2007年6月7日木曜日

「結婚」、そして「家庭」について

 今月の2日、3日は、結婚や家庭について考えさせられるご奉公が続いた。婚約したカップルとお会いしたり、結婚式に参列したり、アクアラインを渡って新築御礼の御講があったり。「結婚」、そして「家庭」について思いを巡らせた。

 土曜日のお昼、結婚する相手を紹介したいということで昼食を共にした。 彼女はご信者さんの娘さんで、作家・脚本家の卵でもある。実際に脚本を書いていただいた開導聖人伝は5000人の前で上演され、多くの方から絶賛された。

 その彼女が結婚をすることになった。二人はすでに新居を購入したという。その時、彼女からはっきりと「御戒壇を新居にお奉(まつ)りしたい」と彼に話をしたという。購入した新居には和室があり、その和室に現在は納戸のようになっているスペースがあるのだが、そこを開放して立派に御戒壇を御奉安したい、と話したという。

 それだけでも尊いことなのだが、彼は「そういう大切なものであったら納戸で良いのだろうか」と答えてくれたという。結果、私は彼女が結婚する彼と会ったことがなかったので、「住職に聞いてみよう。会おう」ということになった。

 この経緯だけ聞いていても嬉しくなった。私は御講の最中に彼女からその話を聞いたのだが、話の内容以上に、若い彼女の「ご信心」「御法さまに対する思い」を参詣者全員が聞けたことが嬉しかった。先輩のご信者さんでも、なかなか言えることではない。御講の中でご信者同士が「良い話」をしたり、聞いたりすることは簡単なようで簡単ではない。特に、信行相続や法灯相続について悩む親御さんも多く、若い方のご信心に対する思いを聞けたことは有難いだろう。「彼女こそ、今日の御講で最も尊い存在だなぁ」と感じたものだ。

 即座に「お昼ご飯を彼と一緒に食べよう」と提案した。彼も忙しいだろうが、何とかお参詣をしてもらって、ご信心のことも何にも分からないのだろうから、最初が大事、出会いが大事、だから、ざっくばらんにお昼ご飯を食べながらお話をしようではないか、と。彼女もすぐに賛成してくれて日にちが決められた。

 土曜日の昼、二人は揃ってお参詣してくれた。彼は本当に素晴らしい青年だった。先端企業で働くビジネスマン、優しそうで、誠実で、暖かさを感じた。局長室でごあいさつをした後、すぐにお昼ご飯が届いたので、食べながら愉快にお話ができた。

 最初から、私はご信心の話、お寺の話、教義の話などをするつもりはなかった。はじめての方に最初から難しい話をしても分からないだろう。何より、彼女がこれからの人生を共に歩む大切な方なのだから、ご信心に対して偏った先入観を持ってもらいたくない。限られた時間で全てを理解することなどできないから。大切な人だから。だからこそ、私の自己紹介や、彼女と私たち、お寺とのつながり、夫婦や家族についてお話しようと思っていた。極端なことを言うと、ご信心以外の会話が90%、ご信心のお話は10%で良い。相手のお話を聞かなければ自分のお話を聞いてくれるわけがないし、こちらが言いたいことだけを言っているのでは実際お教化なんて出来ないのだから。そう、大切な人だから。

 私は、家庭の中にSomething Great(何らかの偉大な存在)があることが、人間にとって最も自然であり、家族にとって欠かせないことだと思っている。

 それは、まずは百歩譲って、「神棚」であろうが「仏壇」であろうが、家族全員が「人間」ではなくそれぞれの存在以上の何かを敬っているという生き方、生活が自然であり、健康なのだ。全ての人にとって、「神」や「仏」の存在は、家庭の中に欠かせないと思う。親が子を叱る時にも、そうしたSomething Greatの前で叱る。何かの問題があってもそこに額づいて祈り、願う。「お天道様が見ている」「神様に叱られる」「仏さまやご先祖に顔向けできない」と教えることは、言葉ではなく、家族の中に自然にある信仰。それが家庭の中から追い出されて久しいことが、私は様々な問題の根底にあると思う。人間性の薄さ、人間の機微を知らぬ者、尊属殺人の増加、DV、育児放棄、、、、。

