本来宗教者の特異性は「独立」でなければならないと思う。そもそも「宗教」に生きているのであって、世にある思想信条、右や左、民族や国家観の、さらに上にある価値観に生きていなければおかしい。
宗教者も国民の一人であることに違いはないし、国家に保護されていることも間違いない。しかし、だからといって宗教者が宗教者としての特異性を忘れていいわけがない。社会は、それ以外なら広く甘受を強いられる利害から独立した宗教者の存在を必要とする。
この独立性によって、過去から現在に至るまで、「宗教」や「宗教者」は権力者や政府にとって煙たく危険な存在なのだ。利害で動かず、懐柔と脅迫の通じない相手ほど厄介なものはない。本来、宗教者とはジャーナリストと同じような客観性を求められ、
ジャーナリズムが広告主や政治・権力の意向によって機能を失う。独立然とした記者も、それはその記事が売れもせず、注目もされていない間だけの話。「つぶやき」程度の記事を書いて悦に入っている間はいいが、ある「線」を越えると、様々な懐柔と介入が忍び寄る。社会的な地位と報酬を見せられて、ジャーナリストは単なる会社員や政治家やタレントになる。
だからこそ、宗教者には独立した視点が求められる。その立場は特定の企業団体から独立して保護・保証されているのだから、当然あらゆる利害から離れて、透徹して世を見つめなければならない。そして、政治的扇動発言などではなく、世の価値観とは少し異なることでもそれを示し、違う角度から見た諸相を提供できなければいけないと思う。
このような前置きをした上で、この頃の「菅直人降ろし」なる動きは、日本人の、異常かつ不明な、狂騒だと思う。それが、政治システムの欠陥なのか、国民性の問題なのか断ずると、どちらも多分に含まれるため言葉が続かない。ただ、上らせることも安易で、辞めさせることも安易で、そして、後で後悔しても後悔し切れない不幸を招くことは、日本の歴史を振り返れば明かであるように思う。
インスタントな民主主義は、戦前・戦中・戦後と、コロコロ首相を変えることで責任の所在を曖昧にしてきた。「和を重んじる」という思想も、時に無責任な国民性を映し出す。トップを選ぶ責任を放棄し、気に入らなければ雷同して引きづり下ろす。
トップを選ぶ責任を負え。かろうじてトップが選べない独裁国家ではない。トップが愚かで痛い目を見たらいい。専横の君主国家ではないのだから、その任期は永遠ではない。任期が来れば変わる。それが議院内閣制であろうと、直接選挙で選ぶ制度であろうと、痛い目を見たら、さらに真剣に議員を選び、首相を選ぶような国家になる。
とにかく、日本人は何事もインスタントで、上げるのも、下げるのも、安易すぎる。権力者や金持ちに尾を振り、それほど賢い理論を言っていなくても同意し、権力に陰りが出ると批判し、すぐに煽られ、すぐに手を離す。豊かな成長を遂げた時代は遠く過ぎたが、その時代の産物である強欲と慢心は今なお健在。
もちろん、法制度として不信任案の提出など首相を変える動きがあってもいい。それも担保されている必要があるだろう。しかし、最近の狂騒を見ていて、「首相さえ辞めたら」という無責任かつ不明な言動に危機感を覚える。
今の私は、菅首相を「鼻をつまんで支持する」という意見に共感している。今回も見事な方法で原発再稼働の動きを封じた。政治的には混乱の極みだが、目指している方向は理解出来る。単なる人気取りの延命策という批判も当たらないと思う。
いずれにしても、もし本当に菅首相が政治家としても人間としても能力としても劣っており、一日でも彼が首相の座に居座っていることで、国家が衰退し、国力が失われ、国民に危険が迫り、生命も財産も奪われる事態に近づいているとしても、それを選んだ責任を感じようではないか。そして、そんな愚かな人間を選んだ自身を恥じ、このような事態に陥らないように制度を改め、関心を払い、知見を養い、姿勢を正すべきではないか。
そんな自省も自戒もなく、改めるべきこともなく、「次」を選んだところで、またすぐに「愚か者」のレッテルを張られて辞めさせられる、いや、辞めさせるのが落ちではないか。火を見るより明らかなように思う。
「それでも今の法制上は仕方ない」と開き直ることもできる。しかし、こんなことをしていたらさらに日本の存在感は薄れ、国家として成り立たない、国民全員にとって不幸だと思う。
だから、仮に菅直人氏が歴史的な問題人物だとして、ここで痛い目を見て、「選ぶ責任」を痛感した方がいい。それを「痛感」するためには、「選んだが最後、簡単には辞めさせられないのだ」ということを痛感したらいい。原発利権がここまで大きく取り上げられなければ、これほどの事態になっていなかったかもしれないが、もはや今後の国家運営に不可欠つのテーマが、次々と突きつけられている。日本だけにではない。世界に対しても、突きつけられていると感じる。
同じく、今回の宗会で宗務総長の選挙などについて推戴委員などが選出された。私は、これにも多くの課題があると痛感している。「選出責任」が曖昧である。本来「解任」も「解雇」もない役職を選任する制度設計が、今なお不十分だと感じる。
特に、宗務総長は宗門行政のトップだが、この選出方法は完全に前時代的であり、閉鎖的であり、本人の意志も意欲も方針も確認せず、選出されてしまう。名誉職であればいいかもしれないが、そうではない。
総長がそうであれば副総長を実務者「COO」のように教講から1名ずつ選出したらいい。スキルの確認は必要に違いない。弟子を抱えた住職もいれば、それらがいない者もいる。マネジメントのスキルは自ずから異なってくる。であれば、講務の方々に多くの実務を委任すればいい。教務が介在しないのではなく、チェックに徹すればいい。
選ぶ責任。選んだ責任。いずれにしても、その報いを受ける。痛い目を見ても気づけないならば仕方ないが。
1 件のコメント:
とても納得させていただけた文章でした。
わたくしも同感です。
ありがとうございます
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