2011年7月7日木曜日

誰もが歴史的使命や役割を負っている

末の世の様相を見ながら、つくづく私たちのご信心の姿勢は、如説修行抄を規範としておかなければならないと思う。

末法の様相そのもの。欲をくすぐり合い、さみしさを埋め合う。みんなが凡夫で、罪深い。法も人も、悪世の汚泥に埋れてしまっている。

信じられる人がいなくて、迷ってしまう。

誰もが三毒強盛の凡夫。仏教徒であろうと、なかろうと、逃れられない性。師弟共に凡夫。しかし、だからこそ、佛立仏教徒は、如説修行抄を座右に置いた真摯で謙虚なご奉公が求められる。

現在の状況を恨んだり、投げ出したりしてもはじまらない。

もし、佛立のご信心の輪の中で、お互いの不信感が募ってしまった場合、どうしたらいいか。「見かくし、聞きかくしは謗法」と教えていただき、看過するのは「与同罪」ともなる。

しかし、単にギスギスするのが佛立の教えではない。お互い凡夫であることを忘れて「小日蓮」になったつもりの者が増えると「自分が最も正しい」と思って喧嘩ごしになったり、相手を恨んだり、分裂に分裂を重ねていくのがご本意ではないはず。

根本に、慈悲があり、異体同心の教えがなければ、折伏は単なる独善になる。それを、実践、実現しなければ、末法悪世における佛立信行は成就しない。

折伏の本体は「言葉」や「理論」ではない。折伏は「ディベート」ではない。御法の筋と凡夫の性が相入れず、末法はその溝がさらに深まり、強まっていることから生まれる「救済の方法」に違いない。

難しい用語を使っても仕方ないが、「折伏」の対句である「摂受」は「受け身」であり、「折伏」は「与える」慈悲の修行なのだ。

教務と講務の溝を深めてはならない。教務や講務に指導する機会は多いが、その役割や立場から講務が教務に意見する機会は限られている。お互いに、佛立信心の慈悲に住して、折伏の本義を見失わず、明るく、朗らかに、礼節も失わず、疑義を晴らせるようにあれば、それは教講共に本当の異体同心が実現したこととなり、ご弘通発展の条件が整ったと言える。何でも言っていいということではなく、風通しのよさは欠かせない。

仮に教務に疑問を持った場合、「ご信心とはこうあるべきではないでしょうか」「ここは、どういうことなのでしょう」とご信者側から厳しくお伺いしたり、お話しすべきだろう。それが全く行われなければ、教務の資質は劣化し、講務諸氏も興ざめる。信心は殻にこもり、ご信心の輪、つまり「寺院」からも離れてゆく。誰も、生まれ育ったお寺のご宝前から離れたくなどない。これほど残念なことはない。故に、こうしたご奉公、修行が欠かせない

如説修行抄を忘れてはならない。この規範や姿勢を、実現せねばならない。

「夫以。末法流布の時。生を此土に受て。此経を信ぜん人は。如来の在世より猶多怨嫉の難甚しかるべしと見ゑて候也。其故は。在世は。能化の主は仏也。弟子又大菩薩阿羅漢なり。人天四衆八部。人非人等也といへども。調機調養して法華経を。きかしめ給ひし。猶怨嫉多し。何に況や。末法今の時は。教機時刻当来すといへども。其師を尋ぬれば凡師也。弟子又闘諍堅固。白法隠没。三毒強盛の悪人等也。故に善師をば遠離し。悪師には親近す。其上真実法華経の如説修行の行者の。師弟檀那とならんには。三類の敵人決定せり。されば此経を聴聞しはじめん日より。思ひさだむべし。況滅度後の大難三類甚しかるべしと。然るに我弟子等の中にも。兼て聴聞せしかども。大小の難来る時は。今始て驚き。肝を消して信心を破りぬ。兼て申さざりけるか。経文を先として。猶多怨嫉。況滅度後。況滅度後と朝夕に教へしこと是也。予が或は処を逐れ。或は疵を被り。或は両度の御勘気を蒙て。遠国に流罪せらるゝを。見聞くとも。今始て驚べきにあらざる物をや。」

