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2022年9月1日木曜日

御教歌「天つちの 中に霊たる 人として などかはきつの 眷属となる」

2022年09月01日 月始総講・日晨上人ご祥月法要・関東大震災百回忌

御教歌「天つちの 中に霊たる 人として などかはきつの 眷属となる」

2011年1月21日金曜日

ヤカン信心から水の信心へ

昨日の教区御講は、大先輩ご信者さんの小松嘉秋ご夫妻のお宅で奉修されました。

ご主人の嘉秋さんは87才。ご高齢ではありますが、ご信心が強く、本当にお元気です。身体でコツコツと実践してこられたご信心は、今でもご夫妻の人生を支え、輝かせ続けています。

ご高齢ながら、ふと気づくと誰も見ていない本堂裏の階段で、法城護持のお掃除をしてくださっています。一人で重たい掃除機を持ち、一段一段、丁寧に掃除機を当てられていて。そのご奉公の姿勢には、本当に頭が下がります。

今回の教区御講では、護持御本尊をお迎えになられてから50年を経過した御礼御講を併修させていただきました。昭和30年代、結婚したばかりの小松さん夫妻に、久子さんのお母さまが護持御本尊と御尊像をお迎えするようにお話されたそうです。ご主人はまだ何も分からなかったそうですが、その教えを素直にお受けしました。また、御講師方にご指導をいただきながら部長のお役を受けて、電電公社に勤めながら、帰宅したらすぐにお助行などのご奉公に出掛ける毎日。手探りながら、部長としてご弘通の最前線に立たれてご奉公くださったとのこと。

昭和30年代、乗泉寺で行われた日博上人のブラジル帰国報告会にお参詣され、直接そのご講演を聴かれた小松さんご夫妻。横浜に転居されて妙深寺の所属となり、ご主人は妙深寺の中央連合の連合長として、奥さまは永年上星川教区の名教区長としてご奉公くださいました。

人生には様々な日がありますが、今日まで、こうして健康で、心豊かに、ご夫婦共に過ごされてきたことを感謝したスピーチ。本当に、尊い。90才を目前にして、生涯通じてご信心をされてきた方が、「御法さま、ご信心のお陰です。ありがとうございます。」と仰せなのは、私のような若造の言葉と比べものにならないほど重たく、確かな響きを持っております。

本当に、お手本です。現在、上星川教区では黒崎さんの行動力によって「男助行」が盛んになりつつありますが、この中で往年のご奉公を為されてきた小松さんの教えや経験が輝いていると聞きました。後継の男性諸氏にとって、とても貴重なお話なのだそうです。黒崎さんや桑原さんがそう言ってくれるのを意気に感じて、また小松さんもご奉公の使命を感じてくださっている。有難い、功徳の循環です。

開導聖人は「信心用心抄」という御指南書に、次のようにご信心の仕方の間違い、悪い癖をご指摘です。

『「薬罐(やかん)信心」飛びたつように沸けども、冷えること早き信心を云ふ。
「雇はれ信心」御講も教化も一向にかまはぬ。雇はれ賃だけもらへばよしの信心を云ふ。
「居候信心」これ、教化する心なく、只御法にやしなはれて居るのみの信心。但し教化はでけずとも勧むる心あるは居候にあらず。
「中風(昔の脳卒中)信心」信心しびれ。幾度御利益をうけても其の時ばかりの信心を云ふ。
「高なぐれ信心」我よしの慢心。法門も知り顔して、売らず買はずの信心を云ふ。
「猫かん信心」有志参詣もだんだん後さがりの、猫に紙袋のようの信心を云ふ。
「め◇ら信心」相方かまはずの折伏、人を腹立たせ信心さますを云ふ。
「徳利信心」我が信心の腹は大きけれど、人に勧むる口小さき信心。二乗に近し。
「ぶう竹信心」声は大きく信者らしけれど、それ程に役だたぬ信者なり。
「ミミズ信心」折伏せざればのろのろと出るが、折伏すればびっくりして引っ込む。ミミズの如し。
右十条信者の悪癖。これをのがれて教化を心がけ、御法を敬ひ骨惜しみなく信行如才なき人、貴賎老若賢愚にかかはらず、必ず成仏す。誡むべし。』

お祖師さまは、南条時光さまに宛てられたお手紙で、次のように御妙判くだされています。

「抑今の時法華経を信ずる人あり。或は火のごとく信ずる人もあり、或は水のごとく信ずる人もあり。聴聞する時はもへたつ(燃立)ばかりをもへども、とほ(遠)ざかりぬればすつる心あり。水のごとくと申はいつもたい(退)せず信ずる也。此はいかなる時もつね(常)はたい(退)せずとわ(問)せ給ば、水のごとく信ぜさせ給へる歟。たうとし(貴)たうとし。」

