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2010年3月28日日曜日

マサの結婚式

 昨日の土曜日は、後輩のマサと遙さんの結婚式。週末はどれも外せないご奉公ばかりですが、何とか調整をお願いして、マサの披露宴に出させてもらいました。彼らしい、あたたかく、楽しい結婚式となり、本当に出席できてよかったです。
 何としても出席しなければならないと思ったのは、一ヶ月前のマサから連絡が「ナガマツさん、主賓でお願いしますよ!!あいさつも、よろしくお願いします!」っという、何とも強引なリクエストがあったのです(汗)。おいおい、ちょっと待て、俺が主賓で挨拶っておかしいよ、と言ったのですが、バンクーバー五輪があったり、彼の仕事も忙しく、私も同じく忙しく、ついにその電話一本を交わしただけで、当日を迎えました。本当に、困ったものです(汗)。
 いま、彼は「OAKLEY(オークリー)」という世界的なアイウェア(サングラスやゴーグル)やスポーツツールを供給するブランドで仕事をしています。日本を代表し、世界の舞台で活躍するスポーツ選手たち、アスリートからアーティストまでをサポートし、世界を股にかけて活躍しているのが彼です。
 その彼が、運命の素晴らしい女性と出会い、結婚を決意。お会いしてみて、本当に彼女は魅力的で、明るくて、美しい女性だと確信し、そして安心しました。マサ、本当によかったなぁ。
 それにしても、今や世界で活躍するマサの結婚式の主賓が、お寺のお坊さんってどうなのよ?本当に、打ち合わせもせず当日になってしまって。電車に乗ってから後悔しました。
 披露宴会場で受付をすると、やっぱり、そうなってる。周りにはオークリーの偉い方々、お世話になっている方々、彼女の関係のレッドブルの偉い方々、前職である放送局関係のプロデューサーやディレクターがずらっとおられて、その会場のひな壇の一番前の席に、「本門佛立宗 妙深寺 住職 長松~」と書いてある。参りました。宗門関係で前の方に座らされるのより、こういうのは参ります。
 媒酌人のいない中の披露宴。冒頭にマサからの御礼の挨拶があり、その次が私の番(汗)。なんでやねん(笑)。ま、こうなったら仕方ない。参列している方々は、今の日本の、イケテル、ファッショナブルな、格好いい男女が集まっておられるわけですが、もう、仕方ないです。マサが決めたことです。受けて立つしかない。腹を決めて、ご挨拶をさせていただきました。
 「すいません、何で坊主が最初に出てくるんだろうって思いますよね。別にマサくんが新興宗教に入ってるとか、そんなんじゃないから(笑)」と前置き。地方ならいざ知らず、東京の結婚式でお坊さんは主賓というのは、本当に珍しいのです(汗)。とにかく、新郎との関係や彼の人となりについてお話ししました。
 マサと出会ったのは、今から13年前、彼が19才の時でした。当時、私は社会に出て、無我夢中で仕事をしていました。その頃、タレントのヒロミさんと共にミシシッピ川の源流からメキシコ湾まで6000キロを縦断するという無謀な計画を立てました。駒沢のカフェで話していた夢のような挑戦でしたが、正月の特別番組として放送されることが決まり、ロケは敢行される運びとなりました。しかし、簡単に長期の海外ロケに行けるメンバーはいません。
 まず、私は本人の意志とは全く関係なく、当時大学生だった清水清康師(得度前は「ヤス」)をミシシッピへ連れて行くことを決めました(笑)。そして、そのヤスに「パスポートを持っていて、1ヶ月アメリカに行ける、根性のある奴を探してこい!」と言いました。本当に、すいません、暴君みたいですね(汗)。いつも、ヤス、可哀想でした。
 そして、ヤスが高校時代のサッカー部の仲間の一人、当時「夜の接客業(笑)」を生業としていたマサを連れてきたのです。元気の良さそうな現代っ子だけど、サッカーしていたから根性はあるだろう、目が綺麗、という印象で、「よし、こいつでいこう!というか、他がいない、お前、行けるか、行け、行こう!」ということで、ヤスとマサは約1ヶ月、地獄のようなミシシッピ・ロケを経験したのでした。
 朝から晩までミシシッピ川の源流、ミネソタ州のベミディジ湖から川を下り続ける。途方もない計画で、ヒロミさんもスタッフもギリギリの状態での挑戦。ヤスとマサは陸上をサポートしながら移動してゆくのですが、休む時間はなし。真夜中にモーテルに入り、スタッフのウェットスーツを洗い、それを干し、乾かす、しかし、乾く暇もなく朝が来て、出発。毎日寝る時間は1時間か2時間か。そんな恐ろしい生活でした。
