2009年4月30日木曜日

タミフルとギリアド・サイエンシズ社か…

 世界保健機関(WHO)は、メキシコで159人が死亡し、米国でもメキシコ人の幼児が死亡したほか、ドイツ、オーストラリアなど9ヶ国で感染者が出ていることを受けて、29日、豚インフルエンザ(H1N1型)の世界的大流行(パンデミック)のリスクが差し迫っていると、警戒水準を「フェーズ5」に引き上げた。「フェーズ5」とは「パンデミック」を意味する「フェーズ6」の1つ手前である。
 今回、世界的大流行の恐ろしさは続くが、豚インフルエンザ(H1N1型)は「弱毒」ということで、鳥インフルエンザ(H5N1型)と比べれば遙かに危険度は低い。パニックを起こさぬよう、正確な情報と正しい予防行動によって「強毒性」の鳥インフルエンザ(H5N1型)の爆発的流行に対する予行演習となるだろうか。金融危機に引き続いて、世界は大きな試練を迎えている。
 ゴールデンウィークを目前に控えている中(既に休暇に入っている人も多いようだが)、旅行者は戸惑うばかりだろう。かのスペイン風邪の時は、これほどまでに人や物資が世界を飛び回り、行き交うことはなかった。時代はグローバルに発展を遂げている。人類の驚異である新型インフルエンザが世界中をあっという間に席捲するシステムは出来上がってしまっている。
 情報が曖昧なまま広がっていくと、復調を見せ始めた経済も大打撃を受けかねない。既にメキシコ政府は、豚インフルエンザの感染拡大を防止するため、5月1~5日までの間、食品、医療、輸送、金融サービスなどを除く経済活動を停止するよう求めている。各国の大手企業が工場などを閉鎖してゆけば、それこそ大きな経済的な損失は回避できなくなる。人命か経済か。いずれにしても、重要な選択を迫られるが、今回は「弱毒性」のH1N1型でよかったと思うしかないし、これがH5N1型であったことを想像すると背筋が寒くなる。正確な情報に従って正確に対応してゆくことしか、今のところ私たちの取る術はない。
 ただ、WHOが、抗インフルエンザ薬「リレンザ」を製造するグラクソ・スミスクラインや「タミフル」を製造するロシュとギリアド・サイエンシズに治療薬の製造拡大を訴えたが、中でも「タミフル」に関してはイヤな人物が頭に浮かんで、興ざめする。というか、今回のパンデミック騒動の裏に、また何か政治的な駆け引きでもあるのではなかろうかと、災いを呼びそうな「チーム」の人たちの顔が浮かぶのだ。
 米CNNの2005年10月31日の報道。その当時も、鳥インフルエンザ大流行の予測が世界中の人々を怯えさせていた。当時のアメリカ大統領は、あの、ジョージ・W・ブッシュ。そして、2006年11月8日の中間選挙で共和党が大敗するまで政権の実質的な権力を一手に担っていたのがラムズフェルド国防長官。この人たち、チェイニー副大統領がハリバートンのCEOを勤めていたのも含めて、世界的な事件となると、必ず関連してビジネスの臭いをさせる。だから、今回のパンデミック騒動も「ホント?」と疑いたくなってしまう。いかんな。
 カリフォルニア州に本拠を構えるバイオテック企業ギリアド社は、インフルエンザ治療薬として現在世界中から注目されている『タミフル』の特許を所有している。ラムズフェルド国防長官は、ギリアド・サイエンシズ社の株の多くを所有している。1997年からブッシュ政権入閣までの2001年の間、ラムズフェルド国防長官はギリアド社の会長を務めていた。ジョージ・シュルツ元国務長官や前カリフォルニア州知事の妻ピート・ウィルソンもギリアド社役員で多くの株を所有していた。
 サンフランシスコのシンク・イクイティ・パートナーズ社のアナリスト、アンドリュー・マクドナルド氏は「政界とこれほど繋がりの深いバイオ企業は他に類を見ない」と評している。
 これまでも、米国政府と日本は、世界最大のタミフル購入者だった。2005年度だけでも、米国防総省は兵士への配給用に5,800万ドル分のタミフルを注文していた。ロシュ社における2004年度のタミフルの売上は2億5800万ドル。それが2005年度になると10億ドルに跳ね上がった。今回、この騒動で、どれほどの売上を記録するのだろう。
 世界の人々の命を助ける医薬品企業が責任を果たし、人命を救うのは願っても止まない話で、どれほどの売上を上げようとも良いのだが、こういう政界との結びつき、しかも、近年災いをもたらしてきたであろう人々との癒着が明るみになると、「ホント?」という気持ちが湧き起こってしまう。イラクの時の、人命を軽視した政策や戦略を、見てきたから。まさか、政権を失って、金融危機に際して、「こんな手もあります」では、ないですよね?と聞きたくなってしまう。あ、お坊さんらしくないか。話題が。
 とにかく、末世の様相。正しく見て、正しく聞き…。正法を護持し、流布するしかない。お看経、してますか?

2009年4月29日水曜日

佛立のアイデンティティ

末法行者得分抄(扇全十二巻二九〇頁)

「○当宗は信心宗にて信者を尊貴す。故に寺院の大小 僧侶の高下をいはず。其人の信心の堅固強盛なるを貴む。
○高祖曰。日蓮は房州小湊。長狭郡。市川村のせんだらの家に生れたりと。
○尓れ共。如説抄には。佛勅を蒙り此土に生れたり。と云々。

○しかるに当宗の僧俗 祖師の御弟子として宗祖の御教へに背き。心得違ひ。習ひ損じをして。旦家の謗法をも責ず。人。一人も教化せずして。旦越の機嫌をうかゞひ。へつらひのみにて。説教をすとも。折伏の御法門を。摂受門に説きまげ。末法下種の砌に。釋尊御一代記。又は蓮師大士の真実傳。門祖の行状記を講談するにも。皆摂受讀誦の法花経を貴敬する。像法熟益の法門にとりなして。折伏を少しもする深切なし。異躰同心のよしみ更になし。唯赤き衣。金襴のけさをかけて。愚人の目を驚かし。帰依を受て。施物を貪る工夫を本心とす。

○さて愚旦の曰。わが菩提所の上人御貫首さまは。勅任官の大僧正ぢゃ。なんとえらいものではないか。其寺は。日本第一の大本山也と云ひ。寺の大きな。衣のりっぱとをのみいひて。信心を貴むもの一人もなし。折伏を当宗の第一の大慈大悲の根元たる修行と。いふことを辨へ知りたるもの一人もなし。

能化も貫首も弟子も。小僧も。檀家も。講中も。信者いふもの一人もなし。どいつも。こいつも。皆大馬鹿ものゝ。大たわけ者の。めくらの。つんぼの。こしぬけにしたる。基本は末弟等の信心なく。名聞利養によりおこる所也。
高祖曰。袋きたなしとて黄金捨る事なかれと。教へさせ給ふをしらずや。
○其きたなき袋とは。行者は貧乏。ちえはなし。家は小ひさけれども信心の黄金は捨る事はならぬと仰せられたり。

故に清風。法花経の義理功能も。三大部のわけも。むつかしき事 教相 観心 開會も何もしらぬ愚人にて小児の乳をのむ位なれども 宗祖日蓮大士の如説抄一巻を。大文字。平假名に拝写して。上木に製本して。信者一同によましめんとして上行所傳の御題目を弘めんことをのみ。唯一途に思ふのみ也。此道理をしらぬ者を。僧侶も。在家も。真のあきめくらといふ也。故に是等の人々に此道理をしらしめんとて。開目抄と申御抄あり。又々さとすべし。」

弟子となり師匠となり。旦那となり

代幼稚信要抄(扇全十二巻三一八頁)

「真実の御弟子旦那の中に御弘通に仕ふるに大に上中下の三段あり。

或曰。先生御存生中に如説抄の御折伏。随他意なしの御法門講内一同に御定め置なくは御滅後は思ひ思ひにわかれんこと歎かはしと思ひ勵む人々あり是を上等の信者とす。

次に。さためてしかあるらんなれども我等軸出ていふともかひなしと歎くのみなる。これは中等の信者也。

次にいかにともなれ。其時は其時と。たゞ傍観せるあり。これを下等となす。

○高祖。御一周忌に本迹一致はじまる日向これなり五老僧。山を出す門々わかる。一百年餘に門祖本門題目宗下種信行折伏宗御再興。
今又一同に下種宗を。口にはとなへながら皆熟脱宗になれり。爰に本門佛立宗たてり。

清風滅後を思へとも。既に祖師御在世の御時ですらあまり御あらぎなりと。をこつくものあり。われらはやはらかに弘めんとて螢火が日月をわらふが如きもあり。朝夕をしへ給へども臆病にして肝を消して退轉せしも多くしてかくしつゝ終に廣宣流布すべき上行菩薩所傳の題目宗也。

上行大士仏勅を蒙らせ給ひ末法を御受取になりたる已上はおとろへる時分々々には地涌の大士立かはり。入かはりに出世ありて御弘通絶ることなし。弟子となり師匠となり。旦那となり無令断絶。疑ひなきこと也。」

信心を試される

 「何事につけても言をやわらげて、法華経の信をうすくなさんずるやうをたばか(誑)る人出来(しゅったい)せば、我が信心をこゝろむるかとおぼして各各これを御けうくん(教訓)あるはうれしき事也」上野殿御返事

 言葉やわらかに、ご信心を薄れさせようとする人があるということを知りなさいと、お祖師さまはご注意くださっている。その時、我が信心を試されていると思いなさいと。「試されている」ということを教訓としてご信心している人は、本物のご信心前に近づいているのだ、と。

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2009年4月28日火曜日

パンデミックに思う

 豚インフルエンザ(新型インフルエンザ)が世界を怯えさせている。警戒レベルの「4」とは、極めて深刻な事態を想定して出されたものだと思う。「パンデミック」。サーズや鳥インフルエンザの時に懸念していた事態が、今年、このタイミングで訪れようとは。

 いま、妙深寺では立正安国論の上奏750年を記念して、「立正安国論」の素読を開始している。老若男女が集って、何とか一度でも立正安国論を通読していただきたいと思って開始した。毎回、原文の書き下しと現代語訳をプリントして配り、9~10回の講座として続けていこうと思っている。今月は第2段の拝読だった。

