2024年11月26日火曜日

炎の中にあるもの


人は死ぬ。必ず死ぬ。どんなことをしても150年生きる人はいない。人は老いる。人は病む。そして人は死ぬ。


生ものだから死ねば腐る。だから埋めるか、土に返すか、燃やして灰にするか、動物に与えるか、する。世界には様々な葬送の仕方がある。


仏陀は火葬された。仏陀は分骨された。ガンジス川には流されなかった。歴史的事実。マガダ国、シャカ族、ラーマ村、リッチャヴィ族など、仏陀の遺骨は8つに分骨され、それぞれ大切に荘厳された。仏舎利塔の起源だ。


ネパールの世界遺産パシュパティナートでは今日も次々と遺体が運び込まれ荼毘に付されていることだろう。


このバグマティ川はガンジス川の源流の一つにあたり、ヒンドゥー教徒の彼らにとって魂の浄化や救済に欠かせないと信じられている。この川に流せば輪廻の束縛から解放され、モークシャ(解脱)を得られるという信仰だ。


さっきまであったリアルな故人の遺体が火葬されて僅かな灰や骨になる。その全てが川に落とされ、跡形も無く消え失せる。リアルからバーチャルではなく、完膚なきまでにスピリチュアルになる。目の前で。


日本でも同様のことが行われているのだが、美しく整備された斎場の分厚い扉の向こうで火葬される。遺骨になって対面しても係員が淡々と骨の部位を説明するのを落ち着いて聞いたりする。故人がある種の変化や変身を遂げたという安堵感を抱くのかも知れない。信仰というか、安堵感だろうか。


日本は生と死の世界の壁を高くしてきた。昔はネパールと大差なかったはずだが、近代化と共に壁を高くしてきた。ネパールでは未だに生者の世界と死者の世界の境界線が曖昧だ。交差しているし、本当は一つの世界であることが実感できる。


目の前に、ほんの一歩踏み出せば死の世界が広がっている。惜しくて仕方ない自分の生命はいとも簡単に失われ、あっけなくあちらの世界に行くことも感じられる。リアルに。スピリチュアルに。


一つの炎の中に一人の人生がある。当たり前だが、それは何ものにも代え難くかけがえのない命、人生だったはずだ。


ただその炎を眺める者たちにそれほど切実な想いはない。獅子に捕らわれた哀れな仲間の横を淡々と通り過ぎるヌーの群れのように、僕たちは死について恐怖を抱けないまま、ただ炎を眺めている。


本化仏教の実践は自然と死の瞑想やジャーナリングを伴う。それは、それまで以上に人生の意味を深く考え、生命の価値に気づき、恐怖に打ち克ち、精神的に成長し、他者への慈悲が溢れ、今を大切に生きる道だ。この全てが含まれる。難しいことをするわけではない。


パシュパティナートの炎の中に、かけがえのない命、ただ一つの人生がある。それが燃えている。いつか自分も燃えてゆく。いつか自分も灰になる。リアルな自分は失われ、スピリチュアルな自分になる。それしか残らない。


南無妙法蓮華経

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