 しかし、高校を出たばかりのマサは、面白い、人間が良い、根性もある、しかし、チャラチャラしていて、大事な時にハズす(汗)。ロケ中、何度か大きなトラブルもあり、スタッフが凍り付くような出来事もありました。その模様が少し番組でも紹介されたくらい(汗)。マサの苦難の人生の幕開けです。本人が、一番ワケが分からなかったと思います。アメリカにロケに連れてこられて、想像とは全く違う、恐ろしく過酷な毎日で、しかも、今までの人生で経験したことのない厳しさ、毎日叱られ、怒鳴られ…。何が何だか分からなかったのではないでしょうか。
 最後の最後、ゴールした後のニューオリンズの食事会、日本から伊代さんも駆けつけて、温かく和やかな雰囲気となりました。夢が実現して、疲れも吹っ飛びました。しかし、その打ち上げでも、マサがちょっとテンションが上がりすぎて、またトラブルへ(涙)。ニューオリンズの街角で、私はマサを数発殴り…と、そんな出来事がありました。
 日本に帰国してから、マサは私の会社で働くようになりました。そこから、また伝説的な下積みの日々、修行の日々が始まりました。グァムからサイパンをジェットスキーで渡るという番組が決定し、そのロケハンに行く岩城滉一さんと前田さんに、マサだけを付けることになったり。若いから当たり前ですが、様々なトラブルが発生。叱咤激励の日々。彼の20代がスタートしました。
 ある時の岩城さんの大阪でのお仕事があり、不安ながらもマサを一人で付けることに。不安的中。岩城さんはグリーン車、マサは自由席。マサは新大阪で降りるのを乗り過ごしてしまい、大パニックに(笑)。まぁ、そんな恐ろしいことを繰り返して、何とか生き延びて(笑)、成長して、年月を重ねてゆきました。
 特に、私の社会人時代最後の仕事では、大活躍してくれました。180名以上のウィンタースポーツのトップアスリートを全世界から招聘して、苗場スキー場で行われた大会でした。スノーボードのハーフパイプ、冬季オリンピック2大会連続で金メダルを獲っているショーン・ホワイトは、この大会でデビュー。ホテルの中をウロウロしていたかわいい少年でした。とにかく、この大会でも、ヤスとマサは、いい加減な私を支えて、頑張ってくれていました。
 彼は情熱的で、何事にも常に一生懸命。ドジなところもありますが、とにかく、やさしい。とにかく、人に対して思いやりを持っていて、誰からも愛されます。実は、スポーツのプロ選手たちを扱うドキュメンタリー番組の制作やマネジメントをする世界では、これはとても大切なことです。しかも、ずっと地道に仕事をしてきて、失敗をして怒られて、それでも耐えて頑張ってきました。ムチャな上司や先輩たちの下で(汗)。それが、強い。
 しばらしくて私の会社からスポーツ専門チャンネル「スポーツアイ・ESPN(当時)」で仕事をしてもらうことになり、実際に番組やイベントの責任者として活躍するようになり、私がいなくなった後はプロデューサーとしても活躍し、そして現在のOAKLEYに転職。
 とにかく、19才のあの時から、こういう人生になっていったという、そのきっかけに、今は住職となっている長松がいたということで、結婚式の挨拶を頼まれたというわけでした。参列した方々には不可解だったかもしれません。でも、私自身、久しぶりにマサの現在の仕事ぶり、あの頃からの成長ぶりを知って、本当に、嬉しかったです。本当に、もったいないことでした。ありがとう、おめでと、マサ。自分で言い切ったように、はるかさんを世界一幸せにして。
 OAKLEYは、世界有数のアイウェアブランド。マサは先日のバンクーバー・オリンピックでも、日本の選手たちをサポートしていたそうです。スポンサーとして現地に入り、特に、スノーボード日本代表の國母和宏選手や工藤洸平選手の周りで、今回の騒動もあって、彼らの精神的なサポートをしていたそうです。偉い、マサ。
 今回の心温まる披露宴には、特別にビデオ・メッセージが寄せられていました。本当に、すごいアスリートやアーティストがお祝いの声を寄せてくれていました。冒頭に、ボストン・レッドソックスの松坂投手がマサの結婚を祝福し、歌手のAIさんが「Story」という曲をマサとはるかさんのために歌詞を変えて歌ってくれて(涙)、締めは宮里藍さんからのメッセージ。ありがたいですね。
 とにかく、マサの結婚式、こちらが感動しました。よくぞ、ここまで。みんなから愛されて、うれしいな、ありがたいな、マサ。
 不思議だな、人生は。こんな風になること、19才のマサを思い返したら、想像もつかない。でも、確かにミシシッピからはじまったんだな。
 幸せになってください、はるかちゃんを、幸せにしてください。新婚の二人の住まいに御本尊がご奉安されることなり、それが何より嬉しい。お前のような後輩、たくさんの友だちが、やっぱり、宝物、自分の存在価値、生きてきた証明。ありがたいよ。
 ありがとう。おめでとう、マサ。

