連日、政治の話題で溢れている。私たちの国の話、大切に違いない。
とにかく、厳しい時代、政治家を半減したらいい。議員削減、この約束すら守れないのだから使命を果たせていない。
貧富の差は広がり、上級と中流と下級に分断された国。日本のネポティズム、政官業の癒着と硬直。これまでの政治の延長線上で改善されるとは思えない。
お寺の大半の方々は庶民の方々。物価は高騰、雇用の状況も厳しく、年金で慎ましく生活しておられる方々が多い。
これまでの政治。「公」のものを利用して作られた道路や橋や線路が「民営化」「効率化」という名のもとで株主のものになる。国のために立ち退きに応じ、税金を投じて作られたものが、お金持ちのものになる。民営化された巨大企業には地の利もある。元々は公のものだったのだから当然だ。その企業が利益のみを考えて値上げを続け、国民が苦しむ。矛盾というか、悲劇だ。
政治とカネ。政治家と企業。パーティーとか献金とか。庶民を苦しめる政治が続くなどあり得ない。根本から変えなければ国は残っても国民が残らない。
「国破れて山河あり」
中国・唐の詩人 杜甫の『春望(しゅんぼう)』の冒頭の詩。戦乱によって荒廃した祖国の哀れな姿と、変わらず残る自然の美しさを詠んだ。
「国破れて山河あり
城春にして草木深し
時に感じては花にも涙を濺ぎ
別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
烽火三月に連なり
家書万金に抵る
白頭掻けば更に短く
渾べて簪に勝えず」
人間の営みの儚さや愚かさと、自然の強さや美しさを表現していて、素晴らしいと思う。しかし、国際情勢の緊張の高まりに合わせて飛ぶ勇ましい言説の一方で、考えてみるべきだ。
国が残って山河が荒廃し、国が残って民が疲弊し、国民の大半が死ぬようなことがあれば、国とは一体なんなのか。すなわち「国が残って山河が失われ、国が残って民が死ぬ」という構造は、「国破れて山河あり」の対極にある悲劇ではないか。
人間の営みが壊れても自然は残る。しかし、「国ありて山河なし」とは、国家という枠組みや政権が存続する一方で、自然環境は破壊され、民衆は疲弊し、その生きる基盤がボロボロになるという現実もあるということだ。国家が本来守るべき国民や自然を滅ぼして、なお国家が存続しようとするのは倒錯や矛盾であるということを心に置いておくべきだ。
「国」とは何か。日蓮聖人は『立正安国論』に漢字一文字で答えている。「口」の中に「王」や「玉」、つまり王や皇帝を入れて「国」、あるいは「口」に「或」、元々は「囗」に「戈(矛)」つまり武器や武力を表して「國」としていたのに対して、「口」に「民」を入れて「クニ」とした。「民があってこそ国である」ということだ。
孟子の『尽心章句』の下篇に次の言葉がある。
「民為貴、社稷次之、君為軽」
現代語にすると
「民を貴び、社稷(国土・祭祀)これに次ぎ、君はこれより軽し。」
となる。孟子の言葉の中で最も有名で最も重い一句。政治の本質、国家の正当性、人間社会の倫理をめぐる根源的な命題を表している。
孟子の示した順序は、
民(人命) > 社稷(国家の土台) > 君(統治者)
である。
日蓮聖人は『立正安国論』で日本初のデモクラシーを高らかに唱えた。「社会契約論」にいたるトマス・ホッブズやロックやルソーに先立つこと400年から500年前、吉野作造の「民本主義」より650年ほど前に、日蓮聖人は人間中心・慈悲中心の政治倫理を唱えていた。
政策協議?表層的な劇場型政治が続き、その「演劇」に国民が幻惑され、一喜一憂、右往左往していたら、国も滅び、民が滅び、自然すら破壊されるだろう。
国家とは人と自然が共に生きるための器にすぎない。器が目的化するとき、国家は人間を食らう怪物となる。

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