2011年3月10日木曜日

妙清師への歎徳

南無妙法蓮華経。
法華経常住 一切三宝 諸仏諸尊 此処に来臨し給ひ、一切の障礙を払い、即是道場にして知見照覧なさしめ給え。

本地本法の御宝前に於いて、謹んで言上し奉る。

南無久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊、始成正覚の朝より五十余年の夕べに至るまで方便の権門を開きて真実の相を示す。有為の甚門を開き三界の羅蔵を出ん。
妙法蓮華経 見宝塔品に曰く「起立し、合掌し、一心に佛を見奉る。」等云々。

謹んで茲に修し奉る処は、本門佛立宗妙深寺所属教務、僧名 小礒妙清 告別の一座なり。その生前の法労を鑑みるに、

師は、大正四年卯年生まれ。神奈川・子安に小間物商を営む家の、父小礒信貞、母・みね女の長女として生を受け、「孝子」と名付けられたり。生来病弱にして、小児科医は両親に「長く生きられず」と告げしが、師は少女時代の自身を振り返り、「私はうさぎ年うまれのオテンバで、いつもピョンピョンと跳ね回っていた」と申されし。

中学、高校と神奈川学園に通う。礼儀作法に厳しい学風に薫陶を受け、佐藤先生ご夫妻を日博上人に次ぐ「生涯の恩師」と後述せらる。一番は日博上人。二番は佐藤先生ご夫妻。
活発な少女時代。バスケットボールに興じる等、文字通り「オテンバ」な様子を、數々嬉しそうに語る在りし日の妙清師を思う。

十三歳の時、父親が四十二歳で他界。母・ミネ女の苦労は計り知れず、また長女である妙清・孝子女も心の痛手、さぞや深きなるらん。

やがて成人を迎えると、その身に病を現じる。結核に感染し、脊椎(せきつい)カリエスを発症。お店を手伝いながらも、病状おもわしくなく、常に背中や腰が痛いばかりで、一向に回復する気配もなく、ついに「こんな思いをするなら、いっそ死んだ方がましだ。」と。「いつ死のうか。いつ死のうか」と毎日、毎日、悲痛な思いを(つの)らせてありし。

そんな折、小間物屋の店先に訪れる客の中に、和田重吉なる人あり。この人こそ、本門佛立宗の篤信者、これ仏縁の初めなり。

「あなた、そんな思いで暮らしているようではいけません。ご信心をなさい」と熱心に語る教化親・和田重吉氏の、その人柄に触れ、素直な気持ちになって話を聞き、それでもこの苦しい病が信仰で治るとは到底思えず、半信半疑のまま神奈川の駅から電車に乗り、品川で乗り換えて、かつての麻布の乗泉寺に、初めて参詣せられたり。

言われるまま、乗泉寺の昔の大本堂の御本尊、お祖師さまの御尊像に向かって、初めて御題目をお唱えせらる。

お唱えする内、どういうわけか不思議な気持ちになって来て、次第、次第に、声に力が入る。知らず知らずに力が入るようになっている。そうして、しまいには何とも言えない心持ちになりて、気が付けば無心に御題目を大音声でお唱えす。放心状態とも言うべき、初めて感じるその不思議な心地よさに、お参りを終え、本堂を出てふと見ると、荘厳に建造された乗泉寺の門の屋根瓦にまぶしい太陽の光が反射せり。その門の上に広がる、青々と澄みわたった空の青い色、孝子女の眼に飛び込む。「あ…。あぁ。」と、思わず息を飲み、「空って、こんなに青かったんだ…。」と。その日まで、うら若き女性なれど、病の苦しみから下ばかりを見て生きてきたことに気が付きしと。長らく空の青さに気が付くこともなく、これほど清々しい気持ちになりしは生まれて初めてのことなり。

以来、乗泉寺に日参す。やがて昭和十七年。孝子女二十七歳。生々世々の師、日博上人に出値う。昭和十八年、日博上人は「神奈川妙証教会」として開筵式を挙行。初代住職日博上人。これ「妙深寺」の前身なり。
師は、早速受付のご奉公を常任するように申しつかる。併せて、日博上人へのお給仕を始め、才女として「一実」紙の編集発行に従事。原稿起こしをするのに、当時、日博上人の崩し字を読める人は孝子女のみでありしと聞く。