2009年9月11日金曜日

聖戦の始まり

 この日から、戦争が始まった。8年前、この、衝撃的なニュースが飛び込んできた時のことを、今でも鮮明に覚えている。今から8年前の2001年9月11日、アメリカは歴史上経験したことのない壮絶な攻撃を受け、それは全世界に映像を通じてオンタイムで発信された。
 これほどまでに、壮絶な映像、ニュースは、なかったと思う。もちろん、JFKの映像、アキノ氏の暗殺など、これまでにも衝撃的な映像を「世界の衝撃映像~」などとタイトルを打たれたテレビ番組で見たことはある。しかし、この「9.11」の衝撃的な映像、今この時に、この恐ろしい事態が起きているのか、という恐怖と怒り、無力感と不安、得体の知れない興奮…、その感覚を、抱いたのだ、8年前の、今夜。
 あの夜に見た同じ報道番組で、「老人が戦争を起こして、若者が死ぬ」とコメンテーターの方が言っていた。いつも、この方の論評には頭が下がる。本当に、9.11から始まった戦争を言い得ている。それまでにも多くの血が流されてきたが、この日からさらに多くの血が流されることになった。アフガニスタンで、イラクで、見えない敵と戦うことを選んだアメリカは、多くの若者を戦地に送り、その尊い命を失った。どれほどのテロリストがアメリカを攻撃した代償として命を失ったのか、私には分からない。むしろ、9.11の時には一般人でしかなかった人が、この日を境に始められた戦争によってテロリストになったのではないか。多くの人が、それまで何の罪もなかった愛する人を失った。テロリストを撲滅する以上に、テロリストを生み出したように思う。
 そう、9.11よりも前から、ずっと戦争なのだ。今も、戦争は続いている。どこを見て、どこにいるかで、分かるか、分からないか、知っているか、知らないか、という違いがあるだけで、9.11の以前から、アメリカや日本以外ででは、ずっと戦争だった。
 私は、本当に、憤慨していたと思う。不謹慎だと思わないで欲しい。あの日、興奮したのは、多くの人が命を落としたテロを目撃して、エンターテイメントを見たかのように興奮したのではない。御仏の教えを、本当に説いていかなければ、大変なことになる、本当に、そのことを知って、ご奉公させていただかなければ、と思った。
 2001年9月12日、ブッシュ前大統領はテロに対する闘いを宣言。ここで、タリバン政権の関与を示唆し、ラムズフェルドはビン・ラディンとアル・カイダが容疑者と断定した。同日、国連の安保理は、「テロリズムに対してあらゆる手段を用いて闘う」と決議し、アフガニスタン攻撃の根拠とした。その後の展開は、知るとおりである。
 さらに、2003年3月19日、アメリカ合衆国とイギリス、オーストラリア、ポーランドなどの有志連合が、イラク武装解除問題の進展義務違反を理由にイラクに侵攻。恐ろしい事態となった。私は、9.11からの世界の反応に、不信感を募らせ、憤っていたと思う。9.11から発生した報復の連鎖、宗教右派の原理主義者たちの動き、まさに強欲なビジネスマンたちの動きを忘れられない。今でも、それは同じ。イラクが大量破壊兵器を作っていると、衛星写真まで使って報告したにもかかわらず、合成写真の疑惑。裁判は行われたが、東京裁判よりも酷い状態だった。今の世にパール判事はいなかった。罪状も明確にされぬまま、フセイン大統領は処刑。その処刑直前までテレビが彼を追った。公開処刑のようなアレルギー反応から思考停止のまま、恐ろしい時代が続いてきたと思う。本当に多くの人が亡くなった。その人も不幸だが、その家族はもっと不幸であり、その心の炎は、永遠にくすぶり続けるだろう。
 ブッシュからオバマへ。何か希望を抱ける今年の9.11ではあるが、未だ、心は晴れない。あのイラク戦争が始まった年、いてもたってもいられず、一人でイスラエルに向かった。私は、どうしても世界に対して仏教を説かなければと思っていたし、そのためには、西欧の宗教の原点、しかも、この9.11の問題にも極めて関係している三つの宗教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を、肌で感じたかった。イラクから、数百キロのイスラエル。私が帰国した直後、日本の奥外交官らがイラクで殺害された。恐ろしい時代がはじまっていて、その現場に足を踏み入れていたこと、これからも足を踏み入れ続けて、自分の使命、ご弘通をさせていただきたい、ということを、心に誓った。
 2003年11月のエルサレム。テルアビブ、ガリラヤ、ベツレヘム。
 2005年、9.11の現場であるWTCで、ご回向の一座を奉修させていただいた。この日のこと、この日の思いは、言葉にならない。ひろし君と一緒に、ニューヨークまでたどり着き、そして、目的の場所であった9.11の現場に行った。私は、緊張していた。ここなのだ、ここだったのだ。別に、死んでもいいとおもって、行ったイスラエル、エルサレム。何とか、佛立が、世界に伝えなければならない。ご弘通を、と。
 その思いの、衝撃的なニュースの場所。ここで、御題目をお唱えすることに、自分だけかも知れないが、深い深い思いを抱いていて、その場に、ひろし君と一緒に行き、一緒に御題目をお唱えできたことに、深い意味を感じた。本当に、哀しい場所ではあったが、御題目でご回向が出来たこと、その機会が持てたことに、感謝している。意味がある。ここから、はじまってしまったことがあるから。ここで、亡くなった方に対するだけのご回向ではない。ここから、亡くなってしまった方がいるから。
 今日、どうしても、少しでも、このことをアップしておきたくて、言葉足らずだが、更新させてもらった。
 この上の、2つ目の写真は、エルサレムの聖墳墓教会の地下で撮った写真だ。十字軍が、エルサレムを奪還し、聖墳墓教会の壁面全部に、十字を刻んだ。真っ暗闇の、恐ろしい部屋、階段に、十字架が、刻まれている。私は、聖戦の、恐ろしさを痛感した。新しい時代の、新しい聖戦の始まりとなった、9.11を、思い返している。

