極めて不愉快な、しかし重要で本質的な問題を象徴する事件について書かせてください。前置きのとおり、不愉快な上に長くなりますので、読み飛ばしていただいて結構です。
世界最古の仏教国・スリランカが、あってはならない、あり得ない大事件に震撼しています。あまりに巨大で恐ろしい事件に、世界最古の仏教国が根底から揺れているのです。
事件の中心人物は、スリランカ仏教の聖地アヌラーダプラにある「八大聖地(Atamasthana)」の最高管理者、Atamasthanadhipathiを務めていた高位僧侶、Pallegama Hemarathana Thero(パッレーガマ・ヘーマラタナ長老)、71才。
古都・アヌラーダプラは紀元前3世紀にブッダガヤから移植されたとされる聖なる菩提樹「Jaya Sri Maha Bodhi(ジャヤ・スリ・マハー菩提樹)」を擁する世界遺産。
2週間前にも訪問しましたが、昨年8月には実際にこの菩提樹の寺院を訪れました。スリランカの仏教徒にとってこの聖なる菩提樹がどれだけ神聖で、この寺院がどれほど特別か、目の当たりにしていました。
この世界遺産の、最高位の宗教指導者、上座部・テーラワーダ仏教界の長老、71才の僧侶が、なんと14才の少女へのレイプ事件で逮捕されたのです。
事件が明らかになったのは、現在14~15歳と報じられている少女が警察に保護され、事情聴取を受けたことからでした。
少女は警察に対し、約3年前、自分が11歳の頃から、この高位僧侶によって繰り返し性的虐待を受け、強姦されていたと訴えたのです。
捜査の中で、少女は被害を受けた場所を具体的に示し、2026年5月9日、ヘーマラタナ長老は警察に逮捕され、少女の母親も虐待を幇助した疑いで逮捕されました。
2026年8月、少女が示した寺院内の部屋の敷物から精液が検出され、そのDNAが長老本人のDNAと一致したことが、裁判所に提出された鑑定結果として報道されました。
国民の動揺、失望と衝撃は想像を絶します。
DNAの一致を取り上げて、少女の供述が全て真実とすることはできません。最終的には司法手続きの結果を待たなければ分かりません。しかし、これは単なる噂や思い込みではなく、少女の供述と科学的証拠が符合した極めて重大な事件に違いありません。
私はこの事件を現地スリランカで聞かされました。私はこの事件を単に「スリランカ仏教の問題」「上座部の問題」と批判して終わらせるべきではないと考えています。
この事件は、いわゆる「性的ハラスメント」や「僧侶のスキャンダル」という範疇を超えて、極めて重大な意味を含んでいると思われるのです。
本件は、「ハラスメント」ではなく、強姦・性的虐待事件です。しかも、被害者は11才〜14才の少女です。さらに、一度の犯罪ではなく複数年複数回にわたって繰り返された事件です。さらに、犯罪を犯したのは分別のつかない若者ではなく、71歳の男性です。
さらに、その人物は僧侶です。さらに、厳格な戒律、とりわけ不邪淫・不淫を重んじる上座部仏教の僧侶です。さらに、ただ一寺院の僧侶ではなく、本山の、大僧正位に座する、聖地を統括していたスリランカ仏教界の最高位に属する宗教指導者による事件です。
あまりにも深い、恐ろしい大事件に、言葉も見つかりませんが、宗教家として、仏教者として、受け止めるべきだと思いました。
私が清廉潔白などと言うつもりは毛頭ありません。むしろ真逆です。私たちはどうしようもない。まったくもって凡夫中の凡夫、煩悩から逃れられず、欲も離れない。しかし、そんな私たちがなんとか修行しています。その意味、その理解を、みんなで深めて、共有したいと願います。
日蓮聖人の教え、本化仏教の宗教観、本来の本門佛立宗の流儀、開導聖人の御意を、しっかりと受け止めなければならないと思います。
日蓮聖人は『祈禱抄』に、
「行者は必ず不実なりとも、智慧はをろかなりとも、身は不浄なりとも、戒徳は備へずとも、南無妙法蓮華経と申さば必ず守護し給ふべし。」
と説かれ、その直後に、
「正像既に過ぎぬれば、持戒は市の中の虎の如し。智者は麟角よりも希ならん。」
と言明されました。「市」とは人びとが集まる町の中心部のことです。そこに虎がいることなど想像できない。つまり「あり得ない」という意味。伝教大師の著作と伝えられてきた『末法燈明記』に同様の御指南があります。
「設ひ末法の中に持戒の者有らんも、既に是れ怪異なり。市に虎有るが如し。此れ誰か信ずべけん。」
つまり、末法という時代に、戒律を完全に持つ清浄な僧侶がいるとすれば、それは町の中に虎がいるようなもので、「誰がそんなことを信じられるだろうか」、それほど稀なことだとお示しなのです。
日蓮聖人はこのことを繰り返しお諭しです。法華経『勧持品第十三』に説かれる「僭聖増上慢」と重ねて考えるべきです。
ここに現れる「三類の強敵」、その中でも最も恐ろしいとされる第三の「僭聖増上慢」。
