2014年8月27日水曜日

栄村

長野教区の御講から、栄村へ。

ずっと行きたかった場所に行くことができて、よかったです。

東日本大震災の直後、わずか13時間後、平成23年3月12日午前3時59分に発生した、マグニチュード6.7、震度6強の大地震。

長野県北部地震。

別名、栄村大震災。

その名を何度も耳にしてきたので、遠い場所でありながら、なぜか身近に感じていました。

しかし、行く機会、時間はなかった。

そして、行くことができました。

人里離れた、美しい自然、厳しい自然の中に暮らす方々。

本当に、強いです。

特に、秋山郷は、携帯電話の電波も届かない深い渓谷が続いています。

渓谷に下りて、賽の河原のような場所、切り立った断崖を、一人で歩きました。

熊よけの鈴の音を、カラン、カラン、と響かせながら。

渓谷には、いたるところに落石や崖崩れの後があり、自然というものの時間軸で、自然というものの営みを、考えさせられます。

それでも山間の国道や林道はよく整備されていて、驚くほどでした。

自然と人間。

人間と自然。

栄村大震災から3年と5ヶ月が過ぎ、あらためて自分の中に刻み込めて、よかったです。

関係ないと思っていることが、実は関係あるということ。

他人事は自分事で、傍観し、同情していた自分が、実は加害者の一人であること。

シリアスに感じて生きていたら息が詰まると言われそうだけど、目を逸らさずに生きてゆくことは、本当に生きることへの近道だと思う。

今朝は京都に帰ります。

下記、気になった記事です。

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Yahoo!知恵袋で「弱者を抹殺する。」という強烈な質問に対しての回答が秀逸だと話題に。
http://fundo.jp/5661

参加者同士で質問、回答するサービス“Yahoo!知恵袋”で、質問者からの「弱者が生き残れない自然界に対して、弱者を税金などで保護する人間社会は理にかなっていないのでは?」というインパクトのある質問に対して、ある回答者の回答がとても興味深いとネットで話題になっていまいしたので紹介します。


※原文そのままを引用

質問
弱者を抹殺する。 不謹慎な質問ですが、疑問に思ったのでお答え頂ければと思い…

〈弱者を抹殺する。〉

不謹慎な質問ですが、疑問に思ったのでお答え頂ければと思います。
自然界では弱肉強食という単語通り、弱い者が強い者に捕食される。

でも人間の社会では何故それが行
われないのでしょうか?
文明が開かれた頃は、種族同士の争いが行われ、弱い者は殺されて行きました。

ですが、今日の社会では弱者を税金だのなんだので、生かしてます。
優れた遺伝子が生き残るのが自然の摂理ではないのですか。
今の人間社会は理に適ってないのではないでしょうか。

人権などの話を出すのは今回はお控え頂ければと思います。


〈ベストアンサーに選ばれた回答〉

え~っと、、、よくある勘違いなんですが、自然界は「弱肉強食」ではありません

弱いからといって喰われるとは限らないし、強いからといって食えるとも限りません

虎は兎より掛け値なしに強いですが、兎は世界中で繁栄し、虎は絶滅の危機に瀕しています

自然界の掟は、個体レベルでは「全肉全食」で、種レベルでは「適者生存」です

個体レベルでは、最終的に全ての個体が「喰われ」ます
全ての個体は、多少の寿命の差こそあれ、必ず死にます
個体間の寿命の違いは、自然界全体で観れば意味はありません
ある犬が2年生き、別の犬が10年生きたとしても、それはほとんど大した違いは無く、どっちでもいいことです

種レベルでは「適者生存」です
この言葉は誤解されて広まってますが、決して「弱肉強食」の意味ではありません
「強い者」が残るのではなく、「適した者」が残るんです
(「残る」という意味が、「個体が生き延びる」という意味で無く「遺伝子が次世代に受け継がれる」の意味であることに注意)

そして自然というものの特徴は、「無限と言っていいほどの環境適応のやり方がある」ということです

必ずしも活発なものが残るとは限らず、ナマケモノや深海生物のように極端に代謝を落とした生存戦略もあります
多産なもの少産なもの、速いもの遅いもの、強いもの弱いもの、大きいもの小さいもの、、、、
あらゆる形態の生物が存在することは御存じの通り

「適応」してさえいれば、強かろうが弱かろうが関係無いんです

そして「適者生存」の意味が、「個体が生き延びる」という意味で無く「遺伝子が次世代に受け継がれる」の意味である以上、ある特定の個体が外敵に喰われようがどうしようが関係ないんです

10年生き延びて子を1匹しか生まなかった個体と、1年しか生きられなかったが子を10匹生んだ個体とでは、後者の方がより「適者」として「生存」したことになります

「生存」が「子孫を残すこと」であり、「適応」の仕方が無数に可能性のあるものである以上、どのように「適応」するかはその生物の生存戦略次第ということになります

人間の生存戦略は、、、、「社会性」

高度に機能的な社会を作り、その互助作用でもって個体を保護する
個別的には長期の生存が不可能な個体(=つまり、質問主さんがおっしゃる”弱者”です)も生き延びさせることで、子孫の繁栄の可能性を最大化する、、、、という戦略です

どれだけの個体が生き延びられるか、どの程度の”弱者”を生かすことが出来るかは、その社会の持つ力に比例します
人類は文明を発展させることで、前時代では生かすことが出来なかった個体も生かすことができるようになりました

生物の生存戦略としては大成功でしょう
(生物が子孫を増やすのは本源的なものであり、そのこと自体の価値を問うてもそれは無意味です。「こんなに数を増やす必要があるのか?」という疑問は、自然界に立脚して論ずる限り意味を成しません)

「優秀な遺伝子」ってものは無いんですよ
あるのは「ある特定の環境において、有効であるかもしれない遺伝子」です

遺伝子によって発現されるどういう”形質”が、どういう環境で生存に有利に働くかは計算不可能です
例えば、現代社会の人類にとって「障害」としかみなされない形質も、将来は「有効な形質」になってるかもしれません
だから、可能であるならばできる限り多くのパターンの「障害(=つまるところ形質的イレギュラーですが)」を抱えておく方が、生存戦略上の「保険」となるんです

(「生まれつき目が見えないことが、どういう状況で有利になるのか?」という質問をしないでくださいね。それこそ誰にも読めないことなんです。自然とは、無数の可能性の塊であって、全てを計算しきるのは神ならぬ人間には不可能ですから)

アマゾンのジャングルに一人で放置されて生き延びられる現代人はいませんね
ということは、「社会」というものが無い生の自然状態に置かれるなら、人間は全員「弱者」だということです

その「弱者」たちが集まって、出来るだけ多くの「弱者」を生かすようにしたのが人間の生存戦略なんです

だから社会科学では、「闘争」も「協働」も人間社会の構成要素だが、どちらがより「人間社会」の本質かといえば「協働」である、と答えるんです
「闘争」がどれほど活発化しようが、最後は「協働」しないと人間は生き延びられないからです

我々全員が「弱者」であり、「弱者」を生かすのがホモ・サピエンスの生存戦略だということです。

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この回答を見たユーザーからは、「とても勉強になった」「“適者生存”かなるほど・・・」「分かりやすく納得がいきました!」など賞賛の声があがっていました。この質問、回答自体は2011年のものですが、数年たっても話題になるとはスゴいですね。

出典:Yahoo!知恵袋

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