2008年12月2日火曜日

いよいよ12月

 いよいよ12月に入った。慌ただしい月が始まる。

 月末は原稿の執筆や月始総講の準備など、デスクワークが山積する。また、週末が重なったために、妙深寺内外のご奉公もあり、心の準備もないまま師走を迎えてしまった。12月は一年の締め括り。心の大掃除の月。心して過密なスケジュールを乗り越えていかなければならない。

 12月1日は、月始総講の後で教務会。19時過ぎまで会議は続き、来年度のご奉公の詰め、方向性などを話し合っていた。来年も有意義な一年とするために、重要な話し合いだったと思う。

 2日からは京都でのご奉公。窓の外から大文字が見え、綺麗な紅葉が文字の周りを彩っていた。朝10時からロス・アンジェルスとウェブ会議、16時半から韓国とのウェブ会議、19時からは九州とのウェブ会議。たった一日の中で、インターネットを活用して各国・各地域とお話が出来るとは。ご奉公も充実してくる。それぞれの地域でのご奉公を集約して、意見交換し、本当のご奉公サポートもできる。

 姜ご住職のお顔も久しぶりに拝見できたし、本当に有難かった。

2008年9月20日土曜日

ウェブ会議システムの活用

 ウェブで会議が出来るとは、本当に便利なものだ。昔の人がこの状況を見たら、どれほど驚かれるだろう。
 私たちは幸せである。遠い国にいる人とも電話で話が出来るし、コンピューターとインターネットを活用すれば顔を見ながら話が出来るのだから。個人的にはウィンドウズやヤフーのメッセンジャーやスカイプなどを使っているが他にも様々なサービスが用意されていて、便利さを実感できる。
 平成が始まった頃、ポケベルですら珍しい時代だった。1993年に「ポケベルが鳴らなくて」というドラマと主題歌がヒットしていた。最初は数字だけだったのだが、プッシュ番号を組み合わせると文章が作れる機能が現れた。電話ボックスから文字表を片手に電話している人を見たものだ。1995年以降、携帯電話の料金が下がり爆発的な普及を遂げた。あの当時、お弁当箱のような携帯電話を持っている人は大変なお金持ちの方々で、私たちが持つなど夢の夢だった。今、高校生や中学生、小学生までが携帯電話を持っている時代を迎えて、本当に恐ろしいほど急速な社会の変化・進化に、ただただ驚くばかりである。
 だから、コンピューターとインターネットを使い、カメラとマイクをセットして、遠い国や地域の人とテレビ会議が出来ることは、本当に幸せなことだと思う。遠くにいる子どもの顔を見ることが出来るし、会議や相談も出来るのだから。
 先日も書いたが、長男と次男もインターネットを使って更新。次男は「にーに、にーに」と呼んでお兄ちゃんの顔を眺めていた。この年齢だと声だけではなかなかコミュニケーションできないと思うのだが、大好きなお兄ちゃんの顔を見ることができて興奮していた。
 現在、定例となっているウェブ会議としてブラジルとの会議がある。ブラジルとのウェブ会議が功を奏して、ブラジル本門佛立宗開教100周年のご奉公は円滑に進んだ。その後も、地球上で日本から最も遠い地域である南米のブラジルと更新し、ウェブ会議を開催して検討している。さらに、来月からは北米のL.A.ともウェブ会議が開催される予定だ。こうしてコミュニケーションの機会が増えることは、具体的なご奉公を進める上でも、ご信心的な相互の向上や改良を促し、育む意味でも有難いことだと思う。
 さらに、来年の8月23日に迎える第3回 青少年の一座 九州シンポジウムの会議も、京都と福岡、熊本の3つの拠点を結んでウェブ会議を開催している。交通費の削減はもちろん、その経費(浄財)を一座の奉修費に活用することもできるのだから、こうしたシステムは有難い。宗門予算の相当な比率が会議開催のための交通費だが、積極的にこうしたシステムを活用していければ有難いと思う。大至急、その整備をすべきだと思う。
 人間にとってコミュニケーションは大切なもの。会議もデジタルだけで済むものではない。デジタルを活用し、人間くさいアナログを切り捨てるわけにはいかない。デジタルを駆使したウェブ会議で全て事足りるのではなく、三ヶ月に一度か、年に数回、少なくとも一回は、会議を構成する主要な人は実際に顔を合わせる必要があるだろう。しかし、いずれにしても、ウェブを使ったコミュニケーションの方法を最大限活用して、ご奉公に活かすことが出来れば大幅な経費の削減になるし、議長の能力が求められるから会議も逆に円滑に進むかも知れない。

