2007年10月31日水曜日

次男の成長




















 なかなか男前になってきた。ひろし君には「めがねザル」と言われている次男だが、ひろし君には何故かなついているらしい(いや、ひろし君が自分で言っているだけだが)。 

長男の時にも思ったのだが、親というのは一つの催眠術にでもかかっているかのように子どもが可愛く見えるものらしい。長男が赤ちゃんだった頃、本当に可愛くて可愛くて仕方なく見えた。しかし、時間が経ってからあの頃の写真を見てみたら、それほどでもない。あれ~?と思った。

 さて、次男くん。久しぶりに家に帰ってきたら、まぁ大きくなっていること。反応も機敏になっているし、よく笑う。眼があっただけでいつもニコニコ。ありがたいこっちゃ。特に次男は私の父に似ているかもしれないなぁ。長男は歌の才能はゼロ(?)だと思うのだが、次男は歌に敏感に反応する。だから、私が次男をだっこしている時に歌っていると一緒に合わせて歌っているようだ。

 最近、ご信者さんが、この男っ前の次男を見ると、「あら~、ご住職に似てこられましたね~」と言ってくださると母から聞いた。そりゃお世辞だ、そんなはずない、長男も次男もエエ男過ぎる、僕とは似てないなぁ~、と笑っていた。




















 それにしても、将来が心配じゃ。こいつら二人、なんか女の子にモテそう。開導聖人は御教歌で「顔や形を繕うものは多いけれど、心を磨く人は少ない」と教えてくださっているから、心をブラッシュアップして、強くして、大きくして、磨いて、本物のいい男にしたいなぁ。頑固な親父として二人の前に君臨して、ビシッと教えていこうと思う。

 しかし、来年はブラジルの100周年のご奉公で22日間も家族と離れるし、「まるでマグロ漁師さんね」と言われているから、長男や次男も僕のことを忘れてしまうかもしれないが、まぁそういうのも仕方ない。昔から思うのだけど、近くにいるだけが子どもにとって幸せとも限らない。賢者の子は愚者になる、って言う(自分が「賢者」とは思ってません)。優しさが優しさを生むとも限らない。裕福な者の子が愚か者になるというのは古来から法則のようになってしまっているんだから。

 「ダイナスティ」という米ハーバード大学の名誉教授、デビッド・S・ランデスが全世界の大富豪の家系と歴史を調べて本にしていて、興味深く読ませてもらった。歴史家・経済学者として最高権威の著者が、フォード、ロスチャイルド、トヨタ、プジョーなど世界の伝説的13ファミリーを取り上げ、分析を施している。

 近代史などと合わせて読んでいくと非常に興味深い。なぜ彼らが成功し、その後の彼らの一族、後継者たちがどのような道を歩んだか。ダイナスティ(dynasty)とは、「王朝」「世襲による権力の継承」「支配階級」という意味。つまり、歴史に名を残し、現在も多大な影響を及ぼしている「ファミリー企業」について研究し、彼の鋭い洞察力で「ダイナスティ」の功罪、「光」と「影」に切り込んでいる。

 本書を読むにつけても、親の資産を継承することは難しいと分かる。特に、「有形」の資産は受け継いだが、初代がなぜ成功したかという「無形」資産を受け継がなかった子孫らの没落は必読。子孫たちが金や名誉にだけ執着し、結果として地位も、一族の誇りや輝かしい歴史も傷つけてしまうのは哀しい。

 だから、大事なことは、親の生き様をしっかりと見せられるか、伝えられるかに掛かっている。特に、男親としてはそう思ってしまう。子どもの近くで何度キスしても、抱き上げても、それ以上に親が人間として何を目標に、何を指標にして生きているか、が胸を張って示せなければならないということではないか。

 長男と次男との心の絆、これが何より大事だと思う。それはどうやって作ったらいいか。単に時間を一緒に過ごすだけではないと信じたい。心から彼らを愛し、心から大切に思うことと、彼らに生きた教材として自分の生き方を示していけるようにすることと、同じくらい大切だと思う。次男の成長が楽しみ。女性を泣かせるジゴロにならないように教育しよっと。(その前に、ご信心を教えろって!)

イムジンガン

 姜ご住職にお願いをして、北朝鮮との国境まで連れて行っていただいた。国境に行くことは、姜ご住職にとっても非常に珍しいことだという。

 私は当初、田代くんにお願いして一人だけタクシーで行かせてもらおうと思っていた。しかし、姜ご住職は突然の申し出を快く受けてくださって、私に付き合ってくださった。

 ソウルから高速道路を一路、北へ、北へ。1時間ほど走ると、左側にハンガンと、そしてさらにその先にイムジンガンが見えてくる。

 前の項でも書いたが、「世界平和」と毎日ご祈願させていただきながら、こうして訪れた韓国の抱えている問題から目をそらすわけにはいかない。それは日本も密接に関係してきた問題であって、私たちと切っても切り離せない問題だと思う。目の前に横たわる朝鮮半島の現実、不幸な歴史の中で同じ民族が分断され、今でも緊張状態が続き、苦しんでいる人がいるという事実を直視しなければならない。せめて、韓国でご奉公させていただくことになったら、真っ先にこの問題を肌で感じられる場所を訪れたいと思っていた。そして、そこで御題目をお唱えさせていただきたい、と考えていた。

