2008年7月31日木曜日

かわいい息子に旅をさせる

 息子は、当時アメリカに住んでおられたご信者さんのお宅で生まれた。太平洋を見下ろす大きなご宝前の間があり、先住日爽上人はその場所をこよなく愛された。御本尊・御尊像も先住が自らお供され、ご奉安していただいていた。ご宝前には、やはり日本から持って行かれた法鼓まで設置され、そこには「一天四海皆帰妙法」と祖願が大書されていた。
 妙深寺の90才になる尼僧、妙清師も先住がそのお宅にお連れした。妙清師はその風景をご覧になり、「お祖師さまが一天四海皆帰妙法と仰せになった意味が、この場所に来てよく分かりました」と仰ったという。先住から教えていただいたことは数え切れないほどあるが、それは難しい言葉ではなく、印象深い平易な言葉だった。頭で考えることではなく心で感じることを多く遺してくださった。「考える」ではなく「感じる」場所に誘ってくれるのが先住の教えではなかっただろうか。そこで感じられるか、感じられないか。今考えると、あの場所は、世界へ目を向けるために用意してくださった場所のように思える。そのお宅で、長男は生まれた。2002年のことだった。先住がご遷化になってから2年が経過していた。
 アメリカには多くの友人がいるが、長男が生まれる時にもたくさんの方が協力してくれた。将来、ご弘通の器になれる日が来たら、何らかの役に立つようにとの配慮だった。2002年7月4日、長男は無事に生まれてくれた。先住のご遷化から2年。喪失感から来るさみしさを、長男の誕生がようやく晴らしてくれたように思えた。
 今年、長男はやっと6才になった。いろいろな方からのお勧めもあって、生まれ故郷に滞在して勉強することになった。数ヶ月の滞在となるが、11才で私をブラジルに行かせた両親。あの経験があってこそ、今の自分があると思っている。少々脱線気味の人生だったが、それらもご弘通の役に少しは立っているようにも思うし、「かわいい子には旅をさせよ」という言葉もある。あれこれ考えて、私も息子を海外に行かせる決断をした。
 そして、先日、息子は「子ども一人旅」という航空会社のプランを使って、6才になったばかりだが一人で飛行機に乗って留学した。こちらの方がドキドキして、戸惑って、哀しんで、どちらが親か子どもか分からない状態だったが。社会に不安が蔓延している中、こうした機会に恵まれることは贅沢なことであり、幸福なことだ。何としても実のあるものにしてもらいたい。6才では、まだまだ感じられることも少ないと思うが、先住の胸の内、ご弘通への夢を、幼い胸にも芽生えさせて、帰ってきてくれる日を待ちたい。
 出発前、家族全員でご宝前でお看経をさせていただき、息子にも分かるように、口語体でご宝前に無事に学業が成就し、災難から逃れ、無事帰宅・帰山、ご弘通の器になりますようにと、御願い申し上げた。母などは泣いていたが、本人はケロッとして車に乗り込んだ。
 成田空港のカウンターでチェックインをしている際、「ダディーも飛行機に乗って、いろんな国に行ってご奉公しているでしょ。僕も、大人になったら世界中に行くからね。最初はフランスだから」と言っていた。分かっているのか、分かっていないのか分からないし、なぜフランスなのかも分からないが、そういうことを考えつつ行くのであればいいだろう。
 先日のコレイア御導師とのトークショーの際、泣きながら舞台に上がってきて飛び入り参加したと思ったら、満員の観衆を前に泣きながら、「ダディーは朝から南無妙法蓮華経して頑張っています。僕もダディーのようになりたいです」と言った。これにはコレイア師と笑ってしまった。いきなり主役を奪われたようで、私は「僕が言わせたんじゃないですから」と照れていうしかなかった。まぁ、ご弘通の役に立つ人間になるか、どうなるか分からないが、嬉しかったことは間違いない。
 航空会社の方に迎えに来ていただいて、出発のセキュリティー・ゲートへ。こんなに淋しい別れは、ついぞ経験したことがない。6才の子を、一人で海外に送り出すなんて、間違っていたんじゃないだろうか、と思ってしまった。この期に及んで、それはないだろう。気を取り直して長男を送り出す。「いいか、頑張るんだよ。言うことをよく聞いて。何かあっても怖がらずに待っているんだよ。ダディーがすぐに助けに行ってやるからな」と声を掛けながら涙が浮かんでくる。「うん」と言って、笑顔でゲートに向かった。
 ご案内していただく方の後ろを歩くように言ったのに、長男はもう自分がスタスタと先を歩く。ありゃ何にも聞いていないんじゃないか?大丈夫か?ガラス越しに長男の声が聞こえてくる。「あっちだよ」。おいおい、お前が案内してどうする?お前が連れて行っていただくんだぞ。不安を残しながら、ゲートの奥に消えていった。
 別れを前にして、長男と写真を撮った。実は、動画も撮った。「淋しいけど我慢する。心配しないでね。頑張ってくるからね」とメッセージを残していった。父親の方が不安そうで、実際淋しい。
 しっかりと事故がないように、健康で帰ってきて、御法さまのお役に立つ人間になれるようにと、御願いするばかり。
 夏を前にして、そんなことがあった。なかなか複雑な気持ちだが、かわいい息子に旅をさせることになった。

2008年7月30日水曜日

ひろし君の誓願成就

 毎朝のお参詣については、先にも書かせていただいた。夏期参詣中、連日のお参詣、本当に有難い。

 妙深寺は朝は6時30分から8時までのお看経、御法門は第一座が7時、第二座が8時からあり、ご供養は大広間で平日は9時、休日は10時まで頂戴することができる。ご供養当番は泊まり込みのご奉公で、多くのお参詣者に喜んでいただいている。有難いことだ。

 明日は31日。この日は恒例の教務部による朝のご供養当番である。この日ばかりは教務部が本堂から食堂に下りて厨房でご奉公させていただく。「男子厨房に入らず」の言葉からすると大変外れているのだが、妙深寺でのご供養当番は子どもから大人、男女も関係なくご奉公させていただいているので、このようなご奉公になっている。明日は、教務部のご供養当番をめがけてお参詣いただけると有難い。

 先日、コレイア御導師の御唱導による開導会が晴天の下、盛大に奉修された。その前夜、ひろし君は9ヶ月で36人の教化誓願を成就された。これには本当に脱帽、頭が深く下がった。一週間に一人の方をお教化するという、とてつもない誓願だったのだが、青少年の一座のご奉公がスタートする会合で、ご奉公してくださる若者たちを前にして立てた誓願。その間、3回の百本祈願をされ、海外でのお教化も10人に上り、誓願を成就されたのであった。

 本当に、こんなに凄いご奉公をされるとは、私も思っていなかった。桐生・常薫寺の千局長のお話などお聞きして驚いていたのだが、こうしたご奉公を目の当たりにすると今までの在り方に自然と改良の心が湧いてくる。周りのご信者さんも大いに刺激され、お寺全体のご弘通の気運も高まった。

「み仏に たてし誓ひをやぶらずば いまより法の光りをぞ見る」

 御法さまに菩薩行のお誓いを立てて、ここまで励み、その誓いを破ることなく成就された。既に「法の光」を感じ、見ているからこそ、お教化にも励めるわけだが、これからさらに御法さまの光、輝きを見せていただけるに違いない。

2008年7月29日火曜日

雷鳴の響き

 自然は突如として牙をむき、人間の命さえ奪ってしまう。昨日、神戸市で幼い子どもやご親族の方々が鉄砲水に押し流され、尊い命を落とされてしまった。金沢でも浸水した家々がテレビに映し出され、途方に暮れるご家族の方々に心が痛くなる。
 遠い地方の話ではなく、今日のお昼過ぎ、横浜にも雷鳴が轟いた。恐ろしいほどの稲妻が天空を縦横無尽に走り、子どもたちも耳を覆うほどの重たい爆発音が地響きとともに家の中を揺らした。これほどの雷雨は久しぶりだ。先住のご病気の際、あれは1999年だっただろうか、三ツ沢墓地に次々と落ちる雷を見たことがあるが、ここ最近の全国規模の被害状況は異常としか思えない。
 ジェットスキーでミシシッピ川を源流からメキシコ湾まで縦断したことがある。テレビ番組の撮影のためだったが、その際アメリカの中央付近、セントルイスの近くだったと思うが、恐ろしい雷を見た。まるで蜘蛛の巣のように空全体を稲妻が走っていた。あれは、「落ちる」というよりも、まさに「走る」だった。この世の終わりを感じさせるような雷雨。
 同じように、ブッディスト・トランス・アメリカでL.A.からニューヨークまでアメリカを縦断した際、ダラスの手前で恐ろしい竜巻のような積乱雲を見た。日本で体験したことのないような大粒の雨がフロントガラスに落ちてきたかと思うと、車に平行して、真っ黒で、生き物のようにうごめく雲が走っていた。サイドミラーに映る空はまだ明るいのに、雲の下はまるで暗黒の世界。暗闇に吸い込まれていくように不気味だった。
 先日、新聞に「なぜ、近年日本に大地震が続いているか」という記事があった。専門家が登場し、いろいろなことを述べていたが、結局は「それほど驚くべきことではない」「そういう時期なのだろう」とのこと。なんとも頼りない見解で、笑ってしまった。
 仏教では、私たちが認識している「自」「他」の境界が無いことを教えてくださる。個人個人、人間だけに限らず、人間と動物、植物の境界、人間と自然界など、あらゆるものが「つながっている」ことを教えてくださっている。
 そして、万物の霊長である人間の心が、他のものに与える影響について教えられ、人間の心が曲がれば自然界も曲がっていくという、とても現代の科学では捉えられない壮大な「心」のつながりを説くのである。人間の心がそれほどの影響力をもって自然界が反応しているなど、信じられない人の方が多いと思うが、そうではないと仏教徒である私は思う。
 いま、人間たちの心が、いつにも増して荒廃し、御仏の正しい教えから離れていることから、自然界が警鐘を鳴らし、身もだえしながら悲鳴をあげているとは考えられないだろうか。

