2023年8月10日木曜日

御教歌「池水の にごりにしまぬ 蓮葉は 雨のふるにも ぬれずぞ有ける」

今月の御法門は来る20日に寺号公称法要を迎えるスリランカ「清涼山大白蓮寺」、法華経から頂戴した名前に込められた意味を拝見して、御法門させていただきました。

御教歌「池水のにごりにしまぬ蓮葉は 雨のふるにもぬれずぞ有ける」

不染世間法 如蓮華在水。
蓮の花のように、強く、明るく、正しく、清らかに生きる。比喩蓮華の御法門。
同時に、お祖師さまのお弟子、ご信者である私たちは、まさに白い蓮の花となって、御題目さまと一体になって、末法悪世、ごちゃごちゃ、グチャグチャの世界でも、多くの人に蓮の花の種を届ける、しあわせの種を届ける、菩薩として生きる。生きよう。当体蓮華の御法門。

妙法の御題目にお出値いした者の心得、信念、生き様をお示しの御教歌を拝見いたしました。

「世間の法に染まらざること蓮華の水に在るが如し」
「不染世間法 如蓮華在水」

これは、久遠の御仏が、法華経本門八品の冒頭、妙法蓮華経従地涌出品第十五において、上行菩薩以下、地涌千界の菩薩方をご紹介し、その方々の特徴についてご紹介された御言葉です。

つまり、上行菩薩、お祖師さまのこと、そのお弟子方、そのご信者さま方のことです。

「この人たちの世間の教えに染まらない姿は、蓮の華が水の中にあるようだ」

「世間の法に染まらない」とは、世間に溢れた凡夫ならではの風潮、因果の道理から外れた流行、ムードに流されたり、影響されたり、感化されたりしないということです。

「蓮華の水に在るが如し」とは、どれだけ臭い、汚い池の中にあっても、蓮の花には色も移らない、臭いも移らない、雨水にすら濡れない、ということ。そこで、そのまま、美しく咲く、ということです。

そんな人が、法華経本門の教えをフォローする人たち、菩薩の誓いをした人たちの生き方、姿、ということです。

娑婆世界、利害損得、権謀術数、食うか食われるか、狐と狸の化かし合い、ドロドロで、ごちゃごちゃで、グチャグチャの世の中、そのど真ん中、間にはさまれて、そこにいる、そこに生きていても、そんな風潮に染まることも、流されることも、影響されることもなく、揺るぎなく生きる、清らかに生きている、生きよう、ということ。

いや、そもそも仏陀こそ、世間にあったあらゆる法、人間が作り出した虚構、人間ならではの茶番劇、小芝居、差別や区別から離れて、一切の恣意や呪縛を取り除いて、唯一無二、この宇宙、世界、社会、人間を正しく見極められた方。

人間の願望や不幸や期待、政治的な意図で生まれた宗教とは一線を画す姿勢は、蓮華の花のような生き方、姿勢から生まれました。

世間の法に染まらなかったから、世界が見えた。人生が見えた。人間が見えた。それを「悟り」というし「解脱」と言います。

ですから「世間の法に染まらざること蓮華の水に在るが如し」とは、久遠の昔から仏教のシンボルであり、本化の菩薩方のこと、蓮華の花こそ仏教や仏教徒を表す象徴です。

仏教は、自分を知るための教え。ほどけるための教え。

せっかく人間に生まれてきて、どうでもいいことに囚われて、偏ったことに流されて、染まって、染められて、生きているなんて、もったいない、情けない、どうしようもありません。

一方、泥沼にいる自分、泥沼の人生から逃げることも出来ない。仕事だってなかなか辞められないし、グチャグチャな人間関係も捨てられない、離れられない。

しかし、そこで、その中で、凛々しく、清々しく、生きることはできるでしょう、と仏教は説くのです。

蓮の花は、泥沼に育ちながら泥の汚れがつくことなく、美しく咲く。泥沼から離れず、むしろ泥沼を清浄なる、清涼なる、美しい池へと変える、浄化する。

人間もこの花のようにありたい。
これこそ、仏教の大原則です。

「池水のにごりにしまぬ蓮葉は 雨のふるにもぬれずぞ有ける」

「雨のふるにもぬれずぞ有ける」

すてきです。境内にもたくさん蓮の花が咲いています。その蓮の花は雨が降っても雨に濡れないんです。きっと、お花や葉っぱの上の細かい繊毛が役に立っているのだと思いますが、雨が大きな雫になって、葉っぱの上に浮かび、ツルツルと落ちてゆく。濡れていないんですね。そのくらい、すごい。

別の御教歌に、
「こぼるゝもたまるも風にまかせ置きて 露にもぬれぬ池のはちすば」

雨に打たれ、その雫を葉っぱに浮かべても、風にゆらゆらと身を任せて平然としている。まるで、どれだけの苦難や困難が降りかかってきても、怨嫉に出会っても、負けない姿、平然と振り払う、乗り越えてゆく姿を表している。

妙深寺コロンボ別院は、妙深寺所属のスリランカ宗徒1049戸、うち正宗徒181戸を割譲して、末寺「清涼山 大白蓮寺」となりました。

妙深寺の山号は「清光山」、末寺 法深寺の山号は日博上人の院号である「清照山」、スリランカの新寺院の山号は先住松風院日爽上人の僧名である「清涼」から「清涼山」といただきました。

「清涼」とは法華経の見宝塔品第十一「清涼池の蓮華荘厳せるが如し」、薬王菩薩本事品第二十三「清涼の池の能く一切の諸の渇乏の者に満つるが如く」に出てくる、もうこれ以上ないほど尊いお言葉です。

そして、「大白蓮寺」。「大」とはスリランカで由緒あるお寺の名前の前に付けられたものですが、そもそも「譬喩蓮華」と「当体蓮華」という教えがあり、「大」を付けることによって「妙法蓮華経」そのものになるという意味を込めています。

お祖師さまの御妙判に。(真偽未決・当体蓮華抄)
「雪山の北、香水の南、無熱池と云ふ池に大白蓮華開け、不思議の妙華を備へたり。彼を以て妙法蓮華と号すべきなり。」
「我等衆生の胸は池、心は水、悪業煩悩の淤泥の中に正因仏性を備る、是を指て妙法蓮華とは名るなり。」

「世間の法に染まざること蓮華の水に在るが如し」妙法蓮華経従地涌出品第十五
「(菩薩たちは)汚されない。蓮華が水によって汚されないように。」

8月17日よりスリランカに向かいます。そして、来る20日、妙深寺コロンボ別院の清涼山大白蓮寺への寺号公称記念法要を奉修させていただきます。

今生人界、仏教史、宗門史、妙深寺の歴史においても、大変に大切なことだと信じます。

これまでの妙深寺の教講みなさまのご奉公、御有志、お力添えに、心の奥底から、御礼を申し上げます。本当に、ありがとうございました。

御教歌「池水のにごりにしまぬ蓮葉は 雨のふるにもぬれずぞ有ける」

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