2012年3月16日金曜日

妙深寺 門祖会 第一座 御法門

「われ死んで 遠い処へ 行でなし どこへもゆかぬ こゝにゐるぞよ

 ありがとうございます。門祖会第一座を奉修させていただきました。今年は、6月10日に先住御十三回忌の法要を勤めさせていただく特別な年です。昨年3月11日に大震災が発生し、その復興祈願を含め、私たちがなぜご信心をさせていただいているのか、なぜお寺があるのか、改めて自らに問いながら、社会の中で、果たすべき役割がある、そんな思いを強く持ち、迎えさせていただくのが、6月10日の大会です。今の時代だからこそ、とても大切な機会になると信じています。

 陸前高田への支援も、今まで以上に続けさせていただき、3月11日も陸前高田と妙深寺の本堂で、同時中継をしながら、一周忌の法要を勤めさせていただきます。

 妙深寺が、「生きたお寺」と言えるだけのことを、これからも精一杯ご奉公させていただきたい。どうか6月10日まで、皆さんで共々にご奉公いただければありがたいと思っております。

 それでは、御教歌を拝見させていただきます。

「われ死んで 遠い処へ 行でなし どこへもゆかぬ こゝにゐるぞよ」

 佛立開導日扇聖人お示しの御教歌でございます。

 この御教歌は、開導聖人ご自身のお心をお詠みくださっています。人を幸せに導く教えがあり、その心を平和にする修行があり、その実践の成果と証明がある。生きた教えを学び、生きた教えを実践する。それが本物のお寺という場所。その生きた法城を守り、伝えていくことの大切さを感得させていただく御教歌です。

 さて、私たちが「開導聖人」とお呼びしている「長松清風日扇聖人」について講談社から『幕末・維新の仏教改革者「長松日扇」』と題された伝記が出版されているのをご存じでしょうか。

 宗教社会学に通じた東洋大学の西山茂教授は次のように述べておられます。

「本門佛立宗の起源は、日蓮宗八品派の長松清風が安政4年(1857)に、京都に開講した純粋在家講の華洛本門佛立講にまで遡る。同講は、創価学会や立正佼成会などの我が国の仏教系新宗教の先駆として、近代日本宗教史上、注目すべき存在である」

 これはすごい言葉です。教義や活動は異なりますが、創価学会や立正佼成会のもっと源流に「本門佛立宗」があると述べられています。新興宗教と一線を画す本門佛立宗は、彼らほど大きくありません。しかし、だからこそ本物だと言えます。真面目に、コツコツと、生きた仏教を受け継いできました。

 開導聖人・長松清風という方はどんな方だったか。それを知っていただきたい。現代でも有数の観光地、京都に生まれた京都人の中の京都人。本当に粋で、センスも、胆力も、行動力もあり、厳しさの中にもユニークさ、楽しさ、明るさ、愛らしさがあり、何より堅固なご信心、深い慈悲心のある、トンチとパンチの効いた、魅力的な方が開導聖人というお方でした。

 生きた仏教、本物の仏の教えは、常に人々のそばにある。開導聖人は、仏教とは難解なお経文や高尚な哲学でもなく、生きている人々の苦しみや悩みを取り除き、幸せに導く教えである、という確信を持っておられました。

 巨大な権力にも屈しない、有名無実の権威なんて大嫌い。何ものにも囚われない、幕末維新の本物の自由人。長いものにも巻かれない。孤独も怖れない。ご信者さんの御利益やご奉公に感動して、泣けて泣けて仕方ないと言っておられるかと思えば、「人を救わないお寺や坊主など意味がない」とズバッと切り捨てる。貧しさにも、苦しさにも、いわれなき中傷にも、誹謗にも、決して負けなかった。生きた仏の教えを守り伝えるために、ここで負けたら終わりだと思っておられた。そうなれば人が救えない、苦しんでいる人が御利益をいただくこともなくなる。だから、負けなかった。

 開導聖人は、たったお一人から、何にもないところから、始められたんです。封建社会の、権威主義が横行する世の中で、たったお一人でご奉公を始められた。

 亡くなられた時、僧侶としての位は一番下の「沙弥」でした。お弟子方は本能寺や妙蓮寺という京随一のお寺で栄達されつつありましたが、ご自身は沙弥、何のこだわりもなかった。ご遷化後、大僧正位をいただかれ、大本山妙蓮寺の歴代に加歴されましたが、そういう生き方、価値観のお方でしした。生きている時にいくら地位が高くても、時が経つにつれて評価が下がる人がほとんどです。生きている時は、にらみも、ごまかしも利きます。でも、開導聖人は真逆です。