2008年7月26日土曜日

フィレンツェの御講

 フィレンツェの御講について書かせてもらわなければ、開導会の話を書くことは出来ない。ほとんど、毎日がギュッと凝縮された内容で、ブログの更新が追いつかないから、記事がたまる一方。これでは申し訳ない。
 毎朝の夏期参詣も、10年前の2倍のお参詣があるのではないかと教務部では話をしていた。ありがたいことだ。連日、平日で300名前後のお参詣がある。これは本当に10年前と比べれば大変なものだ。しかも、その顔ぶれも真新しい。古くから頑張ってお参詣にご奉公に励んでこられた方々と、最近ご信心をはじめられた方々が同席し、老若男女が一つになって、朝のご供養場でもケラケラと笑い声が絶えない。本当に楽しく、有難いことだ。今朝はブラジルから留学し、これから妙深寺所属としてご奉公くださるギリアミ君もお参詣した。明日もお参詣するとのことだから、国際色も豊かで本当に有難いと思う。
 フィレンツェでの御講から、早いもので一ヶ月以上が経ってしまった。本当に、あの素晴らしい御講席は記憶に新しいのに、次から次へと続くご奉公で遠い昔のようにも感じてしまうが…。
 2008年6月、妙深寺イタリア団参に行かせていただいた。福岡御導師、マッシーと麻樹ちゃんとの御縁により、妙深寺にとっては二度目のイタリア団参となった。昨年の9月には名古屋の建国寺に於いてもイタリア団参が行われた。これからは定期的に日本からもお参詣できる機会が増えていくに違いない。しかし、そんな中、このタイミングで草創期のイタリアHBSに於けるご弘通のダイナミズムを感じられる団参は、またとない機会であっただろう。
 前回、私のご奉公は2月だった。その時の様子はブログでも書かせていただいたが、イタリアのメンバーの方々のお宅を巡回してお助行に廻らせていただき、それぞれのふれあいの中でご信心の有難さを実感したご奉公となった。その中でも、印象的な出会いはフィレンツェでお仕事をされている向後さんとの出会いだった。
 向後さんはイタリア・フィレンツェで伝統的な工芸の修行を4年間も続けていた。私たちが最初の団参をしたのが3年前だから、あの時すでに向後さんはフィレンツェに修行に来ていたことになるのだろうか。しかし、その時の向後さんはフィレンツェの親会場にお参詣していなかったし、私も彼女を知らなかった。彼女は、日本からの紹介で香風寺イタリア・フィレンツェ別院の存在を知り、ごく最近になってお寺にお参詣するようになったという。
 ローマの麻樹ちゃんなど親切で温かい人とのつながり、ダニエレ・良誓師をはじめとして素敵なご信者さんたちの輪の中で、日本でのご信心以上に向後さんは素晴らしいご信心をつかもうとしておられた。そのサポートを、イタリアのみんながしてくれていたのだと思う。
 私が彼女に会った2月の御講で、彼女は良誓師から懐中御本尊を拝受し、良誓師の手で懐中御本尊を手に掛けていただいた。素直に感動している向後さんの姿に、私も心が洗われるようだった。その日の御講には、麻樹ちゃんが手作りのお寿司を作ってきてくれていて、向後さんも手作りのパテを作ってきてくれており、これからのイタリアのご弘通の力になってくれる女性だと、とても心強く感じさせていただいた。
 その向後さんもお参詣されており、再会を果たすことが出来た。有難いことに、彼女は既にイタリアのご弘通には欠かせない存在になっていた。良誓師や他のメンバーと一緒にお助行にまわり、日本で学んだ妙講一座の拝読の仕方やお拍子木の打ち方など、分かることを新しいメンバーへ丁寧に教えてくれているという。良誓師が殊のほか感謝しておられた。
 向後さんの、まっすぐな瞳に、本当に胸が熱くなった。遠い国で、一人お仕事に頑張って、しかもご奉公にも頑張ってくれている人がいる。この御講席で、向後さんは日本から来た私たちのために、銀細工にフィレンツェ彫りを施した素敵なペンダントトップをくださった。そこには、一人一人の名前が彫られており、いただいた誰もが感激していた。今でも妙深寺ではイタリア団参に参加した人たちに会うと、胸に向後さんからいただいたペンダントが輝いている。コツコツと、私たちへのプレゼントを作ってくれていたことを思うと、本当に有難い。イタリア教区からのプレゼントであるから、良誓師たちの思いまでここに詰まっている。
 一人が変われば世界が変わる。自分がどれほど御法さまのお役に立つか、お役に立てるか、それは自分が思っている以上に大きなものだ。一人のご奉公が人を変え、教区やお寺を変え、国を変えることもできる。特に、ご弘通ご奉公ではそれが顕著となる。向後さんのご奉公は、本当にイタリアの力になっていくと思う。向後さんに続いて、多くの本門佛立宗の若者たちに、このことを伝えたい。もちろん、活躍の場は海外だけではなく、身近な所属する寺院の中でもできるのだから。大事なのは覚悟、随喜だ。
 今回、実は開導会の境内地で向後さんのご両親とお会いすることができた。ほんのわずかな時間だったのだが、彼女のご奉公ぶりに感謝することができた。有難いことに向後さんのご両親が妙深寺までお参詣してくださっていたのだ。ありがたい。
 イタリアの御講では、福岡御導師のご配慮もあってイタリアのメンバーと妙深寺からのお参詣した日本人のご信者さんが交互に席に着くことにした。そうすれば、それぞれが自分の耳で、聞こえてくる御題目の声を通じて交流することが出来るだろう。そこにある国境を越えたご信心。限られた時間の中で、私たちのいただく普遍的な教えを実感することができるであろうというご配慮だった。実際、本堂内の座席を見渡して、国際色豊かな御講席の様子は圧巻だった。同じく、御講が終わった後、日本からのお参詣者も口々に「私たちよりも無始已来を綺麗にお唱えしていたわ!」「素晴らしい御題目の声に、感激した!」とお話しされていた。事実、これが本当のインターナショナルな御講となった。
 この御講に併せて結婚式が行われた。アントネッラとステファノさんの結婚式。毎回ヴァレーゼというイタリア北部からお参詣に来てくださっている。ロンバルディア州だからミラノのメンバーと一緒にご信心に励んでくださっているのだ。いつも優しい笑顔をたたえたアントネッラさん、ダヴィンチのような雰囲気のステファノさんの結婚は、本当に喜ばしい。息子さんのフランチェスコ君は漢字も読めるし、真面目にご信心もしているし、いつか日本に来てもらいたいと思っている。結婚言上の時のアントネッラが流していた涙は忘れられない。本当に、こんな機会に恵まれたこと、ありがたかった。
 先日、彼からも御礼のメールと写真をいただき、本当に素晴らしい結婚式となったことを喜んでいた。実は、3年前の妙深寺のイタリア団参、フィレンツェの御講でも、エンリーカとミルトの結婚式が行われた。御講席での結婚言上など、本当に有難い。御講が、それほど貴重な機会であり、柔軟な広がりを見せる機会となれることを証明してくださっている。エンリーカとミルトにはフィリッポ・悠樹くんという素晴らしい赤ちゃんも生まれた。本当に、ありがたいことだ。アントニオさんにもかわいい子供も生まれて、イタリアの御講席は若い人からお年寄りまで、年齢層も幅広く、有難い雰囲気に満ちてる。
 いつも感じることだが、私たちはイタリアの御講から、もっと柔軟な御講奉修の在り方を学べると思う。妙深寺では、こうしたことを話し合いながら命である御講が形骸化しないように改良を試みてきた。
 たとえば、御導師が到着する前の「お迎えのお看経」はとても大切なことだが、遠い場所からのお参詣もあるし、みんなと会話をしながら和気藹々と御講のスタートを切る明るい雰囲気も大切だ。奉修御導師を敬うあまり、御導師が入ってくる前も御法門が終わった後も、奥の部屋に下がって会話も全くないようでは、ふれあうことも出来ない。それではご信心の強い方や普段から住職や教務とふれあっている人はいいが、そうでない初心の人にとっては物足りない。もっともっと、会話、対話、ふれあう機会を大切にしたい。
 御講では、この結婚式の言上もあり、お看経終了後には懐中御本尊の拝受式もあり、私も挨拶をさせていただいた。大勢のお参詣で、2月の時よりも雰囲気がよく、温かく、お参詣者も多く、本当に有難くて、感激しながら短いスピーチをさせていただいた。
 続いて瓜生さんから体験談の発表をしていただいた。孫の芽衣ちゃんのお話やお助行について、涙ながらに語ってくださった。麻樹ちゃんがイタリア語に通訳をしてくださり、涙を流して聞く人も多かった。
 そして、福岡御導師から御法門を頂戴した。今回はローマとは異なり、全て英語での御法門。それを良誓師がイタリア語に翻訳しつつ説いてくださった。内容は、スリランカが10周年を迎えるに当たり(スリランカ本門佛立宗10周年記念団参があるので、ぜひ申し込みを)、その最初に訪れた時からの妙不可思議の御利益・体験談を交えて、「御仏」が「目の前に現れてくださる」という大事大切な御法門をお説きいただいた。
「咸く皆恋慕を懐いて、渇仰の心を生ず。衆生既に信伏し、質直にして意柔軟に、一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜まず。時に我及び衆僧、倶に霊鷲山に出ず」
 この御文は、御仏が、まさに私たちの前にお出ましいただけることをお約束くださる法華経の御法門である。そのことを痛感するのが、私たち佛立信徒が上行所伝の御題目をお唱えし、お参詣を重ねていく中でいただく「現証の御利益」である。御仏は、すでに御入滅になり、この娑婆世界にはおられないと思うのが普通だが、私たちは現証の御利益をもって「御仏の存在」を知るのである。その、証明を、あらためて感じる御法門だった。
 フィレンツェでの御講の後、場所を移して日本からの参詣者、イタリアのご信者さんも一緒に夕食のご供養を楽しくいただいた。とてもイタリアンなレストランで、食事の量も全部食べられないほど多く、美味しく、楽しかった。もちろん、その場でアントネッラとステファノの結婚祝いをさせていただいた。彼らには内緒でケーキをオーダーして、サプライズのお祝い。アントネッラが特に喜んでくれていた。ありがたい。
 記念写真は既に掲載させていただいたとおり。ご宝前の前で、入りきらないくらいのメンバーが並んだ。記念すべき一枚となった。
 また、今回の御講の中でも特に嬉しくて、スピーチでもお話しをさせていただいたのがパトリシアのこと。パトリシアが、とても元気そうにお参詣してくれていたのだ。「信心は日々に新たに」という項でも書かせいただいた彼女。2月から、ずっとミルトとサンドラがお助行に通ってくれていたそうで、以前とは比べものにならないくらい明るい顔、雰囲気で驚いた。あぁ、お助行のお陰だなぁと思って、イタリアのみんなの温かいご信心の輪が確実に培われていることにも嬉しくなった。
 あのブログを読んでとても親しみを感じたという望ちゃんは、彼女に手紙を書いていったそうで、この御講席で手渡しすることが出来たそうだ。とても温かい輪、絆が生まれていた。一人じゃない、一人じゃないんだ、というご信心の絆。本当に、有難かった。レポートが遅くなったこと、本当に申し訳なかった。