 姜ご住職の運転で、ソウルから北へ向かった。しばらく走っていくと、高速道路の左脇に、北朝鮮との国境に位置する川、「漢江(ハンガン・かんこう)」と「臨津江(りんしんこう)、イムジンガン(韓国読み)、リムジンガン(北朝鮮読み)」が、何とも自然に、あっという間に見えてきた。

「あぁ、こんなに近くに、北朝鮮との国境があるんだ」

 とつくづく実感した。地図の上ではソウルが北朝鮮国境に近いことなど知っていたのだが、実感というのは行ってみないと分からない。この位置関係、この風景、こうした問題を抱えて生きてきた人々、そのことを思っていた。近くて遠い。遠くて近い。それが南北に分断された方々の思いなのだろうから。

 実際、私は少しだけ御題目を上げさせていただきたいだけだった。こうした場所に立って、韓国の方々が抱えている問題を肌で感じさせていただきながら、御題目をお唱えさせていただきながら南北の融和や平和を願いたかった。そして、その地で苦しんでいる家族、特に子どもたちのためにもご祈願させていただきたいと思った。

 そんなことしても意味はない、と言う人もある。韓国の方と話をしていて、「北朝鮮と融和などしてもらったら困る」という人もいる。南北統一など言っているだけだ、本音は貧しい国と一緒になったら韓国が迷惑する、韓国経済の足を引っ張る、もう放っておいてくれと思っている、等々。北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の現政権のままで南北統一など出来るはずがない、と。私も、先日の佐渡でジェンキンス氏とお会いして、また彼の著作を読み返しながらどれだけ恐ろしい現実が北の大地を覆っているか学ばせてもらった。拉致問題をはじめ、多くの人から「生きること」を奪っている恐怖の国家体制が現在なお存続していることを思い知らされた。

 しかし、現実的な、政治的な問題は多々あるとしても、私はお祖師さまのお教え下されたとおり、上行所伝の御題目を以て朝鮮半島に横たわる問題について考え、御題目をお唱えさせていただくことによって、「何かが起こる」と確信していた。それが私たちのご信心ではないか。

 検問所があって上手に場所が見つからない。ゆっくりとお看経出来る場所を探していた。南北の問題を象徴する場所として「板門店」があるが、29日と30日は何と6カ国協議の経済・エネルギー協力に関する作業部会が開かれており、一般人に対しては閉鎖されていた。もちろん、板門店に行っても御題目が唱えられなければ意味がない。やはり、姜ご住職のご案内をいただいてよかった。場所を見つけるだけでもパスポートチェックや事前のツアー登録がなければ入れない場所が多く、逆に外国人は良いが韓国人は厳しい事前チェックがあって入れない地域や施設というものもあり、本当に難しい。しかし、高速道路を行ったり来たりしながら、1992年9月にオープンした「オドゥ山統一展望台」に場所を定めて、そこから北朝鮮に向き合い、御題目をお唱えすることが出来た。

 簡単な模型と展示があって、この展望台から3200メートル対岸が北朝鮮であると書かれていた。左側の川がハンガン、左側がイムジンガン。

 この展望台には観光客がたくさんきていて、特に韓国の人にとって気軽に北朝鮮を見られる場所はこのくらいしかないということで、大勢の方が見学に来ておられた。もちろん、日本人の観光客もいた。

 私たちは、展示室から展望台に上った。500ウォンを入れて北朝鮮側の農村、畑、集合住宅などが立っているのが見えた。「人がいないですね」と姜ご住職が仰ったと思ったら、私の目に大きなワラを背負った男性が畑のあぜ道を歩いていくのが見えた。その他、どこに望遠鏡を当てても誰も見つけられなかったから、あの村で歩いていたのは彼一人だった。ちょうどお昼の12時くらい。子どもたちはいないのだろうか。他のみんなは何処に行っているのだろう。集合住宅は少なくとも20くらいはあった。大きな幹部さんの家のようなものも2~3棟あった。人影がないことが不気味に感じた。それでも、男性の姿を見ることが出来たのは幸せだった。

 展望台の一番上で、懐中御本尊をお掛けさせていただいて、小さな小さな一座の法要を勤めさせていただいた。この地で正法が興隆し、南北が平和になりますように、苦しむ人々に一日も早く幸せが訪れますように、と。姜ご住職と一緒に御題目をお唱えできたことが嬉しかった。

 実は、姜ご住職はアシスタントとしてHeiranという鶴松寺の女の子をご奉公に連れてきてくださっていたのだが、この時ばかりは「恥ずかしいから知らんぷりしてよー」っと言っていた。さすが女子大生。でも、写真だけはキチッと撮ってくれていた。ありがたい。

