2026年5月17日日曜日

カドゥカ清地師から経過報告

 

御住職、

ありがとうございます。

ラム・ラル・タマンさんのお見舞いに参らせていただきましたので、ご報告申し上げます。


到着した際、ラム・ラル・タマンさんはぐっすりとお休みになっておられました。


医師の診断では、右腎臓は完全に損傷しており、摘出が必要とのことでした。そのため、これまでは温存できる左腎臓のみで透析を行っておりました。しかし、ラム・ラルさんの発熱が続いていたため、調べたところ、損傷した右腎臓に膿が溜まっていることが判明いたしました。そこで医師たちは右腎臓の透析を開始し、膿を除去いたしました。その結果、発熱はすでに治まり、現在は抗生物質による治療を受けておられます。


奇跡的なことに、右腎臓からもわずかながら尿が採取できたとのことです。これにより、右腎臓が完全には損傷していない可能性があるという、一縷の希望が生まれました。あるいは、まだ温存できるかもしれないということです。現時点ではまだ非常に小さな希望であり、医師たちも損傷した腎臓を救えるかどうか、確信は持てない状況です。しかし、たとえわずかな希望であっても、一心に御祈願を続けることをやめるわけにはまいりません。


最初に病院でラム・ラルさんにお会いした際、お題目を唱えることの不思議なご利益についてお伝えしておりました。信じられないような功徳が現れると申し上げました。本日も改めて、お題目を唱え続けるようお伝えいたしました。


またもう一つ、有難いご縁が現れました。その病院のオーナーが、ネパール別院のための土地取得にご尽力くださった政治家の方のご兄弟であることがわかりました。オーナーの方もヌワコット出身とのことです。ご自身でラム・ラル・タマンさんをお見舞いくださり、治療に関してできる限りのご支援をしてくださるとのことです。ラム・ラルさんが良い治療を受けられ、また医療費についても相応のご配慮をいただけるものと期待しております。


現在の状況についてですが、尿素およびクレアチニンの数値がわずかに正常値を上回っているとのことです。ただ、数日前と比べると安定しつつあります。医師によれば、このまま回復が続けば、2〜3日以内に腎臓結石の除去が行えるとのことです。また、腎臓の摘出については、さらに数日間状態を観察した上で判断するとのことです。


ラム・ラルさんのために、引き続き一心に御祈願を申し上げてまいります。

よろしくお願いいたします。


カドゥカ清地拝

こんな写真もあったんだ

 










日曜日の夜、無事に週末のご奉公を終えてホッとします。


お寺は週末が一番忙しい。平日も忙しいですが週末は特にご奉公が集中します。無事にご奉公できて、よかったです。


明日は13時から京都佛立ミュージアムの理事会なので京都に帰らなくてはなりません。20日までに杉野宣雄先生に作品をお返しするため、今回は車で往復しなければなりません。


宅急便でお送りしたら大変な経費がかかるため今夜から一人で運転して往復するつもりでしたが、やっぱり年をとったのだと思います。交通事故も多いし、無理をせずやめておきました。


経費削減、浄財を大切に。ご信者さま方が算盤を逆さまにして功徳を積んでくださるからこそ、それをお預かりする者は厳しく費用対ご弘通の効果を考えること、先住松風院日爽上人が常に教えてくださっていたことです。佛立教務は世の中の優秀な方々以上にこうした感覚を厳しく持っていなければならない。勘違いしてはならない。


いま、妙深寺では生きたお寺の歴史を振り返っています。大先輩たちの写真に感激したり、さみしく思ったり、知らなかった写真が発掘されて驚いたり、本当にありがたいです。


みんなの大切なお寺。いま少し距離が空いてしまっていても、思い出してほしい、戻ってきて欲しい。なんかそんなふうに感じました。素敵なお兄さんやお姉さんや、友だちや子どもたちがいっぱいいました。


明日は京都。夜明け前に出発します。


今朝の妙深寺の朝参詣、本堂いっぱいのお参詣でびっくりしました。住職がびっくりしたなんて言ってはいけないけれど、本当にたくさんのお参りをいただき、ありがたく思っています。


平日のお参りは大変かもしれませんが、引き続き精進させていただきましょう。修行ですから、修行した分は必ず我が身に帰ってきます。頑張りましょう。


ありがとうございます。

AI時代の新しい啓蒙主義と仏教

「AI時代の新しい啓蒙主義と仏教」について思索した。


18世紀の啓蒙思想は、王権・教会・迷信・伝統的権威に対して、理性・科学・批判精神を武器に立ち上がった。


ボルテールは宗教的権威と不寛容を批判し、ルソーは社会契約や人間の自由を問い直し、のちにニーチェは「神は死んだ」と言って、西洋文明の根底にあった価値体系そのものの崩壊を告げた。