2008年7月24日木曜日

開導会 第一座 御法門

 この開導会、今日は私の夢の一つが叶いました。 今まで、世界中を飛び回っていたのは、こういう日のためだったのだなぁ、という実感、喜びがあります。

 イタリア系ブラジル人であるマルコス・コレイア・教伯師に、この日本の、妙深寺の開導会をお勤めいただく。これは本門佛立宗に限らず、日本の仏教界全体を考えても、全く画期的なこと、史上初のことです。「あぁ、この日のために、今まで海外でご奉公の勉強をさせていただいてきたのかなぁ」というくらい、感激しています。はるか50年前から海外弘通に注力されてきた妙深寺初代ご住職・日博上人、その日博上人と深い親交を暖められた、100年前にブラジルに渡り、まさにご弘通のお手本を示してくださった日水上人、両先師上人に対して、心から御礼を申し上げたい気持ちです。

 先日、NHKでも放送していましたが、ブラジルの日本人移民は水野龍さんという本門佛立宗のご信者さんがはじめられた。わずか九百名弱の方々の移民が最初でした。今や150万人、世界最大の海外日系人社会の創始者が、本門佛立宗のご信者ということだけでも大変なことです。

 6月18日、笠戸丸がはじめてサントス港に到着した日を記念して、皇太子殿下もブラジルに行かれました。こだけでも大変栄誉なことですが、さらに特筆すべきことは、この第一回移民の中に、一人の本門佛立宗の教務さん、若き22才の僧侶が乗っておられたということ。水野さんが開拓に正しい信仰、仏教が欠かせないと派遣を御願いしたのでした。

 この茨木現樹、後の日水上人が、艱難辛苦を乗り越えて、御題目のご信心をお伝えになった。最高の栄誉は、本門佛立宗が、南米大陸にはじめて仏教を伝えたということです。
 今や、本門佛立宗のお寺はブラジルに11ヶ寺を数えます。その教えは、日系人の日系人のための「仏教」ではなく、日系人という枠を超えて、すでに人種の坩堝といわれるブラジルのあらゆる人々に浸透しつつある。その代表者、先駆者、先導者が、今回の開導会でお迎えするコレイア御導師です。

 私は、常々、多くの日本人が仏教を誤解していると言っています。日本文化の一つということで、生活の外に置いてしまっている。それは灯台もと暗し、宝の持ち腐れだと。

 それは、仏教に携わるお坊さんやお寺も悪い。お坊さんたちが一番「仏教」を分かっていない、ある意味でフォーカスアウトしている、怠けてるとも言える。

 京都には、観光客の外人さんがたくさんお寺を訪れます。庭を見たり、仏像を見たり、それはそれは感動される。しかし、それが「仏教」じゃない。

 仏像を持ち出して世界で展覧会をしても意味がない。仏教を日本文化の一つとして、日本文化を海外に輸出して満足しても意味がない。生きた仏教を日本に逆輸入する。それが私の一つの夢でした。

 コレイア御導師は、イタリア系ブラジル人。100年前に始まったブラジルでのご弘通が生んだ奇跡的な存在です。今年の10月、コレイア御導師は文能昇進といって僧侶として大変な御導師としての資格を認められました。日本人ではない、能化のお坊さんはいません。それはそれはすごいことです。

 京都のお寺などで「外国人の出家・得度式」など放送されることがありますが、あれは「一日出家」のようなもので、観光の一つです。仏教をビジネスにしてしまっているところがほとんどです。
 そんな中で、ここまで、本当に偉い日系人以外の僧侶は仏教界にいない。だから、奇跡です。

 生きた仏教の逆輸入。スリランカやイタリアのご信者さんをお迎えして、それを実現しようとしてきましたが、このコレイア御導師の登場が1つの結論です。28年前、私はコレイア御導師にはじめて出会いました。御導師は13才、私は11才だった。本当に不思議な御縁でした。

 本当の仏教は、日本人のイメージとは違う。法事や葬式や、観光や古くさくて、難しくて、生活とかけ離れたものでも、格好悪いものでもない。海外で、本気でご奉公をし、本当に日本人以外の方々がしている信心の姿から、私たちは学ばないといけない。

 本来、とても身近で、心や身体、家族にとって必要なものであることを実感していただく。今回の開導会が、そうした機会になればと思っています。

御教歌 平成二十年度 開導会 第一座

「いよゝ猶つたなくならん人の世を 漏さずすくふ妙法の五字」

佛立開導日扇聖人お示しの御教歌です。

 誰もが世の平和を願う。人々の幸福を願う。政治家も教育者もそうして努力しているのに、逆に悪化する。これはどういうことか。これこそ、御仏の説かれた末法の姿。

 釈尊が私たちのために妙法をのこしてくださった。その妙法、御題目のご信心をいただき、本当のご信心をさせていただいて、末法の世を生きていきなさい。菩薩行に励みなさい、とお示しの御教歌。

 御教歌を再拝いたします。「いよゝ猶つたなくならん人の世を 漏さずすくふ妙法の五字」

 本門佛立宗とは、南無妙法蓮華経宗です。御題目宗です。佛立宗は、「仏の立てた宗」ですから、「人の立てた宗」ではありません。「佛立宗」ですから、その他は「人の立てた宗」と言えます。「人立宗」には仏さま以外(あるいは、仏さま以上だと思って教えを立てた)の教祖や開祖がおられますが、佛立宗は御仏が創始者であり、開祖。ですから、佛立宗は、同じ仏教でも、他の宗派とは天地水火の違いがある。