 天下が乱れていく原因、自然界と人間界のバランスが失われ、人々が苦しんでいる原因について明らかにされて行くのだが、あらためて拝読していくと、お祖師さまは努めて「自説」を控え、そこに展開せず、とにかく御仏の御経文を出して、文証を尊んでおられる姿勢を学ばせていただく。「私はこう思う」ということを控えておられるのだ。空海・弘法大師の姿勢と全く異なると思う。これが、「ザ・仏教」といわれる原点。お祖師さまほど、御仏のお経文の全てを尊び、そこをしっかりといただいた上で、御仏の御本意を導き出された。それも、能所・勝劣に迷って経文の山に埋もれてしまった人々に御仏の真意を届け明らかにする、上行菩薩としての使命であられたのだが。

 今回の段は、特に文証としての御経文が引かれている。ほぼ、今回通読した部分すべてが御経文であり、お祖師さまのコメントは最後の数行である。そこに挙げられた御経文は、明確に世相が悪化する原因を述べられている。よく、他宗から批判されるが、これは日蓮聖人(お祖師さま)の個人的な見解ではない。御経文に説かれるところなのである。

 「客(きゃく)の曰(いわ)く、天下(てんか)の災(わざわい)、国中(こくちゅう)の難(なん)、余(よ)独(ひと)り歎(なげ)くに非(あら)ず、衆(しゅ)、皆(みな)悲(かな)しむ。今(いま)、蘭室(らんしつ)に入(いり)て初(はじ)めて芳詞(ほうし)を承(うけたまわ)るに、神聖(しんせい)去(さ)り辞(じ)し災難(さいなん)並(なら)び起(おこ)るとは何(いずれ)の経(きょう)に出(い)でたるや、その証拠(しょうこ)を聞(き)かん。
 主人(しゅじん)の曰(いわ)く、その文(もん)、繁多(はんた)にしてその証(しょう)、弘博(こうはく)なり。」

 ここから、御経文が引かれていくのだが、今回拝読した人たちの多くが感じたように、いま報道されているパンデミックが、やはり750年正当の年にあたって「正法を護持しないために、守護の諸天善神がこの世界を離れて、三災七難が起こる」という部分に符合して捉えられる。

 薬師経「国民の間に疫病が流行する難、外国からの侵略されるという難、国内に戦乱が起こる難、星の運行が変異する難、日蝕や月蝕で太陽や月の光が失われる難、時ならぬ暴風雨が起こる難、旱魃(かんばつ)が起こる難の七つの災難があるであろう」

 大集経「一つには飢饉、二つには国の内外に起こる戦乱、三つには疫病が広く国内に蔓延することである。そして、一切の善神はその国を捨て去り、その国の人民は国王の命令に従わず、国の秩序は乱れ、常に隣国から侵略され続けるであろう。」

 あくまで、これらは御経の中にある御文である。再々度になるが、これはお祖師さまの個人的な見解ではない。いま、さまざまな懸念すべき事態の中で、やはり一人一人の心を、正法に沿って正してゆくことが求められていると思う。対処療法ではなく、それが失われた世の秩序を取り戻すために欠かせない本質的な療法であると思う。

 不幸中の幸いと言えるか分からないが、未だメキシコ以外での死者は出ていない。弱毒性との見解も出ており、極端な反応は控えるべき。正しい情報の下に、うがいや手洗いをしっかりとする以外にない。

 しかし、このタイミングで起きていることに、気づくべきだ。サインに違いない。

2009年4月25日土曜日

スリランカ内戦 最終局面と聞いて

 スリランカのリーダーのお一人から、メールが届いた。福岡御導師宛のメールで、CCで私にも送ってくださっていた。内容は、現在ニュースで報道されているように、スリランカの内戦が大きな局面、それも25年ぶりの終息局面を迎えているということについて。
 スリランカからのメールには喜びが溢れていた。スリランカの人々にとって、数え切れないほど尊い人命を奪い、想像を絶するほどの損害を与えてきた、30年に及ぶ内戦の終息が迫っているというのである。
Dear Fukuoka Odoshi,
As I told in the morning, it is happy to say that war is almost ended today as military forces captured all the areas belongs to terrorist and rescued over 70,000 people who were kept as human shield .
This is the end of war in our country after 30 years. When I recall my memory I can remember that your wish was to end this war and peace for our country. today its become to reality.As HBS members of this country we appreciated your kind Bodhisattva effort on behalf of this mission.Please give our great regards to members and priests who were chanted for success and peace of country.
 CNNからの報道を抜粋すると、国連は22日、スリランカ政府軍による反政府武装組織「タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)」の掃討作戦で、戦闘に巻き込まれて多数が死傷し、数万人が取り残されていることを明らかにした。
 政府軍は同国北部で20日にLTTE掃討作戦を開始し、メンバーに対し21日を期限として投降を迫った。軍はこの地域に住む民間人3万9000人を救出したとしているが、米国務省によれば、LTTEが制圧している北東沿岸部にはまだ何万人もの住民が取り残されているという。国連人道問題調整部によると、この地域では22日も戦闘が続いて極度の混乱に陥っており、避難民8万人以上への援助が途絶。死傷者は今後さらに増える可能性もあるという。
 スリランカの問題は22日の安全保障理事会でも議題として取り上げられ、クリントン米国務長官は議会委員会で「世界中が大きく失望していること、25年におよぶ紛争を終結させる取り組みの中でこのような犠牲が出ていることは、スリランカ政府も認識していると思う」と語ったという。
 以上が、報道された内容だが、それを読むと諸手を挙げて喜ぶわけにもいかない。依然、数万人の人が危険な状態にある。スリランカ軍はそれを知りながら攻撃の手をゆるめていない。国連や人道団体は即時停戦を促している。しかし、いま手をゆるめれば、その数万人の命の危険は先延ばしされるだけかもしれない。それ以上の死傷者が出続けるかもしれない。いま、非暴力の叫びは届かず、彼ら双方の耳に入っていない。極めて危険な、恐ろしい状態が、スリランカ北東部にある。キリング・フィールドのような、恐ろしい状態が。
 何が出来るか、福岡御導師は模索してこられた。このような結果を望んでおられたわけではない。平和を望んで、私たちはご奉公を進めてきたが、この攻撃と人間の命を盾にした攻防戦を望んでいたわけではない。諸手を挙げて喜ぶことなど、できない。スリランカの人々の気持ちは分かるが。
 真の状況が分からないから、何ともいえないが、メールと、今ある情報を見聞きして、スリランカでご奉公させていただいている一人として、ここに書き込みさせていただく。私たちが、いま出来ることは何か。スリランカのために。とにかく、あらゆる、双方の人のために、御題目をお唱えさせていただく。問題の根は深いが。

2009年4月24日金曜日

カー、たすけて

 また、小さな命が、近親者である母の手によって奪われたかも知れないと、報道されている。そんなニュースを聞いて、気持ちが沈んでしまう。

 以前書いた文章を、また読み返していた。だから、また、再掲してみる。

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 ずっと忘れられず、頭にこびり付いた言葉。山形県で起きた5才の 加藤 翔(しょう)くん殺害・死体遺棄(いき)事件で、翔くんがこの世に残した最後の言葉が「カー(おかあさん)、たすけて」でした。

 韓国の人気ドラマ「冬のソナタ」や小説「世界の中心で愛をさけぶ」などの純愛ストーリーが大ヒットとなる中、人間生活の原点である家族や家庭内の問題は深まる一方です。この矛盾(むじゅん)は何なのでしょう。わが子を愛せない母親や接し方に悩む親。心の通わない関係が夫婦から親子にまで広がっています。特に、幼児虐待という最も恐ろしい事件には顔を背けたくなります。

 秋田県内に住んでいたお母さんと翔くん。周囲から見ると、母子家庭ではあっても、幼稚園の送り迎えも欠かさない、とても暖かい親子だったそうです。ところが、ある時、母親が出会い系サイトで、一人の男性と知り合いました。

 若いお母さんです。寂しさからなのか、すぐに関係は深くなり、一緒に住むことにもなりました。平成15年5月のことです。相手の男性にも子供がいる、自分にも子供がいる。新しい生活は4人でスタートすることになりました。

 先天性の腎臓(じんぞう)病を患(わずら)う翔くんは、尿を漏(も)らしてしまいます。それが気に入らない29才の板垣直樹という男は、厳しく翔くんを叱るようになります。最初はわが子が叩かれたり、殴られたりする姿を見て、母性のある母親ですから、「あぁ」と思い、可哀相(かわいそう)だと思う。ところが、「何でお前は叱らないんだ」と男が激怒するようになる。逆に、翔くんをきつく叱ると誉めてくれる。いつしか、母親としての正常な気持ちは消え、翔くんをきつく叱ることで男が優しくなることから、感覚はマヒしてくる。母性を喪失した彼女は、翔くんを「恋愛の邪魔」と考えはじめた。

 最初は、きつく叩く。そのうちに罰として食事を減らす。食事を水だけにする。強く殴る。何度も殴る。バルコニーに立たせておく。数時間が、1日、2日と増えて、後に3日間バルコニーに放置したこともあった、と。

 パイプ椅子で殴り、アゴの骨を折った翔くん。最後の日は、男と二人で風呂場に連れて行き、やせ細った翔くんに熱湯をかけ、ハサミで皮膚を切り取り、衰弱死(すいじゃくし)させました。

 その翔くんの最期の言葉が、「カー、たすけて」という言葉であったというのです。私は、その言葉を聞いて、涙が出て涙が出て仕方がありませんでした。食事も与えず、恐ろしい顔で自分を殴り、熱湯を浴びせかけて、皮膚を切り取るような母親に、「カー、助けて」「お母さん、助けて」と言いながら死んでいった翔くん。何ということでしょうか。その気持ちを考えると涙が止まりません。

 その後、母親は男に指示された場所に遺体を埋めに行きました。彼女は、全国の風俗店を転々としながら男にお金を送り、翔くんの遺体が掘り起こされるのを見て、はじめて我に返ったといいます。刑務所の中で彼女は弁護士に話をしました。翔くんが秋田にいた頃、いつも「ボク、カーと結婚したい」「カー、大好き」と言ってくれていた、と。先月の6月7日に判決が出ました。懲役11年。判決を聞いた彼女は「死刑にして下さい」と泣き崩れたそうです。