勧持品には、
「或は阿練若に 納衣にして空閑に在って 自ら真の道を行ずと謂うて 人間を軽賎する者あらん」
と説かれています。
人里を離れた静かな場所に住み、質素な衣をまとい、自らは「真実の仏道を修行している」と思い、人間社会の中で生きる人びとを軽蔑する者がいると説かれています。
さらに、
「利養に貧著するが故に 白衣のために法を説いて 世に恭敬せらるること 六通の羅漢の如くならん」
とあります。
実際には「利養」、つまり利益や供養に執着しているにもかかわらず、在家の人びとに法を説き、世間からはあたかも神通力を得た阿羅漢のように尊敬されている、と。
法華経は数千年も前に僧侶の欺瞞、人間の性を見破り、あるべき僧侶と信徒の関係、末法の教団やご奉公のあり方を示していたのです。
どのような組織も腐敗するものです。権威主義化するものです。仏教に限らず、宗教社会学的に考えれば、あらゆる宗教が同じような道を歩みます。
しかし、仏教は、そのような道を歩みながらも、法華経にたどり着いた。植木雅俊先生の『維摩経とは何か』と『法華経とは何か』をセットで読めば、仏教の真意と仏教者たちの挑戦を知ることが出来るでしょう。
質素な衣を着ている。
静かな場所で修行している。
戒律を守っているように見える。
世俗から距離を置いている。
人々から尊敬されている。
「あの方こそ本物の聖者だ」と思われている。
しかし、その外形の奥に、名誉欲や利欲、自己保身、慢心が隠れている。それを法華経は二千年以上前に見抜いていたのです。人を信じないということではなくて、臨床試験を続けた結果、人間とは弱い、それではダメ、そういう権威や権力をかさにきて、えらそうにしても意味なし、となったのです。
日蓮聖人は「倫理など必要ない」「悪いことをしても構わない」と説いているのではありません。むしろその真逆です。
あくまでも日蓮聖人の末法観の根底には非常に厳しい人間認識があります。
人間は、僧侶になったからといって煩悩がなくなるわけではない。
頭を剃ったから欲望が消えるわけでもない。
袈裟を着たから罪障がなくなるわけでもない。
戒律を掲げたからその人の内面まで清浄になるわけでもありません。
「不実なりとも」
「智慧はをろかなりとも」
「身は不浄なりとも」
「戒徳は備へずとも」
それでも、
「南無妙法蓮華経と申さば」
です。完全な人格者になってから妙法を持つのではなく、清廉潔白になってから仏道を歩むのでもない。煩悩もあり、欠点もあり、罪障も抱えている凡夫が、その身のままで御題目をお持ちし、我も唱え人にも勧める菩薩行に励み、自分自身を改良しながら仏道を歩むのです。それこそが末法の修行です。
佛立開導日扇聖人の謙虚さは徹底的にご奉公に励み尽くして証明できる本物の謙虚さです。
最期の御教歌。
「清風は どんなおやじと人とはゞ なんにもしらぬ真の俗物」
良潤と話をしました。スリランカの事件を目の当たりにして、私たちはさらに開導聖人がこの御教歌を遺された意義を知らなければならない。佛立のアイデンティティ、「佛立らしさ」の追求です。僧階を含めて他の団体を模する必要などありません。
「当宗は無戒也。妙法五字を持てば是名持戒也」
「無戒」とは何をしてもよいという意味ではありません。無戒は無倫理ではないのです。「私は戒律を完全に守っている清浄な人間です」を信心の前提にしないことです。事相は大事でも、上辺だけの人間になるな、表と裏を使い分ける教務になるな、虚勢を張るな、偽るな、正直であれ、ということです。
人間には欲があります。
怒りがあります。
嫉妬があります。
性欲があります。
名誉欲があります。
自己顕示欲があります。
僧侶になったから、それらが消滅するわけではありません。
むしろ「私は戒律を守っている」「私は清浄な僧侶である」という自己像を作り、それを周囲からも期待されるようになると、そこには別の危険が生まれます。
表では清浄な宗教者を演じなければならない。しかし、実際には自分の中に煩悩がある。その現実を認められなければ、やがて「表の自分」と「裏の自分」を使い分けるようになる。
欲望を隠す。
失敗を隠す。
罪を隠す。
弱さを隠す。
そして宗教的地位が高くなればなるほど、「立派な自分」を守るために、ますます本当の自分を隠さなければならなくなる。ここに、宗教的権威と偽善が結びつく危険があります。
だからこそ「持戒は市の中の虎」という言葉は、現代の私たちにも非常に重い問いを投げかけているのです。
宗教者の価値は、袈裟を着ていることでも、頭を剃っていることでも、戒律を守っているという評判でもありません。大切なのは、実際にその人がどのように生きているか、どのようなご奉公を積み重ねているか、行儀だけでもダメ、儀式典礼だけでもダメ、知識だけでもダメなことは言うまでもありません。
あらゆる宗教宗派を越えて、私たち宗教者自身が問われているのだと思います。
