2007年12月2日日曜日

百本祈願のススメ

 悪い出来事、不慮の災難や事故、自分や家族に降りかかる突然の病。そうした最悪の事態も仏教的には本人や家族が背負っている大きな『流れ』から出た一つの『サイン』に過ぎないと見て取る。対処療法に終始しているだけでは、根本的な問題は解決しないと考える。

 この『流れ』は『カルマ』『業』と呼ばれるものである。それは、『動き』の積み重ねから生まれる。『動き』は降り続ける雨の一滴のようなものだ。人間は一日だけで八億四千万回以上もの『動き』を為すと考えられるが、それが降り続いて、上流で小さな川となり、河口では大河となって流れ出る。

 過去世からこの一生に至るまで、連綿と積み重ねてきた『動き』が自分の『カルマ』『流れ』となる。いま悪いことが続くのもサインの一つ。病気もサインの一つ。その奥に根本的な何かがあると考える。そこが最も大切な部分なのである。

 好ましくないサインが出たら、『流れ』を変える努力をすべきだ。簡単な工事で川の流れは変えられない。より上流に立ち返ったり、もっと大規模に、もっと本格的に取り組んだりしなければ『流れ』は変わらない。

 大きな動き、尊い動きによって、『流れ』はより良く変わる。その『動き』が『御題目を唱える』ということであり、それは私たちの『動き』に『御題目を添える』ということであろう。無為に過ごす一瞬一瞬の動きを、最も尊い動き、『カルマ』の因である『御題目』にしてしまうことによって、悪い流れは大きく変わってゆく。

 十一月の冒頭、妙深寺の本堂で百本祈願が始まった。「百本祈願」とは、一本四〇分~一時間も点るお線香を百本あげさせていただき、その間、御題目をお唱えし続けること。その百本祈願は、小泉氏が始めたのだった。

 小泉氏は、ご信心をするようになって今年で七年目。といっても、本当にご信心の有難さを実感したのは二年ほど前。以来、開門参詣を通じて御利益を実感し、多くの方々にご信心の素晴らしさを伝え、お教化は二十戸以上にもなった。

 その彼が十一月初頭、仕事上のトラブルにぶつかった。ここでは内容を記せないが、会社の経営が頓挫するような事態だった。当然、出来得る手を全て打ち尽くして、その上で彼は私に言った。
「今回、これまで引きずっていた自分の悪い面を教えていただいた。だから、これで会社が倒産しても仕方ないと思っています。ただ、自分の失敗で御法さまやご信心に傷が付いたら申し訳が立たない。それだけが苦しい。仕事の上では出来ることを全てしたので、後は御法さまにお任せする。ついては、今まで聞いていた『百本祈願』をさせていただきたい」

 深夜の電話。翌日の朝六時過ぎ、小泉氏は妙深寺にお参詣していた。私は、百本と御礼の一本のお線香、合計百一本のお線香を彼に渡した。彼はその朝から百本祈願を始めた。究極の『百本祈願』は三日四晩でするという。私も百本祈願は一度しかしたことがない。

 今回の百本祈願は、十四日間を期限として始められた。その日は朝参詣に引き続いて高祖会の会議があった。小泉の様子を見ようと会議の途中で本堂に行ってみると、彼が私の顔を見つけて小躍りして来てくれた。何とアメリカ側からメールが入り、問題が解決したという。わずか四本目にして現証の御利益をいただいたというのだ。

 私の方が驚いていたのだが、
「こんなに早く現証をいただいて申し訳ない。御法さまとのお約束ですから、百本祈願を続けさせていただきます」
と申し出て、そのまま終日お看経を続けた。以来、出勤前にお寺で三本、会社からお寺にお参詣して七本、仕事が立て込んでいる日は三本しかできないこともあったが、最大で一日二十二本ものお看経をあげさせていただいてカバーをし、十二日間で百本祈願を成就した。これには本当に頭の下がる思いがした。並大抵の覚悟ではない。

 小泉氏の百本祈願中、私も少しお助行させていただいた。深夜の三時過ぎ、本堂内は壮絶だった。眠気と戦い、身体を叩きながらのお看経。ここまで御題目をお唱えした者にしか分からない妙味を、じっくりと味わっていた。この間、彼は三戸のお教化を成就していた。

