2025年10月29日水曜日

この世界は美しく、人生は甘美だ。

 

本門佛立宗の開導日扇聖人の御教歌に次のようなものがあります。


「空は顔 月日はまなこ山は鼻 海山かけて我身也けり」(明治14年・1881)


のちに「ガイヤ仮説」など地球を「生物と環境の結合体」と見る考え方や「地球システム科学」も登場してきましたが、彼は明治14年(1881)にこれを詠みました。少なくとも指南書3ヵ所に記しています。


飛行機も宇宙写真もない時代に、「世界」=「我身」と言い切り、世界を「道具」でなく「身体」として捉える。のちに宇宙から届いた地球の写真「ブルー・マーブル」が人びとの意識を変えましたが、仏教者は内観としてこの宇宙観に達していたのです。心の内側から宇宙をひらく視座です(南無妙法蓮華経、一念三千、依正不二、一心一念遍於法界)。


地球を一つの生命体と捉え、その地球を自分そのものと感じる。とてつもないことです。人間はここまで行ける。人間の心はここまで使える。人類にはこれができるということ。


地球が一つの生命体で、その地球が自分そのものであるならば、「環境破壊」は「自己破壊」であり「自傷行為」となります。仏教徒が到達する人生観や宇宙観。客観説明(地球はこう見える)ではなく、主客未分の実感(我身即宇宙)なのです。


とはいえ、世界は我他我他しているし、生命は争いの中に置かれてる。空想の中では生きられないし、それぞれの場所で負けるわけにはいかない。


ただ、バラバラから世界を見るのではなく、一つだったところから世界を見るということ。何もないところから組み立てるのではなく、崩れたパズルのピースをあるべき場所に戻してゆく営みが仏教徒の生き様ということ。エントロピー増大の法則に、一瞬逆らって動的平衡を取るのが生命であるように。仏教は生命そのもののようだ。


ただ、さみしい。賞味期限は切れそうだし、さほど需要がないと自覚している。世界の混沌。さらにバラバラになってゆく気配。宇宙が背負う宿命、エントロピー増大の法則、さみしいものだ。


ハチドリのひとしずく。微力だが無力ではない。心を一つにして、日蓮が弟子旦那、佛立仏教徒として、生き切りたい。


「日蓮が一類は異体同心なれば、人人すくなく候へども大事を成じて、一定法華経ひろまりなんと覚へ候。悪は多けれども一善にかつ事なし。譬へば多の火あつまれども一水にはきへぬ。此一門も又かくのごとし。」異体同心事 / 日蓮聖人


「日蓮の一門が異体同心(体は違っても心を一つにすること)であれば、たとえ人数は少なくとも大事を成し遂げ、必ず法華経は広まると確信します。悪は多くても一つの善には勝てません。たとえば、多くの火が集まっても少量の水で消えるようなものです。わが一門もこれと同じなのです。」


数ではなく、志の一致が力となる。悪は多くても、真実の一善には勝てない。異体同心が大切。ここが修行、挑戦です。


ズルい人はズルいし、ズルいという自覚がないからズルいまま生きてゆけます。ズルい自分に気づいたらかわいそうなくらい、宇宙の真理は厳しい。


苦諦から始めたブッダの御法門は、「世界は美しい。人生は甘美だ。」という理想の感慨への到達で結ばれます。『大パリニッバーナ経(涅槃経)』のパーリ本や梵文(サンスクリット本)にあるブッダの言葉を手塚治虫は『ブッダ』で「アナンダよ、世界は美しい・・・」と表現しました。


世界は混沌としている、人生には苦しみがつきもの。その「苦」を明らかにすることが仏教の核ではあるけれど、その最終章に「ああ、世界は美しい。人生は甘美だ」という心境に到達する。これほど理想的な旅の終わりはありません。すごいことです。とても素敵な目標、お手本を示してくださっています。


つらいことも多いけれど、お寺がある、御法門がある、ご宝前に座れる。その有難さ。素直に、正直に、前向きに、お参りし、御法門を聴聞し、ご信心させていただきましょう。


南無妙法蓮華経

ありがとうございます。

長松清潤

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