 決して、他人事ではありません。別世界の、狂人の話として片づけてはいけないと思うのです。何が大切か、何が大事かということを忘れるのが私たちだからです。自分の心の奥底にも、恐ろしい心、愚かな心が隠れています。それが何をきっかけにして表に出てくるか。性欲か、名誉欲か、金銭欲か、嫉妬(しっと)なのか、恨(うら)みなのか、怒りなのか。正常と異常の境界が見えなくなります。自分の愚かな行為も、すぐに正当化したり、肯定したり出来るから、人間とは恐ろしいのです。

 心を映す鏡を持たず、過信して、肯定して、人のせいにして生きていては、「純愛」が出来てもサルと同じです。サルの方がましです。

 千葉県袖ヶ浦市では、母親から両祖父母、曾祖父まで一家5人が逮捕されるという、極めて残忍な幼児虐待致死事件が起きています。その殺された3才の子供の名前も「翔くん」でした。

 こうした残酷な事件を聞くたびに、豊かになったこの国に生きる一人一人が、「自分」と「家族」の在り方を見つめ直し、崩壊していく人間という存在価値に対して「答え」を模索する必要があると痛感するのです。

 多くの人は、その答えを御仏(みほとけ)の教え以外に求めるでしょう。より具体的で、現実的な捉え方や解決方法があるはずだと考えるのだと思います。小学6年生が起こした同級生カッターナイフ殺人事件と同じように、遠回りしながら社会は核心に触れようとしていないのです。モノにばかり気を取られ、「心」を置き去りにしてメンツや体裁(ていさい)を整えようとしている間は、健全な家庭や家族を生み出すための答えが見えてこないのだと思います。

「慈愛(じあい)」「恩愛(おんあい)」「癡愛(ちあい)」「愛執(あいしゅう)」と、家族を支えるべき「愛」にも色々なカタチがあり様々に変化します。その「愛」を健全に育み、伝える努力が人間には必要で、見失えば苦しみを増すばかりなのです。

 親である者が迷い、大切な心を置き去りにして、忙しさを口実に家族と向き合うこともなく生活をしていれば、近くに住んでいても、心は遠く離れてしまうのでしょう。そこに残るのは、欲と見せかけの形式的な、契約のような、家族という「単位」でしかありません。

 御仏(みほとけ)に縁の深い者であっても、家族の在り方は永遠のテーマです。形式的な信仰の中に健全な家庭を築くためのヒントはありません。生活と御仏の教えを結びつけられない人は、社会の風潮に流されて、家庭の中に歪(ひず)みを抱えるでしょう。そこに気づいて御宝前(ごほうぜん)に近づき、祈り、教えを聞き、菩薩の誓いを立て、行う姿勢が必要なのです。

 哀れな親は、哀れな子供を生み出します。何が哀れかといえば、目先のことに終始している親が、家族で何をして、何処へゆくべきなのかを見失っていることです。遊園地や食事に出掛けても、家族で祈るべき場所を知らない、家族で足を運ぶべき尊い場所がない、家族が揃って尊い教えを聞く場所がない。お参詣もせず、御法門も聞かず、家族の中に一人の菩薩もいなければ、真に健全な家庭への道は遠のき、迷うばかりです。

 「カー、たすけて」という言葉を他人事にすべきではありません。

2009年4月22日水曜日

自分のためじゃできない

 先日来、いろいろな方とお話をしていて、思うことがある。

 信心といっても、有難そうなことは分かるが、どうも、前に進めない。御題目をお唱えする気にもならないし、何か朝夕に御宝前に向かう気持ちも起きない。そもそも、そういう考えでいるから、そういうことをしなければいけない意味も分からなくなる。家に御本尊をお迎えしていても、なかなか、お看経出来ない。お看経をする気持ちにならない。お聞きしていて、そういう気持ちも分かると思った。

 実際、自虐的なのかもしれないが、半分、「自分はどうなってもいい」と思うこともある。「なんとかなるだろ」と思ったり、自分のことであれば「仕方ない」とあきらめることもできるかもしれない。ご信心をする、御題目を唱える、という動機に、「自分」というものではしっくりこない人がいるのも確かだ。いや、自分も、自力が強いのか、そういう気持ちに共感できてしまう。

 本来、「自分を何とかしなければ」「こうなりたい」「こうしてください」と、御宝前に向かう中心には自分がいて、それが強い動機となるのが普通かも知れない。病・貧・争という人々の苦しみや願いを、自分が乗り越えるために、御宝前に向かうという人は多い。

 しかし、何か逆説的だが、ご信心や日々のお看経が「自分」という動機付けではピンとこない人たちもいる。豊かすぎるからそうなるのか、自力に頼る気持ちが強いからそうなるのかは分からない。でも、もしかするとその中に、自分も入ってしまうのではないかと思った。

 自分のためには、なかなか出来ない。やる気が起きない。でも、他の人のためなら?と、その時にもお話しした。自分ならあきらめも付く、自分なら仕方ないと思えても、誰かのためにするということを考えてみて欲しい。私の場合、今のところ、それが一番強く御宝前に向かわせていただける動機だ。

 特に、子どもたちの病気。御縁のある方からお話をお聞きしたり、お知らせいただいた方への御題目。白血病だった吏絵ちゃんのためのお看経。自分のためなら出来なくても、「あの子のために、自分にできることはお看経しかない。僕には、あの子のためにお看経ができるじゃないか」と思って、御宝前に向かい、お看経させていただいた。そして、12才だった吏絵ちゃんは見事に白血病を克服し、今年の春、高校生になった。長松寺に、御礼のお参詣をしてくださり、よろこびはひとしおだ。

 御宝前に迎えなかったら仕方ない。でも、その動機が見つけられないという人がいたなら、どうか、誰かのために、御題目をお唱えしてみて欲しい。いま、私たちには御祈願がある。1才ちょっとの、リコちゃんの病気がよくなりますように、同じく1才になったばかりの芽衣ちゃんの手術が成功しますように、と。「自分のことはどうでもいい」とうそぶいている自分でも、この子どもたちのための御題目は欠かせない。
 ご祈願を、よろしくお願いします。

2009年4月21日火曜日

ゆかちゃんの手作り人形

 ここで、何度かご紹介したゆかちゃんは、手づくりの、心が温かくなる人形を、繊細な感性でつくってくださる。僕には、そういう才能がない。
 人間って、人それぞれ、流れている時間が違うのかな。自分などは慌ただしく生きているだけで、風景が見えていないのかと不安になるほど、手づくりの人形を見ていると、心があったかくなるのだ。
 そのゆかさんは、昨日はじめて自宅で御講を立てられた。御本尊奉安から数ヶ月で、御講のお席主。そして、心からよろこんでおられた。
 本当に、ありがたい(涙)。新しい人形をつくってくださって、持ってきてくださったのだが、御導師とご信者さん、子どもたちのつながり、絆を、描いてくれていた。ゆかさんの目に、そういう温かい風景や光景や映っているとしたら、本当にうれしいな。
 ありがたい。

2009年4月19日日曜日

命と、宗教の真実性(veracidade)

コレイア御導師のポルトガル語のご法門の大意要約

 ありがとうございます。
 YouTubeの以下のURLに、このご法門の映像がございます。
http://www.youtube.com/watch?v=GU3n2RVqJkI&feature=channel_page
 このご法門の大意要約を以下に掲載いたしますが、その前にご法門の背景となっているある事件について、私のほうで補足説明をさせていただきます。

 訳者補足:ブラジルの北東部(貧困地域)のペルナンブコ州のアラゴイーニャという村で、9歳児が妊娠していることが、2009年2月25日に発覚しました。少女の妊娠それ自体は、ブラジルでは、悲しいことですが、頻繁にあります。たいてい犯人は、父親や叔父や祖父などの近親者です。ブラジルだけでなく、メキシコでもあります。メキシコについては、被害の少女たちを私は取材したことがあります。さて、この少女はレシフェという同州の州都の大都市で、3月4日に中絶手術をしました(レシフェ市は、米国への直通便が就航している国際空港があって、開けた明るい都市です)。12~13歳の少女の妊娠と中絶ならば、ブラジルでもメキシコでもニュースにはなりません。しかし今回は、被害者が9歳と幼すぎるという事情や、身ごもった子が双子であるという事情などが重なり、いつもとは異なる展開となりました。

 中絶手術に対して、中絶をみとめた母親と、中絶手術を実施した医師を、レシフェの大司教が破門に処すと述べたのです。ローマ法王も、これを支持されました。ところが、同じカトリック教徒である連邦大統領のルーラ氏が、これを保守的にすぎると批判し、それに対して大司教側が反論されました。教会側は、強姦よりも中絶のほうが罪が重いと判断しました。こうして、全国的な、あるいは国際的ともいえる事件へと発展しています。

 以下、コレイア御導師の御法門の大意要約です。ほぼ「翻訳」といってよいのですが、一部省略していますので、「大意要約」とご理解ください。御導師による訳のチェックも受けております。                        
第二弘通部門・海外弘通部長



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御教歌 「いのち程 大事なるもの 又となし 如説修行を せんとおもへば」
                                (佛立開導日扇聖人)

 これは、命を大切にすることの重要性、より充実した人生をおくることの重要性を教えてくださるご教歌です。そのためには、わたしたちは御法にできるだけ近づけくようにして、教えにしたがって生きなければなりません。ただ生きるのではなく、このたびの人生をもっともすばらしいものにするのです。生きるというのはそういうことです。生きる、死ぬの形は重要ではありません。信行とお題目口唱は命のありがたさ、尊さを最大限に引き上げてくださいます。それが悟りへの道なのです。

 3月4日にレシフェで悲劇的なことが起こりました。命の問題について、今ブラジルでは人の意見が分かれています。わたしたちのところに、これをどう考えればよいのかという質問のEメールがたくさん届いています。この論議をかもしている事実に直面して、教えにしたがって私たち自身を導くことの重要性を実感します。私に届いたそうした1つの質問をとりあげましょう。
 
