シンガポールでのご奉公も、残すところ後1日となった。
昨日の昼には、Ven. Dr. Galle師と、八王子に住んでおられるダンミッサラ師と大石師、現地のご信者らとお会いして昼食を共にした。また、どうしても夕食を御供養したいとのことで20:30にホテルに迎えに来られる言われ、ホテルのロビーでお待ちしているとシンガポール・エアラインでキャビン・アテンダントをしておられる女性信徒、Kamani女史が迎えに来てくださった。
案内されるがままに、どのような場所で食事するのか分からなかったのだが、「現地で最も美味しい食事です」とイースト・コーストの海岸近くに林立する屋台村のような場所に連れて行ってくださった。
そこに、現地の壮年信徒であるVaruna氏と大石師が合流して、夕食を共にさせていただいた。屋台で席に座る前、イースト・コーストの海を見せてもらった。昼間はインドネシアの島々が見えるという。「シンガポールの夜の海が明るいのです」という彼女の言葉どおり、夜は暗いはずの海がシャンデリアのように明るい。タンカーが停泊し、その明かりが点々と灯っている。
Varuna氏はレストランを経営していたが、スマトラ沖大地震と津波被害をサポートしようと、年に3回くらい支援活動のためにスリランカに行ったという。シンガポールで育ったために、スリランカの暗い海が怖かったと言っていた。
彼らは御供養を大変大切に考えており、私たちに屋台で食事を買うことを許さなかった。自分たちで走り回って、シンガポール特別の料理を選んで運んできてくださった。
それは、東南アジア特有のスパイスが効いていて、とても美味しいネイティブの料理。本当に、不思議と美味しかった。特に、私はタイ料理などに入れられる「パクチー」という香草が苦手だった。タイに行った時も、最初に覚えた言葉は「マイサイ・パクチー(パクチーを入れないで)」というものだった。しかし、このシンガポールの現地料理で驚いた。パクチーが食べられる。美味しい。不思議だ。あれだけ苦手だったのに。
嬉しいことは、本当の意味での仏教による東西交流が始まっていると実感できることだ。夕食の話も、北伝仏教と南伝仏教といわれるものの融合を考える貴重な機会になる。この融合は、ほんの数十年前に始まり、いま頂点を迎えていると言っても過言ではない。まだ始まったばかりなのだ。
そして、多くの文化的な壁を超えて、ブッダの御本意を模索している。日本の仏教の抱える課題、南伝仏教の僧伽や僧侶が抱えている問題を共有し、それ以上にブッダの教説について御本意を求めていく。思わぬ反省点も見つかり、思わぬ教えの上での優位性にも気づく。
たとえば、南伝仏教の僧伽や長老たちの多くは、日本でポピュラーとなっている『般若心経』を批判する。ブッダの教義にそぐわない、あり得ないと批判する。そして、その教説をアビダルマ教学などを持って批判解説した上で、般若心経が最後に陀羅尼(呪文)で結ばれることにさらに違和感を覚えるという。そうしたスリランカや東南アジアの僧伽や高僧たちの意見は、私たちにとって新鮮ですらある。
法華経はどうか。もちろん、彼らの様々な見解も聞く。しかし、彼らは法華経を批判しない。なぜなら、法華経(サッダルマ・プンダリーキャ・スートラ)は、多くの大乗経典群の中でもサンスクリット以前の南マガダ国(ブッダが生きた国と地域)の言語で書かれており、同じ大乗経典である華厳経などよりも古く、スリランカですら尊ばれている経典であるからだ。しかも、その教説は古くから南伝仏教の中心的役割を果たしたスリランカでも受け入れられ、歴史的にもアヌラダープラなどでは経典の頂点に置かれていたからである。
こうした東西南北の仏教交流は、近年ようやく草の根的に始まったと言って良い。特定の宗派によって創設された大学の僧侶、あるいは「学者」の交流ではなく、草の根的であることが貴重である。そして、新しい時代の幕が開き、ブッダの御本意が明らかにされ、お祖師さまの一天四海皆帰妙法の祖願が次のステージに入ると思われる。
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2 件のコメント:
ありがとうございます。たいへん勉強になりますし、刺激になります。開発経済学の学術書でも「社会行動仏教」などが論じられ注目されていますが、まさにその渦中に佛立宗があると思います。アジアと世界での「仏教ルネッサンス」のどまんなかに佛立宗が位置している。いや、いくつかのアジアの宗派が真ん中にいるのでしょうが、佛立宗も堂々と中心の一画を占めている。その熱い息吹がかんじられます。それが経済学の革新にまでつながるよう祈ります。ノーベル文学賞選考委員会のスエーデン・アカデミーが1997年にノーベル経済学賞の廃止を求めたように、経済学の非倫理性、非社会性は高まるばかり。山崎圭一(経済学徒)
今日、決して見ることは出来ないであろうスリランカの僧侶たちのシンガポールでの活動の中心に伺いました。
それはそれは勉強になりました。というのは、本来上座部仏教がしないであろう「社会行動仏教」のその現場を取材できたのですから。彼らはシンガポール人の病気の方に対してあるセレモニーを行っていた。たぶん、ある種の「呪い」をかけられたと考えている女性とその家族でしたが、スリランカの上座部仏教が海外進出するに当たり、都市部や農村の中に入って人々を救わんとしていることだけははっきりと分かる。スリランカの上座部仏教も、タイなどの開発僧と同様に変容を遂げています。無論、サルボタナ運動を生み出したスリランカですから、当然かも知れませんが。
それに対しての私の見解も、後に掲載しようと思っています。
一部始終を見学した後、彼らに囲まれて非常に有意義な意見交換が出来ました。明日、全員での上行所伝の御題目の「口唱会」を行います。
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