 お亡くなりになる時は沙弥。亡くなられてから大僧正。そして、後世では、「幕末・維新の仏教改革者」と呼ばれるほどのお方でした。

 この開導聖人というお方、その存在、その御生涯、その教え、行動、ありとあらゆるものが、「本門佛立宗」そのもの、「生きたお寺」「生きた仏教」、妙深寺そのものでなければなりません。もし、そこから外れてしまったら、「生きたお寺」ではなくなってしまいます。

「われ死んで遠い処へ行でなし どこへもゆかぬこゝにゐるぞよ」

 「どこにも行かないよ、ここにいるよ」と仰せくださっています。

 今日の門祖会は「パシフィコでひとつになろう ~今に受け継ぐ奇跡のお寺~」というテーマで奉修させていただきました。「いいお寺に出逢うと、いい縁に恵まれ、人生が豊かに変わっていく」。その「お寺」という場所が、どれだけ有り難いか。このことを考えていただきたい。知っていただきたいのです。教えがあり、修行があり、証明がある。人が幸せになる道、心が平和になる方法を教え、過ちや誤りに気付ける場所。それが本当のお寺、生きたお寺です。

 どんなに悩んでいても、迷っていても、一つになれる場所。逆を言えば、もしも、人生に正しい教えがない、修行もない、そういう場所も機会もない、つまり「いいお寺がない」としたら、その人はあまりにも孤独で、柱のない、寂しい、不安定な人生を送っていることになってしまいます。

 どう生きるべきですか? 何が悪いのですか? どうしたらいいですか? 一緒に悩んでくれるお講師がいて、一緒に考え、祈ってくれる、支えてくれるご信者方がいる。変な占い師のようなことは言いません。自分が気付く、自分が祈る、自分が変わる。悪い出来事、悪循環の根本の原因に気付き、それを見つめ、解決してゆく場所。それが本門佛立宗のお寺です。

 今、占い師を信じたタレントさんの人生が破滅しそうだとワイドショーが伝え、それを平然と見ている人たちでも、笑ってられない人ばかりです。野田首相も毎朝新聞の占いコーナーを読んで執務に当たっていると言います。本当に、情けなく、恐ろしいことです。

 占いに頼って幸せになれるのならしたらいい。しかし、全く逆です。幸せを邪魔します。観光客相手のお寺では神社のように「おみくじ」を売ったりしますが、本来の仏教ではしません。生きたお寺ではあり得ないのです。

 お祖師さまの有名なお言葉に、「佛法と申すは道理なり」とあります。

 占いでも、霊能力でもない、仏教とは根本的な道理、因果応報の法則に基づく論理的なものです。取って付けたようなコンビニエンスな方法を教えているのではありません。

 正しい教え、正しい修行、正しい証。それを生きたまま伝え、生きて実践し、生きていると証明する。これがとても大切です。妙深寺は、日博上人、日爽上人からのバトンを落とさないように、今でも必死にこれを伝えていこう、守っていこう、実践していこうとしています。

 このご信心を家族でされたなら、必ず答えが見つかります。問題があれば解決に向かいます。生きる力が衰えていれば、必ず「生きる力」がもらえます。やり方が分かります。生き方に気付きます。

 残念ながら、東日本大震災という未曾有の大地震、大津波、原発事故は、人類や日本の分岐点にはできませんでした。まだ希望は捨てていません。しかし、一年を振り返ると、日本人、いや全人類が、新しい幸せの価値観に気づくことも、転換することもなかった。震災後に突きつけられたことも、傷口も真っ直ぐに見ようとせず、治療せず、上に絆創膏を貼っただけで、誰も責任を取らないまま、問題は先送りされています。わずか一年で、他人事、大震災の風化が広がっています。人は結局、自分の町内が安全で、自分のお財布が痛まなければ、問題意識を持つことはできないのでしょうか。原発事故は、みんなの心が試されます。なぜなら、放射能の怖さは、すぐに分からないからです。本当に、未来にツケを回している。先送りが送りできてしまう。

 2012年以降、日本の超少子高齢化は圧倒的に加速して進みます。日本の現役世代は他の先進国と比べて二倍近い高齢者を支えることになる。それに、大震災が加わった。すぐに東南海地震が起こるとも言われています。内閣府の「東北地方太平洋沖地震のマクロ経済的影響の分析」には25兆円の経済損失があり、結局これに相当する財政支出が必要になったとあります。経済産業省の産業構造審議会基本政策部会というところが、去年の6月に発表した資料では、今後日本の赤ちゃんは、生まれた瞬間に8309万円の借金を背負うことになると言います。日本の財政は極めて厳しい。問題の先送りをしてきた結果です。