とうとうと流れる、ゆるぎない、絶え間ない、大河のような「水の信心」を目指したいものです。

2010年8月18日水曜日

龍二

 今朝、龍二がお参詣してくれました。
 久しぶりのお参詣でした。彼のプライベートのことで話をしたいと思っていたので、会えてよかったです。
 龍二とは、今から18年近く前に、はじめて会いました。
 出会った時、父が瀕死の状態から一大現証の御利益をいただいた直後でした。頭蓋骨骨折、脳挫傷、頭蓋底骨折、脳内浮腫などの状態から、見事な復活。お医者さまが、「奇跡」「信じられない」と仰るほど、お助行でいただいた御利益を実感した時のことです。
 その日、板倉さんがお友だちをお寺に連れてこられました。お話を聞くと、その方の息子さんが交通事故を起こし、現在も意識が回復しない。すでに数ヶ月が経とうとしている。もう、一生この状態になるのではないか、と泣かれていました。

 私は、必死に自分と自分の家族が体験したこと、父の回復についてお話をしました。受持は深恭師だったと思います。とにかく、このご信心は私たちと同じようにご家族を助けてくださる、御本尊をいただいて、枕の側で御題目をお唱えしていただきたい、とお伝えしました。

 家族の苦しみは同じ。この状態がいつまで続くのか、元気だった息子が戻ってきてくれるのか、本当に、家族の不安は想像を絶します。普通なら、ベッドの側で見守るしかありません。でも、ご信心さえさせていただけば、できることがある。祈る、祈れる、唱える、届ける、届くのですから。

 そして、中央連合という地域の大きな御講で、たしか矢部さんのお席だったのですが、先住が意識不明の岩本龍二くんの入信書を読み上げ、ご宝前にご祈願を言上されたその日、信じられないかもしれませんが、龍二くんの意識が回復したのです。ウソみたいな、本当に話。それが、本門佛立宗の信心なのですが。
 お祖師さまの御妙判の通り。
「妙とは、蘇生の義なり。蘇生と申すはよみがへる義なり」
 とにかく、あれから20年近くも経っています。今でも龍二の頭には事故で受けた傷跡、ボコッと凹んだ部分がありますが、元気に仕事をして、普通に暮らしています。
 今日は、久しぶりのお参詣。「久しぶり」ということを僕に叱られて(笑)、それから龍二のプライベートについて相談。大切な女性がいるということで、ゆっくり話をしました。なぜか、幸せな気持ちになりました。

 今日もまた、
 「くるしみを 人ののがれし よろこびを きくばかりなる たのしみはなし」
 ありがたいことです。真実の信仰だから、ずっと御利益が続いていきます。続いていかなければなりません。

 芽衣も落ち着いているようです。今朝、芽衣ちゃんのご両親、柴ちゃんと朋美ちゃんがお参詣され、ご報告いただきました。
 本当に、ありがとうございます。

2010年6月25日金曜日

『憚りながら』

『憚りながら』。すごい本ですね。

巨大宗教団体、政治団体。その実態を、闇の世界から明らかにしています。裏側を知り尽くした本人からの赤裸々な告白。証人喚問まで要求しているのですから、否定のしようがありません。

純粋な方々もいると思いますので、その方の未来を考えると恐ろしく、哀れです。しかし、そう言っているだけでは済みません。何とか、一人でも多くの方々に、目を覚ましていただかなければなりません。

選挙となれば800万票を集めるという団体の実態です。暴力団やこうした闇の活動によって、これだけの票を積み重ねてきたと考えれば、国家の危機です。

お祖師さま(日蓮聖人)は御妙判。
「かゝる日蓮を用ひぬるとも、あしくうやま(敬)はば国亡ぶべし。」

政治力や資金力を利用して、海外にも広く布教している団体ですから、もはや「悪く敬ったら、国が亡ぶ」では済みません。「世界が亡ぶ」ことになりかねない。

この本には、暴力が溢れていますから気分を悪くされる方もおられると思いますが、『憚りながら』、一読して世界中に伝えるべきことがあると思います。

圧力のために書店から消えているとも聞きますが、是非お読みいただきたいと思います。佛立とは、全く異なる価値観です。amazonで、買うのがいいかもしれません。

それにしても、暴力団の元組長だけではなく、過去の公明党委員長らが次々に告発本を出しているのは異常な事態です。矢野 絢也氏の著書「黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録」なども、壮絶な内容です。

