転のご奉公、お折伏を受けて、なお、お折伏のご奉公が出来るようになると、誰彼と無く風当たりが強くなり、怨嫉が出てくるものです。

法華経の歓持品、まさに「歓んで持つ」と題された御法門の中に、「三類の強敵」という相手が出てきます。

 

「三類の強敵」というのは、三種類の、法華経の行者の敵、「素直正直に励むご信者さんが遭遇する三種類の敵」という意味です。

 

まずは、修行する人を小馬鹿にする一般の人たち。仏教に無知で無関心。「悪口罵詈」と説かれていますが、悪口や陰口、暴言、時には暴力まで使って邪魔をしようとする人。

これを、「俗衆増上慢」と呼びます。

「増上慢」という呼び方は、分かっていないのに分かっている、自分の方が偉い、優れている、と思い込んでいる慢心した人のことを言います。

 

第二には、「道門増上慢」と言います。これは、お坊さんのことなんです。習い損じたお坊さん。だから、「道門」「同じ門」とあるんです。外見は仏弟子、お坊さんなのですが、心が曲がっていて、法華経の行者を迫害しようとする、邪魔をする。

ちなみに、「師子身中の虫の師子を食む」という教えがあります。

百獣の王ライオンは、敵無しだけれど、その身体に住む小さな小さな虫が百獣の王を倒す、という意味です。仏教も、「外道」、つまり仏教以外の宗教の人たちには敗れないけれど、仏弟子の中の間違いや慢心からダメにする者が出てくる、という意味です。

 

お祖師さまの『佐渡御書』という御妙判に。(『佐渡御書』昭定六一三)

「外道悪人は如来の正法を破りがたし、佛弟子等必ず佛法を破るべし。師子身中の虫の師子を食む等云云。」

とあるのはこのことです。

 

第三は、「僭聖増上慢」といいます。この人は、実は「上人さま」のことです。多くの人から尊敬を集めた聖者のような人ですが、実際には信心を失い、習い損じていて、人びとを間違った道に連れて行く。そんな人ですから、法華経の行者とは水と油、絶対的に反対の立場で迫害する。

この三種類の中では最後の「僭聖増上慢」が最も悪質で、手強い。

 

お祖師さまは、こうした三類の強敵を相手にご弘通ご奉公をなさったのですね。その御一生を振り返ると、本当に、この三種類の人たちがいて、それぞれがお祖師さまのご奉公を邪魔する。

最終的には、やっぱり「僭聖増上慢」が一番ひどい人で、お祖師さまの命まで狙うんです。でも、それは出来なかった。おはからいでした。

 

さて、お祖師さまとは違いますから、私たちがこうした「三類の強敵」に遭うというのはなかなかありません。でも、よくよく考えてみると、「三類の弱敵」というのは確かに存在する。目の前に現れることがある。

あくまで、「三類の強敵」じゃなくて、「三類の弱敵」です。「弱い敵」(笑)。

そこに負けていて、どうする、ということを考えなければ、ご信心にも、ご奉公にもなりません。

 

私たちの普段のご信心前、ご奉公では、なかなか三類の強敵に遭遇しません。でも、それは、自分がまだ本物のご信心、罪障消滅のご信心、定業能転の、お折伏のご奉公が出来ていないからかもしれないのです。

ということはどういうことかというと、むしろ、自分自身が、知らず知らずのうちに、三類の強敵か弱敵、「俗衆増上慢」「道門増上慢」「僭聖増上慢」になっているからかもしれない。師子身中の虫。

悪世末法は、どちらか、なのです。

そんなの、イヤですよね。虫になるのも、イヤです。やっぱり、何のために苦労するかといえば、同じ苦労でも辛抱でも、良くなるため、罪障を消滅するため、幸せになるためにしたい。

 

三類の弱敵は、たとえば、一生懸命にご信心をしていて出てくるトラブル、災難、病気やケガ、様々な障害も含まれるでしょう。

「懺悔は悪魔退散の祈祷也」

「悪魔トハ病貧死の三神也」

疫病神、貧乏神、死神も、ご信者さんを悩ませます。

そこで破れたら、負けたら、大変なことになる。そこを乗り越えて、何とかご信心を立ててゆく。あだまれて、憎まれて、大変なこともあるけれど、ご信心をしていれば、何のために苦しいかということが違う。罪障消滅、定業能転のためです。

