2014年12月19日金曜日

たくさんの心の傷

救急車のサイレンを聞くと、手を合わせる。

今日、わずかな間に何台もの救急車とすれ違いました。

今年もいよいよ年の瀬が迫っています。

僕も風邪をこじらせて、今夜の事務局会議も38.3度でご挨拶。

不覚にも、ご挨拶しながら、涙が出ました。

女々しい。

まぁ、仕方ない。

昔、決めた。

リーダーは泣くべきではないと言います。

そのとおり、ここ一番、責任を果たすべき時に泣くなんてもっての外。

しかし、教務は泣くべきだ。

もっと、もっと、もっと、もっと、泣くべき。

それだけ。

エルサレムの、ゲッセマネの園の近くにある教会に行った時に、ともかく、宗教者として負けるわけにはいかない佛立教務がボロ負けしていると感じて、それからそう思うようになりました。

とにかく、泣いた。

まだ熱が高いから、文章おかしいかな?

途中で失礼しましたが、22時過ぎまで会議をしてくださっていたとのこと。

13日の発表会以来、もはやダントツの随喜と、まっさらに明るい異体同心で、今の妙深寺のご奉公が進められているのを感じます。

そう、実感することが出来ました。

最高でした。

そもそも12月13日はお歳暮のご挨拶でした。

12月は、大変です。

たくさん、たくさん、あります。

時代に変化、妙深寺の世代交代の現実もあり、もう10年以上前、お歳暮のご挨拶を止めました。

それに代わって始めたのは、本堂のお控えの間で教区ごとに、半年間、1年間のご弘通ご奉公の報告をしていただくことでした。

ずっと、このご奉公の形で、させていただいてきました。

今年はすごかったー。

今年は、ついに小さなお控えの間を出て、本堂でみんなと一緒に1年間のご奉公を発表し合うことにしたのです。

スクリーンを使って、各教区ごとのプレゼンテーション。

それが、最高でした。

とにかく。

本当に、ありがとうございました。

年末です。

たくさん、たーくさんの、方々の、現証の御利益を、ここ最近、たて続けに、この方も、彼の方も、とお聞きして、ありがたいこと極まりない。

考えられないほどの御利益。

お懺悔と、改良と、御利益。

セットになっているから、お手本です。

御法さまに、感謝です。

年末のたて続けのお教化、本当に、教区御講でご披露を聞いていて、涙が出ます。

年度末、これほどまでにお教化が続いたのは今までで一番だと思います。

純粋な思い。

打算なし。

うれしい。

ありがとうー。

ご病気の方、お仕事や家庭でトラブルのあった方、いろいろなことで苦しんでおられたり、悩んでおられた方。

年末に来て、そうした皆さんが、大変な御利益をいただかれて、新年を迎えられようとしていることが、住職として、どれだけ迷っていても、苦しんでいても、救いです。

それが、佛立だから。

救急車のサイレン。

僕には、これもきっと御利益なのだと思います。

この音を聞くと、ドキドキするから、必ず御題目をお唱えします。

この、表現しようのないドキドキは、心に残っている深い傷が原因だと思います。

耳の穴から血が吹き出している父を見て、妙深寺の本堂に駆け上がった日。

ピーポー、ピーポー。

がむしゃらに、無我夢中で、本当に駆け上がりました。

そして、遠くから近づいてきた。

ピーポー、ピーポー、ピッ。

停まった。

停まった。

停まった。

救急車が来たからといって、僕が動くわけにはいかなくて、一歩でも動いたら、死んでしまうと思ったから。

きっと、お母さんが、姉さんが、瓜生さんも、いてくれる。

俺は、ご宝前で。

でも、ピーポー、ピーポー、ピッ。

南無妙法蓮華経

南無妙法蓮華経

南無妙法蓮華経

泣きながら、涙を左右に飛ばして、必死で御題目を唱えていても、「いま死んだんじゃないか」「もうダメだ」「もう息していないかも」と、救急隊との最悪のやりとりを想像して、泣けて、泣けて。

震えながら、泣きながら、この救急車のサイレンの音を聞きながら、本堂でご祈願していました。

で、もう一度、ピッピーポー、ピーポー、と鳴り始めて、先住がどこかの病院に連れていたれたのだろうと思います。

この間、僕はご宝前で祈り続けていたから、何も分らなくて、自分の信心の無さが、迷いに迷って、変な想像ばかりしていたから。

毎回毎回そうですが、救われたと思いました。

結果、49日後には、救われたのですが。

救急隊。

だから、なおさら、救急車に、敏感になります。

いま乗っておられる人やご家族のお気持ち。

あの瞬間、あの時間のことを思い返すと、今でも涙が出てくるから。

きっと、僕には心に深い傷があるんですね。

あんな光景は、めったにない。

戦場みたいでした。

愛する父親が血だらけになる瞬間。

交通事故など、壮絶な経験をされた方には及ばないけれど、それでも残ります。

目の前で起きたこと、父の姿、血が耳から吹き出し、坂の下に向かって流れていったスローモーションのような映像、取り乱してお看経する自分、そして、救急車のサイレンの音。

たくさんの心の傷。

他にもいろいろありますが、まず、救急車のサイレンで反応します。

しかし、心に傷のない人なんていないですよね。

誰だって、大きいか小さいか、深いか浅いかの違いこそあれ、それぞれいろいろな傷を心に抱えて生きているのだと思います。

それでも、いい。

そう思うのです。

それでも、仕方ない。

ついてしまったのだ。

人生は自分のものだし、どんな傷を負っても生きられる。

筋肉は、傷ついて、修復しようとしながら、太く、強くなってゆきます。

筋肉と同じではないけれど、全く傷を負わない生き方なんてない。

そんなの、人生ではないと思います。

だとしたら、その傷の治し方、場所、そのあとの、受け止め方が大切なのだと思います。

そこにフォーカスできたら、強くなり、優しくなり、大きくなり、いい意味で賢くなる。

そんな自分の心と共にあれば、きっとすてきだ。

傷痕を、いじり続けたり、放置しておくだけでは、膿み出したり、傷跡が汚くなったりします。

そうではなく、自分の心を傷を知って、いい意味で、バランスよく傷をつけながら、より強い、人の痛みの分かる、より志のある、生きる価値を知っている人になってもらいたいと思います。

ご信心があるから、どのような心の傷も、御法さまの御意にかなったご奉公成就、菩薩行の糧となり得ると信じます。

もちろん、幼少時の虐待やいじめや暴行事件など、拭いがたい、許しがたい、外科治療以外に深く裂かれた心の傷を治す方法がないとしても、やはり、生き直すしかなく、そこに惜しみなく力を尽くしたいと思います。

たくさんの心の傷は、悪く捉えたら悪くしかならないけれど、そうではない道もあると思います。

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