2007年6月2日土曜日

朝、4時のメール

 昨夜、明け方の4時過ぎに清顕師からメールが来ていた。清顕は、昨日の夜中に連絡を受け、東京の病院まで行っていたという。

 その理由は、妙深寺の友介くんがお教化をした友だち、和也くんが倒れたという報だった。友介くんは私にとっても大切な青年であり、いろいろなことがあったがスリランカの津波支援活動にも行ってくれており、妙深寺の若い菩薩である。

 その友介が、またいろいろな面で悩んでいた友人をお寺に誘うようになった。線の細い、何かを抱え込んで苦しんでいるような青年だった。とても心配していた。ご家庭の事情もあって、なかなか決心が出来ず、ただ懐中御本尊をいただいてお参詣をするようになった。しかし、ある時に自宅が東京なので近所のお寺を訪ね、そこで青年会と一緒に和気藹々とご信心するようになったと聞いた。「そうか、よかった」と思った反面、まだご信心に出会ってから数ヶ月しか経っていない。心配だった。彼の線の細さ、抱えているもの。もっとご奉公し、教えることがあって、まだ一人で生きて行くには荷が重すぎて、丁寧に、身近で教導してからお寺を移った方がいいのではないか、と。

 昨夜、病院から連絡があったそうである。本人は混濁していて、連絡先も言えなかったという。携帯電話の記録をたどって、清顕師に連絡があったという。清顕師は22時くらいにお助行に出掛けた。菩薩行は24時間。まさに清顕のご奉公はこのようである。

 4時の清顕からのメール。

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御住職

 ありがとうございます。

 21時頃、板橋中央病院から僕の携帯に連絡があり、和也くんが病院の前で倒れていて、通行人に担がれて病院に来た。家族には連絡がつかず、困っているので本人のプリペイド携帯の連絡先にとりあえず連絡を取っている、治療などができなくて困っているとの連絡があり、家の電話がずっと使用不可になっていることを知っていたのでそのことを伝え、とりあえず向いました。

 病院に着いた時は、本人はもう別人のようで、精神的にもうダメになっていると思いました。
 車いすにとりあえず座らせてもらっている状態で、目はすわっていて、顔はげっそりで、痙攣していました。会話もできず、僕が誰だかわからない状態でした。

 話しかけてもダメでしたので、御題目をゆっくり唱えましたら、本人はもううまくしゃべれないながら一緒に御題目を唱えました。少し安心し、医者からご家族と連絡は取れないかと言われたので、家に行き、母親に事情を話し、病院に一緒に行きました。(父親は亡くなっており、兄は夜勤の仕事で不在)、母親とあって和也もだいぶ冷静になり、痙攣はひどかったですが、少しずつ意識が戻ってくる感じでした。

 念のため検査をするとのことで、検査をしようと髄液を採ったのですが、検査に必要な量すら採れず、医者いわく「超脱水状態」で腎不全を起こしているとのことでした。
 また白血球の量も通常の2倍以上になり、体内の数値に以上が見られる箇所がありました。また、精神的な面も影響しているかもしれないとのことでした。

 当初、母親は夜も付き添いとのことでしたが、だいぶ回復したので、帰ることができました。とにかく点滴をどんどん打って体を回復させ、抗生剤を打って、炎症を起こしている部分を治すとのことでした。
病室に無事移り、母親を送ってお寺に戻りました。

 最後はかなり意識が戻り、今日一日の記憶がないとのことでしたが、たどたどしく会話もでき、僕もわかったようでした。またお見舞いに行き、ご報告いたします。

 ずっと引っかかっておりましたが、御住職の仰った通り、妙深寺の所属にするべきだったと深く反省いたしました。また、母親や兄も教化ができ、御奉安となるよう御奉公してまいります。

 ありがとうございます。

清顕
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以上のようなメールだった。

 これからが正念場となる。一人一人をお救いしなければならない。
 何があったかは分からない。ただ、本人の抱えている大きな問題、罪障、業、そして今の社会など、重なり重なりして、耐えきれなくなったことは間違いない。朝、4時までご奉公してくれる清顕には有難いと思う。朝も倒れそうになりながらご奉公していた。

 御法さまの御力を信じて、彼自身が御法さまに手をさしのべて、助けていただくしかない。

 清顕、そして友介。これは私たちにとっても試練。

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