●あるカトリック教徒からのコレイアへの御導師への質問
 「本門佛立宗の僧侶の皆様。私はカトリック教会の信徒です。私自身の教会について、より深く知るように努めております。今回の少女の妊娠中絶の問題についての仏教の立場を教えていただけますでしょうか。マス・メディアや人々は、中絶にかかわった人を破門処分とした教会を批判しています。わたしは、自分の教会を守るためだけではなく、神(キリスト教でいう神)の法の道をあゆむ上で大切な道徳と倫理を守るために、キリスト教やキリスト教以外のいろいろな宗教の情報を収集しております。」

●コレイア御導師のご回答
 「ご質問、ありがとうございます。簡単にわれわれの立場を申し上げましょう。
 本門佛立宗はあらゆる禁制や戒律には反対です。佛立宗は自覚にうったえるのです。禁止されているはずのことが実際に発生しているという事実そのものが、禁制や有罪宣告や判決はものごとを先に進めるものではないことの証左です。おおくの宗教の教義が、掟を破った人を、その人がまさに助けを求めているその時に、破門し、排除してしまいます。これが現実です。そのために、悪いことをした人に、罪の意識・自覚をもたせるということの重要性が、無視されているように思われます。

 本門佛立宗は、自覚をうながす宗教で、そのために崇高な力(força divina)の支援をあおぐのですが、罰をあたえるようなことはしません。間違いをおかしたとき、宗教というのはその人をすぐに救済してあげるという能力(キャパシティ、容量、包容力)をもっていなければなりません。その人がすぐに後悔や反省をしているかどうかとは無関係に、その人を救ってあげなければなりません。

 われわれは、その罪人のそばに寄り添って、地獄までも一緒に随行します。これは、理不尽なことではなく、命を大事にするということなのです。生命を大切にするということは、御法の力を得て困窮者を助けてあげるということです。われわれは、救済可能なすべての人を救済します。罪人をふくめて、すべての人を救うのです。これが、法華経の教えなのです。『南無妙法蓮華経』というお題目は、本因下種のお題目なのですが、口唱を通じてすべての人が救われます。これ以上、人々が苦しむことがないように、ひとりでも多くの人がお題目をとなえるようになれば、わたしは幸せです。

 本門佛立宗は命を大切にします。人の死に出会うこともあります。すべては相互依存の法則(因果の法)にしたがって起こり、新しい原因がつくられ、結果が生じます。自覚がない人が罪をおかしてしまうこともあります。私たちは、亡くなった方の霊魂へのご回向をいたします。違反者や破門者が多いほど、救済すべき対象者が多いことを意味します。誰かが、彼らを救ってあげなければなりません。
 宗教の真実性(veracidade)は、どれだけ人を救済できるかで、測ることができます。
 むろん、われわれも自分たちの行動の結果に直面して苦悩しますが、そのような苦難は、神によって与えられるものではなく、ましてや聖職者から(罰として)与えられるものでもなく、因果関係から生じるものであり、相互依存の法則(因果応報)によるものです。違反者こそ救済されるべきであり、罪障を消滅させて、よい結果へと導くべきなのです。
Namumyohorengekyoをお唱えすることによって、その命がたとえ1日であろうが、百歳であろうが、永遠の命となります。それがお題目の力なのです。口唱を通じて、よりintensiveな(=充実した)命、人生を得ることができます。」
 以上が、この9歳の少女の中絶をめぐる、わたしたちの考え方、立場です。
 最後に、御教歌を再拝いたします。

御教歌 「いのち程 大事なるもの 又となし 如説修行を せんとおもへば」
                      (佛立開導日扇聖人)
2009年3月12日 コレイア教伯

素直な気持ちで

 昨日、長野でのご奉公から、本日は本山の門祖会のご奉公。第一座に出座させていただいて、この後は第四座までご奉公。
 17日、妙深寺の開導総講で素晴らしい体験談をお話くださった佐藤さんご夫妻。本当に、毎週末は必ずみんなで妙深寺にお参詣される、お手本のようなご家族。お宅からお寺まで、片道2時間!10歳の進之助くんはお父さんと一緒に御塔婆のお給仕ご奉公。御宝前まで御塔婆をお上げくださる。サッカー少年なのだが、ご信心のある家庭の中で、本当に自然にスクスクと育っている。もっと幼い頃は、どーしよーもないほどヤンチャだったのだが、すごいなぁ、ご両親の育て方、ご信心の功徳、お寺と共にある暮らしで、こんなに素晴らしい子に。進之助を見ていると、「うちの暴れん坊たちも大丈夫では?」と少し安心する。そのくらい、本当に、ヤンチャだった。今は、薫化会のリーダーの一人だが、もう未来の妙深寺のホープだ。
 開導総講。そのご両親がお話をしてくださった。本当に、素直で、正直なご信心前が言葉一つ一つに表れていて、本堂の裏で感激していた。ぜひ、その内容を読んでいただきたくて、テープを起こして掲載させていただこうと思う。ご主人の体験された御利益の最初は、第三京浜での出来事なのだが、ブログに公開するとちょっとマズイかもしれないので、ここは残念ながら割愛(涙)。正確なものは妙深寺報にて。
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 ご主人:ありがとうございます。今日は夫婦(めおと)で御宝前係とお給仕係をさせて(笑)、大変有り難く思っております(拍手)。今日はこの一年間にあった我が家の小さな御利益談を発表させていただきます。
 こんなこともありました。仕事へ行く途中、家から駅へ道を歩いていました。その日は六本木に向かっていたのですが、新宿経由で行くか、渋谷経由で行くか、ツラツラと歩きながら考えていました。時計を見るといずれにしても30分ぐらいの余裕がありますので、だったら渋谷経由にしてちょっと乗泉寺にお参りしてから行こうと心に決めました。
 と、その次の瞬間、道の真ん中に白く光るものが落ちているのに気がつきました。風で飛ばされた発砲スチロールの大きな箱でした。いつも自分が車で通っている道なので、「危ないなぁ」と思い、その箱を拾って傍らのコンビニの駐車場の方に歩いていくと、突然、「ドカーン」という大きな音がして、振り向くと僕の真後ろで車がペチャンコになっています。まさに、ほんの4、50㎝、自分の背後に車が突っ込んできたのでした。ほんの一歩でもずれていたら、私はペチャンコになっていたことでしょう。あの発砲スチロールの箱が何かものを言いたげに白く光っていた。その一瞬が瞼に焼き付き、御法さまに守られているんだなぁという実感をひしひしと有り難く感得させていただきました。まさに災難除滅のお計らいです。
 昨年は大切な人を4人も亡くしました。さらに戸塚教区は芽衣ちゃんや教化親の樋口さんや白川さんや堀田さんや病気や怪我の方がたくさんおられ、今までになく、お助行をする回数が自ずと増えました。中でも芽衣ちゃんとゆうとくんのお助行は、同じ子どもを持つ親として精一杯させていただきました。ある日のこと、お助行のお導師をしていた時、すぐ隣に裕一さんと朋美ちゃん。すぐ後ろにゆうとくんのお母さんが座わられた時がありました。「お父さん、お母さんの強い想いを余すことなく御宝前に届けなければいけない」という思いでお導師を勤めさせていただきました。普段、ご住職やお講師方は常にこういう思いでお導師をしておられるのだな、とその時はじめて深く感じることができました。
 昨年、我が家で4人のお教化を成就することができました。お助行の回数、お助行の内容、それが多ければ多いほど、深ければ深いほど、それはご弘通へと結びつくことを、はっきりと知ることができました。さらに、このお教化にまつわる辛く悲しい物語を(笑)、妻の方からご披露させていただきたいと思います。
 奥さま:ありがとうございます。妻の直子でございます(笑)。じゃあ、ちょっと泣きながら読ませていただきます。涙、涙のお話でございます(笑)。
 先日、初めてのお教化をさせていただきました。その育成の中でどうしても越えられない壁に突き当たってしまいまして、悩みに悩んで、生涯二度目の100本祈願をさせていただきました。婦人部長のお役をいただいて、ご奉公もお講参詣も増えて、今までは主人に車で連れていってもらうことが多かったんですが、慣れない横浜の町を、バスなどを使い、一人で電車で来させていただくことが増えました。お寺まで片道2時間掛かります。教化育成のためのお助行も週に一回ほどさせていただいておりまして、100本祈願をするには時間的にも体力的にも目一杯で、それでも何かしなくてはどうしても動かない、どうしようもないという思いで100本祈願をさせていただきまして、本来2週間でやらせていただくところを、1ヶ月に延ばさせていただいてやらせていただきました。
 その間、やはりどうしても体がもたないで、御宝前の前で失礼にも居眠りをしてしまったりとか、気持ちだけが焦って、もう「空(から)題目」になってしまったということもありつつ、どうにか100本を終えて御礼と遅くなってしまったお懺悔をさせていただきました。
 でも、その後も、達成感がないというか、1回目の時は本当に達成感があって、「あぁ、やったなぁ」という気持ちがあったんですが、今回は釈然としない気持ちだけが残ってしまって、どうしたものかなと思っておりました。苦しい日が続き、その100本祈願の反省から、まずは朝晩のお給仕、お看経をもっともっとしっかり丁寧にさせていただくように信行改良、「苦しいから」と辛い顔でいると「心から声に顔に行動に表す」という菩薩の誓いの実践にならないと思って、うまくいかないながらも笑顔と感謝の気持ちをもっともっと人に伝えられるように心掛けさせていただこうと毎日意識して過ごしていました。
 そして、100本終了から一ヶ月経った頃、ふっとモヤモヤが晴れました。本当に当たり前のことでした。ご祈願をどうにか叶えていただこうと思って、私は御法さまから無理やりもぎ取ろうとするような、私の中でそういう執着心があったということがわかりました。その執着こそが私を疲れさせ、なかなかお看経が上がらない心の状態にしていた原因でした。そんな心持ちでお願いが叶うわけがありません。御法さまにすべてお任せしていたつもりなのに、全然そうではなかったことに気付きました。気付かせていただきました。
 実は、去年の暮れからこの何ヶ月間か、同じことを何度も何度も反省しては行きつ、戻りつ信行改良させていただいておりました。信行の道はまるで螺旋(らせん)のようで、一度わかったと思ったことでも、また、もう少し深いところで、また同じ過ちを繰り返します。今度は自然と、明るく素直な気持ちで御宝前にお向かいして、きちんとお懺悔してお看経できるようになりました。
 うちにはバンバン御利益をいただいている10才の息子の進之介というのがおります。見てると何の衒(てら)いもなく、迷いもなく、邪心もなく、素直にご信心していて、全然私とかよりも御題目上がってないんですけども、ポンッと御利益をいただいております。彼をお手本にして、もう本当に数じゃなくて素直な気持ちなんだと思って、力(りき)まず、本当に素直な気持ちでお唱えさせていただこうと思いました。最後に仕事でヘロヘロになって帰ってきても、私に捕まって毎晩のように信行問答させられているうちの主人と、私の切羽詰まったヘルプメールに対して本当にいつも温かい励ましとお折伏をくださる受持の清水清康師とご住職に心から感謝致します。ありがとうございます。
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 う~ん、本当に、尊い。有難かった。素直な声。菩薩の声。

