2009年3月12日木曜日

今は在家が教化よくする

 マータラ・エリアでテロが起きたことは極めて残念なことだった。あの町は、本当に穏やかな町。テロという恐ろしい行為から遠く離れた場所であると思っていた。
 寺院を借りた御講から、またお助行へ。この地域のメンバーの方々の家を巡回した。次に訪れたのはラリッツ・グナセケラ家。ご主人と奥さま、お祖母ちゃんと長男・長女の5人家族。このお宅は大きな4階建てのビル。この場所で、この規模の建物はスゴイ。しかし、スリランカによくありがちなことなのだが、まだ建設中。いつ完成するのかも分からない。現在は、2階だけ完成してる。
 その2階を現在の住居部分にしている。玄関を入ってリビングの中央に御戒壇。御宝前に向かって一座のお助行、お看経をさせていただいた。御戒壇は、今はとても小さいのだが、これから3階、4階と建設を進めていって、この2階部分を親会場、マータラ・エリアのセンターにしたいと申し出ておられた。となると、このお宅がこの地域のご弘通の中心的な存在になる。本来、佛立宗のご弘通は、このように親会場形式で進んできたのだ。佛立は、「お寺」から弘まったのではない。ご信者のお宅を中心にしてご弘通が発展してきた。だから、「御講はご弘通の道場」と御指南されるのである。
 この2階のホールは、50名ほどお参詣できるスペースだと思う。このエリアのセンターとしていきたいというお話を受けて、少しお話をさせていただいた。
 本門佛立宗のご信心では「お教化」が大切。実は、統計を見ると、スリランカは世界的に見て自殺率が高いのを知っているだろうか。残念ながら、日本も同様なのだが、これは何故なのか考えて欲しい。なぜ、人は自ら死を選ぶのだろう。死を選んでしまうのだろうか。それは、人々が心の葛藤を抱えて、御仏の正しい教え、心の薬を知らないからではないだろうか。スリランカに仏教寺院はたくさんあるが、このように自殺率が高いのは、苦しむ人々に御仏の正しい法(正法)が届いていないからではないか。御題目は心の薬である。今こそ、苦しむ人々に、その薬を渡すべき時である。
 もし、あなたの手に、どんな病にも効く薬があったなら、あなたは近隣の人に分けてあげるだろう。苦しむ人たちに、その薬を分け与えたいと思うだろう。もし、「私は分けたくない」と言う人があれば、その人は慳貪(ケチ)の罪に値する鬼ではないか。薬があるのだから。苦しむ人を目の当たりにして、あなたは薬を分け与えられる。その使命があり、義務がある。
 今日、このように御題目をみんなで唱えた。今日から、近隣の人に対して、もっと明るく、朗らかに、高らかに、この「ナムミョウホウレンゲキョウ」の御題目をお伝えしよう。難しいことは考えず、一人でも多くの人を御宝前にお連れして、御題目をお唱えいただこうではないか。お教化させていただこう。
 このようなお話をさせていただいた後、またご供養をいただいた。もう満腹。でも、ご家族はココナッツから採れたシロップを出していただいた。これは、本当に珍しく、特別なもので、本当に美味しい。何度か食べた経験はあるが、それを自家製のヨーグルトの上にかけて食べるのである。正直に言えば、こういうご供養は少々お腹の具合が心配になる。しかし、いつも出していただいたものは食べる。ここでもいただいた。そして、本当に美味しかった。「ラサイ~!」というスリランカ語が「美味しい」という意味なのだが、連発。ご供養の準備、ありがとうございました、と。
 このお宅、このご信者の方々、この場所を起点にして、またご弘通が進められてゆく。原点に返れば、佛立はお寺からご弘通が始まったわけではない。ご信者のお宅、ご信者が提供してくれた親会場、センターからご弘通がスタートした。それがお寺になり、現在に至る。この原点を忘れたらご弘通が止まる。ご弘通の道場は御講という意味が分からなくなる。開導聖人は、お寺中心からご信者宅をご弘通の場へ、僧侶中心だった仏教を信徒中心の人助けの仏教へと変革された。
 御教歌
「いにしへは出家が人をたすけゝり 今は在家が教化よくする」

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