 佛立宗は仏の立てた宗。御仏は法華経の中で、ある「法」の存在を明らかにされた。お祖師さまは、その法華経に説かれたとおり上行菩薩としてに末法に御出現になられ、「南無妙法蓮華経」という御題目、「御法」が御仏になることの出来た一大因縁の「法」の正体であることをお示しくだされた。つまり、佛立宗は、突き詰めれば「南無妙法蓮華経宗」です。

 つくづく、このご信心に出会えた人は、本当に幸せです。
 これほど不安定な、これほど迷いの多い世界にあって、ご信心をいただけた。それが、何ものにも代え難い、幸せなことだということ。この実感です。真実です。

 世の中は、圧倒的に「無常」です。私たちの身体は一瞬たりとも止まってはいません。身体の外側は同じように見えますが、細胞は毎日毎日生まれ変わって、めまぐるしく交代し、変わっていきます。永遠にそこにある、ずっと同じものはありません。

 愛する人が出来ても、永遠には一緒にいられない。身体も、若い頃のままではいられない。衰えていく。老いていく。疲れて、壊れてもいきます。

 心や気持ちもそうです。「こうだ!」と思っても、その気持ちはずっと同じではいられない。変わっていく。

 これは、考えれば考えるほど恐ろしいことです。これを、御仏は「無常」と仰った。聞き流して生きていると、最後の最後にあわてふためくことになります。むちゃくちゃな生き方、もったいない生き方をしてしまう。

 ですから、仏さまは「世は皆牢固ならざること、水沫泡焔の如し」と仰った。この世界は、水や泡のように、はかなくもろく、移ろいやすい。そのままいただけば、本当に恐ろしいことです。

 その「無常」の世界、そこに生きる人間に、それを乗り越えて、「永遠」を実現するための教えが仏教。ご信心です。

 衰えていく自分、病気になる自分が、本当に元気に生きていく方法。変わっていく人の心、恋人でも家族でも友人でも、水や泡のような人の心、人間関係を確かなものにするのが信心です。
 必ず一人で死を迎える人間が、永遠の時間と空間、永遠の命を手にするのが信心です。

 こんなに幸せなことはありません。もし、ご信心がなかったら、無常の世の中では結局ネガティブなことの連続で終わってしまう。何も残らない。はい、さよなら。それで終わりです。
 だから、信心をしていない人は、自分をごまかして、他人をごまかして、目を逸らして、目を閉じて、酒をあおって、遊んで、無駄をたくさんたくさん積み上げて、生きるしかない。

 でも、これは「生きる」「生きている」とはいえません。本当に「生きる」ということが出来るのが、そういう自分に生まれ変われるのが「ご信心」です。
 だから、幸せ。私たち、仏教に出会った者、ご信心できている者、御題目をお唱えできるようになった者は、本当に幸せなのです。

 いま、仏教でいえば世界は末法という時代です。この時代は1万年続く。これから1万年も人類や地球がもつか分かりませんが、とにかく仏さまは現代を「末法」という時代だと仰った。
 御仏の教えでは、この時代は、人間の「心」が原因で、すべてがバランスを失っていく。すべて、です。
 まず、「心」に起因して、自分がバランスを失う、自分の身体がバランスを失う。一人の「心」に起因して、家族がバランスを失う。人間関係がバランスを失う。経済がバランスを失う。自然界がバランスを失う。まさに、今は、そうした時代、末法です。

 いろいろな人が「なんで事件が増えるのだろう」「なんで病気が増えるんだろう」「なんで災害が増えるのだろう」と、その原因を探します。ある人は「教育が問題だ」と言い、ある人は「政治家が悪い」と言う。「Co2が原因だ」「石油の埋蔵量が問題だ」「新興国が、先進国が問題だ」などと言いますが、それは上辺の原因であって、根本は「人の心」に問題があります。

 いま、子どもたちの病気、青年たちの病気が増えている。アトピーが増え、ぜんそくはこの10年で倍、幼児虐待はこの6年で2.5倍。

 何度も申し上げるが、この神奈川県だけで考えても、養護学校の在籍児童数は毎年2校分に匹敵する200~300名のペースで増え続けている。小・中学校の特殊学級はさらにハイペースで、その学級の在籍児数は10年前に比べて2倍近く増加している。

 これが、末法の現実。薬も増えたが、病気も増えた。特に、子どもたち、若い人たちの病気が増えている。

 公害、汚染、抗生剤、食べ物、その原因は様々に思うかも知れないが、問題の根本は「人の心」に違いない。

 しかし、これほどの問題が目の前にあるのに、環境問題や地球温暖化と同じように、危機感が湧いてこない。行動に移せる人も少ない。それも末法。

 身体の病気は心の病気に比べてまだマシ。心の病気に罹った人なら分かるが、身体の病気の方がどれだけ楽だろうかと思う。身体の病気なら「希望」が持てるが、心の病気になると、その「希望」がなくなってしまう。

 暗闇。永遠に抜け出せないかのような不安。自殺者が年間3万人以上いる日本。みんな、自分ではどうしようもない苦しみを心に抱えてしまって、不安で不安で仕方ない夜を過ごしている。そこから抜け出すためには、抗うつ剤や睡眠薬を飲むよりも、「心」に直接処方できる薬を打つしかない。それが「ご信心」、南無妙法蓮華経の御題目、南無妙法蓮華経宗の教えだ。

 私たちが抱える末法の問題の、根本に、「心」がある。一人一人の心が原因で、すべてのバランスが崩れてきている。七四九年前、お祖師さまはそのことを指摘された。立正安国論という幕府に献上した有名な書物で。

 心の中に御仏の正しい教え、薬、御題目を入れる。それだけでいい。ご信心を心の柱にする。南無妙法蓮華経を心の真ん中に置く。それだけ。それが出来れば、バランスを取り戻せる。1人から2人へ、2人から3人へ。御題目を唱えるだけでいい。御題目は、末法という恐ろしい世界に届けられた人間世界のワクチンです。だから、そうしてワクチンを1人から2人、2人から3人、5人、10人、100人、1000人、10000人、50000人、100000、1000000、10000000と届けていけば、必ず心の病、心を原因にした問題は解決していく。

 ご信心が本当に心に入った人を見ていただきたい。どれだけ自由になるか。無常の中で永遠を楽しめるか。自分が変われる。変われた。変わったんだ。風景が変わる、身体が変わる、人間関係が変わる。サインをいただいて自由自在、夢のように感謝できて、充実して、有難いと言える。生きていること、生かされていることの、使命に気づく。気づけるようになる。生まれ変われるんです。

 こんなに幸せなことはない。ご信心が、本当の本当にできるようになったら、こわいこわい世の中、どんどん「つたなく」なる世の中でも、安心して生きていける。不安がなくなる。

 だから、本当のご信者さんは幸せです。幸せだと言うのです。

「いよゝ猶つたなくならん人の世を 漏さずすくふ妙法の五字」

 今回の開導会は、夢が叶った。その、素晴らしいご信心の逆輸入です。本家本元の日本人が忘れてしまったことを、海外の方が教えてくれる。「ザ、仏教」です。本当の仏教です。

 今の世の中、希望は仏教しかない。不安定な人生、人間生活。希望はご信心しかない。正しい仏教、真実の仏教、南無妙法蓮華経しかない。

 御題目をいただけたら、誰でも、そのまま、生まれ変われる。それを教えていただける。

 御教歌に、「漏さずすくふ妙法の五字」とある。
 誰も、誰一人、置いていきません。この人は救えて、あの人は救えない、ということがない。「漏らさず」です。だから、この「南無妙法蓮華経」の御題目、このご信心で、漏れる人はいない。救えない人はいない。それは心の処方箋だからです。

 これが「ザ、仏教」です。この人は救える、あの人はダメ、ということじゃない。「救える」ということすら言わない宗教団体、仏教の宗派ばかりです。本門佛立宗、南無妙法蓮華経宗は違う。

 私たち日本人は、大丈夫でしょうか。益々悪くなる世の中に、耐えられるでしょうか。不安です。
御題目を真剣に唱えるということは、仏さまの心と直接交信する、仏さまの心と結びつくということです。それが、出来ているかどうか。
 そういう「ザ、仏教」の心を、分かっているでしょうか。

 豊かさに誤魔化されて生きていると、その大切さが実感できなくなります。自分にとって一番怖い病気でも、西欧医学の発明した薬に頼って、何度も何度も病院に通い、何錠も何錠も薬を飲んで、薬漬けになってそれで良いと思ってしまう。仏さまの心との交信なんて、頭にも浮かばない。お寺と言えば観光寺院、桜を見に行くか、あじさいを見に行くか、程度。そんなものは仏教ではない。