2008年9月11日木曜日

7年目の9.11

 日本時間の今夜、米国・ニューヨークで起きた同時多発テロから7年目を迎えた。

 あの夜、確かキッチンでニュースを観ていたと思う。先住がご遷化してから時間が経っておらず、手探りのご奉公を必死に続けていた頃だった。

 衝撃的な映像だった。私たちが観ていたのは、ウェザーニュース用の定点カメラだったと思うが、それでも黒煙に包まれるニューヨーク、そして、あの街の象徴だったワールド・トレード・センターの燃え上がる映像は身を震えさせた。




 私は、すぐに友人たちに電話をした。訳も分からず、とにかく電話した。家族は揃っていたが、これから一体どうなるんだろう、覚悟しなきゃいけない時代が来た、というようなことを、横目でテレビを観ながら話していたと思う。

 全世界の人の現前で、あの事態を見せしめることがテロリストたちの思惑だったに違いない。ある意味で、その意図は達成されてしまった。私たちは、恐ろしい時代の幕開けを、あの映像から思い知り、そして事実、恐ろしい時代の幕は切って落とされたのだった。

 今朝、妙深寺ではYaccoさんが同時多発テロの犠牲者に対してご回向をしてくださっていた。お参詣の方々も同じ気持ちで御題目をお唱えになったと思う。もちろん、7年前の今夜、あのニューヨークで起きたテロの犠牲者のみならず、あのテロによってヒステリックに行われた対テロ戦争、政権浮揚をも狙ったかのようなブッシュ政権が推し進めた「不朽の自由作戦」と、偽の衛生写真を見せつつ突き進んだイラク戦争など、あの夜を起点として起きた紛争とテロ、戦争による膨大な犠牲者の方々の霊を、心から悼んだ。

 精神的な病いではないが、「オール・オア・ナッシング」の選択肢を狭められた状態で、進められた戦争。日本も、「国益」と称して追従することを余儀なくされた。余儀なくされたといえば語弊があるかもしれない。当時の小泉首相の判断は、国民の得知らぬ米国との密約を察するに余りある迅速な対応だった。「国益」ということは、あの戦争によって犠牲となった全ての人々と、その後の世界に対して私たちには責任があるということである。「自分の利益」によってあの戦争を肯定していることになるのだから。私も含めて、である。恐ろしいことだ。

 米国同時多発テロの衝撃は、あの夜に限定されたものではなかった。あの夜、犠牲になった方々だけが犠牲になったのではなかった。あの夜を皮切りとして、テロリストたちの意図したところに引きずり込まれた米国との戦闘、攻撃、テロリストの反撃、テロ、報復によって、世界中の人々、特に犠牲となった非戦闘員である子どもたちや女性たちが相次いでいる。先日のアフガニスタンで命を落とされたNPOの方も、7年前の夜から始まった一連の紛争による犠牲者であるかもしれない。

 こうした一連の出来事を経済的な理屈が後押しする。いま、イラクでは石油企業が跋扈し、その利権を西欧諸国が競って獲得しようとしのぎを削っている。ロシアなど、石油燃料資源を国際政治の強力な武器として活用しようとしている強国が誕生している時代にあって、中東、特に膨大な原油を埋蔵するといわれるイラクを安定化させることは責務であったという声も絶えない。テロによって不安定化すれば、日本のライフラインである安全な航路を確保できないという事実もある。だから、現在に至るまで、あの夜から始まった戦争は肯定され、支援すべきだという理屈だ。

 政治の責任は重い。そして、その政治は、突き詰めれば国民一人一人の責任となる。しかし、情報は国民にとって非常に限られている。私たちは、限られた情報の中で選択を強いられ、そうであるがために立場を保留しながら、無為に時間を過ごしてしまう。今でも続く紛争は、深い傷を人々に残しながら、同じようにこれからも大きな代償を強いてくると思う。