2009年4月16日木曜日

本堂のリフレッシュ

 怒濤の御講ウィーク。終わったぁ。いや、まだ、これから長野教区のご奉公があるが、横浜での12席は終了。同じ御法門、13回説かせていただいた。しかし、拝見すればするほど、味わい、その御教歌の御意がしみじみと心に広がっていくから不思議だ。説かせていただいている私自身がそう思うのだから、御法門は一度聴聞して分かったつもりになってしまってはいけないと教えていただくのだろう。
 この4月。妙深寺にはいいことばかり。満開の桜に囲まれていた美しい本堂にシールドが張り巡らされた。ついに、妙深寺の本堂の外壁工事を行うことにした。期間は2ヶ月弱。開導会までには全ての工事が終了する予定だ。本堂を、すっぽりと包み込んで、これから外壁の塗装だけではなく、老朽化した箇所の補修工事なども行う。大切な大切な本堂。しっかりと工事を見守りたい。
 しかも、ここで妙深寺の隣接地の森を、横浜市からお借りできることになった。妙深寺の「ふれあいの森」は、横浜市の事業用地としていたために半分だけの所有だったのだが、今回、すっぽりと、その森を使わせていただけることになった。本当に、本当に、ありがたい。奥山氏が動いてくださったお陰。私の夢の一部が走り始めたように思う。
 4月、いいな。ブログを更新していなくて、たくさん心配のメールをいただいたが、こういう状況。たくさんの方とお話もできたし、大切な御導師をスカンディアにもお連れできたし、申し分ない。気合い十分。よっしゃ、やるで。かかってこい、という感じだ。

2009年4月9日木曜日

我が身を知る

「我が身を知るを、佛に成るとは申す也」
上記のお言葉は、日蓮聖人のお言葉。


 世の中を知ること、いろいろな人のことやらを知って人間が上にいくのではなく、自分自身のことを知ることが人間として最も上にいくことだ、最大の目標だと。


 深い。よくよく、噛んでみるべきお言葉。当ててみよ。我が身を知るを、佛に成るとは申す也、と。我が身を知ってるか。

2009年4月7日火曜日

山際素男氏への追悼

 山際素男氏が3月19日午前11時18分、間質性肺炎のため東京都内の病院で亡くなったと報道で知った。享年79歳。惜しい方を亡くしてしまったと、惜別の思いを抱く。
 私は氏の著作の多くに触れてきた。中村元氏とは違う、生のインド、インド社会と文化を、圧倒的な知識と洞察力で日本に紹介くださった。氏の功績で、日本人は幻想的な天竺から現実的なインドへ意識が昇華したと思う。
 著書「不可触民-もうひとつのインド」、訳書「アンベードカルの生涯」「ブッタとそのダンマ」などは、インド憲法の父、ドクター・アンベードカル(Bhimrao Ramji Ambedkar)を私が理解するために欠かせなかった。賛否両論あるとはいえ、不可触民階級出身だったアンベードカル博士は、近代インドにおける仏教革新運動の原動力となった人物である。
 彼は、かの世界から尊敬を集めるガンジーと真っ正面から対峙した。インドが抱える本当の問題、ガンジーが立ち入れなかった(立ち入ったが、それは不十分だった)インドの暗部・最深部・病巣、アンタッチャブル(アウト・オブ・カースト、不可触民)は「ヒンドゥー」という「宗教文化」によって派生し、数千年もの間、決して顧みられることのなかった虐げられた人々がいたことを訴えた。
 彼は、ヒンドゥーという宗教から、インドが生んだ唯一無比の存在・ブッダの教えに帰入しなければ真のインドの平和、人々の真の幸福も得られないと断言した。そして、30万人を超す民衆と共に、竜樹菩薩(ナーガルジュナ)が活躍されたというインド中央部の都市ナーグプルに於いて仏教への改宗式を行った。
 私が、アンベードカル博士の理解を深めるために山際氏の著書や訳書は不可欠だった。仏教学者としてではなく、インドという古代からアジアの中枢であった地域社会と文化を広く理解し、「マハーバーラタ」などヒンドゥーの深部まで造詣のあった山際氏の見解は、非常に重かった。「仏教」の価値、ブッダの説かれた「平和」と「平等」の意義を、深く理解するサポートをしてくださったような感覚でいる。
 実際、ぜひアンベードカル博士の生涯を日米印の三ヵ国で製作してもらいたいなぁ、とひろし君に話していた。何度も言うが、近代インドの仏教刷新運動やアンベードカルの説いた仏教については賛否がある。他の日本の仏教界でも良いように取り上げては利用されてしまっている。ただ、アンベードカル博士の実像を、その生涯を、黒人差別よりも根深い差別と戦う闘士、新興国として注目されるインドの憲法を書き上げた偉人、かのガンジーと対峙した政治家として実物大に描いていただきたい、と。
 そして、その生涯を描くことによって、真のインドの姿、インドの抱える問題と課題、インドの未来、真の平和とは何か、真の平等とは何か、そして仏教とは何か、真実の仏教をも示唆し、描いていただきたいと話していた。もし、その映画を作るとすれば、日本で山際氏以上のアドバイザーはいなかっただろう。ぜひ、ご指導をいただきたいと思っていたのだが。もう、それも叶わない。
 映画を作るなど、自分の夢について語り、その夢の中に登場する山際氏が亡くなったことで惜別の思いを抱いているのはおかしく思うかもしれないが、それでもいい。ダライ・ラマ氏と面会する前にも、氏の訳書を読みあさった。本当に、惜しい方を亡くした。本当に、感謝している。残念でならない。

2009年4月6日月曜日

他国侵逼難について考える

 あまり、不穏なことを言い過ぎると、カルト宗教みたいと揶揄されてしまいそうだが、立正安国論上奏750年御正当の年に、実際日本の上空を、「人工衛星打ち上げ」名目で他国が長距離弾道ミサイルを飛ばした。これによって、近年まれに見るほどアジアを中心とした国際社会の緊張が高まり、特に北朝鮮と日本の関係は危機的な状況を迎えている。これは紛れもない事実。お祖師さまが「立正安国論」で仰せになったことを振り返るべき機会ではなかろうか。

 今から遡ること750年前、1260年(文応元年)7月16日、前執権で幕府最高実力者の北条時頼に上奏された「立正安国論」。時にお祖師さまは39才。この「立正安国論」はその後もお祖師さまご自身の手によって加筆されている。これは、「立正安国論」が、時の権力者・政治家に対してのみの書物ではないということを明らかにされたのである。身延に居を移された中の1278年(建治・弘安の交)聖寿57歳の御時に、この「立正安国論」は「広本」として後世の者に対して宣揚されている。このことの意義は大きい。

 新潟でジェンキンス氏とお会いした時にも書いたが、北朝鮮という国家の恐ろしさ、異常さは枚挙に暇がない。思想がもたらく国家、つまりは国民生活を、著しく危険な方向に導いている。

 大統領よりも権力のある一宗教者が国家を左右するイスラム国家、イランなどは現在もそうだ。選挙もあり、民主的な国家の体裁を整えているものの、これはこれで課題も多い。しかし、いずれにしても、事前に報告(警告?コンセンサスもなく一方的であったため)をしていたとしても、今回の発射によって緊張が高まっている。宗教と思想が国家にどれほどの影響を与えるかも考えさせられる。

 今回この時、今年に当たって、長距離弾道ミサイルの発射と他国との緊張の高まりの中で、いろいろと感じることがあるのではないか。少しでも、お祖師さまの立正安国論の中のお言葉に思いを馳せ、他国侵逼難をはじめとする自然界や社会の混乱や危機について考えるべきであろうと思う。

 恐れながら、何度もその御意を書かせていただいてきたが、つまり社会に満ちる「人の心」の間違い、誤りを、正しい御仏の教えに沿いながら生きれるように気づいていかなければならないということ。「信仰の寸心を改めて」と。

開導まつりのアトラクション

 気持ちのいい春。桜の木の下に子どもたちが集まり、「開導まつり 佛立ふれあい子ども大会」が開催された。
 多くのご奉公者、教養会のみなさま、ありがとうございました。子どもたちの笑顔、笑い声が森の中にこだまして、本当に素晴らしいご奉公になりました。
 前回の項でも書いたが、ボーイスカウトとガールスカウトの作ってくれたアトラクションは、とてもとても素人では作れないものばかり。「さすがスカウト!」と誰もがうなった。タイヤターザンは、10メートル近い木にロープをかけて、安全まで考えて作られたものだし、一本橋も、ボーイスカウトの平石君や伊藤君が丁寧に丁寧に作ってくれていた。
 ゴール地点には木の上の家のようになっていた。思わず、トム・ソーヤや未来少年コナンを思い出す。何もない木に、ロープと板を上手に使って基地を作るなんて。あっという間に作って、終了後には解体してしまうのが惜しいくらいだった。
 子どもたちは、まるでアスレチック・パークに来ているかのように、班をつくって楽しんでいた。ポイントラリーになっているので、みんながポップコーンを食べたり、プラ板(プラスチックに画を描いて、トースターで焼いてキーホルダーを作る)を作って遊んだり、他にもいろいろなアトラクションで遊ばせてもらっていた。