世界各地に信徒を擁する宗教団体です。法華経とお祖師さまの教えをいただき、御題目を唱える宗旨です。「悪しく敬って」いることに、ほとんどの信徒が気づいていません。

その実態を知り、私たちの為すべきことにも気づかなければなりません。

御教歌
「わが店のはやらぬ故によその邪魔 むだに暮して棒を折る也」

2010年5月1日土曜日

『お知らせとお叱り』

 真実の仏教だからこそ、生きておられる御仏、お祖師さま、普遍にして不変の御法さまだからこそ、この信仰を始めた直後から様々なサインが現れてくる。

 見るもの、聞くもの、出会う人、電話やメールが来るタイミング。目の前で起こるすべての出来事は、偶然ではなく必然であると気づく。最近世間にはそう「思い込ませる」手法が溢れてきたが、真実の仏教では、事実この宇宙が御法を中心とした法則に則って動いていると「知る」「気づく」ことができる。

 有難いことだ。この「御法」にお出値いした者が手にする功徳や御力を思えば、打ち震えるほどに有難いと思う。ダメなものがダメではなくなる。最大の不幸も最高の幸せに変わる。この上行所伝の御題目をお唱えすることによって、その人は確実に「現証の御利益」をいただく。「願う所、虚しからず」「妙とは蘇生の義なり」等云々。

 しかし、私たちの信仰は狐狸の類に油揚げをあげて「現世利益」を求めるのとは訳が違う。決してこの点を勘違いしてはいけない。

 「現証の御利益」とは「現世利益」ではない。自分に都合のいいことを「現世利益」と言うなら「現証の御利益」はそれのみを指さない。

 生きている御法さまだからこそ、欲深い私たちにとって都合のいい「サイン」のみが御利益ではない。

 人間は、喉もと数十センチの欲のために身体全体の健康を害する。その愚かさを医師は教えてくれる。同じように、凡夫の願うところや考えと、人生の幸せとは相反することが多い。つまり、凡夫の願いを叶えてくださる御法は、同時にその愚かさも教えてくださるのだ。

 本当の「現証の御利益」とは、幸せの道から外れないように、時には励ましのご褒美をくださり、時に軌道修正を促してくださるものだ。

 生きた御法さまからのサイン。嬉しいサインもあれば、厳しくて受け入れがたいサインもある。

 「御罰」というとアレルギー反応を起こしてしまうだろうか。いや、それこそが間違いである。御利益は欲しい、しかし、御罰はコワイ、いらない。心情は理解できるが、それは間違い、勘違いである。

 「御利益速かなる故に、御罰も又必ず来る。御罰来らざれば御利益も有べからず」

 御利益と御罰は表裏一体なのだ。単に忌み嫌うのが御罰ではない。西欧の「神罰」と混同せず、真実の仏教が説く御慈悲に溢れた「御罰」の意味を知っていただきたい。

御教歌「罰といふ御折伏のなかりせば われらに信は起らざらまし」

御指南「御罰即御利益也。御罰の当らぬは真の御罰也」

 考えて欲しい。あなたは、この「御罰」「お知らせ」「お叱り」を、今、いただけているだろうか。

 実は、末法では御利益よりも、御罰やお叱りの有無が、御本意に叶い、御法さまに通じたご信心かどうかのバロメーターになる。

 「なんであんなにイヤな人なのに、幸せなのかしら」

 「真面目に信心してる私には苦労があって、信心してない人の方が幸せそうよ。なんで?」

 こんな風に思ったことはない?私だけかな(笑)。いや、七百年前のお祖師さま(日蓮聖人)も、開導聖人も、同じ設問を設けて、この疑問にお答えくださっている。

 開導聖人の御指南。
 「信者にて懈怠謗法して罰のあたらざるはいかん。答曰。手習子に習はせ置て、いまだ直しに及ばぬ間のごとし。されば家来にも弟子にも呵らるるは見処あるが如し」

 第一には、まだ指導するに至らない、準備段階という御意。第二の理由はその人の素質の問題。叱って伸びるか。言って分かるか。あるいは、言っても分からない相手か。

 末法有縁の大導師、お祖師さまは、さらに核心を諭されている。

 「一闡提の人になりぬれば、順次生に必ず無間地獄に堕つべき故に現罰なし」(開目抄)

 厳しすぎて二の句もない。御罰がバロメーターとなる最大の理由である。

 同じく開導聖人の御指南。
 「賞罰の目に見えぬ人あり。如何。順次生に堕獄の人、今生にとがめなし」

 世界は一見すると一昔前よりも豊かになり、人も賢くなったように思う。しかし、末法は恐ろしい悪業を背負った者の生まれる時代。嘘を重ねて周囲を苦しめ、自分も傷つき、改良せず、命を浪費する。それが、仏法に最も縁遠い末法の人々、「一闡提」という。彼らはその罪障の深さから臨終して間もなく恐ろしい境涯に堕ちることが決まっている。逃れようもない。だから、悪業を放置する人には、軌道修正の為の「サイン」もない。