 ほんの僅かな時間だったが、この御題目口唱の功徳は火にも焼けず、水にも漂わない。もっともっとご弘通に気張って、菩薩行を実践し、いつか本当に平和と安穏が訪れますように、と願う。とにかく、ハンガン、イムジンガンの向こう岸にある北朝鮮に向かって、御題目をお唱えさせていただいた。

 お看経が終わった後、周りで見ていた日本人観光客の方から「修行ですかー?」と言われたので、笑って「はい、そーでーす」と答えた。

 先日、盧 武鉉(ノ・ムヒョン)韓国大統領が北朝鮮の金正日書記長と会った。政治的なパフォーマンスと受け取られて賛否両論があったようだが、この展望台でのお看経に引き続いて、彼が渡った韓国と北朝鮮に掛かる橋にも行かせてもらった。もちろん、私たちがそこを渡ることは出来ないが、この場所を訪れられたことも私にとっては非常に意義深かった。

 私たちがこの場所にいた時にも、後ろからアメリカ軍の車列が猛スピードで通り抜けていった。すぐ近くの板門店で6ヶ国協議の作業部会が行われているのだから、いろいろな動きがあったのだろう。

 この場所でも降りて写真を撮らせてもらった。この先にあるのが北朝鮮。本当に近い。近いのに、韓国の人たちはこんなに遠い国はないと感じている。感情としては統一を望んでいる。しかし、それが極めて難しいことも知っておられる。

 韓国の青年たちには軍に入隊しなければならない。徴兵制度がある。姜ご住職も100日間勤務したと言っておられた。その場所が、この地域だったということで、ここに案内してくださったのだ。

 国が分断されている、ということを眼で、肌で実感することが出来た。この200年弱の間、全世界は、特にアジアは、まさに「社会的ダーウィン主義」さながらに弱肉強食、ぶんどり合戦、生存権の争奪戦に巻き込まれ、それぞれが危機感を持ったり、煽ったりしながら、不幸な戦争に突入していった。

 韓国の現在(問題)について、日本の統治があったからこのような不幸な分断が生まれたという人もいる。「日本のせいだ」と言う人もある。

 しかし、過去の清算や謝罪と同じ、いやそれ以上に大切なのは、今を生きている者同士の理解と協調であり、単なる批判や評論では仕方がない。日本人であると同時に、本門佛立宗の、仏教徒である私たちが、「バラバラになったものを一つにする」教えである上行所伝の御題目のご信心を伝えたいと思うのは自然だと思う。グランデ・ファミリアでも、ずっと言い続けたこと。「バラバラになったものが、元の姿に戻る」。

 この場所を後にして、また高速道路に戻った。そして、姜ご住職がイムジンガンに降りられる場所を探してくれた。鉄条網の外から見るのではなく、分断の象徴ともいえる「イムジンガン」を、実際に目の当たりに出来る場所はないか、土手まで入れる場所はないかと言っていたので、姜ご住職が探してくれていたのだ。そして、姜ご住職の案内で、私たちは少し国境からは逸れているが、土手まで出られる場所に行った。そこも、土嚢が積まれていて、砲台か機関銃を置く場所が作られていたが、警備の兵員はいなかった。淋しいが、綺麗な川面が広がっていた。

 映画「パッチギ!」で取り上げられた在日朝鮮人と日本人の姿。とても素晴らしい映画だったし、若者たちに色々なことを考えさせた映画だったと思う。

 あの映画の舞台は京都だった。主人公の家はお坊さん、そして在日朝鮮人と日本人の間を結ぶかのように、彼は綺麗な声で「イムジン河」を歌い上げた。この歌は、発売中止に至った経緯など因縁が深いのだが、分断された方々がどのような哀しみを抱いているか、イムジンガンを見つめる人々の心がどのようなものか、少しでも感じ、学ばせてくれる。

 少なくともイムジンガンを前にして、私の脳裏ではこの旋律が流れていた。

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イムジン河

松山 猛 訳詞
朴世永 原詩
高宗漢 作曲

イムジン河水きよく
とうとうとながる
みずどり自由に
むらがりとびかうよ

我が祖国南の地
おもいははるか
イムジン河水きよく
とうとうとながる

北の大地から南の空へ
飛びゆく鳥よ自由の使者よ
誰が祖国を二つに分けてしまったの
誰が祖国を分けてしまったの

イムジン河空遠く
虹よかかっておくれ
河よ思いを伝えておくれ
ふるさとをいつまでも忘れはしない

イムジン河水きよく
とうとうとながる

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 ずいぶん長い文章になってしまった。

 この後、16時くらいにホテルに戻って、そのまま私の部屋に入っていただいて、姜ご住職と19時くらいまでゆっくりと話が出来た。本当に有意義だった。そして、夕食は団参の方々と合流、それは大変に盛り上がった。

 なんと、姜ご住職のファンクラブが出来るらしい。すごい。

 そして、30日14時前、無事に日本に帰国した。本当に有難い、貴重なご奉公となった。



2007年10月29日月曜日

鶴松寺の高祖会

 素晴らしい晴天の下で、韓国ソウル鶴松寺の高祖会の奉修ご奉公をさせていただいた。私たちは本当に真心のお迎えご奉公をいただいて、感謝の言葉もない程だった。大きな看板まで道路にかけてくださっていて、河(ハ)理事長の温かいお心が感じられた。ありがたい。