 原発問題もエネルギー政策も、年金の問題も消費税も、未来にツケを回すことばかりで何も変えられない。このままでは未来の日本人から恨まれる無責任な世代と批判されるに違いない。

 厚生労働省は、自殺やうつ病によって日本社会が受ける経済損失は年間2兆6800億円に上ると発表しました。こうした問題を、みんなで本当に感じて、変えていかなければ日本という社会が成り立ちません。

 だから、決して問題を解決するための決定打ではありませんが、誰の人の心にも、誰の家族の中にも、町の中にも、社会の中にも、生きたお寺が必要だと知っていただきたいのです。

 「すべての人の、心の家であること」

 これは、妙深寺のご信者さんが考えてくださった言葉、ご信者さんが中心になって作ってくださったパンフレットの表紙にある言葉です。

「人生はその苦しみも、悩みも、あなた一人で抱えるものではありません。自分なりにがんばっている。真剣に生きている。なのにどうして…。さまざまな問題に立ち向かうとき、妙深寺を思いだしてください。妙深寺に相談してみてください。根本の原因をともに見つめ、解決していく。本来の有り難い幸せを感じる心に導く。それが、真の仏教の教えです。葬式仏教でも、新興宗教でもない。どんなときでもすべての生きる人に開かれた、心の家。無縁社会ではない、有縁社会がここにある。私たちの人生は、有り難い幸せにあふれているのです」

 こう書いてくださいました。素晴らしい言葉です。短い文章の中に、「今に受け継ぐ奇跡のお寺」の姿がギュッと詰まっています。

「われ死んで遠い処へ行でなし どこへもゆかぬこゝにゐるぞよ」

 妙深寺の初代・日博上人も、先代の御住職・松風院日爽上人も、開導聖人のアイデンティティ、生きたお寺を守り、伝えてくださいました。それをそのまま実践し、受け継いで、守っていこうとしているのが今の妙深寺です。
 混迷の時代だからこそ、私たちは、開導聖人がここにいる、生きておられる「生きた仏の教え、生きているお寺」を守っていかなければなりません。

 少し気を抜いたり、立ち止まってしまったら、「生きたお寺」と言えなくなります。人が救えなくなる。ご祈願をしても、御利益がいただけない。「社会のため、人々のために」、と言えなくなります。妙深寺ですら、そうなる可能性があります。

 開導聖人は本当に偉大なお方でした。次のような御指南を遺されています。

「妙蓮・宥清等の寺号を信ずる時、今の身延久遠寺は又能興等(本能寺・本興寺)のごとし。唯御正流を説く人を永く導師とあおぐべき也」

「又、後々には此の寺にどんな謗法僧が住やらんしれず。其の時は責べし。云々」

 当時ご自身がお住まいになられていた今の大本山宥清寺、あるいは法華宗の大本山妙蓮寺ですら、「後々には此の寺にどんな謗法僧が住やらんしれず」と仰せでした。

 もしかしたら、妙深寺も、いつかダメになるかも知れない。御法さまを忘れ、教えを忘れ、その実践、修行を忘れていたら、ダメになる。生きたお寺、奇跡のお寺ではなくなる。

 続いて、まさに開導聖人らしい御指南、その真骨頂のような御指南を拝見いたします。

 「山高きが故に貴からず。樹あるを以て貴しとすと。寺大きなるが故に貴からず。正法有るを以て貴しとす。寺大、法権(寺が大きいが、教えがニセモノ)。僧官大僧正にして人を助けず。男がよくて馬鹿。衣装がよくて人の目を驚かして、何の益もなし。蒔絵の重箱、馬の糞。金たんとある家なれども主があほ。一切にわたる。今、本門流通談にては、いくら物をしりたる学匠も貴からず。一人にても、人を教化して、助くる人を貴しとす。貴賤男女にはかかわらず、真実の御弟子也」

 6月10日に、私たちは「東日本大震災復興祈願・開導会併せて先住御十三回忌報恩記念大会」を奉修させていただきます。ここを目指して、5000人でお参詣させていただきたい。

 幸せになるために、心が平和に、穏やかになるために、何らかのヒント、答えを求めている世の中です。6月10日に「生きたお寺」「ここに仏教がある」とお伝えし、少しでも世の中が良くなるように、みんなが幸せになるように、お伝えさせていただきたいことがある。

 どうか、心も環境も壊れ、混迷を深める世の中であっても、この実践、教えがある、妙深寺に出会えた喜びを少しでも感じていただけるよう、開導聖人の教えを守って、伝えさせていただくことが大事。その開導聖人の教えの尊さを感得させていただく御教歌でございます。

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