 何も起こらない状態。何となく過ごせている。穏やかな日々かもしれない。普通はこれが一番いい。しかし、そこに落とし穴はないか。アリとキリギリスの寓話のように、今の幸せは不幸を先送りしているだけで、その先には大きな不幸が待っているとしたら落ち着いてはいられないはずだ。

 「御罰の当らぬは真の御罰也」

 何もないのは、一闡提の罪障や謗法の業からで、実は御法さまに見放されているのかもしれない。御利益は欲しい、御罰はいらない、ではなく、御法さまが「見所」があると見込み、軌道修正を促してくださる「お知らせ」や「お叱り」を喜ぶ。この「サイン」があれば恐ろしい境涯に陥ることはない。その逆は最も恐ろしいことになる。

 永遠の寿命を持つ御仏が、なぜ御入滅されたか。如来寿量品にはその理由が説かれている。

「常に我を見るを以ての故に而も 恣の心を生じ放逸にして五欲に著し悪道の中に堕ちなん」

 常に私がいると思えば堕落する。故に、恋慕渇仰の心を起こさせ、仏道精進をさせるため、「近しと雖も而も見ざらしむ」。そしてお姿を隠された。

 しかし、今の私たちは、御本尊を通じて「常に我を見る」果報をいただいている。信徒であれば家に御宝前があり、御本尊を拝見しようと思えば拝見することが出来る。残念ながら、そうして安心し、油断してしまうのだ。これが落とし穴になる。「放逸にして五欲に著し」てゆく。その時、生きてまします御仏はお隠れになる。見放されてしまう。御罰もいただけなくなる。

 「信徒の中にも治し難き病あり、病名を古法華と云」(名字得分抄)

 十代、二十代でも古法華になる。何十年、何代目といえば、なおさらだ。本音と建て前を使い分け、謙虚さを失って侮る。自屈、上慢、二乗心。ある時は敬い、ある時は尻に敷く。縁故と情実のみで判断し、動いてしまう。「古法華利益なし」と言うが、御利益が無くなるなくなるのはもちろんだが、それ以上に、改良のきっかけである「御罰」すら与えてくださらないことの恐ろしさを感じなければならない。

 末法悪世、苦しむ人が溢れている中、幸せだ、晴天だと喜んでいても、それは御法さまが呑気な奴らだと見放してしまったからかもしれない。そのセンス、その感性を失うな。それが信心。「お叱り」がいただけなくなれば終わり。改良の機会を見逃すな。

 「天の為せる災は逃るべし。自ら為せる禍は逃れ難し」

2010年1月24日日曜日

大介くんと由香ちゃん

 昨日の素敵な結婚式。2組目は大介くんと由香ちゃん。昨年、結婚式を挙げたのだが、由香ちゃんの篤いご信心から、どうしてもご宝前で結婚の言上式をさせていただきたいというお話をいただいた。夫となる大介君は、ご信心のことは何も分からなかった。お寺の前まで迎えに来たことはあったという。しかし、お寺の中に入るということはなかったようだ。

 昨日、15時からの第二本堂。厳粛な中でもアットホームな結婚言上式を挙げさせていただいた。ガラスの上に認められた御本尊、凛とした空気の中に清従師の声が響き、結婚の言上式が始まった。参列はなく、二人だけがご宝前に緊張した面持ちで座っている。正式な結婚式と全く同じように、丁寧に言上させていただき、二人が結ばれたことをご宝前にご報告申し上げた。

 振り返って、二人で誓いの言葉を読み上げ、誓詞への署名、私からの訓辞。私の訓辞では、お祖師さまのお手紙の一節をお伝えした。

「生生世世の間ちぎり(契)し夫は大海のいさご(沙)のかずよりもをゝくこそをはしまし候けん。今度のちぎりこそまことのちぎりのをとこ(夫)よ。そのゆへはをとこのすゝめ(勧)によりて、法華経の行者とならせ給へば佛とをがませ(拝)給べし。」

 私たちには、長い命と短い命がある。短い命、今回の短い一生の中で、二人は今日結ばれた。しかし、このお手紙で教えていただくように、生まれ変わり、死に変わりしてきた私たちの長い命に着目して考えれば、生々世々、人間か動物か、他の想像を超えた生命体かは分からないにせよ、いろいろな縁で結ばれ、契りを交わしてきたかもしれない。今回の宇宙で考えても、138億年±2億年の長い間の話。それは、きっと海の砂の数よりも多く、いろいろなものと結ばれ、「契り」を交わしてきたのだろう、と。