 昨日の新清寺の高祖会に引き続いて、ソウル鶴松寺での高祖会ご奉公。新清寺のご信者方も昨日に引き続いてお参詣してくださっていた。韓国の中央寺院といってもいい鶴松寺には、若いお参詣者が多く、本堂内も韓国の一般お参詣者でいっぱいになっていた。理事長のご長男もお参詣・ご奉公くださっていた。ご長男はご信心にも前向きで、鶴松寺で一生懸命にご奉公してくださっていると聞いていた。今回、ご長男は英語が堪能ということで、奉修前後に話をさせていただくことが出来て、これからはメール友だちになることにした。

 今回、普段と比べるとお参詣者は多かったようだが、姜ご住職は「韓国でのご信心、ご弘通はとても厳しいです」と言っておられた。

 御法門の中でも触れたのだが、韓国での本門佛立宗のご信心を囲む状況を分析すると、大きく2つのことがいえる。

1. 不幸な歴史の中で、『日本の宗教』に対する抵抗感が強い。

2. 戦後、キリスト教が圧倒的に流入しており、特にカトリック教徒が若者にまで広く浸透している。週末、教会に通う若者も多い。

 この2つを念頭に置いて御法門を説かせていただいた。まず、日本と韓国(朝鮮)との間に不幸な歴史があることは事実で、未だに様々な社会問題や精神的な軋轢が両国間に横たわっている。感情的な抵抗感が政治的に利用されることもあり、中国や韓国で起こるような『反日』行動は希であるとしても、そうした感情は常に人々の根底にあるのだろう。

 しかし、単純に、本門佛立宗は『日本の宗教』『日本の仏教団体』とする定義だけを当てはめていただきたくない、とお伝えした。もちろん、日本に本山があるのだからそう言えばそうだが、そこだけで止まっていてはいけない。ブラジルの本門佛立宗が、「Primordial Buddhism」と掲げていることなどを紹介し、あくまでも普遍的な仏教、普遍的な宗教としての「佛立信心」であると心に置いていただきたい、と。

 また、キリスト教、特にカトリック教徒が多いということについては、ヴァチカンのあるイタリアで佛立信心が芽生え、いまイタリアの方々が頑張っておられることや、カトリック教徒が90%といわれるブラジルでご弘通がどのように進展しているかをお伝えした。その中にヒントがある。また、私も一人でイスラエル、エルサレムに行かせていただいたこと、その理由をお伝えした。1つのバイブルから生まれたユダヤ教、キリスト教、イスラム教が、互いに戦争を繰り返していることの矛盾と、人類が歩むべき第3の道としての『仏教』に誇りを持つこと。「カトリック教国のブラジルでは、大学生で『私、仏教徒です』って言ったら逆にモテるんですよ!このことを考えて。時代は仏教、佛立宗なんです!」とお話しした。

 とにかく、海外でのご奉公は、次にいつ来させていただけるか分からないため、いつも以上に精一杯御法門させていただく。この一度の御法門で、何とかご信心増進、ご弘通発展の一助になればと願う。ちょっと長くなってしまったが、姜ご住職の上手な通訳もあって助かった。とにかく、『佛立信徒でよかった』『御題目にお出値いできてよかった』という『喜び』や『誇り』を取り戻していただきたい、とお話しした。インドなどでのエピソードを紹介しつつ、、、。

 奉修が終わったのは13時を廻っていた。13時から記念写真を撮り、ご供養場までご案内していただいた。ご供養場も、私たち日本からのお参詣者に気を使ってくださり、味わいも少々日本人の舌に合わせて作ってくれている店なのだと説明してくれた。お店で日本から来た私たちと、わざわざご供養場までご奉公に来てくださった韓国の方々と一緒に記念写真を撮らせていただいた。

 とにかく、素晴らしい体験、ご奉公をさせていただくことができた。ありがたい。

 今日は、私だけ団参の方々から離れて、姜ご住職に北朝鮮の国境近くまで連れて行っていただく。二人で北朝鮮の見える丘の上からお看経させていただこうと思っている。「世界平和」と御祈願させていただくが、特に朝鮮半島の場合、南北の平和、南北問題の解決なくして世界平和などないという具体的な御祈願があるからだ。

2007年10月28日日曜日

ソウルの朝、

 昨夜はブログをアップした後、本を読みながらゆっくりと眠りにつくことが出来た。団参の方々と美味しい夕食をいただいた。その後、何人かとホテル近くのコンビニに行ってお水を買って部屋に戻ってきた。お水は欠かせないし、ホテルの部屋のお水は高いし。

 なんと、ベッドが良い。枕だろうか、分からないけれど、ぐっすり眠れた。こんなことってあるんだなぁ。ホテルのベッドと枕がビタッと合うなんて。うれしい。本当によく休ませていただきました。ありがとうございます。

