2026年11月3日火曜日

11.3 今日は「雨ニモマケズ」の日

 







11.3。今日は特別な日。95年前の今日、宮沢賢治は黒革のノートに『雨ニモマケズ』を記しました。「文化の日」は「雨ニモマケズ」の日でもあります。


1931年(昭和6年)11月3日、賢治さんは『雨ニモマケズ』を鉛筆でメモしました。赤鉛筆も使っています。法華経の精神、本化の菩薩の生き様を、素晴らしい詩に結んでくれました。


それは「行ッテ」という言葉と生き方に象徴される、能動的、積極的、行動する仏教者、東西南北、あちらからこちらへと走り回り、飛び回る菩薩方の姿です。


昨日、植木先生を迎えたNHK『100分de名著』―「ブッダのことば」 が放送されました。とてつもない反響でXでトレンドに上がっていました。放送から一夜明けてAmazonでは全ての出版物中25位、仏教の経典ではベストセラー第1位‼️すざまじいです。仏教ルネサンスが到来しています。


さて、NHKの『100分de名著』―「ブッダのことば」 では世界最古の仏教経典『スッタニパータ』を取り上げています。


植木雅俊先生が抱いておられるのは、この原始経典と、法華経と、日蓮聖人の内容が、バラバラなようで通底しているということ。是非、今回の放送や様々な著書を読んでいただければと思います。


私はつくづく不思議に思うのは、賢治さんの「雨ニモマケズ」と、原始経典「スッタニパータ」の内容が、あまりにも似ていることです。


仏教を、他者と交わらず、独りで悟りを求めるものとか、そういうイメージで捉えている人は、原始経典の中にある「菩薩行」としか思えないブッダの教えを知るべきです。名目は常に後に整えられただけで、スピリットやエッセンスを見失ってはいけません。


賢治さんが『雨ニモマケズ』を手帳に記したのは1931年(昭和6年)11月3日。そして、1933年(昭和8年)9月21日、賢治は37歳で亡くなりました。


『スッタニパータ』は、スリランカ(セイロン)に伝承された南伝仏教のパーリ語経典です。日本では明治・大正期から原始仏典の翻訳研究が進められていましたが、荻原雲来訳『釈迦牟尼聖訓集―巴利文スツタニパータ』が刊行されたのは1935年(昭和10年)、水野弘元訳「経集」が『南伝大蔵経』に収められたのは1939年(昭和14年)で、いずれも賢治の没後でした。


もちろん、それ以前にも原始仏典の邦訳や研究は存在していて、賢治さんが『スッタニパータ』に接する可能性がゼロだったと断定することはできません。


でも、敬虔な法華経の信仰者、日蓮聖人を敬愛する宮沢賢治が、『スッタニパータ』と法華経信仰を、その精神の深いところで一致させていることはとてつもなく注目すべきことだと思うのです。


数千年の時を超えて共鳴する生命の響き、仏教者、菩薩行者たちの言葉に耳を傾けていただきたいです。心が震えます。


「ブッダのことば」と賢治さんの「雨ニモマケズ」が、深いところで同じことを伝えていると気づきます。


『スッタニパータ』 蛇の章 慈悲


「能力あり、直く、正しく、言葉やさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。


足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の人の家で貪ることがない。


他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。


いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きいものでも、中ぐらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、


目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも既に生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。


何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いを抱いて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。


あたかも、母が已が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生れるものどもに対しても、無量の(慈しみの)意を起すべし。


また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。


立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥つつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。


