日蓮聖人の師弟論は『身延山御書』を何度も読み返さなければ分からない。謗法の根源はここにあります。
お釈迦さまが目の前にいた時代、そこにおられた時代から、弟子たちの愚かさが垣間見えるお経文があります。
有名な「涅槃経」、正式名は「大般涅槃経」、パーリ語「マハーパリニッバーナ・スッタンタ」には、あまりにも愚かな弟子の言葉が載っています。
涅槃図にあるように、ほとんどのお弟子たちが泣いていたのですが、年老いて出家したスバッダというお弟子さんが仲間に話すのです。
「やめなさい、友よ。悲しむな。嘆くな。われらはかの偉大な修行者からうまく解放された。このことはしてもよい。このことはしてはならないといって、われわれは悩まされていたが、今これからは、われわれは何でもやりたいことをしよう。またやりたくないことをしないようにしよう。」170頁
お釈迦さまの存在を軽く思ったり、その教えを自分勝手に解釈したり、まさに慢心したという弟子が、お釈迦さまの時代からいたという証明です。
直弟子たちの言葉を集めた『テーラ・ガーター(仏弟子の告白)』にもパーラーパリヤ長老という人の嘆きの言葉が載せられています。
「世間の主・最上の人(ブッダ)が世にましましたときには、もろもろの修行僧のふるまいは今とは異なっていた。今では(昔とは)異なっているのが認められる。」第921偈
「最近の若い者は」という言い方に似ていますが、ブッダがいた時は弟子たちは真面目にやっていたけれど、亡くなった後は違ってきた。だらしなくなっている、ということです。
また、別のところには、
「かれらは会議を開催するが、それは(わざわざ)業務をつくり出すためであり、真理を実現するためではない。かれらは他人に法を説くが、それは(自分たちの)利得のためであり、(実践の)目的を達成するためではない。」第942偈
愚かで虚しい会議を重ねる仏弟子たちは2500年前からいたのです。
「かれらは、教団の外にありながら、教団の利得に関して争う。慚塊の心の無いかれらは、他人からの利得に依って生活していながら、恥じることがない。」第943偈
「或る人々は、そのように、剃髪し、重衣をまとっているが、修行に勤めないで、利得や供養を得ることにうつつをぬかし、尊敬されることだけを求めている。」第944偈
御教歌
「化かすぞや口と心のうらおもて 衣を著たる狸坊主は」
幕末維新の仏教改革者・開導聖人は僧侶、坊主の「ヤバさ」に気づいた人です。
同じ教典に「未来における僧尼の行跡」というプッサ長老の言葉があります。
「未来においては、怒り、また恨み、(己れの悪を)覆い、強情で、偽り、嫉妬し、異なった言説を語る者が多いだろう。」第952偈
「(みずから)真理を知っていると思い、深い(海)の辺りにいながら、しかも法を軽んじて重んぜず、(また)互いに尊敬することもない。」第953偈
「未来の世においては多くの患いが起こるであろう。智慧劣った輩は、善く説かれたこの教えを汚すであろう。」第954偈
「そのような修行僧たちが増えた結果、会議に際しては、たとい徳がなくとも、巧みに言いまくる饒舌無学の輩が有力となるであろう。」第955偈
「会議に際しては、たとい徳が具わり、恥を知り、欲念のない人々が、道理に従って陳述しても、力が弱いだろう。」第956偈
驚くべきことですが、原始経典の中にすでに弟子たちの堕落、その様子が詳細に描かれていました。会議の様子やそこで教えを歪めていく弟子の姿まで記されています。
究極、仏教とは、ご信心とは、師弟関係、師弟論、ご信心はお給仕第一です。お祖師さまは、
「実に佛になる道は師に仕ふるには過ぎず。」身延山御書
とお諭しです。「仏になる道は師匠に仕える、お給仕する、それしかない」と。しかし、続いて、次のようにもお書きになられています。
「師堕つれば弟子堕つ、弟子堕つれば檀那堕つ」
如説修行抄には
「善師をば遠離し、悪師には親近す。」
とあります。師匠に仕えることは欠かせませんが、お互いに凡夫で難しい。
せっかく御仏の教えに出会っても、自分考えに陥って、足が遠のき、愚痴や不平や悪口で、人生を台無しにしないようにしたいものです。
仏教2700年の歴史。慢心の恐ろしさ。愚かさ。歴史が証明しています。
慢心することなく、喜びを失うことなく、歓喜踊躍、精進いたしましょう。
御教歌
「ころも着て かしらまろめて人だます 寺住のもの僧と思な」
開導聖人、お坊さん大っ嫌いですねー。いい意味で(笑)。忘れてはならない佛立イズムです。

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