 仏教的に考えたら、家庭に住む全員が「凡夫」なのだ。だから、夫婦でも親と子でも、人間同士が本性をむき出してぶつかりあっているだけでは成り立たない。Something Greatの前でしか行えないことがある。そこでしか得られないものがある。そこでしかクールダウンできないことがあり、そこでしか教えられないことがあり、そこでしか学べないことがある。

 まず、このことを、これから「家庭」を持とうとしている人に分かってもらいたい。

 そして、その次の段階として、「Something Greatは何でも良い」という訳ではないだろう。神や仏がごちゃ混ぜで良いはずがない。「あっちにも、こっちにも」という雑多なものでは家族の心も散漫になるだけだし、家庭に定まりがなく、心は一つにはならないだろう。神棚に仏壇にお守りにお札に破魔矢に塩に、、、ということではいけない。「八百万の神」は良いのだが、それを前提としても「なぜ神々が生まれたか、神々の信仰するもの、神々の根本にある法、存在」を、一ヵ所に定めて敬うことができれば良い。そうやってこそ、家庭がおさまり、家族が一つになる。

 さらに言えば、「一つに定める」といったら比較される「一神教」、、、、。それも、キチンとした教えでなければ、せっかくの「信仰」はマイナスに働いてしまう。テロや紛争の原因になるのも「宗教」や「信仰」であるのだから。となれば、唯一宗教戦争の無いといわれる仏教、仏教の中でも「仏教の中の仏教」といわれる法華経本門の教えが最も尊く、家族が一つとなり、家族を幸せにする「御法」であると分かるのではないか。

 いや、難しいことは良いのだ。家庭の中に「Something Great」=「御本尊」が奉安され、夫婦・家族全員が向かい、額づき、敬える場所があることが大切で、それがご信心であるということ。
「家族」。これから「家庭」を築いていこうとする人と、そのような話が出来ることは何より有難いではないか。日本人の多くが憧れる教会での結婚式でも、真面目な神父さんや牧師さんだったら結婚式の前に「洗礼しなさい」と言うのだ。なぜ「洗礼をしなさい」と言うのか。先述したとおり、家庭の中に信仰は必要だという思いからであり、結婚を誓う対象を信じていない「Something Great」の前でやっても意味がないという思いからだろう。もちろん、神の前での結婚式ではなく、御本尊の前での結婚式が良いに決まってる。しかも、信仰心で誓うのだ。

 結婚式で歌われるというコブクロの歌を教えてもらった。「共に歩き 共に探し 共に誓い 共に感じ 共に選び 共に泣き 共に背負い 共に抱き 共に迷い 共に築き 共に願い」という歌詞。素晴らしい歌詞で感動した。夫婦とは、そういうものだろう。しかし、やはりその中心に何かが無ければ成り立たないと私は思う。

 土曜日の夕方から結婚式があり、次の日はアクアラインを渡って新築御礼の御講であった。若い夫婦と2人の子どもというご家庭だが、新築された2階建ての家には和室があり、その床の間には立派な御戒壇が奉安されていた。「これだ、有難い」と心から思った。子どもたちの笑い声、庭にはおもちゃや遊具がある。家族が生きていく家の中に、御戒壇、御宝前がある。この尊さをつくづく感じた。

 彼は、若くして家を建てたのだが、数年前からすると考えられないのだと言ってくれた。有難いと思っている、ちゃんと信心します、と。一家の柱である彼の思いは御宝前の間に集約されていると思う。全ての、これから家庭を持つ人、いま既に家庭を持っている人にとっても手本になると思う。

 非常に厳しい世の中で、家族は何より大切だ。時には傷ついたり、傷つけ合ったり、誤解したり、怒ったり、怒られたり、元気がなくなったりすることもあるだろう。しかし、そういう人間が寄り添って住む家の中に、共に歩き、共に探し、共に誓い、共に感じ、共に選び、共に泣き、共に背負い、共に抱き、共に迷い、共に築き、共に願える御宝前があることが大事なのだと思う。

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