 私は、同時多発テロで攻撃を受けたとされるペンタゴンを見て、複雑な心境になった。去年もワシントンに訪れたが、テロ後に初めて訪れたのはブッディスト・トランス・アメリカの収録の約4年前だった。私には、このペンタゴンに対して本当に攻撃があったのかどうかは分からない。陰謀説などを唱える本が何冊も出版されている。私もそれらを読んだ。限りなくクロに近いが、何とも確証には至らない。これも、ブッディスト・トランス・アメリカで訪れたダラス、あの場所で起こったケネディー大統領の暗殺事件と同じように真相は闇の中なのだろうか。

 ワシントンのホワイトハウスの前に、年老いた女性がいる。映画「華氏911」のラストにも登場した女性である。彼女は、過去何十年も世界最強の超大国であるアメリカの元首、ホワイトハウスの前に野営して反戦・非暴力を訴えている。確か、彼女は国連に勤めていたはずだ。反核運動に身を投じ、彼女のテントの前には広島や長崎で被害を受けた子どもたちの写真も並べられていた。なんという勇気、行動だろう。

 1981年、全てを捨てて彼女はこの場所に居座ろうと決めた。本当のところ、彼女の心に何が起きたのかは分からない。しかし、猛烈な焦燥感、正義感、危機感によって、彼女は世界最強国家の元首に対して直接行動をすることを決めた。

 アメリカの多くの人たちは、「彼女が居座ることを許しているアメリカこそ、やはり民主的なのだ」と言うかもしれない。確かに、ロシアや中国では一夜で退去させられているかもしれない。しかし、彼女も同じだ。何度も退去を命じられたが、不屈の精神で戻ってきた。アメリカの民主主義は、単に矛先をかわすだけのためにあるのではないはず。

 私には、彼女を気が狂っていると言い切る気持ちはない。彼女の行動に対して敬意を抱いている。今年、彼女にはカステラの差し入れを持って行った。ワシントンの街並みは凍てついていた頃だったので、とても喜んでくれていた。30年近くあの場所にいて、反戦・反核を訴え続けてきた彼女の、使命感と行動力が私にあるだろうか。常に、反省させられる。評論家にはなりたくない。私も、2003年11月、イスラエルに向かった。あの当時、行動しなければいてもたってもいられなかった。あの紛争の近くに身を置き、愚かな人間の行為を学びたいと思った(しかし、相次ぐ渡航者の拉致や誘拐、殺害事件を見聞きすると、今でこそそれらが無謀であることも学習したが)。

 私は、当然ながら、本門佛立宗の僧侶として、こうした一連の事件の背後に宗教的背景を見出していた。「文明の衝突」というつもりはない。どうしても単純化できない。しかし、イスラエルに渡航しながら、過去から現在に至る大きな歴史の流れの中の、カルマとしての憎悪の連鎖、そして近・現代に於ける中東にまつわる歴史、アメリカの政治を左右している宗教団体やユダヤロビーについても学ばせてもらった。

 そして、エルサレムの城壁の上で、気が遠くなるほど複雑に絡み合った糸をほどくためには、同じ時間がかかると考えた。つまり、3000年か、5000年か、と。ただ、私たちには御仏の教えがある。とにかく、真実の仏教が、一人一人の心を通じて広まってゆく必要がある、伝えていく必要がある、と確信した。それは、政治的な活動では叶うはずが無く、現在まで続く海外弘通と、それと連動した国内での佛立信心再発見、ご弘通ご奉公でなければ達成できないと思ってきた。とこで結びつくのかと思われる人もいると思うが、私の中ではつながっている。

 ワシントンからフィラデルフィアを経由してニューヨークへ。ひろし君と一緒に訪れたグランド・ゼロ。あの同時多発テロの起きた現場で、御題目をお唱えさせていただき、短い時間だったが御本尊をお掛けし、正装し、一座を勤めさせていただいた。ほんの、わずかな時間、しかし、私にとっては、深い、深い、重い、重い、大切な時間だった。あの時、様々なことを願い、そして誓った。あの日の夜、ニューヨークのホテルで泣いた。

 グランド・ゼロから近い教会に、犠牲者の遺族たちが捧げたモニュメントやメッセージを飾っている教会がある。私たちは、そこを訪れ、それらを目にした。突然の悲劇に、癒えない深い傷を背負ったご家族の悲鳴が伝わってきた。しかし、同時に、それらは、あの日以来続く悲劇の先にいる家族と同じ、癒えない傷である。

 自分の家族を想いながら、突如として愛する人と別れなければならない苦しみを想像した。無論、第二次世界大戦の東京や横浜等で行われたで大空襲や広島・長崎の原爆による犠牲者やそのご家族をも想い返す。妙深寺にも、多くの犠牲者のご家族がおられ、そのご回向も毎月させていただいている。