その上で、私たちの佛立開導日扇聖人は、素晴らしい教え、アイデンティティを遺してくださっていると、胸を張れるようにしましょう。絶対に、権威主義化してはいけない。絶対に、僧侶だけの世界を作ってはいけない、表と裏を使い分けてはいけない、情実に流され、有名無実になってはならない。
宗教者の価値は、袈裟でも、剃髪でも、僧階でも、肩書でもない。戒律を守っているという評判でもない。その人が、ただひたすらに積み重ねているご奉公、菩薩行の実践によります。
幕末維新の仏教改革者、開導聖人の御教歌
「ころも着て かしらまろめて人だます 寺住のもの僧と思な」
あまりにも痛快に僧侶を批判、否定しています。これが佛立でした。佛立第二世講有日聞上人は、佛立講のご奉公に出る時は法華宗の袈裟や衣を脱がれた、と聞きます。本門佛立のアイデンティティです。
御教歌
「当宗は 蓑きて笠着て鍬かたげても 法さへひろめりゃ菩薩行也」
教講一体の姿、菩薩行の本質、ここから焦点がズレていたとしたら、それは是正されなければならないでしょう。袈裟を着ていなくても、蓑を着て、笠をかぶり、鍬を担ぐ普通の生活者であっても、人のために正しい法を伝えて生きるなら、その行いこそ菩薩行である、と開導聖人は私たちに教えておられるのです。
もちろん、「常講歎徳滅罪抄」に示される師匠へのお給仕が第一であることは外せません。「実に佛になる道は師に仕ふるには過ぎず。」という『身延山御書』のお祖師さま・日蓮聖人の御妙判を忘れることは許されません。
ただし、『身延山御書』では妙楽の「若し弟子有つて師の過を見さば、若は実にも若は不実にも其の心自ら法の勝利を壊失す」を引用され、弟子として師への絶対的なお給仕の大事を示しつつ、そのすぐ後に「師堕つれば弟子堕つ、弟子堕つれば檀那堕つ」と言明されています。
一人の宗教者の堕落は一人では終わらない。指導者の間違いを弟子が正当化し、その弟子がさらに信徒へ伝えれば、個人の過ちはやがて組織の常識になり、文化になります。
人法一箇、人法合一、としながら、師を守ることと法を守ることがすれ違う末法悪世。宗教者、とりわけ人を導く立場にある者の責任は重いです。師を守るために法を曲げてはならない。人に合わせて法を変えるのではなく、師も弟子も檀那も、等しく御法によって自分自身を正してゆかなければなりません。自信はありませんが、それが仏教者がたどり着いた結論だと思います。
いや、実はすでに仏陀の時代から厳しく戒められていたことです。スッタニパータの古層部分(新層部分ではないという意味)、第89偈は「道を汚す者(Maggadūsin)」の特徴を示し、痛烈に批判しています。
「善く誓戒を守っているふりをして、ずうずうしくて、家門を汚し、傲慢で、いつわりをたくらみ、自制心なく、おしゃべりで、しかも、まじめそうにふるまう者、かれは〈道を汚す者〉である。」
続く第90偈は在家の、本物の仏教者の姿勢が説かれています。「誰が本物で、誰が偽物か」、しっかり見極める。大乗経典ではなく、スッタニパータの古層部分に、このような姿が説かれている意味を考えていただきたいです。
「これら(四種類の修行者)を洞察した在家の、聡明で智慧のある信徒は、彼らのすべてがこのとおりであると知って、このように見極める。それゆえにその信徒の信仰が衰えることはない。どうして彼が、汚れた者と汚れていない者、清らかな者と清らかでない者を、同一にみなすことがあろうか(いや、決して同じには見なさない)。」
開導聖人の御指南。扇全12巻290頁。
「唯赤き衣。金襴のけさをかけて。愚人の目を驚かし。帰依を受て。施物を貪る工夫を本心とす。
愚旦の曰。わが菩提所の上人御貫首さまは。勅任官の大僧正ぢゃ。なんとえらいものではないか。其寺は。日本第一の大本山也と云ひ。寺の大きな。衣のりっぱとをのみいひて。信心を貴むもの一人もなし。」
別の御指南に。
「妙蓮・宥清等の寺号を信ずる時、今の身延久遠寺は又能興等(本能寺・本興寺)のごとし。唯御正流を説く人を永く導師とあおぐべき也」
「又、後々には此の寺にどんな謗法僧が住やらんしれず。其の時は責べし。云々」
「山高きが故に貴からず。樹あるを以て貴しとすと。寺大きなるが故に貴からず。正法有るを以て貴しとす。寺大、法権(寺が大きいが、教えがニセモノ)。僧官大僧正にして人を助けず。男がよくて馬鹿。衣装がよくて人の目を驚かして、何の益もなし。蒔絵の重箱、馬の糞。金たんとある家なれども主があほ。一切にわたる。今、本門流通段にては、いくら物をしりたる学匠も貴からず。一人にても、人を教化して、助くる人を貴しとす。貴賤男女にはかかわらず、真実の御弟子也。」
こうした御指南、本門佛立宗のアイデンティティを心肝に染め、実践しているかどうか。見極められているかどうか。とても巨大な設問です。
南無妙法蓮華経
ありがとうございます。