そして今、AIの時代には、それに匹敵する、あるいはそれ以上の衝撃が来る可能性がある。


なぜならAIは、単なる便利な道具ではなく、ユヴァル・ノア・ハラリ氏が指摘したホモ・サピエンスの特徴、人間が信じてきた虚構、制度、権威、知性、信仰、労働、価値の根拠を、根底から問い直してしまう存在だからだ。


貨幣経済も、資本主義も、国家も、国境も、宗教制度も、階級も、学歴も、肩書きも、人間が集団で信じることによって成立してきた「虚構」とする。少なくとも、ユヴァル・ノア・ハラリはそう指摘した。


もちろん、虚構だから無意味ということではない。虚構は人間社会を成立させる力でもあった。しかし、その虚構が硬直し、特権階級を生み、人間を縛り、戦争や差別や搾取を正当化するならば、必ずそれを批判する新しい思想家たちが現れるだろう。


17世紀後半から18世紀にかけての啓蒙主義(啓蒙時代)は、神中心の世界観や教会の絶対的な権威に対して、人間の「理性」と「科学的探究」が真っ向から衝突した、歴史の大きな転換点だった。


いま、再び人類は地球文明の大転換点に立っている。


つまり、現代のボルテール、現代のルソー、現代のニーチェは、おそらく生まれるだろう。いや、あるいは、もう生まれ始めているのかもしれない。


ただし、ここで大切なのは、AI時代の啓蒙は、単に「宗教を否定する思想」では終わらないということだ。


近代の啓蒙思想は、キリスト教的世界観、聖書的宇宙観、神学的権威を相対化した。


地球の歴史が6000年ではないこと、生命が進化してきたこと、人間は特別に粘土から造られた存在ではないことは、科学によって明らかにされた。聖書批評学も、聖書を絶対不可侵の神の言葉としてではなく、歴史的・文学的・社会的文書として読み直した。


しかし、それに対する巨大な反発として、現代の福音派、原理主義、反知性主義が生まれた。いま、その主な舞台はアメリカに見られる。


これらは一見、時代の逆行のように見えるが、実は文明が大きく変わる時には必ず起こる反動だ。


人間は、自分が信じてきた世界が崩れそうになると、さらに強く古い物語にしがみつく。しかし、長い目で見れば、人類はやはり新しい価値観へ向かうのではないか。


その過酷な時代にこそ、仏教は大きな意味を持ち、役割を果たす。


なぜなら、本来の仏教は、神の創造や絶対者への服従を中心に置く宗教ではなく、「ありのままに見る」ことを根本に置く教えだからだ。


無常を見る。

縁起を見る。

執着を見る。

苦の原因を見る。

自我というものの不確かさを見る。

欲望と幻想が人間を苦しめる心の構造を見る。


これは、科学と敵対する態度ではない。むしろ、主観的な思い込みを離れて、現実を如実に観察しようとする姿勢において科学的精神と深く響き合う。


無論、仏教の名を借りた迷信、権威主義、呪術、商売、制度宗教の硬直もある。それらは厳しく批判されなくてはならない。しかし、仏教の根本にある「如実知見」、すなわち「あるがままに見よ」という精神は、AI時代においてますます重要になると思われる。