 スリランカの街には仏像が溢れています。いたるところに仏像がある。

 しかし、仏像にブッダの魂があるか。スリランカで法華経本門の教え、佛立信心に目覚めた人は、この問いの答えを見つけた。ブッダの存在、ブッダの魂はどこにおられるか。どこにおられるとブッダご自身が説いておられたか。仏像の中におられるというと、「そうではない」と仏さまご自身が仰っている。いくら綺麗な顔の仏像を刻んでも、床の間に仏画を飾っても、そこに御仏はおられません。御仏の心はない。

 スリランカで本門佛立宗、南無妙法蓮華経宗のご信心をされている方々は、御仏の心がどこにあるか知った。仏像ではなく、南無妙法蓮華経とお唱えする声の中に、御本尊の中に、御仏がいらっしゃることを見た。だから、ご信心しておられる。実際に体感しておられる。街に、仏像が溢れている中で、漢字の御本尊の中に御仏を見ておられる。

 そこで、その中で、南無妙法蓮華経とお唱えする中で、実際に生きた御仏に出会い、生まれ変わった。だから、御利益を次から次へといただく人たちで溢れている。

 心筋梗塞で倒れたスリランカのラーニ・シルバさんも、癌で二度の手術を受けなければならないイタリアのマウロ・ラミさんも、御題目のご信心で大御利益をいただかれている。コレイア御導師も、そうしたたくさんの方々の御利益をブラジルから持ってきてくださっている。

 さて、日本の私たち。遠回りをしていて、ご信心ができなくて、感覚がずれていたら、末法の世の中に翻弄されるだけです。意味がない。生きていながら死んでいることになります。無常そのまま。何にも残らない。ずーっと続く苦しみ、焦り、苛立ち、不安だけが残ります。

 それではダメだ。本当にご信心をしなさい。南無妙法蓮華経宗です。難しいことは何一つない。御題目だけ。その薬を入れたらいい。心に入れたらいい。心の柱に据えたらいい。それだけで、生まれ変われる。

 もちろん、簡単だからこそ難しい面もある。しかし、基本は、「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と真剣に お唱えするだけです。真剣か、そういうワクチンを心にしっかりと入れられるようなお看経が出来ているかが 勝負です。

 御題目がワクチンであることを知った人は、さらに真剣にご信心をし、お教化にも気張ろうと思うでしょう。職業にしているお坊さんは、そのことを感じられなくて苦しんでいる人が多い。中途半端じゃダメです。
 仏教は哲学だとか、難しいことだと言っているのも違う。仏教の真髄はシンプルです。仏教のエッセンシャル、エッセンスにフォーカスしなければならない。それ以外は、同じ仏教と呼称を用いても、フォーカス・アウトしているということになる。仏教とは「南無妙法蓮華経」です。

 この度は開導聖人の祥月ご命日に併せた御会式、開導会ですが、その開導聖人の御指南を拝見しますと、
 「上行所伝の題目宗は人間に持たしめて人間を助くる宗旨なり」
 「日本国の柱 題目宗の事」
 「今日本国に清風なかりせば上行所伝の題目宗は日々月々年々に、かくれ給ふべし。今日本国に佛立講なくば、みな習い損じの余門流と同じくなるべし。御開山御滅後四百三十余年の、今の門流のすがた、実に口惜し。信者なく、当家の学者なし。乃至。あぁ、なげかはし、なげかはし」

 心の中では、ウイルスが繁殖しやすい。社会にも、インフルエンザのように爆発的に広がってしまう。いま本当にワクチンが必要です。

 心の中に御仏の正しい教え、薬、御題目を入れる。それだけでいい。ご信心を心の柱にする。南無妙法蓮華経を心の真ん中に置く。そうすれば、バランスを取り戻せます。一人から二人へ、二人から三人へ。末法の時代、人間世界のワクチンを、自分はもちろん、一人でも多くの人にお渡しすることが大事。必ず心の病、心を原因にした問題は解決します。

 ワクチンの服用法は、御題目を口に唱えること。お寺、御講席、ご宝前に足を運び、唱える。朝夕、忘れずにお唱えする。
 時々、たまに、ではダメ。コンスタントに、欠かすことなく、心の柱になるように、唱える。

 一層、本気のご信心に、菩薩行に気張りましょう。生まれ変わることが大事です。
 さあ、心にワクチンをいただくような、そう体感できるようなお看経をさせていただきましょう。

 故に御教歌に、「いよゝ猶つたなくならん人の世を 漏さずすくふ妙法の五字」

2008年7月23日水曜日

ペレとの写真

 今年の3月、L.A.でのご奉公からシカゴ、そしてブラジルへと渡り、ご奉公させていただいた。ブラジルでは100周年のご奉公があり、帰りにパリに寄って帰国した。
 ブラジルでのご奉公については、このブログでも書かせていただいてきたが、実は私たちと現薫師がブラジルに到着した日、空港にはブラジルの御導師や御講師が迎えに出てくださっていた。
 久しぶりの再会を喜び合っていたところ、高崎御導師が興奮気味に話をしてくれた。「いや~、迎えに来させてもらって良いことがあったぁ。偶然ペレと会って、写真を撮ることが出来たよ!」と。「え~!」と驚き。なんとなんと、あのサッカーの神様と言われているペレと会えたなんて。「どこ?どこ?」と聞いてしまった。もちろん、もうとっくに彼はいなくなっていたのだが。
 ブラジルはサッカーが盛んで、お寺にも体育館やグランドが併設されており、子どもたちはお寺の集会でもサッカーを楽しんでいる。教務会ですら、会議が終わったら教務部でサッカー大会をするくらいだ。
 そのサッカー大国のヒーロー、ペレに出会えたなんて、100周年のご奉公は素晴らしいスタートを切れたのだなぁ。ほんと、ありがたい。
 今日、京都にはブラジルから高崎御導師も来られていて、その時の写真をいただいたので、ここに掲載させてもらおう。ありがたい、でしょ?

2008年7月22日火曜日

The Super Lotus

 晴天の下、平成20年度の妙深寺開導会が奉修された。奉修御導師は、遙かブラジルより御唱導の栄を賜ることとなったコレイア・教伯御導師である。
 傘のマークが付いていたが、天気予報は日を追う毎に変わり、当日は関東地方にも梅雨明け宣言が出された。土曜日は10時から第一座の奉修をさせていただき、夜は18時よりBose's Bar Special "The Super Lotus"と題して近隣の方にもお声を掛けて、結縁のための場を設けさせていただいた。
 久しぶりに「エア・ストリーム」というキャンピングカーが境内地に牽引されてきて、エア・ストリームの入り口にカウンターを作って簡易の屋台のようにお食事や飲み物を提供した。もともとエア・ストリームは移動式の御講席をさせていただくために御有志をいただいたもので、その室内は広く、キッチンや冷蔵庫、シャワーまで整備されている。20名くらいのお参詣者であれば御講が出来るのである。
 とにかく、このエア・ストリームと簡易のステージ、テーブルやイスを境内地に配置し、近隣の方へも朝日新聞や読売新聞に折り込みチラシを載せさせていただいて参加を呼びかけた。なんといっても、仏教界の奇跡ともいえるコレイア御導師が横浜に来ていただけるのである。日本人でも日系人でもない「御導師」が何を語るか。佛立宗のご信心をしていない人でも興味があるはずである。
 18時過ぎ、まだ明るい境内地だったが、ほぼ満席の状態で、大変に有難かった。ご信心との縁を結ぶための催しであるから、寺内のご信者さんには逆にご信者でない人を連れてこなければ参加できないというルールを設置。実は、そういうことなので参加人数が少ないのではないかと心配していたのだが、まだ明るい時間から境内地は人で埋まっていった。
 コレイア御導師の登場に場内は拍手喝采。プログラムは20時からのトークショーということで、それまでは各テーブルに座っておられる方々全員にコレイア御導師と私が二手に分かれて親しくご挨拶をさせていただくようにした。ほぼ一巡してステージに上がり、二人でのトークショー。「ショー」と呼べるかどうかは分からないが、次の日も二座・三座とお会式奉修があるのにもかかわらず、コレイア御導師にはパワー全開でご奉公いただいた。
 トークショーの舞台の後ろにはブラジルに関する情報をパネル化してくださっており、簡易ステージを華やかにしてくれていた。コレイア御導師は、なぜ僧侶になろうと思ったのかなど、プロフィールについての質問や、3月に私がブラジルに行った際に感じたことなどを、明るく楽しくお話ししていただいた。
 一般的な日本人の仏教に対するイメージを払拭していただきたいという願いが私の念頭とするところだった。それは、今までも書き続け、訴え続けてきたことだが、多くの人が「仏教」を線香臭いものだと感じていたり、「お寺に行くのは法事だけ」という概念の中で葬式仏教や観光化したお寺のイメージから抜け出せない。そして、ついぞ聞いたことの無いような新興宗教に走ってしまう。あるいは占いや霊媒、個人の欲をくすぐるような自己中心的な信仰(?)に走ってしまう。