 しかし、この場所の出来事は、現在も進行している戦争の、ある起点であり、その戦争の一端を我が国も担い、未来に対する責任を負っていることを思い起こさなければならないのだと想う。

 文章がまとまらないが、明日は龍ノ口の御法難の日である。来年は立正安国論上奏750年。私たちが感じなければならないこと、やらなければならないことが、たくさんあると思う。もっともっと、私たちも行動しなければならないのではないか。自分のためだけに動いていると、結局は自分たちを追い込んでしまうことになる。他を想い、そして自分の出来ることを考えるべきだ。

 「Think Globally, Act locally」

 先生がブログで書いていた言葉を思い返していた。今日、いろいろな想いを抱いて、これからのご奉公のことを考えていた。

2008年3月22日土曜日

L.A.でのご奉安

 ひろし君とアメリカを横断したのは、TJSという日本語ラジオ放送局の番組収録のためだった。

 番組名は「ブッディスト・トランス・アメリカ」。「仏教徒の眼を通してみる現代アメリカ」という企画で、ロス・アンジェルスからニューヨークまでを走り抜けた。その番組でお世話になったラジオ放送局の中田社長が、ウィークデーだというのにL.A.の空港までわざわざ迎えに来てくださっていた。本当に有難い。

 あのアメリカ横断の番組から3年以上が経った。今回、ブラジルへのトランジットという僅かな時間だが、あれ以来久しぶりに訪れるアメリカ。懐かしい気持ちすらする。最初にアメリカを訪れたのもブラジルに行く途中だった。当時、私はまだ11才。少年の眼に映った「アメリカ」は衝撃的で、すぐに憧れの国になった。

 スポーツをするようになり、ジェットスキーのワールドファイナルを観戦するために18才で訪れたのが二度目の「アメリカ」だった。L.A.からネバダ州のレイク・ハバスまで。少年から青年になったが、アメリカはさらに刺激的な国として映った。スポーツを育む文化やそれに熱中している人たちの姿に感銘すら受けた。カリフォルニアのカラッとした空気と風土、空の高さに、青年になっても魅了されたものだ。それ以来、何度となく公私共にアメリカを訪れてきた。

 仕事をしていた当時、「X-Sports」という番組のプロデューサーとして冬山にクルーを連れてロケに来たり、X Gamesの収録で何度となくアメリカを訪れた。変な経歴を持つ住職だが、仕方ない。

 ESPNでの仕事、特にWinter X Gamesの取材中だったと思うが、空港に荷物が届かず、慌てて車を飛ばし、クルー全員でデンバーまで機材を取りに行ったこともあった。前田さんもひろし君も今ちゃんも一緒だったなぁ。あの、真っ暗闇の高地で見た星空は忘れられない。鮮明に覚えてる。スリランカの奥地で見る夜空と同じくらい綺麗だった。

 ミシシッピ川の縦断をしたこともあった。ヒロミさんの情熱でお茶を飲みながら話していたことが現実になった。総勢約40名のスタッフと共に、ジェットスキーでミシシッピ川を源流からメキシコ湾まで6000キロ走った。メキシコ湾に着いた時には海の上で涙が出た。テレビ朝日系列のお正月番組として放送されたが、本当に、人生でまたとない経験をさせていただいた。ミシシッピ川流域での人とのふれあい、風景、ヒロミさんをはじめ、朝から晩まで、スタッフの方々と過ごした一つ一つが、全てかけがえのない思い出だ。決して忘れることはできない。

 つまり、アメリカは自分にとってそれだけ身近な国だった。しかも、長男はアメリカで生まれた。タテに縦断し、そして最後にひろし君とアメリカ大陸を横断した。変なエピソードを持つ住職だが、いずれにしてもアメリカを、アメリカ的な文化を、ひどく身近に感じてきたことは間違いなかった。

 しかし、アメリカへの思いが変わり始めたのは、やはり同時多発テロからだと思う。これを契機に、多くの者がアメリカの実像をより深く考える機会となってしまった。それがテロ犯の目論見どおりだとすれば口惜しいが、ベトナム後に物心のついた私たちにとって、世界政治とアメリカ、そして宗教を考えさせた大事件が9.11だったことは間違いない。

 南アジアやヨーロッパでご奉公する機会に恵まれ、より俯瞰的に世界を見れるようになった。アフガニスタンへの攻撃、イラク戦争の開戦と、世界が激動する中、真実の仏教を実践する中で感じることが多くあった。イラク戦争が開戦された年のラマダンに単身イスラエルを訪れた。世界宗教の原点に肉薄し、自分の肌でユダヤ教、キリスト教、イスラム教と、それらの活動を感じ、学ぶにつれて、民主主義やアメリカ的価値観を世界に広めること以上に、「仏教」を世界に弘めることが大切であると確信した。その実践として、こうして日本国内はもちろん、世界各地でご奉公させていただけることに心から感謝している。生き甲斐を感じて生きれることほど嬉しいことはない。