この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。」


次章に下記の言葉が続きます。


「われらは、村から村へ、山から山へめぐり歩もう。」


「私は村から村へ、町から町へめぐり歩こう」


同じく原始経典『ダンマパダ』には「動くお寺」のコンセプトでもある「ミツバチ」のお話が出てきます。


「蜜蜂は(花の)色香を害(そこなわず)に、汁をとって、花から飛び去る。聖者が村に行くときは、そのようにせよ。」


95年前、1931年(昭和6年)11月3日、彼は記しました。


宮沢賢治『雨ニモマケズ』


 雨ニモマケズ

 風ニモマケズ

 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

 丈夫ナカラダヲモチ

 慾ハナク 決シテ瞋ラズ

 イツモシヅカニワラッテヰル

 一日ニ玄米四合ト

 味噌ト少シノ野菜ヲタベ

 アラユルコトヲ

 ジブンヲカンジョウニ入レズニ

 ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ

 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ

 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ

 東ニ病気ノコドモアレバ

 行ッテ看病シテヤリ

 西ニツカレタ母アレバ

 行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ

 南ニ死ニサウナ人アレバ

 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

 北ニケンクヮヤソショウガアレバ

 (行ッテ)ツマラナイカラヤメロトイヒ

 ヒドリノトキハナミダヲナガシ

 サムサノナツハオロオロアルキ

 ミンナニデクノボートヨバレ

 ホメラレモセズ

 クニモサレズ

 サウイフモノニ

 ワタシハナリタイ


東西南北に走り回る姿。法華経本門に出現する本化の菩薩の姿が『雨ニモマケズ』のモデルです。


われらは本化の仏教徒。本化の仏教者は村から村へ、町から町へ、ご信者さんの家から家へ、東西南北、お助行に巡り歩く、走る、飛ぶ。


原始仏典『スッタニパータ』と宮沢賢治『雨ニモマケズ』の内容の共通性は、原始仏教と本化仏教の一体性、上行菩薩後身・高祖日蓮聖人の内外相承の妙不可思議な正当性を考える上で、極めて重要な示唆を与えるものです。


11月3日は、特別な日です。

2026年11月2日月曜日

信州信濃の本晨寺

 
















長野から戻って参りました。用意したご供養が足らなくなるくらい、私から見てもいつもより多くのお参詣があり、ありがたかったです。


毎年お会式のご奉公をさせていただいていますが、必ず新しい試みをしていて、前に進んでいる本晨寺。厳しい時代に違いはありませんが、大切な法城を守ろうとご奉公いただいている皆さまに心から随喜いたします。


放送禁止御法門。先日お見送りさせていただいた栁澤かつ子さんのご一生、ご奉公を振り返らせていただきました。悪世末法ですからYouTubeで流せない歴史と事実がたくさんあります。苦難困難を乗り越えて、本物の佛立信心をさせていただきたいと願うばかりです。


妙深寺は長野本晨寺の初代ご住職・廣瀬日謙上人に大変な御恩がありました。日謙上人は妙深寺初代住職・清水日博上人が得度親、日謙上人に得度を勧めたのは乗泉寺で受持御講師だった日博上人でした。


昭和42年、日博上人が病床に伏すと、日謙上人は長野から横浜まで泊まりがけでお出ましくださり、代行のご奉公をしてくださいました。


その日謙上人からご遺言をお預かりしました。日謙上人は妙深寺の尼僧・小磯妙清師と文通されており、妙清師がずっと寺報をお送りしていたのです。そのようなご縁から100才を越える日謙上人は「自分にもしもの時は長松清潤を頼りなさい」とご遺言され、私にも「たのむ」とお申し付けになられました。


その時は平成16年(2004)1月に訪れました。日謙上人のご遷化。私は35才でした。堤深恭師にご奉公の先頭に立っていただき、困難な道を歩み始めました。


当時は14戸のご信者さまでした。平成20年(2008)12月10日、妙深寺長野別院の開堂式をさせていただきました。


開堂式には、横浜から正教師、柴山局長、瓜生さん、奥山さん、寿美江奥さま、法子奥さまがお参詣くださいました。前夜にはそして石田さんの記念写真があります。積み重ねてきたかけがえのないご奉公、歴史があります。18年前のことです。


そして、平成27年(2015)7月、本山宥清寺のご宝前において本晨寺の住職辞令を拝受。9月、長野本晨寺の住職を交代させていただきました。日謙上人のご遺言をお預かりした時からすれば、想像だにしなかった、あり得ないことでした。


ただ、日謙上人は「功徳は堅牢。火にも焼かれず、水にも漂わない。50年、100年経っても、私は本晨寺のご宝前に帰る」と言っておられました。ですから、そのとおりになったばかりなのです。


そして、10年前、平成28年(2016)12月、妙深寺長野別院の閉堂式を奉修し、その看板をお下げさせていただきました。涙、涙の閉堂式でした。14戸から始まった妙深寺長野別院のご信者さまは60戸となっていました。


令和元年(2019)年の夏、堤深恭師が本晨寺のご住職となられました。あれから8年です。


ご住職、ご信者の皆さまが、まさに一つになって、明るく、あたたかく、楽しい本晨寺、「みんなのお寺・本晨寺」と声を掛け合って、ご奉公くださっていて、心からありがたいです。信州信濃の生きたお寺、めざましいご弘通ご奉公に心から感激します。