 

私たちは数多くのお祖師さまのお書き物の中で特に「如説修行抄」「四信五品抄」「観心本尊抄」を、「三部の如説抄」と定めて最重要の御書としています。実は、この順序にも意味があり、三つの中では最初の「如説修行抄」を第一に大切な教えとしていただかなければなりません。「如説」とは「み仏の説の如く修行いたします」との意味です。末法で修行する者たちの覚悟と実践を説かれたものです。

 

『如説修行抄』には、お祖師さまの燃えたぎるようなご信心、ご弘通ご奉公の情熱が記されているんです。

逃げない。迷わない。孤独でも負けはしない。混沌としている。しかし、私たちは思いを定める。妬まれたり、怨まれたりしても、それも力に変えて前に突き進む。人の意見ではなく、み仏の教えに従い、説かれたとおりに修行する。どれだけ誹謗中傷されても、耐えてみせる。今生で結果が見えなくても、命あるかぎり御題目をお唱えして、寂光参拝を果たす。これほど嬉しいことはない。

 

これが、如説修行抄第六段でしょ?だから、お葬式の時に第六段を拝見しているのです。

第一段から第五段まで、全く無視していて、最後だけ「寂光参拝を御願いします」というのは、ちょっと虫が良すぎますね。

 

三類の強敵は無理かも知れないけれど、三類の弱敵くらいはしっかりと相手にして、絶対に負けないぞ、という覚悟、心構え、準備、努力が必要です。

御題目、妙法を信じて、ご弘通ご奉公させていただきます。そうすると三類の敵が出てきて邪魔をするかもしれませんが、私たちは負けません、精進してゆきます。

 

「妙法は折伏せねばひろまらず 故に三類あだみねたまん」

 

この御教歌の御題は、「如説修行抄」なのです。

「折伏の心は信心よりおこるもの也。その信心の前にはちえ才覚は無益也。信なき時は猶無益也。」

 

絶対に、負けていただきたくない。せっかく、このご信心に出会えたのです。


確かに、迷うこともある、間違うこともある、でも、だからこそ、懺悔改良、なおお折伏、お教化のご奉公に精進させていただくことが出来るし、そうしなければならないのです。


今年の寒参詣は、その初日に、赤裸々な、大きなお懺悔から始まりました。これは、おはからいだと思います。ご信心の、尊いこと、厳しいこと、大切なこと、いろいろなことを、教えてくださるからです。

 

「懺悔は起信のスガタ也」

「懺悔の心起る時に、己れが我は破れたり」

「さんげの心に我慢(我と慢心)なし。我慢の心にさんげなし。改良の心に謗法なし」

お懺悔をなさる姿は、ご信心のお手本です。

たとえ壮絶な内容であっても、お懺悔できるようになった尊さを思うべきです。

 

「懺悔は悪魔退散の祈祷なり」

「億万の口唱をすとも、謗罪を懺悔せずして利生は蒙り難し」

「御罰にて驚き、懺悔して真の信者となる」

「正直なる者は早く懺悔す」

 

お懺悔させていただくことで、大きな罪障も消滅させていただくことが出来ると教えていただきます。

お懺悔が出来ない。

お懺悔がさせられない。

それでは、みんな、救えないし、救われない。

そのままではご奉公になりません。

 

こうしてお折伏をいただいて、お懺悔をして、改良させていただいて、三類に負けない、正しい、罪障消滅の、本物のご信心、菩薩行が出来るのです。

 

負けてはならない。

三類の強敵はまだまだこれからです。

まず、弱敵に負けてはならない。

 

「妙法の弘通は、坐り込んでお客が来るのを待つようなやり方ではだめ。お客を見付けて進んで売り歩く積極性が必要、自然風当たりが強くなり同業者にも憎まれる、その覚悟が肝要、但し功徳多し。」

 

故に、御教歌に、「妙法は折伏せねばひろまらず 故に三類あだみねたまん」


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