 今日、こうして、この一生では特別の「契り」を交わし、そのことをご宝前に言上させていただいた。だとすれば、「この度の契りこそ、まことの契り」と言えるような、素晴らしい家庭を築いてもらいたい。そのためには、どうすればよいか。それが、「信」のある家庭、「信」のある生き方を二人でするということ。「法華経の行者とならせ給へ」と仰せであることは、自分だけ、自分の家族だけ、という生き方ではなく、法華経の教えをいただいて、菩薩の誓いを実践する二人になること。これが、永遠の時間の中でも、二度とない真実の「契り」「夫婦」であるといえるのだ、と教えていただく。

 そうでなければ、やはり、深い意味において「真実ではない」ということになる。どれほど愛していても、生々世々に様々な他の者と契りを交わしてきたことを思えば、今日結ばれることが、いささか軽くなってしまう。どうか、この度こそ、真実の契りへ。ご信心をさせていただいて、二人が永久に結びついていられるように。

 それにしても、素敵な二人だ。みんな、若くて、希望に満ちてる。未来は明るい。

2009年9月3日木曜日

大御本尊の前で

 遠くて見えにくいかも知れないが、青少年の一座の会場にご奉安された大御本尊の前で、海外からの代表者に並んでいただいた。現薫師から送っていただいた。今日、この写真を見ていて、思い出していた。もう、ずいぶん前のことのように思ってしまうのがコワイなぁ。
 今日は京都から戻り、御染筆、そのままお通夜のご奉公をさせていただいた。有難いご奉公となった。93才の牧野さんのお祖父ちゃん。妙深寺草創期からのご信者さん。先日の神藤さんと同じように、妙深寺を支えてくださった方々である。
 子どもながら、牧野さんのお祖父ちゃんといえば、どんなに暑い日でもスーツにネクタイを着けて、教区御講にせよ、御総講にせよ、お参詣され、御導師のお迎えのご奉公やご信者方の前でのご披露をくださっていた。班長、部長、教区長、連合長と、重要なご奉公を歴任された本物のご信者さん。本当に、お手本のように、いつも優しく、朗らかで、ご弘通の思いが篤く、実直な御方だった。
 そして、さすがの臨終のお姿。ありがたい。本当に、真っ白で、綺麗なお顔。「生き恥かいても死に恥かくな」との先住の教えを思い出す。いつも、「ご信者さんの数だけヒーローがいる」と言い続けているけれど、本当に、本物だなぁ。憧れます。
 原島さんのお父さまの件も、ご祈願、ありがとうございます。駆けつけてくださった御講師からもご連絡をいただいて、お父さまが危篤の状態から持ち直して、お医者さんも驚いているとのご報告。安心はできないと思うが、こうして、お医者さまが「不思議ですね」と言ってくださる「サイン」を顕してくださることが大切。そこに、御法さまの「手」を感じさせていただける。
 ご信者であっても、「会者定離は娑婆の習い」からは逃れられない。しかし、そこに現証の御利益があって、「近き現証を引いて、遠き信を取るべし」という御妙判(お祖師さまのお言葉)の御意が分かると思う。ありがたい。お助行、ありがとうございます。

2009年7月1日水曜日

『現証の御利益を見る』

 佛立信心の醍醐味とは、現証の御利益に違いない。人は、現証の御利益で信仰心を起こし、現証の御利益で信心を育み、人をも救う菩薩へと昇華できる。

 「ナムミョウホウレンゲキョウ」。

 その「音声」「振動」は、通常では考えられない「力」を導き出して、疑念が強く頑迷な私たちの現前に御利益を顕してくださる。今なお御仏は生きておられる、私たちの苦悩を知り、切なる願いに応えて、救いの手を差しのべてくださると実感できる。それが、上行所伝の御題目をお唱えする者が感得する「現証の御利益」「御利生」である。

 御仏は永遠の生命であることを言明された。しかし、今その御姿を拝見することは出来ない。どれほど人々が迷い、苦しみ、答えを見出そうとしても、私たちは仏に直接お会いすることは叶わない。しかし、御仏は法華経本門の中で、唯一御仏に出値う術を説かれた。

 御仏は、御仏の生命そのものを、ある「法」の中に全てこめられて、上行菩薩を筆頭とする本化の菩薩たちに託された。但し法華経には、その「法」の本体が如何なるものかは明らかにされていなかった。