さて、今日は9時30分に出発予定。お天気もバッチリ。よっしゃ、精一杯、ご奉公させていただこう。ありがたい。

2007年10月27日土曜日

長松寺 Cafe International

 既に韓国のご奉公となってしまった。
 朝5時30分過ぎに準備をしはじめて、5時45分には出発。羽田空港からソウルの金浦空港まで。日本は台風の影響で大雨だったが、韓国の空は鮮やかに晴れていた。その報告はまた今度。午後から新清寺で無事に高祖会を奉修させていただき、姜師の通訳によって御法門もさせていただいた。明日は鶴松寺での高祖会。ホテルを9時30分に出発して11時からの奉修となる。ありがたい。
 さて、立て続けの海外関連のご奉公の中で、先日来日本に来てくださっていた韓国の理事長ご夫妻が空港までお迎えにきてくださっていて、お互いに再会を喜んだ。よかった、10月のご奉公が結びつきを強くしてくださっていて。
 その地域代表者会議の締めくくりの記事を書かなければならないと思っている。義天寺を訪れた後、ホテルに一旦戻って、最終目的地である由緒寺院・長松寺へと向かった。長松寺とは、佛立開導・長松清風日扇聖人が晩年を過ごされた宥清寺・奥の院である。ほぼ開導聖人がお住まいになられたままの形で護持させていただいている。開導聖人の建立された佛立講最初のオリジナル・デザインの御戒壇、御宝前、開導聖人の愛された庭、それらが当時のまま護持されている。建物は江戸時代からのものである。
 その長松寺では、淳慧師や博子さん、松本現薫師が中心になって、「長松寺Cafe」という交流の機会を作ってくれている。すでに4日と16日の長松寺の御総講には関西近郊に住む交流のあるご信者方が自然にお参詣してくださっており、大変に有難いと思っている。その方々を中心に、さらにご信心をしていない方にまで広げて交流の機会を設けようというのが、この「Cafe」の主旨とのこと。
 これまでも、イタリアのダニエレ・良誓師やブラジルの斉藤御導師やコレイア御導師、スリランカのミランダ女史などがお参詣されると、鑒座に座っていただいて、自国の言語で導師役を勤めていただいたことがあった。こうした試みは、単純に「開導聖人がお喜びになるだろうなぁ」という思いからだった。開導聖人が安政4年に開始されたご弘通が、遠い国にまで広がり、こうして様々な言語に訳されてご信心されていること、特にそこには「菩薩」がおられること。そのことを、開導聖人護持の御宝前の前でご覧にいれたかった。
 今回の長松寺Cafeでも、企画を練ってくださって、まず最初に私が英語で言上し、続いて各国の代表者が自国の言語で言上を行い、最後に海外部長が日本語で言上してお看経に入らせていただいた。80名以上のお参詣があったのだが、本当に暖かいお看経、活き活きとしたエネルギーが音を立てているかのようなお看経になった。
 今回、なによりの大きなプレゼントは、何と吏絵ちゃんが参加してくれたことだった。吏絵ちゃんは、吏絵ちゃんの病気の御祈願をしてくれていたスリランカの方々が長松寺に来られると聞いた。横浜に来た次の長松寺御総講で、吏絵ちゃんは10月8日のCafeに参加する、とメールをくれた(吏絵ちゃんは僕の少ない携帯メールのお友だち)。
 そして、当日。体調を心配していたのだけれど、きちんと、元気にお参詣してくれていた。もう、アベイさんもガマゲさんも、飛ぶように喜んでくださっていた。こんなこと、こんなに嬉しいことがあるだろうか。
 ガマゲさんが吏絵ちゃんを抱きしめながら言った。
「吏絵ちゃん、私たちスリランカのメンバーは、あなたの名前を御宝前に掲げて、祈っていたのですよ(涙)」
 私はこんな素敵な瞬間に通訳で立ち会っていたのだが、本当に胸に思いが込み上げてきた。吏絵ちゃんも「本当に御祈願してくれていたなんて」と、彼らの口から直接聞いて、思えたに違いない。
 しかも、ガマゲさんは続けて吏絵ちゃんに尋ねた。
「吏絵ちゃんは、朝と夜にどのくらいお看経しているのかな?」
「え?」
と一瞬みんなが顔を見合わせたような気がした。吏絵ちゃんがお母さんの顔を見る。「ヘルプ~」という感じだった。お母さんもそれを察して、
「ね、吏絵ちゃんね、そう学校に行く前と帰ったときと、、、、ね?、、、、」
というような。は、は~。続けて、本当に底抜けに優しい笑顔でアベイさんが、
「いいかい、吏絵ちゃん。吏絵ちゃんは大変な病気だったよね。そう、出来る限り、一日朝夕最低でも20分間お看経されてもらいなさい。そうしたら必ずブッダが吏絵ちゃんを守ってくださるのだから」
とお話になった。とても感動した。本当に、真心のお折伏というか、本物のアドバイスだったと思う。そこまでお伝えできて、本当の「お助行」である。ありがたい。