本晨寺ではずっと「本物の、佛立信心を」をご祈願に掲げてこられました。本物でなければ意味がないという厳しくも頼もしいテーマです。苦難困難を乗り越えてここまで来ました。今年から本晨寺のご奉公に清信師も加わって、新しい風が吹いてきました。ありがたいです。


「経よんで 銭(タメ)をもらふて鉢坊主 あかい衣はちっと不似合」


すごい御教歌です。なかなか拝見しないと思いますが、権威主義化を絶対に許さない開導聖人の佛立魂です。何が本物か、何が佛立か、誰もが考えざるを得ません。


先月末から京都を2往復、長野を2往復、11月11日からネパールのご奉公。さらにご奉公が入ってしまい、4日の長松寺のご奉公は淳慧師に代行していただきます。予定変更が相次ぎ申し訳ございませんが、よろしくお願い申し上げます。


明日は、博くんの一周忌を奉修させていただきます。あれから一年です。


どれだけ苦しくても、つらくても、真正面から受け止めて、その責任を一身に背負って、生きます。申し訳ありませんがよろしくお願いいたします。


南無妙法蓮華経

ありがとうございます。

2026年10月25日 小笠原諸島西方沖の地震と京都伏見妙福寺で発生した揺れの関連調査

 

2026年10月25日 小笠原諸島西方沖の地震との関連について


本門佛立宗 妙福寺(京都市伏見区)


1.調査の概要


2026年10月25日(日)、京都市伏見区の本門佛立宗妙福寺では、午前10時より高祖会ならびに松寿院・薫奥様三十七回忌法要を奉修していました。


法要中、本堂内に設置されている吊灯籠と天蓋が、同じ時間帯に左右方向へ揺れる現象が確認されました。


当日は窓を開放しておらず、空調による風の影響も考えにくい状況でした。


同日午前11時09分頃には、小笠原諸島西方沖を震源とする大規模な深発地震が発生しています。


そこで、当日の法要を記録した録画映像から揺れの開始時刻と継続時間を算出し、地震との時間的な関連について検討しました。


2.録画映像による揺れの確認


録画映像を確認したところ、次の時点で揺れが観察されました。


確認項目    録画上の経過時間

法要開始    15分18秒

吊灯籠・天蓋の揺れ始め    1時間27分45秒

揺れの終了    1時間37分27秒


法要開始時刻を午前10時00分と仮定し、録画上の経過時間から実際の時刻を算出しました。


【揺れ始め】


1時間27分45秒 − 15分18秒 = 1時間12分27秒


10時00分 + 1時間12分27秒


= 午前11時12分27秒


【揺れの終了】


1時間37分27秒 − 15分18秒 = 1時間22分09秒


10時00分 + 1時間22分09秒


= 午前11時22分09秒


【揺れの継続時間】


1時間37分27秒 − 1時間27分45秒


= 9分42秒


以上から、本堂内の吊灯籠と天蓋は、午前11時12分27秒頃から11時22分09秒頃まで、約10分間にわたって揺れていたと推定されます。


なお、これらは法要が正確に午前10時00分に開始されたことを前提とした推定時刻です。継続時間については、録画映像の時間表示に基づく値です。


3.小笠原諸島西方沖の地震について


気象庁の地震情報によると、2026年10月25日午前11時09分頃、小笠原諸島西方沖で大規模な地震が発生しました。


項目    内容

発生日時    2026年10月25日 11時09分22秒

震源地    小笠原諸島西方沖

マグニチュード    M7.0(速報値)

震源の深さ    約470km(速報値)