 上行菩薩は、極東の島国・日本に日蓮と名乗られてご出現になり、その「法」を私たちに授けられた。それは、永遠の生命である御仏が、宇宙の原初から存在し続けている真理と一体であることを証明する、生きた「音声」であった。 「ナムミョウホウレンゲキョウ」。その「音声」は文字に起こされて「南無妙法蓮華経」となる。この御題目は、日本語でも中国語でもない。久遠から流れ続け、生きた生命そのもの。人種も国境も地球も、時間も空間も超えた「言語」であると知らなければならない。

 本化の仏教とは、ここに極まる。唱える声が御本尊。御本尊さまに御題目をお唱えして御仏に出値う。

 御仏と本化の菩薩方との関係、上行菩薩の御出現という事実から見返せば、真実の仏教が分かり、永遠の生命である「御法」が何か明らかになる。上行菩薩所伝の、「ナムミョウホウレンゲキョウ」にこそ、生きた御仏のエネルギーが込められている。御仏はここに、生きておられる。

 御題目をお唱えする。あくまでごく簡単極まりない修行である。しかし、御宝前に向かって真剣に、切なる願いを込めて御題目を唱え重ねてゆけば、必ず妙不可思議な現証の御利益が顕れる。これこそ、「あぁ、御法さまは生きている」「御仏がそこにおられる」と感得できる「現証の御利益」である。

 効果の期待できないことに精力を注ぐ人はない。効果が実証され、効果を期待するからこそ、多くの人がそれに努力を傾ける。化粧品でもダイエット食品でも、多くはモニターの意見に触発される。

 御題目口唱は、多くの人が効果を実証している極めて尊い修行。偽りの宣伝文句で顧客を募る商売とは決定的に異なる。効果は実証され、効用は限定されてもいない。

 御本尊を奉安し、御題目を声に出して唱え重ねれば、願いの厚さ薄さにはよるが、現証の御利益は顕れるのである。疑念があっても唱え重ねて、多くの人が妙法の妙たることを知るのである。

 私に本当の信心が起きたのも、愛する父・先住が、医者すら手を離す絶体絶命の状態に陥った時のことだった。頭蓋骨骨折、脳挫傷、頭蓋底骨折、硬膜下血腫、右肋骨骨折、外傷性気胸との診断で危篤。一ヶ月以上意識不明の状態だった。私たち家族には為す術もなかった。ただただ御法さまにお縋りするより外になかった。日々のお助行に励まされ、愛する父の意識回復を願い、ひたすら「助けてください」と御題目をお唱えした。

 周知の通り、意識不明となって四十九日目、父の意識は回復した。担当医から看護士の方々までもが「奇跡」と声を揃えた。私たちは、まさに「現証の御利益」を見せていただいたと狂喜した。

 その喜びから二年後。私はこの現証の御利益の凄まじさを今一度間近に見た。今でも忘れられない。

 その日、板倉章子さんが友人の岩本弘子さんをお寺にお連れした。事情を聞いてみると、息子さんが交通事故で意識不明となっており、頭蓋骨骨折、脳挫傷等と診断され、先住と同じような状態であるとのことだった。ただ、先住と異なるのは、既に意識不明になってから数ヶ月が経過していた。

 家族の苦しみは同じ。この状態がいつまで続くのか、元気だったその人は戻ってきてくれるのか、家族は不安を抱えながら、ベッドの側で見守るしかない。岩本さんは憔悴しきっていた。いろいろな事情はあるものの、現証の御利益をいただきましょう、と伝えた。岩本さんはこのご信心を始めます、と「御本尊拝受願」をお書きに なられた。

 私は忘れられない。中央連合の御講で、矢部さんのお席だった。御住職が意識不明の岩本龍二くんの入信を言上し、続けて定業能転、御利益感得、とご祈願をされた。ちょうど、その日のことだった。信じ難いかもしれないが龍二くんの意識は回復した。数ヶ月も意識のなかった龍二くんが、その日に目覚めたのである。涙が溢れた。

 お祖師さまの御妙判の通り。
「妙とは、蘇生の義なり。蘇生と申すはよみがへる義なり」

 先月、岩本家に立派な御戒壇が建立されたと聞き、心から嬉しくなった。岩本弘子さんは法城護持のご奉公にも励まれ、龍二くんは仕事に精を出し、参詣されている。もちろん、人生は簡単ではない。これまでに辛い出来事もあったが、助けていただいた命を大切にして、何より年々信心を強くされている。本当に、ありがたい。

 現証の御利益は、特定の人だけがいただいたり、感得したりするものではない。御本尊に向かって、「ナムミョウホウレンゲキョウ」と唱える人であれば誰でも授かる、感得できるものなのである。