 それを憂えて、世界中で注目を集める仏教、中でも本門佛立宗の教えについて知っていただき、「教え」を理論や理屈で知るのではなく、海外で実際に活躍している方々のお話を中心に語りながら、固定化したイメージを払拭していただきたいと願ってきたのだった。そして、その一つの終着点が日本人、日系人以外の「御導師」であるコレイア教伯御導師の登場であった。コレイア御導師とお会いし、そのお話をお聞きして、自分の中にある「仏教」「佛立信心」にある誤ったイメージを払拭していただきたいと思っていた。
 6月、皇太子殿下の前でブラジルの日系人の様々な仏教団体がご挨拶をさせていただいた時のエピソード。他の仏教団体の僧侶たちは、ほとんど「日本人(このために日本から来てご挨拶したお坊さんもいたらしいが)」のお坊さんたちだったが、本門佛立宗だけ非常に「カラフル(コレイア御導師云く)」だったという。日系人がいて、白人がいて、白人と黒人のハーフの教務さんがいて、黒人の教務さんまでいる。まさに、真実の仏教には国境も人種の別もないことを証明してくれている、と。これは、同じ日本の仏教団体でも実現できないことだ、と。
 ここで、すべてを書き表すことは出来ないが、みなさんに心から喜んでいただいた会合となった。そして、新聞の折り込みチラシを見て来てくださった方々の中には、そのまま日曜日の開導会にもお参詣させていただきたいと申し出てくださる人たちも現れて、それが当初の目的の一つを達成できたとご奉公者一同を喜ばせてくださった。
 今回、特筆すべきはご奉公者の一致団結したご奉公だった。こうした異例のご奉公、大々的なご奉公でも、みんなが一致団結して、暑い中を準備に走り回り、頑張ってくれていた。本当に、本当に、こうしたご奉公者を持てた妙深寺は幸せだと思う。ありがたい。

2008年7月17日木曜日

開導聖人の祥月ご命日

 今日はお母さんと共に貴子ちゃんのお席で御講席。わずか9ヶ月前にも御講を立てられていたのだが、その間に結婚式などがあり久しぶりに訪問させていただいたように感じた。
 相変わらず景色の良い部屋。御本尊を拝見していると後ろの窓から見下ろせる水面がキラキラとガラスに映って輝いていた。格別のお天気で気持ちが良い。お席主はご家族一同でお参詣、ご奉公くださっており、有難かった。
 特に有難いのは、帰りの車の中で届いた彼女からのメールだった。彼女は何度かブログにも書いたが、グランデ・ファミリアで開導聖人伝の脚本を書いていただいた。あの時から、彼女は本当にご信心、ご奉公をくださるようになった。彼女が書いたのは、開導聖人が明治23年7月17日の早暁、麩屋町の法宅をお出ましになる前後の数日間。開導聖人の御遷化直前の物語だった。ご信心に偶然はないから必然だと思うが、誰がはかった訳でもなく佛立開導日扇聖人の祥月ご命日の、ちょうどその日に、彼女のお宅をお席とした御講席が奉修されるとは。ものすごい御縁。ありがたい。
 長松寺での祥月ご命日の予修御総講を勤めて帰ってきたばかりだったので、本当にそれはそれは驚いた。開導聖人は、あの前夜、遅くまでご奉公して麩屋町に帰ってこられた現喜師(後の佛立第二世日聞上人)と弁了師(後の佛立第三世日随上人)を迎えられた。お二人とも御師匠のお身体をご心配になり、お側近くでお給仕されようと駆けつけられたのであった。翌日は朝早くから大阪へ下るご奉公に随行されることにもなっておられた。開導聖人は、そんなお二人に奥の部屋で食事をとるように優しいお言葉をかけられ、品尾さまがお二人のお食事のお給仕をされたと記録にある。
 お具合がさぞ悪かろうと思っておられたお二人だったが、開導聖人は翌朝一番に起きられてお休みだったお二人の御弟子方を「はよ起きや」と起こされたとも記録にある。法宅前の麩屋町通りには、「もう大尊師(開導聖人)を見られるのは最後になるやもしれぬ」と今生のお別れを惜しむご信者方が集まり、まだ夜も明けきらぬというのに大勢が玄関前に集まってきておられた。開導聖人は、そうした篤信のご信者方に見送られ、一行は数台の人力車に乗り分けて麩屋町通りを下り、伏見の舟場に向かわれたのであった。
 そして、御仏やお祖師さまと同様、ご奉公の旅の途中、開導聖人は淀川沿いの守口にてご遷化あそばされたのだった。
 その御遷化直前に開導聖人が遺された教え、お伝えになりたかった御姿を、演劇化したものが佛立開講150年の奉讃記念ご奉公として神奈川布教区で行った「グランデ・ファミリア」の「開導聖人伝」だった。その脚本をお寺に泊まり込みながら作ってくれたのが貴子ちゃん。誰にでも出来るご奉公ではないから、本当に有難かった。ドサッと御指南書や「御遷化略記」などの書物を渡して、読解していただくところからはじめた。そういうご奉公があってこそ、この開導聖人の祥月ご命日に御講がピタッと重なったのだろう。
 今月の教区御講は「驚す 甲斐こそ無けれ村雀 耳なれぬれば鳴子にぞのる」との御教歌をいただいて、緊張感を持ったご信心をさせていただかなければならぬこと、お互いにお折伏を心掛けて、衰えていく信心前を立て直さなければならぬとの御意をいただいた。「云えば慣れる。云わねば忘れる」との御指南は、凡夫の性をご指摘くださっていて、何とも有難い。何度も重ねていえば「またその話か」と慣れてしまう。慣れるのが情けないと思って、数日、あるいは数ヶ月様子をみようなどと間違っている姿や怠っている姿を見ても言わないでいると「あれ、久しぶり」などと開き直ってしまう。忘れてしまう。そんな凡夫の性をお示しだ。この御意をいただいて、緊張感のあるご信心をしなければもったいない。
 また、今月7月16日はお祖師さまが立正安国論を上奏されてから749年目。来年には750年という記念の時を迎える。この立正安国論とは、お祖師さまが末法の世に住む天下万民に対してお折伏くださった御書といえる。日を追う毎に末法は深まっていく。人間の「心」に起因して、人間社会はもちろん、一人一人の心も身体もバランスを失い、自然界もバランスを失っていく。だからこそ、まずは「人」として正しい「仏法」を信仰せねばならぬ、心を正さなければならぬ、と。
 人間、人間界、人間圏が自然界や他の生物たちの均衡やバランスを失わせていることは明らかだ。人間の生存に起因して、世界は悪い影響を受けてしまっている。昨今、環境問題や温暖化が取り上げられているが、なかなか具体的な取り組みに進めないのも人間。それではダメだ、と声を荒げても、「云えば慣れる」「云わねば忘れる」という程度で、その取り組みは遅々として進まない。お祖師さまが749年前に諭された正法への回帰と環境問題は同じではなかろうか。
 今月の教区御講では、このような御法門を拝見させていただいたのだが、貴子ちゃんの姪にあたるほのかちゃんも、おとなしくお参詣してくれていた。かわいい。一緒にご供養をいただいて、大満足。うれしかった。貴子ちゃんと三人で一緒に写真を撮らせていただいてお席を後にした。
 帰りの車の中で、お席主の貴子ちゃんからメールをいただいた。それは嬉しい内容だった。
 「本日は遠いところありがとうございました。日扇聖人の祥月御命日に、御講をさせて頂けること、御住職にお会い出来たこと、改めて気づかされることと気を引き締めることを、しっかり受け止めたいと思いました。
 わたしは、グランデから、脚本で進めていないから、とにかく脚本家になることを成し遂げたい。でなければ、わたしのグランデはいつまでも本当~に意味のあるものにならない気がする。だってあそこで立ち止まってしまっている自分がいるから。だから日扇聖人に命かけて、頑張ります。
 それにはまず、御宝前にしっかり向かうことですよね。いままでのわたしは、何かあるとすぐにふさぎこんだり、逆に腹を立てたり…でもそんなエネルギーが、例え負のエネルギーだとしても湧いてくるなら、御宝前に向かったり、脚本に活かしたり、いくらでもプラスに出来るんだって、ようやく気づいた…遅いけど。結婚してから本当につらいこともあって、今までにない苦しさを初めて経験して、毎日うなされるような日々だったけど、本当にもうそんなの終わりにして自分のプラスにしなきゃなって、強く思う。だから頑張る[力こぶ]」
 まだまだ彼女からのメールには紹介したい文章があるのだが、ちょっと添削して本人の許可を得て一部だけ載せさせていただいた。こうして感得してくれる御講、ありがたい。
 明日から準備ご奉公。それこそ妙深寺全員で開導聖人の祥月ご命日に併せた大法要を行う「開導会」の準備ご奉公がスタートする。夕方にはコレイア御導師も横浜に到着してくださる。ありがたい。万難を排してお参詣、ご奉公していただきたいと思う。実は、今回は土曜日の夕方に行うトークライブのみ、近隣の新聞に折り込みチラシを入れさせていただき、参加を呼びかけさせていただいた。楽しみな結縁の企画。土曜日は10時から第一座、日曜日9時30分から第二座、11時から第三座。これはご信者さまのみ。
 とにかく、開導聖人にお喜びいただけるようなご奉公をさせていただきたい。