また、日博上人の娘・寿美江女は、生まれたばかりで既に生母を亡くしてあり、師は母親の如く接して育てられしと聞く。
寿美江女は「今でも友人たちが妙清師の白菜鍋が忘れられない」と述べられし。また、神奈川学園の佐藤先生が校長となり、そちらからも請われて学校の事務も務められし。

後に死刑囚までに及ぶ菩薩行の思いは日々に高じ、ついに昭和四十年十月二十五日、師は断固たる決定を以て坂本妙正師とともに出家得度。爾来、御宝前のお給仕、給仕第一を旨として最晩年の日博上人のお給仕の誠を尽くさる。また、両親や兄弟、親族のご回向を志深くし、「皆さんへ」とご供養をされ、常々に功徳を積まれたり。

妙清師は、人に重きを置いて自らを軽く置き、常の口癖に「自分のことのように、人のことをさせてもらわないといけないんです」「自分がしたいこと、してもらいたいことを、人さまにして差し上げるように」「自分は、まぁまぁ良いという程度で良いから、人のためには『千遍よりは、万遍と、唱え重ねて』ご祈願させてもらうこと」と言いて、いつも、いつも、人のことばかりを考えておられし。

得度親は、広瀬日謙上人。晩年の日謙上人を心よりご心配されて文通を欠かさず。いまそのご教導を受けしご信者方、その子や孫らが、再び信行を相続し、「長野親会場」を建立して、深恭を中心に護持発展のご奉公に勤しむのを感涙感激の中で見守られたり。

妙深寺門下の末弟・新発意に対して、「得度させていただけたのは有難い果報」「妙深寺の教務さんは、日博上人・日爽上人と、他では得難い御師匠さまを頂いているということをもっと有難いと思わなくては勿体ない」と口癖の如く指南す。

周囲への気遣いは、ヘルパーさんにも、「今日、このあとは何軒廻るんですか。健康に気を付けて」と気遣うばかりの姿に、介護の方々からも大人気の妙清師。たくさんの介護者を看てきた方々も、一様に「私たちは仕事をしていても、中々、お元気な時から、老いてゆくまでを、ずっと看ることはない。その中で、妙清師には、とても大切なことを、たくさん教えていただきました。」と、口を揃えて語られる。やさしく、きびしく、あたたかく、何事にも「していただいて、もったいない」と言い、感謝の思い絶えず。知恵とアイデアの人でもありし。

晩年は、本堂に上がることを日課とされ、やがてそれさえままならなくなりても、教養会館の食堂のテーブルで、終日御題目を上げている姿は、忘れられざるものなり。

徐々に老いてゆく姿。今年明けて、部屋で転倒して骨折。瓜生園子姉をはじめ、塩村姉、山崎真理先生にご尽力いただき、一週間の入院。今後のことを検討せしが、教務の夫人方がお給仕の心にて看病することを決意。そして退院。寺内の自室にて看護の日々が始まる。まさに、清和会は、世界一の教務夫人会なり。寝る間、食べる間を惜しんで、妙清師への看護看病を続けたり。師もこれに応えてただただ感謝さる。

二月十一日、早朝より容態が変わり、真理先生が血圧を診ると六十。やがて三十分後に四十まで下がり、急を知らされて、教務、清和会、有縁の信徒が囲み、清潤、枕辺にてお助行をさせていただく。時折その吐息も止まらんとするも、御題目の音声を聞きて、やがて自ら掌に拍子をとりて共に唱題す。この真剣なるお助行にて見事に本復。時々刻々、現前で起こりし現証に、今生最後のご奉公とて、妙深寺の教講に、絶大なる妙法口唱、経力現証の尊さを感得せしむ。

されど、老衰は逃れ難き定め。この御法より賜りし増益寿命のしばしの時を、教務信者の別れのご挨拶の間と定め、一人ひとりに生涯忘れ難き言葉を告げられる。

命の炎はすでに消えんとせしが、切に願いし門祖会への参詣を成就し、さらに、清潤の、長期にわたる海外出張からの帰国を、一分一分と分刻みで待たれる。

三月三日、帰山直後にご挨拶に行き、「ただいま帰りました」と申せば、「おかえりなさい」と、これ以上ない安堵の表情を浮かべて告げられし。清潤、その謦咳、相貌、終生忘れ得ぬ。一座の唱題の中では微笑みもたたうる姿を見る。よほど、待っていてくださった。