 御仏は、法華経で宣言された。

「我常に此に住すれども諸の神通力を以て顛倒の衆生をして近しと雖も而も見ざらしむ」

「我諸の衆生を見れば苦海に没在せり。故に為に身を現ぜずして 其れをして渇仰を生ぜしむ。其の心恋慕するに因って、乃ち出でて為に法を説く。神通力是の如し」

 現証の御利益を知って、見て、体験して欲しい。そのためにすることは、この御題目を唱え重ねることのみ。苦しい、辛い、不安だ、こうしたい、こうなって欲しい、という思いそのままをぶつけて、真剣に御題目を唱えてみて欲しい。必ず、現証の御利益は顕れる。

班長さんへの手紙

 ありがとうございます。
 いよいよ、七月十六日には立正安国論上奏七五〇年の御正当日をお迎えします。これを幕府に出したが最後、穏やかな御一生は望むべくもないと、お祖師さまは覚悟の上で上奏されました。そして、この決定したご奉公は、永遠に人々に記憶され、語り継がれることになる「現証の御利益」を顕すきっかけとなりました。
 ご信心では、「口唱・折伏・経力・現証」という順序のキーワード、覚えやすい、合い言葉のような教えがあります。鈴江御導師が常々仰る御指南。本門佛立宗は「口唱、折伏、経力、現証ご利益宗です」と。私たちはこの佛立信心の筋を決して忘れてはいけません。
 最初の「口唱」とは「御題目口唱」のことです。このことを外して佛立信心も何もありません。まず、自分の信心を固める。第一は何はさておき「御題目口唱」です。
 二番目は「折伏」です。佛立宗のご信心で、一人信心はいけません。「誰かのために」と思って励むこと。それは、自分のためであり、人のためになる法華経のスピリット、魂です。
 「幸せの横槌」を思い返してください。この「折伏」も難しく考えず、ご信心を勧める、謗法や懈怠をしている人に、間違いを指摘し、正しいことを伝えようと努力することですが、自分には難しいと思うと出来ません。
 とにかく、誰かの力になろう、助けようと思って生きていきましょう。そうしていれば、必ず自分が救われる、幸せになってゆきます。
「我が身、罪障消滅のためには折伏行第一也」
 御教歌には、
「己が身のつみほろぼしの第一は口唱 折伏 せよとある也」
 三番目の「経力」、四番目の「現証」こそ、いま私たちが思い新たにすべきポイントだと思います。「経力」とは「自力」の反対語で、自分の力ではなく、この「御題目」「法華経」の御力によって、ご奉公させていただこうということです。自分の自力では、班長さんのご奉公も「自分には出来ない」と思って当然です。でも、そうではありません。
 南無妙法蓮華経の御題目さまをいただき、その御力にすがって、御法門でいただく通り、素直に、正直に、自分考えを入れず、させていただけば、必ず四番目の「現証の御利益」が顕れます。人に御利益をいただかせること、感得させられるようになります。
 開導聖人は御指南に、
「題目の行者は、信心ばかりにて経力現証を顕し、現証利益即折伏にて追々所々に弘まる也。末法当時はこの利生得益(御利益を得る)の筋にて弘まるのみなり。諸宗法花の習い損じを責めるは後にして、まず諸宗の病者にすすめて、閻浮提人病之良薬の金言を国中の諸人に信ぜしむるを弘通の心得とは申す也」
とあります。
 まず、素直正直な信心ひと筋で、しかも自力ではなく経力で、現証の御利益を苦しんでいる人がいただけるように、お勧めをしてゆきましょう。
 今月十八日、十九日の開導会では、良風寺の方々をお迎えし、佛立信心の醍醐味「現証の御利益」について熱く語り合い、学ばせていただきましょう。
 また、同じくらい大切なキーワードとして、「うるし千ばいにカニの足一本」があります。いくら信心深いようなことを言っていても、謗法があるとか、間違ったやり方を改められずにいるという意味です。
 お祖師さまは、
「何に法華経を信じ給ふとも謗法あらば必ず地獄にをつべし。うるし(漆)千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し「毒気深入失本心故」は是也」と御妙判になられました。これは「千杯もの漆の中に、蟹の足を一本入れただけで、漆の乾燥が悪くなり駄目になってしまう」という意味です。
 ひとつの悪い要素が全体をダメにしてしまう。いくら功徳を積んでいても、謗法があればどうでしょうか。あるいは、永らくご信心をさせていただいていても、自分の悪い癖が改まらないようであれば、どうでしょう。開導聖人は、「治し難き病は古法華なり」とお示しです。信心していても、謗法がある、自分勝手、勝手解釈では、「うるし千杯にカニの足一つ」です。
 そううならぬよう、信心改良です。みんなで、御正当月のご奉公に悔いのないように。
 ありがとうございます。