 さらに有難いこと!HBSのネットでも紹介させていただいているが、2004年に由乃ちゃんが横浜にお参詣してくださった。彼女も幼い頃に白血病を患い、ご家族の献身的な看護とみんなのお助行をいただいて元気に過ごし、ご奉公してくださっている。詳細は「白血病からの回復」というページに記載されているから是非お読みいただきたい。
 その由乃ちゃんと吏絵ちゃんが、肩を組んで歌を歌ってくれていたぁ~。なんじゃー、この有難さは。なんていうタイミングか。こういう日が来るんだなぁ。
 佛立宗のご信心は、最大の不幸を最高の幸せにしてくれるのだと、何度も何度も教えていただくが、まさにそうだと思う。病も成仏の仲人に出来る、病を通じて学び、学ばせていただくことがあり、お助行している者も、お助行を受けている者も、共に御題目の御力を実感できる。本当に、「思いやり」「慈悲」が、こんな形になるということを証明してくれるのがご信心。その瞬間が、由乃ちゃんと吏絵ちゃんだったなぁ。
 長松寺Cafeでは、宥清寺の石井君たちがギターを持ってきてくれて、海外信徒の方々を前に80名の若者が大合唱するというクライマックスだった(誰が考えたの?すごい)。これには老いも若きも本当に音楽の魅力を感じて、喜んで肩を抱きながら歌っていたのだ。その時のショットが、由乃ちゃんと吏絵ちゃん。二人とも白血病を乗り越えて、御利益をいただいて、こうして元気になってくれた。ありがたい。

 また、このCafeには大阪・本泉寺の夕香菜ちゃんと加納姉妹が来てくれており、一生懸命にご奉公してくれていた。3人が持っているのは海外の方にお渡しする記念品。ここで撮った写真を、この写真入れにはめ込んで、「モノより想い出」とばかりにお渡ししようと考えた。みんなとの出会い、今夜のCafeを一生忘れないでねとばかりに、素敵な写真がはめこられていた。
 夕香菜も、今年のお正月に事故に遭い、顎を複雑骨折した。その時は誰もが慌てた。しかし、時が経つにつれて、なぜこうしたことが起きたのか、誰に何を教えようとして、何のために、なぜ、ということの一つ一つをみんなが気づき、知り、そして夕香菜と加納姉妹、尾池くんたちは、素晴らしい体験談、お助行から学んだこととして、青少年の一座にて発表してくれた。それは立派な発表だった。夕香菜もよくやってくれた。
 その夕香菜の笑顔。みんなの微笑み。ありがたい。これが良いなぁ。みんなが、壮絶なことを乗り越えて、こうして笑っている。ご信心していたら間違いない。ビクビクするな。逃げるな。いま辛くても、必ず乗り越えられる、最大の不幸も最高の幸せに変えるんだ、変えられるんだ、冬は必ず春となる、と思って御法さまにさらに近づくしかない。
 あっという間に時間が過ぎて、みんなで記念写真を撮った。もう、このまま増え続けたら長松寺の御宝前での記念写真は無理だな。底が抜ける。いや、もう既に入っていない人がたくさんいるもの。
 でも、本当に素敵な時間をありがとうございました。

嬉しい、マダワ君からのメール、

 明日の早朝から韓国。全くPCに向かう時間が無く、メールのチェックはできても返信が出来ない。19時から事務のご奉公があり、20時から近所のご信者さん宅で局長と一緒にお話。戻ってきてから御法門のプリントアウト、スーツケースに荷物を積み込んだ。

 明日の朝は5時40分に妙深寺を出発し、羽田空港に6時20分集合予定。8時20分のフライトということだと、このくらい早い時間なのだな。よかった成田ではなく羽田を使うことが出来て。成田だったら、もっと早い時間に起きなければならないだろう。

 先ほど、スリランカのマダワ君からメールが来た。本人からの直接のメール。うれしい。一度は快方に向かったと聞いて安心していたのだが、マダワ君の症状だけ良くないと聞いて、お父さんのシャンタさんも困惑・混乱していたので御祈願を続けさせていただいてきた。その彼からの報告メールはとても嬉しい。

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Dear Rev, Nagamatsu Odoshi,

I am Madhawa, I am extremely sorry for the getting delay to write you.

I take this moment to say, thank so much you, every members in your temple who were chanted for me to come out of danger from dengue fever.
I strongly believe in chanting odaimoku [Namu myoho renge kyo].
to recover me from dengue.our members too chanted for me.

This experience changed my life to a good way. I honoured lord Buddha and lotus sutra every moment in my life. When I chant I always think members who chanted for me and other people who suffer from various problems.