 開導聖人の御教歌に、

『だいもくは千遍よりは万遍と 唱へかさねて妙をしる也』

とある。御題目は唱え重ねてこそその妙不可思議な味わいを知る。ご信者といえども名前ばかりで、御宝前にはご挨拶しかしていない、御題目をお唱えしても数分だけ、ということでは「妙を知らない」ということになる。勿体ない。

 御指南に、

『口唱の秘訣。百遍は百遍の信心、千遍は千遍の信心也。口唱怠れば罪滅の道ふさがりなん。高祖曰く、声も惜しまず南無妙法蓮華経』

とあることを思えば、ご信心とは結局どれだけ御題目を唱え重ねているかということであると分かる。

 信心を『急』にすれば、大きな願いも『急』に成就する。下記の御指南を吟味していただきたい。

『此の御経に云く、法師品、須臾聞之(しゅゆもんし)即得究竟(そくとくくきょう)とあれば、須臾(しばらく)もこれを聞けば、即ち菩提を成ずる、此れ御経の力なれば、一遍、二遍、乃至五遍、十遍と唱ふるに従ひ、もし病者を祈らば、祈りはじむるより其の病者の罪障消滅して、一遍二遍と漸々(ぜんぜん)に唱ふるに従い、苦悩をやすめて安楽に趣(おもむ)く道理顕然也。
もし唱ふるに、よくもならず、悪しくもならぬならば、御経むなしきに似たり。さることわり(理)あることなし。玉をみがくにいまだ光見えずとも漸々(ぜんぜん)とすれば終に光を発するに至る。井を掘るに、はじめ水なけれども、泥土(でいど)にいたりて水の近きを知るがごとし。水迄の土の厚さには、高原あれば平地あり。罪障の厚薄なり。
されば、祈りてしるしなきは、受くる者の疑心の隔(へだ)つるなり。沓(くつ)をへだてて、かゆきを掻くが如し。病者かくの如し。我が身の罪障を祈らんにも一遍の題目もむなしからぬは、須臾聞之(しゅゆもんし)即得究竟(そくとくくきょう)の御文にて知られたり。
かくのごとく思い定めて、行住坐臥に自他をえらまず口唱すべし。大いなる願はおそくなるべし。されど、信行もし急なれば急に成就すべし。
ただし、弘通を忘れたる願ひは経の御意(みこころ)にあらず。されば、弘通の志(こころざし)だにあらば、口唱するに利益を受けむこと決定(けつじょう)なり。顕に利益を見んと思はん人も、罪障の滅するいとまを待つべし。中途にして怠ることなかれ』

(以下、ブログにのみ口語訳を掲載する。『法師功徳品には、須臾もこれを聞かば、即ち究竟を得ると説かれている。これはほんの少しの間でも法華経を聞くならば、その功徳は成仏に当たるほどのものだと経力の偉大なることを言われた御文である。して見れば、聞くだけでなく信じて唱える功徳はどれほどのものだろう。一遍、二遍、、、、五遍十遍と唱え重ねるところに、病者を祈れば、唱える数に従って漸々に苦しみや辛さを鎮め、安楽に赴く道理である。
唱え重ねて少しの変化もないということは断じてない。たとえば、玉を磨くに、はじめは光沢は見えずとも、度重ねるに従って終に燦然と輝くに到る。井戸を掘るのでも、始めは水は出なくても、泥土を見るに到って、水は近いと知るようなものである。高原と低地では大地の厚みが違うが、地下水は必ず流れているのである。罪障の厚薄はあっても、いつか必ず御利益に達するのである。
この故に、いくら祈っても験(しるし)のない時は、靴の上から掻くように受ける者の疑心が障壁を為していると断ずる他はない。これは病気の方の例を挙げたまでである。
すべて我が身の罪障消滅を祈って諸願を成ずる場合、一遍の御題目口唱の功徳も、虚しくないということは、先ほどの須臾聞之の経文で明らかであろう。
このように思い定めて、如何なる時でも口唱するのが良いのである。大きな御祈願であれば遅くなるけれども、信行がもし急ならば、この常識を破って大きな願も速やかに成就するだろう。
ただし、ご弘通の思いを忘れた人の願いというのは御経の御意に適わない。だから、ご弘通の思いがある人の、ご弘通のための願いであれば、口唱するに願いが叶い、御利益を受けることは決まり切ったこととなる。
しかし、いずれにしても、めざましい御利益を見ようとする者は、見えざる罪障消滅の暇(時間)を待つが良い。途中で止めてはならぬ、中絶して怠ってはならない』)

 いま、妙深寺は百本祈願ブーム。

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