原始経典に載るブッダの言葉と、特に法華経の本門部分、あるいは日蓮聖人・お祖師さまの御法門は、同一のコンセプトであり、そのエッセンスは完全に一致していると思われる。
原始経典至上主義は偏りがあり、仏教の価値を損なう。確かにブッダ自身は様々な名目を使わなかったかもしれないが、かといってブッダの時代にその教理がなかったわけではない。整理して「三学」と名付けたり、振り分けて「六度行」と解析しただけで、ブッダの教説にはすでに説かれていた。
「相承(絶やさず仏教を相伝していくこと)」には「内外」がある。「内相承」と「外相承」。久遠本仏から上行菩薩・日蓮聖人への「内相承」はもとより、科学的な解析や文献学上の研究をしてもなお、日蓮聖人が生きた仏教の継承者であることは証明できる。外相承。
不思議だ。
原始経典『スッタニパータ』の経文を読んでいると、日蓮聖人の忠実な信仰者・宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の文言と完全に合致していると思われる。
1933年9月21日に宮沢賢治は亡くなった。実は『スッタニパータ』はスリランカ(セイロン)に伝わった南伝仏教・パーリ語経典で、日本で刊行されたのは、1935年の立花俊道訳「諸経要集」、1935年の荻原雲来訳『釈迦牟尼聖訓集 : 巴利文スツタニパータ』、1939年の水野弘元訳「経集」『南伝大蔵経』などで、いずれも賢治の亡くなった後となる。
私にとって、原始仏典『スッタニパータ』と宮沢賢治『雨ニモマケズ』の内容の符号は、奇しくも原始経典と本化仏教の一致を証明する符号であり、上行後身・高祖の内外相承の妙不可思議な正当性を証するものと考えている。
下記、読者も検証していただきたい。数千年の時を超えて共鳴する生命の響き、エントロピー増大の法則に抗う仏教者、菩薩行者たちの言葉に耳を傾けていただきたい。心が震えないだろうか。
『スッタニパータ』蛇の章 慈悲
「能力あり、直く、正しく、言葉やさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。
足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の人の家で貪ることがない。
他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きいものでも、中ぐらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、
目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも既に生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。
何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いを抱いて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
あたかも、母が已が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生れるものどもに対しても、無量の(慈しみの)意を起すべし。
また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。
立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥つつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。
この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。」
次章には次の言葉が続く。
「われらは、村から村へ、山から山へめぐり歩もう。」
「私は村から村へ、町から町へめぐり歩こう」
宮沢賢治『雨ニモマケズ』
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク 決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
東西南北に走り回る姿。
法華経本門に出現する本化の菩薩の姿が『雨ニモマケズ』のモデルである。
「蜜蜂は(花の)色香を害(そこなわず)に、汁をとって、花から飛び去る。聖者が村に行くときは、そのようにせよ。」ダンマパダ
われらは本化の仏教徒。本化の仏教者は村から村へ、町から町へ、ご信者さんの家から家へ、東西南北、お助行に巡り歩く、走る、飛ぶ。
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