I heard that you will be here on December.we all welcome you with warm feeling

Namu Myoho Renge kyo

Madhawa Perera
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 本当に素晴らしいメールで有難かった。というのは、先日まで日本に来られていたスリランカの代表者が言っておられた。

「病院で病気が治ったとしても本当に病いが治ったとは言えないのです。私たちが背負う本当の病を完治は、ご信心によって病気が治るということだけなのです」

 身体の表層に浮かび出た「病気」ではなく、その「病気(=症状)」を通じて、その奥に隠れているもっと大きな「病い」に気づき、それを治すことが様々な症状を緩和する根本的な治療法だと気づくこと。これがご信心をするということだと考えられる。

 マダワ君が、これだけ苦しい経験を心から前向きに捉えていること。あれほど苦しかった病気のことを、「私の人生をより良い道へ変えるきっかけ」であると捉えられたマダワ君。偉いぞ。それでいい。「病は成仏の仲人」とはこのことだ。次にあったら伝えよう。

 ありがたい。

2007年10月24日水曜日

昨日は千葉へ

 昨日の朝から今日の午前中まで、千葉県の館山で泊まりがけの会議に出席。神奈川布教区の、主に平成20年度弘通方針について検討・協議する会議だった。
 非常に有意義な会議となった。来年度のご奉公も楽しみ。今月末までに成案化してゆき、いろいろな意見を集約してゆく。それにしても、こうした会議を通じて、布教区のご奉公をしていただいている講務の方々とゆっくり話すことができるのが有難い。各寺院のご奉公の取り組みもお聞きすることが出来るし、またとない勉強の場である。
 会議が開催された場所は千葉県の館山。布教区参与の方が探して下さった「国民休暇村」だという。しかし、立派な建物と綺麗な内装で驚いた。学生時代、全国をレースで回っていた時に泊まっていたような「ユースホステル」を思い浮かべていたのだが全く違う。すごい、立派なホテルなんだなぁ。
 しかも、正面は海。窓を開けなくても波の音が聞こえていた。気持ちいい。夕方、海岸まで出て石を投げたり、歌を口ずさんだり。ちょっとしたリゾート、ではないか。ありがたい時間をいただいた。
 夜、スリランカに出張している清顕から連絡があった。すぐに福岡御導師に代わって、来年度のご奉公日程について調整。2008年10月19日(日)にスリランカHBSの10周年を奉修・開催することを決定した。この機会に多くの参詣者を募り、素晴らしい「輝く島」、スリランカをご案内し、同時にご信心を見習ったり交流する機会に出来ればと考えている。
 今朝、13時までにお客さまがあるので、先に失礼した。アクアラインを通り、途中で「海ほたる」に寄った。東京湾の真ん中に浮かぶドライブイン。スターバックスでコーヒーを買い、ホッと一息。ありがたい。

2007年10月23日火曜日

ベツレヘムの写真

 ついでに、写真をアップしてみる。ご奉公に追われて、私自身も写真を見返す時間がないので、こういう機会に見返していた。「星に願いを」からずいぶん話が飛んでいるようだが。
 この写真は、ベツレヘムの「聖誕教会」と呼ばれる教会の入り口。もう少しマシなカメラを持って行けばよかった。
 この写真の真ん中、小さな穴のような部分が入り口である。ここは屈み込まないと入れない。後でも述べるが、何度も何度も改築を繰り返し、ついには要塞化して、敵に攻め込まれないように入り口を狭くしたのだった。すごい、それが教会なんて。これが砂漠の宗教の緊張状態、現実なのだ。
 中の写真もあるのだが、特に見せられるようなものはない。コンスタンティヌスのお母さん、ヘレナが熱心なキリスト教徒で、ローマ皇帝である息子を最初のキリスト教徒にしたのは有名だが、このヘレナがパレスチナに聖地を求めて活動した。中世以降になると、ヴェネチアなどが聖地巡礼をビジネスにするようになり、様々な「聖地グッズ」が販売されるようになる。「聖遺物」のことについてはイスラエル渡航記でも書いたが、イエスが磔にされた十字架まで展示されていたというのだからちょっと笑ってしまう。パレスチナの民が商売熱心というか、何というか。少し考えてみたら分かるのだが、ローマから訪れた巡礼者は、あまりに興奮し、感激して、その十字架に噛みついて、「聖遺物」として削り取ったというエピソードまである。だから、十字架には歯形がたくさんついていたと言うくらいだ。
 この右の写真は、その聖誕教会を振り返ったところ。隣のモスクで午後の祈りを捧げている男性たち。パレスチナ人のムスリム。ここが大変な戦場となったことなど想像もつかないくらい、穏やかに祈りを捧げていた。
 2002年4月、イスラエル軍はベツレヘムに侵攻した。4月2日の夜から、イエス・キリストの生誕地とされる聖誕教会に、武装したパレスチナ人やベツレヘム知事、住民約200人が逃げ込み、イスラエル軍が包囲する状態が続いていた。このニュースを覚えている人は少ないだろう。私がベツレヘムを訪れる1年半前のことだった。
 この教会は、キリスト教を公認したローマ皇帝コンスタンティヌスが建設したといわれている。6世紀に改築されるが、特にその後の十字軍時代(11~13世紀)には要塞化された。そのキリスト教の教会に、イスラム教徒であるパレスチナ人がユダヤ教徒であるイスラエルからの攻撃を避けるために籠城したのである。皮肉というか、何というか、複雑極まりない。
 2002年4月4日、ベツレヘムの聖誕教会周辺では爆発があり、イスラエル軍による銃撃が続いた。私が訪れた頃は穏やかなものだったが、上掲のニュース写真を見ても分かるとおり、教会上空に照明弾と銃弾が打ち込まれており、まさに戦争状態だった場所だ。