最大震度    3

京都までの震央距離    約1,100km


この地震は、地下深くで発生した「深発地震」です。


深発地震では、地震波が地下深部のプレート内部などを伝わることによって、震源から遠く離れた地域にも揺れが伝わる場合があります。


また、震源に近い地域よりも離れた地域で強い揺れが観測される「異常震域」と呼ばれる現象が生じることもあります。


4.地震発生時刻と本堂の揺れの比較


地震発生時刻と録画映像から算出した揺れの時刻を比較すると、次のようになります。


現象    時刻

小笠原諸島西方沖で地震発生    11時09分22秒

妙福寺本堂の揺れ始め    11時12分27秒

妙福寺本堂の揺れ終了    11時22分09秒

地震発生から揺れ始めまで    3分05秒

地震発生から揺れ終了まで    12分47秒

本堂で確認された揺れの継続時間    9分42秒


今回、特に注目されるのは、地震発生から約3分後に吊灯籠と天蓋の揺れが始まっていることです。


震源から京都まで約1,100km離れていることを考慮すると、この時間差は、地震波が伝わる時間として物理的に考えられる範囲にあります。


ただし、地震波の実際の到達時刻は、震源の深さや地下構造、地震波の種類などによって異なります。


そのため、時間的な一致だけで地震との因果関係を断定することはできません。


5.約10分間続いた揺れについて


今回の録画映像から、揺れが9分42秒間続いていたことが確認されました。


この現象を考えるうえで、次の二つの要因が考えられます。


① 遠方から伝わる地震波の影響


大規模な地震では、異なる経路を伝わった地震波が時間差で到達したり、長周期の揺れが続いたりする場合があります。


そのため、地震発生から数分後に建物が振動することは、地震学的に考えられる現象です。


② 吊灯籠・天蓋の振り子としての性質


吊灯籠や天蓋のように天井から吊り下げられた構造物は、振り子と同じような性質を持っています。


外部からの微弱な振動であっても、振動の周期が合えば揺れが増幅される場合があります。


また、一度揺れ始めると、外部からの振動が収まった後も、しばらく揺れ続けることがあります。


したがって、今回確認された9分42秒という継続時間は、地震波が約10分間作用し続けたことを直接示すものではありません。


建物の振動と吊り下げ構造物の固有振動が組み合わさった可能性も考えられます。


6.複数の吊り下げ物が同時に揺れたことについて


今回の現象では、吊灯籠と天蓋という、構造や重量の異なる複数の吊り下げ物が、同じ時間帯に左右方向へ揺れていました。


このことは、個々の吊り下げ物に別々の力が加わったというよりも、建物全体、あるいは共通する支持構造を通じて振動が伝わった可能性を示唆しています。


また、地震による振動が非常に小さく、人間には体感できない程度であっても、吊り下げ構造物には目に見える揺れが生じる場合があります。


ただし、今回の観察だけでは、複数の吊り下げ物が完全に同期していたかどうか、また振動の原因が地震であったかどうかまでは判断できません。


7.現時点での考察と結論


今回の調査によって、次の事実が整理できました。


1. 2026年10月25日午前11時09分22秒、小笠原諸島西方沖で大規模な深発地震が発生した。

2. 妙福寺本堂では、録画映像から午前11時12分27秒頃に吊灯籠と天蓋が揺れ始めたと推定される。

3. 地震発生から揺れ始めまでの時間差は約3分05秒であった。

4. 揺れは午前11時22分09秒頃まで、9分42秒間続いていた。

5. 複数の吊り下げ物が同じ方向へ揺れており、風などによる直接的な影響は考えにくい状況だった。


以上のことから、小笠原諸島西方沖の深発地震による微弱な地震動が京都市伏見区まで伝わり、妙福寺本堂の吊灯籠と天蓋を揺らした可能性が考えられます。


特に、法要の録画映像から揺れの開始時刻と継続時間を具体的に算出できたことは、地震との関連を検証するうえで重要な資料となります。


一方、現時点では京都周辺の地震観測波形との照合ができていないため、地震が直接の原因であったと断定することはできません。


今後、京都周辺の地震計に記録された2026年10月25日午前11時09分〜11時23分頃の観測データを確認し、揺れの到達時刻や振動の周期を照合することで、さらに客観的な検証が可能になると考えられます。


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参考資料


気象庁「2026年10月25日 小笠原諸島西方沖の地震」


防災科学技術研究所「強震観測網 K-NET・KiK-net」


※地震の諸元は速報値に基づいており、今後修正される可能性があります。


本門佛立宗 妙福寺

京都市伏見区


調査報告作成:2026年10月28日

11.3 今日は「雨ニモマケズ」の日

  11.3。今日は特別な日。95年前の今日、宮沢賢治は黒革のノートに『雨ニモマケズ』を記しました。「文化の日」は「雨ニモマケズ」の日でもあります。 1931年(昭和6年)11月3日、賢治さんは『雨ニモマケズ』を鉛筆でメモしました。赤鉛筆も使っています。法華経の精神、本化の菩薩の...