 今回、久しぶりのアメリカで御本尊奉安のご奉公ができたことは、また無上の喜びだった。ひろし君が中田社長にご信心のことをお話しし、TJSの社屋に御本尊をご奉安させていただくことになった。ブラジルに行く途中、立ち寄るL.Aで私がご奉公させていただける。これほど有難いことはない。日本から御本尊をお供して、会社を訪れた。

 スタジオ。ここで「ブッディスト・トランス・アメリカ」を憲史くんが編集してくれていたのだなぁと思うと感慨深い。あの番組は半分がコメディーみたいなものだから、聞かせたくても聞かせられない(笑)。中田社長から「ここで、いつも憲史は裸になって編集してました(笑)」と教えてくれた。

 会社の一番奥、8名くらいの日本人スタッフの方々がデスクを並べている部屋の正面に、御本尊をご奉安していただきたいということだった。

 早速、初対面の皆さんに御本尊を護持することの意義やお給仕の仕方などをお伝えした。みんなとても熱心に耳を傾けてくださっていた。そして、御戒壇を組み立て、御本尊をご奉安。続いて、御題目のお唱えの仕方をお教えして、ちょっと練習。無始已来をコピー。「さて、ではお看経しましょう」と、一座のお看経の開始。

 みんな、とても綺麗な声で御題目をお唱えしてくださった。有難い!中田社長のリーダーシップと真っ直ぐな気持ちがスタッフの方々にも浸透しているのだと思う。素直な気持ちで御題目口唱。本当に有難いなぁ。

 スタッフ全員との記念撮影。みなさん、本当に素敵な方々だった。ブッディスト・トランス・アメリカから3年で、その放送局であるTJSに御本尊がご奉安できるとは思いも寄らなかった。大きな流れの中にいることを感じる。有難い。これからの大発展、スタッフの皆さまの健康や幸せを祈念したい。

 ホテルも中田社長が取ってくださっていた。夕食の場所まで取ってくれていた。本当に何から何までお世話になった。夕食には、ひろし君の会社の副社長であるスチュワート氏とL.A.に留学中の若いHBSメンバーを招待した。場所は「KATANA」という日本食レストラン。留学中の彼らに、久しぶりの日本食を食べさせて上げたいと思っての選択(あとで聞いたら「昨日、納豆食べました」って言っていた)。

 このお店は、ブラッドピットが結婚式のパーティーをしたことで一躍有名になったハリウッドセレブの集う素敵なレストランとのこと。「えー、こんな所じゃなくてもいいのに(汗)」。

 でも、みんなで楽しく夕食ができた。禎崇くんも元気だった。夕香菜ちゃんと麻衣ちゃんはひろし君からの紹介で中田さんご夫妻にお世話になっている。あの大事故からの御利益、復活で、アメリカへの留学が実現した夕香菜。そして、幼なじみの麻衣ちゃん。

 夕香菜ちゃんの御利益については青少年の一座で本泉寺の皆さんから発表された。あの時以来、ひろし君をはじめ、みんなが彼女を可愛がり、サポートしてくれている。彼女も夢に向けて頑張ってる。有難いではないか。中田さんの奥さまはヘアーメイクのお仕事をされているのだが、夕香菜たちの髪の毛もカットしてくれているとのこと。その奥さまが「二人は前向きなので、こっちも元気になります」と言ってくれていた。偉いな、夕香菜、麻衣ちゃん。有難いよ。

 ディナーでは、スチュワート氏とTJSスタッフの芹沢くんと本門佛立宗のご信心、御題目とは何か、「有難い」の意味について意見交換した。スチュワート氏のお父さまはバプテスト派の宣教師だったとのこと。今でもバリバリのクリスチャン、毎週教会に行っているとのことだった。

 しかし、ひろし君からの話を聞いて、「もっともっと仏教を知りたい」と言っておられた。私から分かりやすく「キリスト教」と「仏教」の違いについて説明した。もちろん、全てを否定するような言い方はしない。とにかく、シンプルに、仏教の考え方を説明するだけだ。スチュワート氏はとても熱心に聞いてくれていた。限られた時間だったが、「今度もっとゆっくり仏教の話を聞かせてください」とお話をいただいた。これも、有難い。

 有意義なトランジットだった。経由地でのご奉公、たった1日でも、これだけご奉公できるなんて。有難いこと極まりないなぁ。

 ホテルに戻って就寝。シカゴ経由でサンパウロへ。

生花か造花か?答えは横浜ラグーン

  9月23日、秋分の日、FMヨコハマ「横浜ラグーン」の放送が出来ました。おかげさまです。ありがとうございます。 今週は番組に届いたお便りにお答えしました。秋田からのお便りも嬉しいです。 職場での人間関係に悩む方、「有能有敵、無能無敵」と心得て、少し心の感度を落としつつ、前向きに...