2008年7月15日火曜日

パリからのお参詣

 祇園祭の京都は、暑くて暑くて、大変だ。天候も不順で、熱帯雨林のようにスコールもある。
 15日の夜、開導聖人の祥月ご命日の予修、長松寺の御総講を勤めさせていただいた。そこに、4月にパリでお助行をさせていただいた美穂さんご家族がお参詣してくださった。ありがたい!
 ご主人のブルーノさん、長女のみゆきさん、長男のエンゾ君も、2時間に及ぶ御総講を席も立たずにお参詣してくださっていた。日本語は分からないので、御法門などは後でお母さんから聞いてね!とお願いしたが、御法門までジーッと聴聞してくださっていた。有難いことだ。
 横浜から柴山局長も駆けつけて、彼らの案内などをしてくださっていた。暑い暑い京都だが、パリからのお客さまの爽やかな笑顔で心が清々しくなった。開導聖人が最もお喜びになられていると口々に話をしていた。昨年から今年にかけて、長松寺の御宝前にイタリア、スリランカ、ブラジル、韓国、台湾、フランスの方々にお参詣していただいて、上行所伝の御題目が世界に広がっていることをお喜びくださっているに違いない。何とも有難い祥月ご命日の御総講となった。

2008年7月11日金曜日

時間がないなぁ

 フィレンツェの御講について、書きたいのですが、ちょっと時間がない。

 今日も二席の御講席。有難い。明日は、評議委員会議と御講と布教区参与会。ありがたい。

2008年7月10日木曜日

きゅうり

 今日は横浜・妙深寺の御講。有難い話がたくさん。北海道から田中御導師が送ってくださったきゅうりと温かいお手紙に涙。頑張る気力が湧いてきます。

 ありがたい。

2008年7月8日火曜日

本当の、ブラジル移民100周年

 コレイア師からメールが届き、また有難く、感激させていただいた。今日はブラジルとのウェブ会議で、斉藤御導師や高崎御導師、コレイア御導師のお顔を見ることが出来た。みなさん、元気そうで何より。有難い。
 先日来、ブラジルへの日系移民100周年を祝うニュースが各メディアに取り上げられた。皇太子殿下も日本からブラジルに渡られ、 各地でセレモニーにご出席された。実は、今日のウェブ会議で教えていただいたのだが、ブラジル本門佛立宗の教務さんたち約20名は式典の中で皇太子殿下の前に進み出て、一人一人紹介を受けたという。有難い。彼らも感極まっていた。
 2008年6月18日、笠戸丸はサントス港に到着した。それは、今や150万人にまでなった日系移民が最初にブラジルの地を踏んだ記念すべき日だった。その創始者は水野龍(これまで資料に基づいて「竜(りょう)」と書いてきたが、これを改める)、本門佛立宗清雄寺のご信者であった。何度も書いてきたが、その水野氏は「開拓事業に正しい信仰は欠かせないはず」との思いから佛立第4世講有・日教上人に本門佛立宗の僧侶一名の派遣を依頼。日教上人は沈思された後、22才の若き青年僧・茨木現樹(後の日水上人)師を選ばれ、笠戸丸に乗船させた。
 先日来、NHKの人気番組「その時、歴史が動いた」でも水野氏が取り上げられ、ブラジル移民とそのルーツ、経緯について詳しく放映された。これを見た方々からの感銘の声が後を絶たない。理想を掲げ、多くの困難を乗り越えてブラジルへの移民は開始された。そして、ようやく100年前の6月18日に、彼らはブラジルへ足を踏み入れたのである。
 今から100年前、上人らを乗せた笠戸丸はブラジル・サントス港に入港し、ブラジルは彼らを迎え入れたのである。それから100年。遙かな日々ではあるが、確実に日系移民はブラジル社会にとけ込み、今やブラジルという国家で欠くべからざる存在になっている。そのスタート、原点が、そのサントス港にあった。
 私がコレイア御導師からいただいたメールに感激したのは、その明け方のサントス港に、1000キロをバイクで飛ばして、日水上人をお迎えに行ったというのである。ちょうど100年目のサントス港に人影はなかった。日系移民100年を祝う行事は溢れているが、サントス港に、「その時」を祝う人たちはいなかった。
 上にアップした写真は、その時コレイア御導師が撮ったサントス港の写真である。日水上人はコレイア御導師に出迎えられて声を掛けられたに違いない。有難いことだ。その、コレイア師の「思い」に胸を打たれる。ご自身は「日系」ではない。しかし、「仏教」を、「ご信心」を伝えた日水上人、南米に御題目が渡った「その時」に敬意を払い、お迎えにあがろう、立ち会おう、ご奉公させていただこうという「思い」に感激する。
 次の時代を担う方々がいる。もちろん、斉藤御導師や高崎御導師、そしてコレイア御導師をはじめ、20名のブラジル人教務さんたち、そしてご信者の方々、菩薩方、、、。今後も、積極的にご奉公に気張っていただきたい。右の写真は雑誌に取り上げられているコレイア御導師。新たに荘厳されたクリチーバの如蓮寺の御宝前での一枚である。ありがたい。

2008年7月4日金曜日

『妙深寺報』 7月号

 妙深寺報の7月号は、13日よりはじまる夏期参詣、19日と20日の両日にわたって奉修される開導会の特集となった。
 妙深寺の夏期参詣は7月13日~8月13日までの32日間開催される。例年お参詣数は伸び、毎年「今年の夏期参詣は熱い!」という言葉が寺報に踊ってきた。さて、今年はどうなるか。遠方からのお参詣者も多いのだが、どこに住んでおられようと、この期間だけは「何としてもお寺にお参詣するぞ」と信心錬磨の気持ちを奮い立たせる。
 朝は6時から夜は22時まで開いているのが妙深寺。この時間内であれば誰でもお参詣できる。観光寺院のように拝観料もいらない。暇つぶしでは困るが、お看経をさせていただきたいのであれば朝の6時から22時までいていただいても構わないのだから、有難いではないか。始発電車に乗って出勤前に三ツ沢のお寺までお参詣する方もいれば、暑い一日を仕事や学校で過ごした後、また頑張って頑張って後参詣(夕方以降のお参詣)に精を出される方もいる。いずれにしても、夏期参詣がはじまる。今年も、自分自身はもちろん、家族も、あるいは友人までも声を掛けて、夏期参詣に挑戦していただきたい。
 夏期参詣は、一日では分からない。せめて一週間連続してお参詣しなければ、その醍醐味というか、妙味は分からないだろう。夏期参詣中は朝のご供養が出る。懈怠している人に、「朝のご供養(朝ご飯)が出るし、美味しいから行きましょう」と誘ったりしても、それだけで終わってしまったら果報を減らさせているだけになってしまう。俗に言う「ご供養泥棒」にしないためにも、せめて一週間連続のお参詣を勧めて、動機や誘い方はいろいろあるとしても、「あぁ、なるほど、こういうことか」「朝参詣とは、このように気持ちの良いものか」と感じさせていただきたい。
 さて、妙深寺の、この夏の開導会は、『仏教史上初の開導会』ではないかと燃えに燃えている。というのは、日本の仏教団体は「葬式仏教」や「既成仏教」と皮肉を込めて呼ばれるように、形骸化していて本門佛立宗のような活動とは大きくことなっている。日本国内で完結したり、地域限定だったりする。最も多いのが自分のお寺で精一杯というスタイル。今は「単立法人」といって、どの宗派にも属さないお寺単体の宗教法人が多いらしい。なんか変。結構、恐ろしいビジネスのようなことをしているお寺がある。先日もそんなご相談を受けていたのだが。
 話が横道に逸れたが、日本有数の仏教諸宗でも、国外へ教えを伝えるという点で努力しているところは少ない。ニュースで「外国人の得度式」などと放送されたりするが、それは「一日出家」「一日得度」というもので観光や体験入学、「一日署長さん」などと変わらないレベル。外国人を受け入れても、海外への布教といっても、「日本文化の輸出の一つ」程度に止まっているのが実情だ。新興宗教の中には力を入れて海外布教をしている所もあるが、先ほども述べたように中途半端な状態で止まっているところが多いように思う。
 今回の妙深寺の開導会は、奉修御導師にブラジルからコレイア・教伯ご住職をお迎えする。コレイア御導師は、イタリア系ブラジル人で、ポルトガル語、日本語、最近は中国語やサンスクリット語まで勉強されており、開導聖人の御真筆(草書であるから読解が非常に困難)まで判読できるようになられているから、日本の本門佛立宗のお教務さんでも負けてしまう。日系人ではない海外の教務(お坊さん)が日本のお寺の「奉修御導師」をすることは、本当に宗内でも稀なこと。記録に残っていないから、史上初ということになる。
 しかも、そこで説かれる御法門のテーマは、「そのまま救う」と題して、法華経の実践、カトリックや全世界の宗教、仏教の中でも葬式仏教などとは違う本物の仏教がどれだけ有難いかを、分かりやすく説いてくださるのですから、妙深寺のご信者は本当に幸せです。仏教界広しといえども、100%日本人ではない「導師」が育成できていることが、どれだけすごいことか。ダライ・ラマ氏よりもコレイア御導師の存在の方が貴重だと思う。若い時、ムチャクチャしてたというところも、私は個人的に共感する(笑)。
 まさに、仏教界の奇跡のような存在がコレイア御導師。何としても、全ご信者にお参詣をいただけるように「将引」していただきたい。知人、友人に伝えれば、必ず「本門佛立宗とは、本当に既成仏教とも新興宗教とも違うのですね」「あなたのお寺は本当に違う」と言われるはず。戒名料や墓地販売でのトラブルなど、耳目を覆いたくなるような話が尽きない仏教界。理不尽なお寺との問題で悩んでいる人も多いのですから、眼からウロコのお話だと思う。即刻、本門佛立宗のお寺を訪ねていただきたいと思うし、妙深寺の門を叩いていただいたいと思うばかり。
 さて、19日の夜には、「BOSE PAR SPECIAL 2008 Super Lotus」と題して、下種結縁のためのトークライブを行う。どのようなことになるか分からないのだが、奉修企画部が案を練っている。しかし、これには参加条件があって、ご信者さんならば一人で参加してはいけない。必ず友人などをお連れしなければならないということなのである。いろいろと考えるもの。すごい。コレイア御導師の来日、来寺が楽しみである。