 お寺の中に、子どもたちの大きな笑い声が響くということがありがたい。子どもたちがいるということは、その親御さんがいるということ。若いパパ、ママがお寺にお参詣してくれて、一緒に遊んでくれている。顔ぶれも変わって、本当に嬉しかったな。

 特に、タイヤターザンは大きな絶叫、歓喜の声が上がる一大アトラクション。小さなお子さんでも、スカウトのお兄ちゃんが一緒に乗ってくれて、遊べる。お父さんやお母さんと一緒に乗る子もいる。お金をかけて作られた遊園地のアトラクションではなく、こうした自然の中の手作りアトラクションの方が嬉しいのではないだろうか。私の息子などは泥んこになって家に入ってきて怒られていたが(汗)。
 お寺と共にある暮らし。いいもんですよ。素敵なお寺に出会うと、人生にいいことがたくさん見えてくるもの。間違いない。ありがたい。

2009年4月5日日曜日

「声無くして人を呼ぶ」「桜梅桃李」

 妙深寺の「本化桜」が満開を迎えようとしていた。
 実は、老いたのか、衰えたのか、最近の気候のせいなのか、大きな枝振りなので上の蕾が花開く頃は地面に近い枝の桜の花びらは散ってしまっていることも多い。今年もそうなりそうだ。しかし、見事に咲き誇る桜を見ることができて、本当に嬉しい。嬉しく思えた。
 この前から、ご信心をされていない方々とお話しする機会が多かった。神奈川新聞を見て来てくださった方々、バーにも観桜会にも、そうした方々が多い。そして、ご信者の方がお連れになったお友だちも、大勢来てくださった。お会いできて、お話しできて、嬉しかった。「来年の桜まつりで、踊りのチームで参加したい」と申し出てくださる方も。もちろん、お願いします、とお話しした。夜の近隣の方を招いて行われる観桜会では、カラオケに代わる企画を待ち望んでいたのだから。
 司馬遷の「史記」に、有名な言葉がある。「桃李不言 下自成蹊」=「桃李ものいはざれども、下おのづから蹊(みち)を成す」と読むのだが、「桃や李(すもも)は何を言うわけではないけれど、花実に惹かれて人が集い、その下に自然と小路ができるものだ」という意味。
 長松寺の玄関を入って真っ正面。庭へ通じる窓の上に、開導聖人の御真筆で「無声呼人」という扁額を掲げている。この扁額の意味は「声無くして人を呼ぶ」というもので、まさに。「桃李不言 下自成蹊」と相通じる。上っ面の愛想笑い。硬軟を使い分け、パフォーマンスに頼った生き方。それでいいか。上手に上辺を繕って生きていても、そこに真実がない、実がない。結局、孤独、孤独、孤独。言葉で誤魔化せない。言葉で誤魔化さない。内面のギラギラしたエゴや下心を、言葉巧みに繕っている人間が多いが、それでは結局誰も付いてこないぞ、もっともっと奥を、謙虚に磨いていけ、と戒められているのではないだろうか。
 桃や李、そして、この桜も、声無くして人を呼ぶ。自然と人が集まる。だから、たくさんの人と出会えたし、お話しすることもできた。自分も、この桜のように、奥の奥の人間性を磨いて、悪いところを改めて、成長したい、本当に人間を練りたい、と思う。つまりは、信心を磨くことが大切で、そこが心の最も深い分を司るものだ。そうでなければ、また誤魔化す癖が出てくる。人間に許されたコミュニケーションの全てを否定するわけではないが、人間が年を重ねて生きてきて、テクニックやパフォーマンスで人を呼ぶのではなく、その人柄で人を呼ぶ、そういう人間になれなければ淋しい。
 古来から、「桜梅桃李(おうばいとうり)」という言葉がある。桜、梅、桃、李(すもも)。それぞれ独自の花を大いに咲かせよ、と。みんな、それぞれ良いところ、個性を磨きながら、美しく、その花や実によって人が集うように生きてゆけ、と。それぞれが、声無くして人を呼べるように。だから、本当の仏教、私たちのご信心とは、一つの極端な教義に押し込めようとするものではなく、様々な個性を持った人が御題目の下に集い、御題目をお唱えし、人を思いやる菩薩へと昇華し、現証の御利益を持って仏の境涯に近づくことを目指している。
 お祖師さま(日蓮聖人)が「桜梅桃李」をお使いになられてご指導されていたことが御義口伝の中に残されている。
「本門の心は無作の三身を談ず。此の無作の三身とは、佛の上計りにして之を云はず。森羅万法を自受用身の自体顕照と談ずる故に、迹門にして不変真如の理を明す処を改めずして、己が当体無作の三身と沙汰するが本門事円三千の意なり。是れ即ち桜梅桃李の己己の当体を改めず無作の三身と開見すれば、是れ即ち量の義なり。今日蓮等の類ひ、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は、無作の三身の本主なり云云。」
 つれづれに、満開を迎えようとする桜を見ながら思うところを書いていたら、こんなに長くなってしまった。
 とにかく、上っ面ではなく、人間を磨くことが大事。そうでなければ、どんなに言葉を巧みに使えるようでもボロが出る。本物じゃない。孤独になる。もっと、足下を見て、焦らずに、磨いていこう。人が集まるように。
 あなたはサクラ、あなたは梅。それぞれ素敵な花を咲かせられる。ピーチでもプラムでもいい。とにかく、言葉やテクニック、パフォーマンスで誤魔化さず、厳しい冬も耐えて、春を迎えよう。お互いに、根っこを育てよう、磨いていこう。

2009年4月4日土曜日

夜桜と同窓会

 昨夜、妙深寺の桜の下で、10年ぶりの同窓会。

 30名ちかくの友人たちが、高知や大阪、名古屋からも駆けつけてくれた。本当に、懐かしく、嬉しく、心から良い時間を過ごすことができて、感謝でいっぱいになった。

 ここにも書いたように、ちょうど1ヶ月前、後輩を失った。そして、同じ時期に高校時代の友人を失った。もう、あれから20年も経った。いろいろなことがあり、いろいろなことを抱え、それぞれの人生を歩んでいる。あの頃、いつも一緒にいて、語り合い、笑い、泣き、喧嘩もしたし、ぶつかりあった。スポーツが中心だった。海の仲間だった。バカで愚かなこともたくさんしてきた。

 振り返ると、いろいろなことを思い出す。思い出せる機会をつくっておかなければ、40を越えて、大切なものを失いそうで。とにかく、この10年ぶりの機会に、集まってくれた友人たちに感謝だ。

 若い頃の自分を知っている人間は、どれだけヤンチャだったか知っている。妙深寺で、ナガマツが何をやっているのか、どんな生き方をしているのかを少しでも知ってもらえたら嬉しい、と思った。ESPN時代、interproの頃の先輩や後輩も集まってくれて、もう言うことはない。ありがたかった。仲間は、何物にも代えられない大切なものだと、つくづく感じた。自分の人生の証人たちだから。過去にも責任を持たなければならないし、いま恥ずかしい生き方をしていたら怒られる。

 それにしても、みんな年をとった。集まれば、あの頃と同じように冗談を言い合い、腹の底から笑い、近況を報告し合う。若いつもりで話をしていたが、顔には皺が刻まれている。高知から駆けつけてくれた久くんは、大学時代から僕の友人。女房役のような存在で、自分のたずなを握ってくれていた。いつも一緒にいた。ジェットスキーのプロになって以来のメカニックを勤めてくれていた石崎パパも来てくれた。仲間の名前を挙げたらきりがないが、名古屋から土手鍋を持ってきてくれたヒロコも、小学生のお嬢さん二人と一緒に来てくれたし。軽自動車に鍋を積んで、東名を走ってきたって。すごい。

 大阪からは陶。千葉からサトウ。前田さんも突然駆けつけてくれて、胴上げ。和姉も、行も。タワーレコードのキタガワも当時の曲をCDに焼いてきてくれたし、IBMのジュンくんも、オークリーにいるマサも、ノリさんも、ヒロだって。鎌倉からコウジロウも、山井も。エンザンも山梨から駆けつけてくれた。みんな懐かしかった。ごめん、名前、ちゃんと全員出せるかな。とにかく、30名だもん。

 そして、その中枢にいた、ケイジ、カワダ、正太。相変わらずだな、俺たちは。笑って、笑って、語れたのが嬉しかった。伏見のゲンクン師からも、松戸からも、温かい贈り物が届いた。本当に、なにもかも、ありがたい。

 当時、「オヨヨ・トリオ」として名を馳せた美女軍団も来てくれて、アラフォーなのに相変わらず綺麗でした(汗)。とりあえず、そう言っておかないと怖いので(涙)。とにかく、素晴らしい時間だった。

 これから、もっともっと自分の生き方を貫いて、頑張らなければ。みんなに申し訳ない。友人たちに笑われないように、これからも友人たちに自分の生き方を共感してもらえるように、頑張りたい。

 当時、頼りない、だらしないキャプテンだったが、本当に集まってくれて、ありがとう。

2009年4月2日木曜日

京都へ

 今日、また京都へ。ほぼ、日帰りで。
 今夜は、九州での第3回 青少年の一座のウェブ会議が行われる。テーマは、「『今』あなたのためにできること」。
 この大会のウェブページも九州の実行委員会の方が作られた。ウェブ会議は、7箇所もの場所からアクセスして行われている。素晴らしいなぁ。テクノロジー、ありがたい。
 会議、頑張ります。みんなも、頑張ってる!! 

