2017年1月3日火曜日

「口唱・折伏・経力・現証」 『妙深寺報』 平成29年1月号

鈴江御導師が重ねて教えてくださったのは、決して忘れてはならない信仰の基本であり、柱でした。ここから外れたら本門佛立宗ではない。何度も何度も言明されていたことを思い出します。


「本門佛立宗は口唱・折伏・経力・現証御利益宗なんです」


御題目を外して本化仏教はありません。南無妙法蓮華経の御本尊、音声こそ、生きてまします御仏の生命であり魂そのものです。この御題目をお唱えすることが何より尊い修行であり、唯一真理と一体になる、無常の中で永遠の生命と一体になる方法です。この修行を外して何を行じても意味がありません。それらは無益であるばかりか害すらあります。


まず「口唱」が大事であることは議論の余地もありません。疑い、迷うことなく、ご縁をいただいた者はただお唱えいただきたい。


残念ながら、「南無妙法蓮華経」と唱える口唱行を喜ぶ人は多くありません。これほど簡単な修行であるのに、なぜか唱えられない。長く続かない。一日ほんの数分、数十分、御題目を唱えることが難しい。これが現実です。


口唱がキライ。それこそ謗法と罪障の表れでしょう。本門佛立宗にご縁をいただきながら口唱が出来ない、その深い味わいを知らないままというのは残念です。


末法の世、無常の身の上、謗法・罪障の深い私たち。限られた時間の中で迷わず生きてゆくために、的確なガイド、絶え間ない指導が必要です。


「折伏」とは、心に潜む邪魔を、積極的に退治してゆく方法であり、人びとを能動的に正しい教えへと導く修行です。折伏があればこそお互いに悪い因縁から逃れられる。折伏がなければ、常に迷い続けて貴重な人生が終わってしまいます。


「口唱」と「折伏」の二つを絶対に忘れないでください。これこそ佛立信心の大原則です。京都本山宥清寺の御宝前両脇にかけられているお言葉もこの二つです。


私たちの時代、この口唱と折伏が圧倒的に弱くなっているように思います。まずはもっとお看経しなければならない。御題目を唱えなければ始まらないのに、外側や周辺に逃げてはいないでしょうか。


頭で理解しても、別のことをしていても、「口唱」を忘れて佛立信心はありません。「圧倒的に」というのは、本当に毎日のお看経の時間が少ないと思うからです。


折伏も同じです。折伏が無くなれば終わりです。世の中も佛立宗も、無くなってしまいます。そのくらい大切な修行です。末法は恐ろしい悪世です。そこに生きる人びとが、自発的に、自然に善なる方向に向かうことは、まずあり得ないのです。


末法の人びとは自己を肯定する強烈な悪癖があります。本人だけが病気ではないと思い込み、治療を嫌っているようなものです。


都合のいい方を選んで信じ込む、都合の悪い方を選んで落ち込む。どちらも極端で、表と裏が増幅し、ついに救いようがない状態になる。迷っていても迷っていないと思い、苦しんでいても苦しくないと言う。本人がそこまで言うのなら放っておいた方がいい、関わらない方がいいとさえ思ってしまいます。


愛と憎しみが紙一重というよりも、身勝手に愛して身勝手に憎悪を募らせるパターンばかりです。遺体をバラバラにするなど常軌を逸した猟奇的事件を起こす犯人も一般化し、身近に迫っているように思えるほどです。


ごく普通の顔をしたどこにでもいるような青年が大量殺人をする。容疑者は反省もせず堂々と動機を語る。現代の狂気の象徴です。彼らは自分が狂っていることに全く気づいていません。


私たちが耳にする事件は氷山の一角で人間の悪癖が引き起こす不幸は爆発的に増えているはずです。


コミュニケーション方法は格段に進歩したはずなのに、夫婦でも、親子でも、友人同士も、行き違いが増えてしまうのが現代社会です。


仏教が説く人間の悪い癖はインターネットやSNSの登場によってさらに増幅されているようです。ネット世論は常に極端に走りますし、「いびつな正義感」「ゆがんだ平等主義」「過剰な道徳」も結局は人間の悪癖が顕著になって表れているということかもしれません。


南無妙法蓮華経の世界は、人間が生み出してきた神々や仏すらも統合し、超過して調和をもたらすものです。地獄から仏の世界まで、うっかりするとバラバラになって一面しか前に出ない人間の心を、あるべき普遍的な調和の世界へと誘うものです。


せっかく統合されていた人格が、ネットによって多重人格になってしまったり、分裂に陥ってしまったりするとしたら、やはり御題目口唱によってバラバラになる心を統合し直さなければならないはずです。


口唱・折伏は、実は私たち全員が統合失調症を患っているような世の中にあって、真っ直ぐに導く手立てであり、救いです。


これは単に理論ではありません。効果が現れなければ現代人がこのメソッド(方法)を試みることはありません。私たちは口唱と折伏の効果を実際目の当たりにすることが出来ます。それが証拠としての「経力・現証」です。


御題目が生きてまします御仏の生命であり、魂であることを実感することが出来るのは、御題目を口唱することによって妙不可思議な現証の御利益が顕れるからです。


それは自分の力によっては絶対に到達できない境地であり、結果です。少しでも自力に偏ったり、智慧を頼りにしたりすると結果が顕れないのです。


目の前に火急な問題が起こっていると私たちは解決の糸口を必死に探そうとします。これは当たり前です。頭を使い行動を起こして解決しようとするのです。しかし、この時こそ自己肯定の悪い癖が前に出て、逆に問題解決から遠のくことがあります。人事尽くすことは大切ですが、それだけではダメな場合が多くあります。


むしろ、智慧を捨てて、無心になって、ただ御題目を口唱する中であり得ないような現証の御利益を頂戴する。自力ではなく経力、南無妙法蓮華経の御力で、現証の御利益を顕す、いただく宗旨です。


今年、晴れて一級寺院となった妙深寺ですが、だからこそ背伸びせず、「口唱・折伏・経力・現証」という修行を、随喜助行を通じて実践し、誰もが険しい時代を乗り越えていけるよう挑戦しましょう。


まずは口唱・折伏の実践です。

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