帰国後僅か三日、平成二十三年三月六日、妙清は今般の化導を終えて、寂光の本宮に遷る。

清潤、昨夜この双眸に妙清師の姿が浮かび、涙、止めどもなく流れたり。

処は霊鷲山。法華経が説かれし法座を望むラージギルの峰。

凡夫の求むる楽しみを一切捨て、その生涯を御法に捧げ、妙深寺に捧げ、日博上人に捧げて、日爽上人に捧げ、ご奉公に徹せられた妙清師。いま、妙清師は、二聖・二天・十羅刹女らに囲まれて、ゆるやかな霊鷲山の坂を駆け足で上る。

九十七余年の星霜を数え、朽ちて重たき身体を離れ、息苦しさも今は無く、爽やかな空気を胸いっぱいに吸い込む。今や老病から解き放たれてその足取りは軽く、その身を前に傾け、群れなす菩薩方の列をかき分けて、お師匠さま日博上人と日爽上人、有縁の教講の待つ場所へ、待つ場所へ、待つ場所へ、待つ場所へと、坂を上っておられる。ご遷化から四十四年、「ようやく、ようやく、日博上人にお会いできる」「ようやく皆さんにお会いできる」と、胸は躍り、止まることもない。御導師方もスッと法座を立ち上がり、妙清師が迷わぬように、見えるように、容易に見つけられるようにと、立ち上がって来るのを待っておられる。

妙清師、よかったね。もう、お会いできます。御法さまに一生を捧げた、妙清師の寂光参拝。どうか、ゆっくりと、安らかに、お師匠さまの下でしばしの休息を。そして、速やかに、また妙深寺に戻ってきていただき、共にご弘通ご奉公に精励せんことを。

今、その法臘・積徳の甚深たるを衆人に知見せしめ、重ねてその行基・格言の範なることを後人に宣示せんと欲して、此処に尊立する、本地本法、本門法華経の法城、清光山妙深寺、住職長松清潤、
謹みて、法号を撰じ奉る。

随照院妙清日護大徳

願わくは、仏果菩提なさしめ給え。

経に曰く
「若親近法師 速得菩薩道 随順是師学 得見恒沙仏」

「如日月光明 能除諸幽冥 斯人行世間 能滅衆生闇。
 教無量菩薩 畢竟住一乗 是故有智者 聞此功徳利。
 於我滅度後 応受持此経 是人於仏道 決定無有疑」之文。

高祖曰く。
「然れば久遠実成の釈尊と皆成佛道の法華経と我等衆生との三つ、全く差別なしと解りて、妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり。此事但だ日蓮が弟子檀那等の肝要なり。法華経を持つとは是なり。所詮、臨終只今にありと解りて、信心を致して南無妙法蓮華経と唱ふる人を「是人命終為千佛授手令不恐怖不堕悪趣」と説かれて候。悦ばしいかな、一佛二佛に非ず、百佛二百佛に非ず、千佛まで来迎し、手を取り給はん事、歓喜の感涙押へ難し。」

また、曰わく、

「日蓮は日本第一の法華経の行者なり。日蓮が弟子旦那等の中に、日蓮より後に来たり給ひ候らはゞ、梵天、帝釈、四大天王、閻魔法皇の御前にても、日本第一の法華経の行者、日蓮坊が弟子旦那なりと名乗って通り給ふべし。此の法華経は三途の河にては船となり、死出の山にては大白牛車となり、冥土にては燈となり、霊山へ参る橋なり。霊山へましまして艮艮の廊にて尋させ給へ。必ず待ち奉るべく候。信心だも弱くばいかに日蓮が弟子檀那と名乗せ給とも、よも御用は候はじ。心に二ましまして信心だに弱く候はば、峯の石の谷へころび、空の雨の大地へ落ると思食せ。大阿鼻地獄疑ひあるべからず。其時日蓮を恨させ給な、返す返すも各の信心に依べく候。」と大慈大悲大恩報謝。

大恩師、日博上人の辞世。
「ワッハッハよきも悪しきも今生は まずはこれまであとは来世で」

維持 平成二十三年三月八日
本門佛立宗 清光山 妙深寺 第四世 住職清潤、棺中の霊位、敬って曰す。

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