2009年4月1日水曜日

『人間をあきらめない』

 佛立研究所・佛立教育専門学校の研究発表大会で特別講演として東京都墨田区立文花中学校・夜間学級嘱託・見城慶和先生にお話をいただいた。
 「夜間学級」とは、戦争の爪痕が色濃く残る中、働きに出されたり家の手伝いに追われて昼間の学校に通えなかったりした子どもたちのために開設された学校。当時は学齢が主だったが、現在は様々な理由から教育を受けられなかった人たち、十五才から九十一才まで、国籍や年齢を問わず多くの方々が学んでおられるという。混迷する日本の教育、追い詰められた生徒たちや戸惑う指導者たちを前に、「夜間中学」は注目を集めている。
 その第一人者である見城先生が、『学ぶ楽しさ、素晴らしさ ~夜間学校での出会いや学びから~』と題してお話してくださった。まず驚いたのは、その柔らかい口調、心地よい声のトーン。
  「こんばんは」ではじまる学校。見城先生は戦後まもない頃、不安を抱えた生徒たちに希望を与えた担任の女性教師に感動して、教師への道を目指されたという。激動の戦後社会。日本を憂い、平和や差別の無い社会を願って苦悩し、安保闘争にも身を投じた。しかし、そこで挫折し、教師への道も諦めようとしていた時、この夜間学級に出会った。
  「こういう憲法違反の学校があるから、子どもたちが昼間の学校に行かなくなる」と憤慨して見学に行ったところ、学びたくても学べない人たちが、ここで生き生きと勉強している姿を見て心を打たれ、自ら求めて夜間中学の教師となり、以来四十二年間もの長きに亘ってこの教育現場の道ひと筋に歩んでこられた。
 夜間学級での出会い、生徒たちとのふれあい、そこで感じられた人間の可能性について教えていただいたように思う。人間は、一人一人違う。生きる速度も異なる。学ぶ速度、気づき、成長する速度も異なる。そうした生徒一人一人に寄り添いながら、教師と生徒の間に「感動」が生まれていた。
 特に、見城先生の人間への深い洞察と信頼、慈しみの心は、心を閉ざした数多くの少年たちを支え、育ててきたと知った。宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」を口ずさんで、演壇で優しく歌い出される姿に、何ともいえない親しみや温かさを感じる。それは、「菩薩の誓い」を立てた私たちが目指す「心から、声に、顔に、行動に表す菩薩行」のお手本のようにも思える。
 世の矛盾に憤り、理想に燃えた反骨の青年時代。そして、何度も挫折や失敗を味わいながら、人を慈しみ、向き合い、教え、導いていくことの大切さを知り、実践してこられた人生。私たちのご信心、菩薩行に、それは相通じると思う。
 人間は変われる。人間への信頼。人間への飽くなき働きかけ、それこそ『教育』であり『教育者』の原点、出発点でなければならないのだと感じた。
 同時に、人間を諦めないこと。人間を諦めなければ人間への機会を奪うことはない。人間の可能性を信じれば、人間への働きかけを止めることはない。人間に対して働きかけ続けること。人間は絶対に変われる。まさに、仏教である。
 私たちは、自分の尺度や自分の都合だけで、相手を非難したり、見下したり見放したりすることがある。時間には限りがある、物事には限度がある、といえばそうだ。家庭でも仕事でも、許されることにも限度がある。
 しかし、相手を非難することはたやすい。門を設けて退けるのも、相手を突き放すのも、烙印を押すこともできるが、長い目で見れば何かが欠けているように思う。
 人間への愛や信頼。人間とは、圧倒的に愚かな面も持っていて、そうした部分を見ていると戸惑うこともあるが、それでも、いつかその人も分かってくれるはずだ、変わるはずだ、気づくはずだ、と可能性の部分を信じることが出来なければ、いつか自分まで信じることが出来なくなると思う。
 こちらが諦めてどうする。永遠に、人間を諦めずに、働きかける、接していく、教えていく、待っている、共に動き、共に考えていく。それこそ、真の仏道、菩薩行実践ではないか。
 一人が変われば世界が変わる。諦めたら何も生み出せない。投げ出してしまったら、何も生み出さない。変な期待感でも駄目だろう。期待が強すぎれば見返りを求める。相手を変えたいと思う以上に自分を変えなければならない。自分が向き合う姿勢を変えなければならない。自分が変わり誰かを変える。誰かを変えようと努める。人間を諦めない。ずっと働きかけてゆく。
 精一杯の働きかけを続けること。その人に届くには時間がかかり、通じないこともあるだろう。逆に暴走し始めることすらある。期待を裏切り、気持ちを踏みにじられることもあるかもしれない。
 しかし、相手は相手。その人の果報、罪障、カルマ、流れ、能力、環境、いろいろと違う中で生きている。とにかく、こちらが最大限の努力を払うということ以外に、何の道があるというのか。逆に、また相手を恨むか、切り捨てるか、世を恨めばいいのか。投げだし、傷つければいいのか。いや、違う。それでは、自分が不幸になる。
 万物の霊長といわれる人間には、無限の可能性があると同時に悪魔のような愚かさがある。人間は、菩薩にもなれるが、鬼にもなる。素晴らしく、恐ろしい。その内にある可能性を信じて、そこに種を植え、そこを耕し、発芽させて、育ててゆこうとする。諦めずに、働きかけを続けていく。そう教えていただくのが仏教であり、実践するのが佛立菩薩の私たちだ。
 開導聖人の御指南、「心の鬼が地獄へつれ行き、心の菩薩が寂光へ導くと云う事、此一句を口ぐせの様に云いなれて、能々味わいて、御法門聴聞に行く道々にも心にたくわえ、御看経の時にも忘れず、朝起きても一番に思い出し、一日暮れて夜臥す折にも、心の鬼が地獄へつれ行き、心の菩薩が寂光へ導くと、一日二日三日乃至一年十年一生の間忘れざれば、臨終の時には心の菩薩が寂光へ導かせ給うもの也。御臨終の夕べには、日蓮必ず御迎いにまかり向かうべしとは是なり」
 働きかけを続ける自分自身も、愚かな、恐ろしい面を持っている。自分だけが正しいことなどない。自分も共に学ぶ。お互いに誰かの働きかけが必要なのである。
 御題目を唱え重ねて、鬼を止め、菩薩を育てる。人間を諦めない。

妙深寺報 4月号

 妙深寺報、4月号。桜の季節だから、桜が表紙。いつにも増して、素敵な表紙です。ありがたい。
 花粉も、だいぶん少なくなってきたかと思ったら、これまでの薬漬けがたたったのか、鼻の中がガビガビに。こまったもの。強い薬には副作用があるのかな。昨日、耳鼻咽喉科に行ってきました。こういうところがダメなのかな。花粉症も何もかも、お供水で勝負しないところが。
 巻頭言もあとで掲載するが、「人間をあきらめない」というタイトルで載せさせていただいた。先月は門祖会の御法門を掲載して巻頭言に代えた。今月も春季総回向の御法門が掲載されるから巻頭言はそれに代えられると思っていたのだが、清従師からダメ出し。「ご住職、それはダメです」と。すいません、頑張ります、ということで、このブログにも掲載させていただいた文章を元にして出させていただいた。
 横浜の空は、今朝雨を降らした。月始総講の前だったのだが、「あぁ、雨かぁ」と思ったのだが、ちょうど今日の御法門と合致して、素晴らしいタイミングだった。
 今日の月始総講の御教歌。
人の世は花待ころの春雨の いたづらならでふるよしもがな
 桜の開花、満開を待つ私たち。花を待つ今、拝見させていただいた。桜の開花、春を待つ気持ちに水を差すような、寒の戻りや春雨。「あぁ…」と思うけれど、実は、固く閉じた蕾をほころばせるために必要な訳、雨の降る理由がある。
 私たちも、人間として生を受け、悪循環から抜け出すために、罪障を自覚して、目の前に起こるイヤな出来事に一喜一憂することなく、御仏の示された正しい道を歩んでいく。御祈願の途中、「いよいよ、御利益が顕れる」という直前に、思いも寄らぬことが起こることもある。しかし、そこにも理由がある。訳がある。それで止めてどうする。
 そうした、興ざめするような、冷や水を浴びせられるような、気持ちが萎えるような出来事にも、理由がある。それは、本当の御利益を現すため、自分の最も悪い点を直していただくため、気づかせていただくために、理由があるものだ、と。
 有難い春雨だった。本当に、ありがたい。

春季総回向 御法門

 今年の年頭からお話をしておりますが、いよいよ大変な世の中を迎えております。みんなで一生懸命、心を強く、ご信心を立てて暮らしていかなければなりません。法華経の教えは、蓮華の教えですから、泥の中にあってなお美しい花を咲かせる、人々に元気を与えるような人間を目指していただきたいと思います。

 それでは御教歌を拝見いたします。

「となへよや 上行所伝の 題目に  秘事も口伝も 入った物かは」

 この御教歌は、御題目口唱の中に、何をするよりも大切な功徳がある。その御題目口唱の功徳が彼方に届いて、現証が顕れる。御題目をお唱えしなさい。そこに全てが含まれますよ。そのことを知って、そして、唱えなさい。そうお教えいただく御教歌であります。

 「秘事」「口伝」というのは、各々の宗門に伝わる祈祷や呪詛、護符のような類、その他の伝えられている教え、ということです。 私たちがお唱えする「御題目」は、万法具足と申します。世にある法という法、御経という御経、神力という力、超能力だろうが霊能力だろうが、秘術、秘伝、どの国、どの地域、どの宗教に伝わる口伝も、全て「具足」、つまり「備わっている」「入っている」のです。

 それなのに、多くの人は、違うものをまぜこぜにして迷う。御題目を唱えず、あるいはそれに並べて、念仏を唱えてみたり、般若心経を唱えてみたり、違うものをやったりする。その方が効きそうだという。でもそれが実は不幸の原因になっている。届かない。助からない。ご回向にもご供養にもならないから、御題目一筋になることが大切とお教えいただきます。

 お祖師さま、日蓮聖人の御妙判(お言葉)に、「この南無妙法蓮華経に、余事(他のこと)を交えば、ゆゆしき僻事(ひがごと)也」(上野殿御返事)また、開導聖人の御指南に、「たとい、その宗その門の秘事・口伝といえども、本師(仏さま)の経文に合わざれば皆人師の私(わたくし)の邪説也」(佛立要談)とお示しで、御題目に混ぜものをしてはいけない、ゆゆしき心得違いであるぞ、と。また、いろいろな宗派がそれぞれの説を立てているが、それがもし仏教の根本、「仏さまの教え」に合わなかったら、それは人が勝手に作った邪説、間違った説である、とお示しです。

 さて、今日はお彼岸です。今日、この日は先祖を思い、亡くなった縁のある方を思い、お弔いをするとき、仏教の尊さを思い起こすときです。

 今日は、「御題目をお唱えすることが何よりのご回向になり、功徳になる。それは亡くなった方のためだけでなく、自分自身の人生をよりよくするものだ。他に混ぜるものや加えるものはないんだ」ということをお話ししたいと思います。