2009年6月10日水曜日

Come Rain or Come Shine

 昨日も、一日の間に何種類の資料を作ったやら分からなくなるほど。今朝も朝イチから11時からの総局会議用の差し替え資料を作って送信。

 昨夜は、19時から横浜で事務局運営会議が行われていたので、私は麩屋町からアクセス。そこから22時まで会議でクタクタ。会議が終わっても、次から次に報告事項などを聞いて、終了。

 眼と腕、肩がパンパン。今朝、京都はパラパラと雨の雫が落ちてきた。これから梅雨がはじまるか。ただ、私は雨も、嫌いじゃない。

 子どもの頃、小学校の校庭に流れていた「カメハメハ大王の歌」に「雨が降ったらお休みで~」とあったの、覚えてるかな?なんか、耳に残っていて、雨が降った日の鬱蒼とした気分を明るくしてくれたように思う。

 父が大好きだった「雨に唄えば」も、いい。雨が降ろうと明るく過ごせるようになる。ジャズだと思うが、映画「For the boys」で、ベット・ミドラーが歌う「Come Rain or Come Shine」は素晴らしい。

 この映画のシーンの一つ一つがいい。ベット・ミドラー扮する慰問歌手ディクシーは戦場へ行った夫と慰問先で再会する。その時に彼女が歌う曲が「Come Rain or Come Shine」。この映画は、ぜひ観ていただきたい。「男と女」くらい、ずっと好きな映画。人間、雨が降ろうが、晴れていようが、という生き方、気持ちを持っていないと。この時代。そこに生きる私たち。恋してる時だけじゃなく、そういうタフさが求められていると思う。

 そう、信心はタフさが必要。信心は、タフな自分を作ってくれる。タフな自分になって、タフに信心してゆく。

 お祖師さま(日蓮聖人)のお言葉に、
「詮するところは天もすて給へ、諸難にもあえ、身命を期とせん」
とある。すごいお言葉だ。どんなことがあろうと、信念を貫き、ブレない、タフさ。タフな人間の頂点にあるようなお言葉だと思う。

 また、
「心の師とはなるとも心を師とせざれ」
「相構へ相構へて、心の師とはなるとも、心を師とすべからず」
「心の師とはなるとも心を師とせざれ」
と、お祖師さまは三度も別のお手紙などに記されている。よほど、私たちが胸に刻むべきお言葉だと思う。気分で、浮き沈み、燃えたり、冷めたり、というのではダメということだ。

 難しい話ばかりじゃつまらない。紹介した「Come Rain or Come Shine」の歌詞が紹介されていたので、載せておこう。

「Come Rain Or Shine」
I'm gonna love you, like nobodys loved you/あなたを愛しています。今までの誰よりも
Come rain or come shine/雨が降ろうが、陽が照ろうが
High as a mountain, deep as a river/山のように高く、川のように深く
Come rain or come shine/雨が降ろうが、陽が照ろうが
I guess when you met me It was just one of those things/多分あなたにとっては私との出逢いはなど良くあることだったでしょう。
But don't you ever bet me/でも賭けない方がいいわ
cause I'm gonna be true if you let me/だって貴方次第では本気になるわよ
You're gonna love me, like nobodys loved me/貴方も私に恋をするわよ、今までの誰とも違う恋を
Come rain or come shine/雨が降ろうが、陽が照ろうが
Happy together, unhappy together/一緒に幸せになったり不幸になったり
And won't that be just fine/それも素敵じゃない
The days may be cloudy or sunny/曇りの日もあれば晴れの日もある
We're in or out of the money/お金があったり無かったり
But I'm with you always/でも、私はいつも貴方の側にいるわ
I'm with you rain or shine/降っても、晴れても、貴方の側に

 素敵な歌詞だなぁ。雨が降っていても、何も関係ない。

2009年4月29日水曜日

信心を試される

 「何事につけても言をやわらげて、法華経の信をうすくなさんずるやうをたばか(誑)る人出来(しゅったい)せば、我が信心をこゝろむるかとおぼして各各これを御けうくん(教訓)あるはうれしき事也」上野殿御返事

 言葉やわらかに、ご信心を薄れさせようとする人があるということを知りなさいと、お祖師さまはご注意くださっている。その時、我が信心を試されていると思いなさいと。「試されている」ということを教訓としてご信心している人は、本物のご信心前に近づいているのだ、と。

ネパール被災地でのご回向の動画

ありがとうございます。 昨日、9月5日(土)、ネパール大規模土石流洪水の被災地に、妙深寺ネパール別院の教務、ご信者、総勢46名が入り、ご回向の一座を奉修させていただきました。昨夜23時に写真や動画が届きました。 つくづく涙が出ました。あれほど大変な大災害に、いち早く妙深寺の...