2007年8月21日火曜日

教務は『一声、二筆、三姿』

 弘通学という授業を受け持ち、教鞭を執っている。 本門佛立宗には修学塾という教務諸師の勉強会があり、弘通学・宗学・法門学・研修学という科目を設けて勉強させていただいている。

 私の担当は「弘通学」。そのタイトルからして分かるように、大変重要なご奉公である。年間に3回、テキストに沿って授業を進めるわけだが、今年のテーマは「折伏・教化」である。勉強する以前に、それはご弘通そのもの。佛立信心そのもの。自然と力が入る。御講師方(お教務さん方)に講義をするのだから。

 古くから東京・乗泉寺で教務に言い伝えられてきたという教えを、法深寺のご住職・清水泉洋師から教えていただいたことを忘れないようにしている。それが『一声、二筆、三姿』である。他宗でも古くから「お坊さんのたしなみ」として言い伝えられているようだが、佛立宗の場合は少し違う。

 一般的にこの言葉は、お坊さんというものは、まず『一声(ひとこえ)』で、お経を読む声が良くなければならない、次に『二筆(にふで)』で書が上手くなければならない、そして『三姿(さんすがた)』で姿勢が正しくなければならないというものだという。禅宗や真言宗などのお坊さんを思い浮かべると想像がつく。古来からの『お坊さん』は字が上手い、そういうイメージらしい。「たしなみ」という言葉には「好きで親しむ芸事」とか「人前で失敗しないように日ごろ言動に気を配ること」という意味があるから、「それをやっておけば坊主としては大丈夫」という意味で受け取られているのだろう。

 佛立宗の場合は違うというのは、『芸事』として教えているのではないという意味であり、もっと菩薩行の手本としての意味で受け取らなければならないという言い伝えであるからだ。

 『一声』というのは、まず末法の仏道修行では基本中の基本である上行所伝の御題目を、しっかりとお唱えするということは勿論、教務としてどのようなことを語り、聞かせることが出来るか。何を声に出しているか。しっかりと自分の口から発する『声』に対して責任を持ち、重視して、それを磨いていかなければならないということだろう。

 『二筆』では、能書か乱筆かを言っているのではなく、簡単に言えば『筆まめ』にならなければならないという意味であろう。お祖師さまは実に細かく筆を執って、弟子やご信者方を教導された。御有志をいただいても御筆でお礼状を書き送り、お布施や御供養の御礼と同時にお手紙の中に御法門を認められていた。それは「御書」や「御消息」と呼ばれて、現代まで残されている。お手紙を受け取った者だけではなく、700年以上後に生まれた私たちまでが拝見し、勉強できるのである。あらゆる人とのコミュニケーションを大切にし、そのやりとりの中に御仏の教えを含めて申し伝える、その努力。便箋でも、はがきでも、メールでも何でも良いと思う。教務は「筆まめ」を目指せ、と教えていただく。

 『三姿』は、やはり私たちの「行動」となる、その「行動している姿」となる。座っている「姿勢」だけ正しくてもダメ、禅宗のお坊さんではないのだから。もちろん、お看経中の姿勢のキリッとしていることは何より大切だが、菩薩行を率先して身体で行う教務の「姿」でなければならない。誰よりもお看経に熱中し、お助行に励み、笑顔であり、優しくあり、強くあり、、、、。そうした「姿」を教務に見なければならない、教務から見れなければならない、と。

 故に、教務は『一声、二筆、三姿』を念頭に置いて、しっかりと修行していかなければならない。社会人とて厳しい中を揉まれに揉まれて生きておられる。私たちはそれ以上に自分に厳しく修行していくことは至極当然のこと。

 先住は言っておられた。物を売って生活しているのではない。教務は、御法をいただいて、それを説かせていただいて生きている。だから、それが間違っていれば「詐欺」だ。その上であぐらをかいていたらどうだろう。何と情けない、腑抜けた人間だろう。恐れを知らぬ者になってしまうだろう。ご信心によって人間性が磨かれたという手本にならなければならないのだから、道は果てしなく遠く、そして厳しい。

 若い頃から、教務になったというだけでお年寄りからも敬っていただいてしまうのが「教務」である。先輩のご信者さんが畳の上に座っていても、座布団を出されてその上に座らなければならないのが「教務」である。ご信者さんは「教務」への「お給仕」として、お年寄りでも若い教務のカバンを持ってくださろうとする。それは自分が偉いとか尊いのではなく、御法が尊いからお給仕くださっているのだ。

 これを勘違いしてしまうと、教務はダメになる。敬ってくださっているのは自分ではなく「お袈裟」であるというくらいに思って、謙虚に、素直に、『一声、二筆、三姿』でご奉公させていただかなければならない。「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」になってしまうということは、教務の愚かな勘違い、慢心によって、「御法さままで憎んでしまうようになる」という意味ではないか。それはお祖師さまが厳しく戒めておられる「食法餓鬼」よりも一段とタチの悪い存在となる。

 お祖師さまの御妙判。

「食法餓鬼と申は、出家となりて佛法を弘むる人、我は法を説けば、人尊敬するなんど思ひて、名聞名利の心を以て人にすぐれんと思て今生をわたり、衆生をたすけず、父母をすくふべき心もなき人を、食法餓鬼とて法をくらう餓鬼と申なり。当世の僧を見るに、人にかくして我一人ばかり供養をうくる人もあり、是は狗犬の僧と涅槃経に見えたり。是は未来には牛頭と云ふ鬼となるべし。又人にしらせて供養をうくるとも、欲心に住して人に施す事なき人もあり。これは未来には馬頭と云ふ鬼となり候。又在家の人人も我が父母、地獄餓鬼畜生におちて苦患をうくるをば、とぶらは(弔)ずして、我は衣服、飲食にあきみち、牛馬、眷属充満して、我心に任せてたのしむ人をば、いかに父母のうらやましく恨み給らん。僧の中にも父母師匠の命日をとぶらふ人はまれなり。定めて天の日月、地の地神いかりいきどをり給て、不孝の者とおもはせ給らん。形は人にして畜生のごとし、人頭鹿とも申べきなり。日蓮此業障をけしはてて、未来は霊山浄土にまいるべしとおもへば、種種の大難雨のごとくふり、雲のごとくにわき候へども、法華経の御故なれば苦をも苦ともおもはず」

 開導聖人の御教歌ではさらに厳しい。

「ころも着て かしらまろめて 人だます 寺住のもの 僧と思な」

 心してご奉公せねばならないと戒められておられる。

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