 「彼岸(ひがん)」と「此岸(しがん)」とは、亡くなった人の世界を「彼岸…あちらの岸」、現在私たちが住む世界を「此岸…こちらの岸」と言います。死なない人間は誰もいませんから、みんないつかは彼岸に行く。その、あちら側のために、今、こちら側でできることがあるということを知って、実践しなさいとみ仏は教えくだされているのです。

 あちら側。彼岸というと、私たちからは見えませんから、「遠くにある」と思う。しかし、実際は近い。見えないけれど、ここにある。だからこそ、こちら側に生きている人も、身近に影響を受けている。それで苦しむ人もいます。

 見える世界、見えない世界、それはハーバード大学理論物理学の教授、リサ・ランドール女史の示す多次元構造にも似ています。

 「西方極楽浄土」などといえば「彼岸」は「遠く」に感じてしまうが、真の宇宙の姿は私たちの身近にシャワーカーテンで仕切られたくらいの状態で、もっと大きな世界が「身近」にある。身近にある多次元の空間を「死後の世界」「霊の赴く先」と言い切るのは乱暴ですが、通常は「知覚」はできない世界が身近にあることには違いありません。そして、仏教では、彼岸と此岸は相互に関係していると考えます。

 その一つの顕著な、悪い例に世間でいう「霊障」のようなことがあります。彼岸からの影響で苦しむ人です。亡くなった縁のある人であっても、死んだらほったらかしで、誰も思い返さない、供養しない。それが「助けて」というような何らかのサイン、メッセージを送っていて、それを受け取って苦しむ。物事がうまくいかない。

 遠い「彼岸」に行ったはずの亡くなった方が、「此岸」に生きている人間に「なんらかの影響を与える」、こういうことは、信じられないかも知れませんが、現実にあるものなのです。

 深層心理学の世界的な科学者であるカール・ユングは、当時流行していた「降霊会」に二〇〇回以上参加して、それらの「ウソ」を見破ったほどの人です。そのユングの「オカルトの心理学」という本には、自分自身どうしても納得もできない、説明もつかない現象に遭遇したことが書かれている。

 ロンドンの古い屋敷で体験したこと。金縛りに遭い、廊下で衣をひきずる音が聞こえ、極めて奇妙な体験をした。彼はこの現象を科学者としてつぶさにレポートしています。彼だけではなく、同じ部屋に泊まったX博士も一緒の体験をした。その後、そこで亡くなった方が影響を及ぼしていたのではないかということが書かれています。

 いずれにしても、見える世界のことだけで生きていて、あちらの世界のことは全く知らない、死んだら終わりだ、信じないという人よりは、「人間には見えないものがあり、そうしたものとつながっている」と、見えない世界の大切さを思う人の方がマシです。しかし、単純に世間一般の「霊」の考え方に囚われていたり、何でも霊のせいにして済ますようなら唯物論者よりもタチが悪い。

 一般的な世間の人の考え、問題の見方、その対処、処方、薬、治療法は、正しい仏教とは異なる点が多い。間違った受け止め方をするのではなく、正しく受け止め、正しく解釈し、正しく対処するということが大切です。それが正しい仏教、私たちのご信心です。

 十六日の夜、あるご信者さんが京都の長松寺にお友だちをお連れになりました。この方は二十代の女性でしたが、話を聞いてみると、おじさんが亡くなったときから、おかしなことが続いているということでした。

 おじさんは一人身で、病気になってからお姉さんと彼女の二人がずっとお世話をしていたそうです。それで、おじさんが亡くなった後、真言宗のお寺でお通夜とお葬式をしたということですが、そのお通夜の最中にお姉さんの具合が悪くなり、身体が異様に重たくなって、頭痛とめまいがはじまり、お通夜を途中で退席した。その後、七日ごとの法要でもお経を聞くたびに苦しくなって、おかしくなってしまう。

 それで妹さんが心配になり、お友だちが本門佛立宗のご信者さんだったそうで、大阪のお寺にお連れして御題目をお唱えし、懐中御本尊をお借りして、ご回向をはじめた。それから、不思議とお姉さんの体調は回復していった。

 ところが、今月の十四日、こんどは妹さんの方に変な現象が現れてきた。夜中、一晩中うなされ、金縛りのように身体が動かなくなる。耳鳴りや身体の重たい感じも始まった。これは変だなと思って、もう一度本門佛立宗のご信心をしている友人に相談し、そして長松寺に来られた、ということでした。

 こうした方の抱える問題の見方、対処、お話の仕方を、世間の間違った考え方ではなく、正しい仏教の筋を伝えて、苦しみから抜け出していただかないといけない。こうした方は、実は長い間ずっと彼岸から人生に何らかの影響を受けて辛い経験をしている人が多いからです。

 実は、こうしたお話はよくございます。昨日の夕方にも、全く違うケースですが、同じようなお話を受けておりました。ですから、いろいろなケースがあると思いますが、変な考えにとらわれず、何とか正しい対処の仕方、お話の仕方を知って、そこから抜け出し、乗り越えるお手伝いができるようになっていただきたい。

 まず私たちは、そのご姉妹のようなお話を聞いても、「あぁ、それは霊のたたりだ」とか「うん、見えます、おじさんの霊が」とは言いません。「そういうこともある」という程度です。あちらの世界のことは、驚き、怯えることではなく、「知っている」というレベルで受け取る。仏教では単純な霊能力は禁じ手です。開導聖人も「霊感のある人」を誡められました。だから霊媒師のようなことをするのは、仏教でも佛立信心でもない。

 ご姉妹には「元来、感性の強い方ですね」と話しました。そして、「しかし、感性が強いということは幸せなことばかりではありません」と続けます。感性が強くても余計なものまで見えていたら不幸になる。人生という運転ができなくなる。危うくなる。最も大切なのは「では、どうするか」。それは「南無妙法蓮華経」とお唱えすることです。

 この「南無妙法蓮華経」の御題目というのは、仏教の究極の法、マントラです。「南無」という部分が似ているからと言って、「南無妙法蓮華経」を「南無阿弥陀仏」と同じように考えてはいけません。全く違う。本物の仏教は、仏や神の名前比べ、力比べということではありません。「南無阿弥陀仏」は「阿弥陀仏」に対して祈っている。これでは、じゃあ「大日如来と釈迦牟尼仏は?」「毘盧遮那仏は?薬師如来は?」というようになり、西欧まで広げれば「では、ユダヤ教のヤハウェは?」「キリスト教のエホバは?」「イスラム教のアッラーは?」と、どれが一番力が強いだろうかと、力比べになってしまう。 御題目は別次元です。御題目は「法」です。「なぜ、仏が生まれたか」「なぜ、神が生まれたか?」という、その奥の奥、根本に当たる「ダルマ」「法」です。諸仏諸天善神の出生の門。

 新約聖書に「ヨハネの福音書」というものがあります。そこには、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」と書かれている。この「ことば」についてキリスト教徒は本当の意味を知らないはずです。でも仏教徒なら分かる。

 御題目は究極の法、それは「音」「声」「バイブレーション」です。最初にあった法は「ナムミョウホウレンゲキョウ」。声と声、音と音でシンフォニーをつくる。それが、彼岸にも此岸にも行き渡る。

 もう一つ、私は本当に凄いと思った体験があります。松本依子さんという方が、その方は、大変な問題を抱えておられて、お助行をさせていただいたんですが、終わって帰ってきたとたん、私は体がどうしようもなく重くなってバタンと倒れて眠り込んでしまった。それから十七時間くらいずっと寝続けて、全然記憶がない。起きたら次の日の夕方でした。それで起きて本堂に上がりお看経しようとしたんです。そうしたら、口の所を誰かの手でグッと押さえられたようになって、御題目が唱えられなくなったんです。「あ~」しか言えない。こんなことは初めてだった。

 これは困ったなと思って、先住のところに行って「僕は何かに取り憑かれてしまったようです。御題目が唱えられなくなりました」と言ったら、先住は一言「おまえの信心が足りないからだ、バカ!」と一言。(笑)

 それで仕方なく本堂に戻ってきて、夕看経の当番だったので鑒座に座ってお看経を上げた。「あ~」「あ~」ばかりで御題目が出ないんです。それがずっと五十分くらい続きました。最後終わる直前で、ポンって取れて「南無妙法蓮華経、あっ」って唱えられたんです。そうしたらそれと同時に肩をポンポンと叩かれて、ビックリして飛び上がった。鑒座ですからね(笑)。普通、誰もお看経中に肩を叩きません。でも、それは越前さんだった。その時、もう一件お助行をしていた、行方不明の方が見つかったという連絡だった。しかも、松本さんと同じご病気の方だった。あの、同時のお計らいというか、不思議な現証は、もう鮮明に覚えています。

 御題目を唱えるということが、どれだけ力があって、見えない世界にまで行き届いて、それをグッと変えてくださるか、功徳を積ませていただいて、お計らいをいただくか、実体験として感じさせていただきました。その結論はやはり、先住が教えてくださった、「信心が足りないんだ、バカ」ということなんです。何を寄り道しているんだ、早く本堂に上がれ、とにかく御題目を唱えてみろ、ということなんです。

 世の中に「霊障」というものが確かにあるとしても、御題目を持ってるご信者さんは、「如風於空中・一切無障礙」。どんな障害があっても、風が空中で一切妨げがないように、御題目で障害をはらしていただける。風のように自由に、何ものにもとらわれない、霊のせいにもしない、本当に真っ直ぐな人間の生き方ができるようになる。変な護符も、お祓いも、御守りもいりません。秘術も俗説もいらない。それで霊は静まらない(笑)。自己満足のレベルです。

 とにかく、遠回りすることなく、とにかく実践で御題目をお唱えさせていただくことです。本当のご回向をさせていただき、晴れやかな人生を歩んでいただきたい。いま、霊障に悩んでいる人がいたら、伝えてください。御題目に全てが込められている。本当の自由を手にしてください。彼岸、此岸。亡くなられた方への感謝、供養をしっかりさせていただいて、人生をより幸せに。そのために、御題目を唱え重ねる、それ以外いらない、そこに全てがこめられている。とにかく、唱えなさい、とお示しただく御教歌です。

長松寺の庭

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