AIは、人間の虚構を暴くだろう。


人間がどれほど物語に支配されているか。


お金、国家、宗教、民族、勝利、成功、名誉、正義という言葉に、どれほど人間が縛られているか。


そして、その虚構のために、人間がどれほど傷つき、殺し合い、人生を硬直させているか。


その時、必要なのは、単なる反宗教ではない。単なる科学万能主義でもない。必要なのは、虚構を見抜きながら、なお人間を救う価値を立てる思想のはずだ。


ここに仏教、とくに菩薩の教えの意味がある。


虚構を見抜くだけなら、ニヒリズムに落ちる危険がある。


「すべては作りものだ」

「神も国家も道徳も幻想だ」

「ならば何をしても同じではないか」


そうなれば、ニーチェ以後の危機と同じ道を歩むだろう。


しかし仏教は、虚構を見抜いた先に、慈悲を置く。


空を見て終わるのではなく、苦しむ人を救う。


無常を知って絶望するのではなく、今この瞬間を尊く生きる。


幻想を知って孤独になるのではなく、縁起によってすべてがつながっていることを知る。


本化仏教から見れば、AI時代の新しい価値観は、

「神を信じるか、信じないか」

「宗教か、科学か」

という単純な対立を超えていくのではないかと思われる。


むしろ、このように問われる時代が来るだろう。


人間は、どの虚構から自由になるべきか。


どの物語なら、人間を縛らず、救い、育てることができるのか。


科学技術が進歩した世界で、人間は何を尊ぶべきなのか。


知能が人間を超える時代に、人間の慈悲、祈り、責任はどこにあるのか。


その問いに対して、仏教は深い答えを持っている。


仏教は、人間を世界の中心に置いて傲慢にさせない。人間の心が世界を壊しもすれば、救いもするということを徹底して見つめている。


欲望が世界をつくる。

執着が苦を生む。

迷いが争いを生む。

しかし、目覚めた心、慈悲の心、菩薩の行は、世界をより良く変える。


AI時代は、仏教にとって危機ではなく、むしろ本来の仏教が再発見される時代ではないか。


ただし、そのためには仏教自身も、迷信や儀礼や制度の殻に閉じこもっていてはならない。


仏教が「古い宗教」の一つとしてではなく、人間を虚構から解放し、苦しみから救い、現実を正しく見るための実践知として語られなければならない。


AIの時代とは、人類が自ら作り出した虚構に気づかされる時代であり、その虚構から自由になりながら、なお慈悲と責任を失わないために、仏教が新しい文明の思想として再発見される時代である。


「正しく強く生きるとは、銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである。

われらは世界のまことの幸福を索ねよう。

求道すでに道である。」宮沢賢治


「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」


この視点は人類の希望の明かりだ。

2026年5月16日土曜日

それが歴史や神話となる


僕らはふだん、目の前の出来事を「今日起きたこと」「今問題になっていること」として見ている。


しかし、その一つ一つは、当事者の心に刻まれ、家族に語り継がれ、地域や民族や国家の記憶となり、やがて「歴史」となる。


恐ろしいのは、出来事そのもの以上に、その出来事がどのように記憶され、どのように語り直されるか、だ。


小さな屈辱が、語り継がれるうちに大きな怨念になる。


一つの犠牲が、「復讐しなければならない理由」になる。


一つの敗北が、「次こそ勝たねばならない」という執念になる。


一つの恐怖が、「先に攻撃しなければ殺される」という正当化になる。


こうして、出来事は過去に終わらず、心の中で増殖していく。


歴史は単なる記録ではなく、人間の煩悩と結びつき、怨み、怒り、恐怖、優越感、被害者意識を肥大化させる。


仏教的はこれを「因縁」の恐ろしさと見る。なぜ、これが分からないのか。


敵対者を殺害して、次々と攻撃して、破壊しても、そこで終わらない。「やっつけた」と思っても、さらに増幅したカルマが向かってくる。それすら倒せると思うかもしれないが、それは修羅の道、畜生界、人間の生き方ではない。まして、その選択で愛する人が、子どもや孫たちの命が延々と失われていいはずがない。


一つの出来事が因となり、それをどう受け止めるか、どう語るか、どう利用するかという縁によって、善にも悪にも展開していく。


だから、目の前の出来事を軽く見てはいけない。


今の一言、今の判断、今の沈黙、今の暴力、今の不誠実は、その瞬間だけで終わらない。誰かの心に残り、次の行動を生み、次の時代の空気を作る。


戦争も、差別も、宗教対立も、政治的な憎悪も、突然生まれるのではなく、小さな記憶の積み重ねが、ある時に神話化され、正義化され、怪物のようになって現れる。


だからこそ、本当の宗教、本当の仏教は、過去を忘れろと言うのではなく、過去を怨みの燃料にしない智慧を教えている。


目の前の出来事の中に、未来の歴史の種がある。


だから今、どう行動するか。それをどう見るか。どう語るか。どう受け止めるか。


人間の責任はそこにある。愚かな選択による自業自得は本人や為政者の勝手だが、それが歴史となる時、多くの人を最悪の負の連鎖に追い込む。


 

カドゥカ清地師から経過報告

  御住職、 ありがとうございます。 ラム・ラル・タマンさんのお見舞いに参らせていただきましたので、ご報告申し上げます。 到着した際、ラム・ラル・タマンさんはぐっすりとお休みになっておられました。 医師の診断では、右腎臓は完全に損傷しており、摘出が必要とのことでした。そのため、こ...