2008年7月2日水曜日

本心を取り戻す (妙深寺報 巻頭言)

 「本心と申すは法華経を信ずる心なり」と、お祖師さまは御妙判をお残しくださっている。
 一般的に「本心」とは「本音」と混同され、普段は口に出せない、内側に秘めた思い、という意味で使われている。
 しかし、仏教では、個人個人の思いや好き嫌いを表す言葉でなく、普遍的な真実に最も近い心を指すのだと説かれている。宇宙と心は実は一体不二であるから、「本心」こそ最も自然な状態で、尊い真理に近い心であるはずだ、と。
 世間では「自分に正直でいたい」「自分に素直でいたい」等ということを言うが、未熟で、欲の深いまま「自分」に「正直」「素直」でいられたら大変なことになる。
「俺はアイツが嫌いだから刺した。自分の気持ちに素直になったよ」
「あの人にイヤなことを言われた。俺もイヤだから、もう行かない。自分の気持ちに素直に生きる」
 そんなことを言い出して実際の行動に移していたら、人間関係も社会もうまくいくはずがない。
 仏教では、感情で生きることの危険性を教えている。なぜなら、私たちの「感情」は、最も三毒の影響を受けてしまうからだ。三毒という貪欲(貪り)、瞋恚(怒り)、愚癡(無知)が終始感情を毒して、人生の浮沈を決定してしまう。
 愛すること、喜ぶこと、哀しみ、憂いなど、私たちの感情は人生を豊かにする意味でも欠かせない。しかし、一方でその感情が、怒り、憎しみ、妬みという強烈な苦悩ももたらす。三毒の影響を受ければ、一層コントロールは効かなくなり、暴走をはじめてしまう。
 昨今、世を騒がしている事件の本質は、人々が本心を失っていることに起因しているに違いない。秋葉原の無差別殺傷事件、大阪駅では女通り魔事件、土浦で起きた無差別殺傷事件も記憶に新しい。 ハンマーで四才の孫を撲殺する祖父もいる。老若男女を問わずに襲っている狂気の連鎖の本質とは何なのか。
 発展を続ける科学文明社会は、人の生活を豊かに、便利に変えた。不十分で腐敗を問い糾されているとはいえ、社会保障制度もある。パソコンに携帯電話。人間の生活も劇的に変わった。
 ほんの十五年前まで携帯電話を高校生が持ち歩く世の中など想像もつかなかった。ポケベルですら画期的だった。特殊なお金持ちが持つお弁当箱のような高価なもの、それが携帯電話だったが、今では小学生で持っている子すらいる。
 1983年、任天堂からファミコンが発売された。ゲームボーイやパソコンも家庭の中に浸透して、大人から子どもまで生活や遊びは一変したといっても過言ではない。教育史の中でも重要視されているほどの出来事と刻まれている。
 技術革新が問題ではなく、人間の心の成長にとって、携帯電話やパソコン、ゲームが演じた役割を見つめ直すことが必要だ。新しい技術やツールによって、人間同士のコミュニケーションは増えた。しかし、その機会が広くなることによって浅くなり、簡単になったことで弱くなったことも否めない。
 掲示板への書き込みやメール等、自分の思いを気軽に表現し、話し相手を探せる社会。孤独を埋めるためのコミュニケーション手段や機会が増え、それが簡単になればなるほど、現実社会とのギャップで受ける苦しみが増大するのではないかと心配になる。
 近年の技術の進歩で、便利さは増した。しかし、現実社会は一層複雑になり、生きる難しさは増す一方ではないか。2000年以降、グローバリズムが世界を席巻して、安定した就職先を見つけることも困難な現実。「勝ち組」「負け組」と焦燥感を募らせる社会。それは、ゲームやパソコンの世界とは全く異なる世界で、圧倒的な「現実」が彼らを困惑、苦悩させるはずだ。
 戦争シュミレーションゲームが発展したロールプレイングゲーム。対戦型の格闘ゲームなど、どれも魅力的で大いに楽しめる。しかし、没頭し過ぎれば人格に影響が出る。
 「脳内汚染」の著者で精神科医の岡田氏によると、「保護者を対象にした調査では、ゲームを長時間やっている子供は、あまりしない子供に比べて『イライラしやすく、カッとなると暴言や暴力になってしまう』、『あまり自己反省をしない』と答えた人が3~5倍に上っている」等と述べている。過激なゲームを続けることにより「後悔しない脳」になる可能性があるという。
 ゲームを楽しむこと自体が悪いのではない。それが「心」「精神」「脳」に与える影響が懸念されているのである。
 対戦相手の顔も見えない二次元の世界に没頭している青年たちを見ていると、今後彼らが現実社会、本当の世界とのギャップをどうやって埋めていけるか、埋めることができるか、かわいそうになる。 彼らは、テレビゲームやコンピューターの画面では味わったこともない屈辱感、無力感、術の無さ、挫折を味わうことになるだろう。また、味わわなければ人間として成長は出来ない。それは、きっと普通以上に苦しく辛いに違いない。
 ゲームならリセットもできる。イライラしたら画面を消せばいい。「一時停止」で、ごはんでも食べ、気分を変えて再スタートもできる。
 しかし、現実社会は甘くない。帰りたくても帰れない。言いたくても言えない。簡単にリセットはできない。気分転換も再スタートも容易ではない。 頭でっかちで、内向的で、現実と虚構の間が乖離して育ってきた多くの青年たちがいる。バランスを失った彼らがどこに向かうのか、上手にサポートする以外にない。
 子どもだけに許された特権が、自分の感情に素直でいることだ。子供たちは無邪気に「好き」「嫌い」「欲しい」「いらない」と言う。それを同じように大人がしていたら 不自然で、社会が成り立たない。 御仏から見れば、あらゆる人が子どもに見える。本心を失って、ダダをこねている子どもに見える。勝手なことを言い、親を困らせる。
 だから、本心を取り戻すのだ、と諭される。人間としての本心は「法華経を信ずる心」。迷っているのは、「本心」の上に積もった部分、被さってしまったアクセサリー、付属品、オプションが本体よりも前に出てしまっているからなのだ。
 社会がどんなに悪くなっても、希望とは世界の状態ではなく心の状態。人間にとって「信じる心」こそ希望であり、人類にとっては仏教こそが希望。老若男女一同で信心をせよ、本心を取り戻せ。

映画『インターステラー』10周年

今日横浜は最終日、映画『インターステラー』の10周年記念IMAX。12月某日、大好きなこの作品を一人で観に行ってきました。 映画『インターステラー』は現代のオペラ。まずハンス・ジマーの音楽が素晴らしい。そして、何といってもこの映画はノーベル物理学賞を受賞したキップ・ステファン・ソ...