2013年9月10日火曜日

宮沢賢治への旅

ありがとうございます。

この後、午前9時からNHKBSで「宮沢賢治への旅」が放送されるようです。アーカイブス。タイミングですね。

宮沢賢治について、ブログに感動的な書き込みをいただき、ついつい文章を書きました。

まさに今、昨日から京都佛立ミュージアムのスタッフ、今回の賢治展の企画立案・研究者である福岡清耀師と亀村主任が(仲良く)2名、2泊3日で花巻まで取材に行ってくれています。

夕方は、賢治の弟、清六さんのお孫さんである和樹さんと打ち合わせをしてくれています。有難いです。

私も、重ねて、重ねて、資料を読み込み、彼の書いた文章、詩を、読み重ねています。

さらに、彼が書いた作品、あるいは詩、あるいは文章の間の出来事、たとえば賢治が宗谷岬を通過する前後など、何が起き、何を考えていたかなど、比較しながら想像したりしています。

展示の期限もあり、頭の中は、賢治でいっぱいです。

彼の目に映ったこの娑婆世界は、生死の境を超えて、まさに、法華経の信仰者で無ければ得られない娑婆即寂光、つまり、無常の中に永遠の寂光を、垣間見たものだったと思います。

修羅の如き人間への慈しみ、生命そのものへの慈しみは、苦悩しつつ賢治が垣間見た永遠の寂光から導かれたように感じます。

私は、『ひかりの素足』を読むと、胸が苦しくなって、苦しくなって、読み進めることも出来ません。いくら、永遠の命と言われても、如来寿量品と言われても、息子2人の姿が浮かんで、苦しいです。

命の脆さ。

ただ、死を忌み嫌う者と、死にゆく者が見ている世界は、こんなに異なるのだということを、彼は詩に遺しています。

この詩は、研修医のオリエンテーションで使われていると聞きました。医師や看護士が、死に向き合う時のテキストになっているとのことです。

『眼にて云ふ』

だめでせう

とまりませんな

がぶがぶ湧いてゐるですからな

ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですから

そこらは青くしんしんとして

どうも間もなく死にさうです

けれどもなんといゝ風でせう

もう清明が近いので

あんなに青ぞらからもりあがって湧くやうに

きれいな風が来るですな

もみぢの嫩芽と毛のやうな花に

秋草のやうな波をたて

焼痕のある藺草のむしろも青いです

あなたは医学会のお帰りか何かは知りませんが

黒いフロックコートを召して

こんなに本気にいろいろ手あてもしていたゞけば

これで死んでもまづは文句もありません

血がでてゐるにかゝはらず

こんなにのんきで苦しくないのは

魂魄なかばからだをはなれたのですかな

たゞどうも血のために

それを云へないがひどいです

あなたの方からみたらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが

わたくしから見えるのは

やっぱりきれいな青ぞらと

すきとほった風ばかりです。

1 件のコメント:

唐澤平吉 さんのコメント...

ありがとうございます。

恥の上塗りで、もう一言つけ加えさせてください。

「眼にて云ふ」に連なる詩に、無題の作品(一九二九年二月)があります。その終りの四行の詩句を、私は忘れることはないでしょう。

 帰命妙法蓮華経
 生もこれ妙法の生
 死もこれ妙法の死
 今身より佛身に至るまでよく持ち奉る

合掌

炎の中にあるもの

人は死ぬ。必ず死ぬ。どんなことをしても150年生きる人はいない。人は老いる。人は病む。そして人は死ぬ。 生ものだから死ねば腐る。だから埋めるか、土に返すか、燃やして灰にするか、動物に与えるか、する。世界には様々な葬送の仕方がある。 仏陀は火葬された。仏陀は分骨された。ガンジス川に...