毎週、毎日、今生人界の、かけがえのない大切なご奉公があり、ありがたいです。
ただ、身体は着実に年をとっていることを実感しています。網膜剥離で右眼に数百発のレーザーを撃っていただいてから、レーザーを撃たなかった左眼に少し違和感があるかな。
スリランカでも強烈な陽射しの時にはサングラスをするようにしました。欧米人に比べてアジア人の眼は強く出来ているはずですが、大切にしたいと思います。眼はなかなか鍛えられないから。
横浜から京都まで清翔師と交代で運転しながら帰ってきました。京都に入ると雪が降っていて、歩いていたら身体に積もるくらいでした。なぜかびっくりドンキーで独りで夕食をとって寝ました。
朝から企画展の準備。タイムリミットが迫る過密なスケジュールですが、大好きな歴史に没頭できる贅沢な時間です。歴史には発見されるのを待っている人びとの真実があります。埋もれたままになっている金鉱や油田を丁寧に探し出さなくてはなりません。
坂本龍馬は海援隊の隊長、隊員に対して生殺与奪の権限も有する絶対的な存在でした。その海援隊が龍馬生存中にその名を冠して出版したのが『閑愁録』です。150年近く大して注目もされずにきました。
誰もが知る近代日本の夜明けは「大政奉還」から始まりました。そしてそれは土佐藩の山内容堂による「大政奉還に関する建白書」と寺村左膳や後藤象二郎による「別紙(副署)」から議論されました。
この歴史的にあり得ないほど重要な二通を起草したのは長岡謙吉です。長岡謙吉は海援隊の文官、龍馬の絶対的な秘書、第二代隊長です。山内容堂が提出した「大政奉還に関する建白書」の冒頭と、京都国立博物館が所蔵する長岡謙吉著「海援隊日史」の最後のメモ書きが完全に一致しているのを見逃してはなりません。
Wikipediaにも出ていない史実が長岡謙吉の活躍です。慶応3年10月15日に朝廷が大政奉還を受理すると、5日後の10月20日、長岡謙吉は薩摩脱藩浪士で英国への密航留学の経験もある怪傑・中井弘(鹿鳴館の名付け親)と二人で横浜に出張しました。英国公使館のアーネスト・サトウから議会制度を調査するためです。この時、長岡謙吉は「大政奉還に関する建白書」を持っていてサトウに見せています。この出張も全て龍馬の命令です。
みんなが権力闘争に明け暮れている中、坂本龍馬や海援隊は「新国家」のあり方を模索していました。政治体制、財政、議会制度、国体、いわゆる宗教政策に至るまで、新たに誕生する国をより良い国とするために動き続けていました。
大半が「藩」という枠の中でしか日本や世界を見れなかったのです。しかし、そもそも藩を捨てた脱藩浪士の集団、「海の上の独立国家」とも言える海援隊、龍馬たちには見えていました。海援隊は土佐藩の下部組織ではなく、海援隊が土佐藩を利用していたのです。自明のことです。
当時、薩摩人や長州人、会津人はいても、「日本人」は多くありませんでした。誰もが「藩」という「国」に縛られていました。海援隊の国際性、日本人としての俯瞰的な視野は特異でした。
「船中八策は龍馬が書いたものではない」などと、浅はかな研究や的外れな議論を繰り返す人たちに惑わされてはいけません。異彩を放つ坂本龍馬の存在価値や海援隊の果たした役割を認めなければ幕末史は分かるはずがありません。
とにかく、贅沢な時間を過ごして、21日のオープンに向かいます。京都佛立ミュージアム「真説・坂本龍馬展」です。
よろしくお願いいたします。
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