末法で信心する者には怨いや嫉妬がついてくる。仏陀の時代ですらそうだったが、それ以上にそうした辛く困難な事態に遭遇する。

しかも、仏の時代は、教導の主は仏陀である。当然弟子はレベルが高く、信徒らも仏さまから直接ご教導を受けた方々だったが、それでも困難があった。

末法は、師匠も凡夫であり、弟子信者は三毒強盛の悪人ばかり。故に、良い師匠を遠ざけて、悪い師匠に近き、それでいい、仕方ないとしてしまう。

その上で、本物の師匠と共に信行ご奉公をしようとしたならば、三類の敵というものと対峙しなければならなくなる。いい人、いい信者のふりをする人、尊い僧侶の皮をかぶってはいるが本当は欲望の虜という者。三種類の敵を避け難い。

法華経のご信心をする者は思いを定めよ。末法悪世において、大難や三類は甚だしいのだ。

しかし、私の弟子信徒の中にも、こうした教えを重ねて聴いているにもかかわらず、大小の苦難が来ると、はじめてのように驚いて、肝をつぶし、ご信心を辞めようとする。何度も言ってきたではないか。お経文を第一として、何度も何度も朝に夕に教えていたのは、このことだ。

私が追い出されたり、傷つけられたり、度々政府の怒りに触れて追放されるような事態を見聞きしても、いまはじめて驚くべきことではない。

トラブル。お寺の輪の中でも、どこでも、いまはじめて驚くようなことではない。自分だけが正しいと誰かを批判しても仕方ない。もし、素晴らしい信心を持っている人がいても、その人が単なる批判をするだけなら、ご本意に適わない。また、バラバラになるだけ。下手が名人の真似をするだけ。本当の、慈悲の「お折伏」をしなければならない。

「大地はささばはづるとも、虚空をつなぐ者はありとも、潮のみ(満)ちひ(干)ぬ事はありとも、日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りのかな(叶)はぬ事はあるべからず。法華経の行者を諸の菩薩・人天・八部等、二聖・二天・十羅刹等、千に一も来たりてまぼ(守)り給はぬ事侍らば、上は釈迦諸仏をあなづり奉り、下は九界をたぼらかす失(とが)あり。行者は必ず不実なりとも智慧はをろかなりとも身は不浄なりとも戒徳は備へずとも南無妙法蓮華経と申さば必ず守護し給ふべし。袋きたなしとて金(こがね)を捨つる事なかれ、伊蘭(いらん)をにくまば栴檀(せんだん)あるべからず。谷の池を不浄なりと嫌はば蓮を取るべからず。行者を嫌ひ給はば誓ひを破り給ひなん。正像既に過ぎぬれば持戒は市(いち)の中の虎の如し。智者は麟角(りんかく)よりも希(まれ)ならん。月を待つまでは灯を憑(たの)むべし。宝珠のなき処には金銀も宝なり。白烏(はくう)の恩をば黒烏(こくう)に報ずべし。聖僧の恩をば凡僧
に報ずべし。とくとく利生をさづけ給へと強盛に申すならば、いかでか祈りのかな(叶)はざるべき。」

この中の「聖僧」の恩を「凡僧」に報じなさい、という教えも忘れてはならない。末法に、なかなか本物はいない。本物には出会えない。お祖師さまは、そう教えてくださっている。

「月を待つまでは灯を憑むべし。宝珠のなき処には金銀も宝なり。白烏の恩をば黒烏に報ずべし。聖僧の恩をば凡僧に報ずべし。」

哀しいかな、このさみしい末法の世界で、無いものねだりをしていても仕方ない。

特別なヒーローでなくても、生きている人間の誰もが、歴史的な使命や任務を負っている。

まず、その自覚の下で、本当の佛立信行、本当の折伏行、本当の菩薩行が出来るように精進しなければならない。

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