イスラエルに触れたので、

 イスラエルに触れたので、ちょっと思い出していた。
 イスラエルに行ったのは2003年11月16日から22日までのことだった。どうしてもユダヤ、キリスト、イスラムという三大宗教の聖地なる場所を自分の眼で見て、肌で感じて、物申したいと思ったからだ。
 あの頃、テレビの報道で、日本の仏教界や僧侶らがカトリックの僧侶らとイタリアのアッシジに集まり、『平和』のための集会を開いて植樹をしているのを見た。「なんて呑気なことをしているのだろう」と単純に思ってしまった。
 その頃の私はニューヨークのテロやアフガニスタン、イラクで始まった戦争と宗教のおぞましい関係や背景について心から憂えていたし、その下で傷つく家族、特に子どもたちのことを毎日毎夜考えていた。
 平和について宗教や思想の垣根を越えて語り合うことは必要だろう。しかし、あの1つのバイブルを基にして派生した3つの宗教同士の相克や憎悪の連鎖を知らずして、全く異なるアプローチが出来るはずの『仏教』が、単純に「お互いに仲良くしましょう」と言っているようでたまらなくなったのだ。「為すべきことは違うだろう」という思いがずっとあった。
 もちろん、だからといって私のような行動をすることは馬鹿げていると思う。しかし、この世界の惨状の中で、私たち仏教徒が守られた壁の中で平和や教えを語ったりするだけで良いのか、という思いは今も同じだ。そんな坊主と一緒にされたくない。
 すでに、私がイスラエルに行った時の模様は『イスラエル渡航記』として妙深寺報とHBS NETWORKに連載させていただいた。いま読み返すと文章が稚拙で、これまた恥ずかしいが、読んでいただければと思う。これも途中になっているので、あの旅を思い返しながら書き足さないといけない。
 一人旅が大好きで、これも困ったもの。家族からは呆れられている。もう一度、あの場所、この場所に行きたい、と思っている。
 前の文章で書いたコバンの写真を探したので、載せてみた。いい男。エルサレムの旧市街から東、遠くに死海が見える丘の上でタクシーを止めて写真を撮った。実は、イスラエルで私はレンタカーで移動していた。このコバンと会って、ベツレヘムに行ったのは最終日だった。まったく時間の無い旅だったので。
 だから、丘の上に車を停めて、タクシーからレンタカーに乗り換えて、急いで空港に向かった。もう一度、コバンにも会いたいなぁ。誰かに似てるんだけど、思い出せないんだなぁ。

2007年10月22日月曜日

音楽について

 音楽は人を魅了する。簡単に国境や言語、人種の壁を超えて、人々に感銘を与える。
 若い頃、というか10年前くらいに先輩と話をしていたら、その先輩は「来世は歌手になりたいなぁ」と言っていた。何故かと聞くと、上記のような理由だった。私も本当にそのとおりだと思ったものだ。
 私たちの「唱題行」というのは、ある意味で「歌手」に当たるかも知れないと、Yaccoさんから教えていただいたように思う。Yaccoさんが、はじめて本堂に入った頃だっただろうか、本堂の中を「クラブ」のように感じたというし、導師や教務を「DJ」のように感じたというのだから。少々驚いたが、Yaccoさんらしい。
 仏教には、大別して「瞑想(Meditation)」と「口唱・詠唱(Chanting)」という修行がある。「瞑想」が止まって行う個人の修行だとすれば、「口唱行」は五感をフルに使い、一人ではなく多くの人と共に行うもの。一緒に唱えることを指すのだが、聞いても良し、口ずさんでも良し、というわけだ。とにかく全員で五感を使い、みんなで声を合わせて唱える修行は、簡単に「一つ」になれる全員参加型の修行なのだから有難い。
 現実、海外でご奉公をさせていただくようになって、「ナムミョウホウレンゲキョウ」とマントラを唱えることは、簡単に国や言語や人種の壁、理屈や理論を超えて、誰もが出来、誰もが魅了されると知った。自分で唱えることによって、何かを実感・体感できるということが最大の魅力だろう。難しい歌詞ならば覚えるのに大変なのと同じように、口唱(詠唱)行とはいえ難解な経典であれば実感することは叶わないのだから。久遠から届けられたユニバーサル・ラングエッジである『歌詞』とリズム、ビート、とも言えるわけだ。
 しかし、最近の私といえば、少々時計を逆に回して、「歌」の魅力を痛感している。思い起こせば、若い頃は何度かライブをやらせてもらい、歌ったものだ(恥ずかしい)。神奈川県下の寺院から大勢の若者が集って開催された大キャンプでも、トラックを改造して野外ステージを作り、そこで2度も、ライブをさせていただいたことがある。あの時も、先代のご住職が「やってみろ」という一言で練習を開始し、本番を迎えた。
 さらに、京都でも2度、ライブハウスを借りてステージに立ったことがあった。いま考えると恥ずかしくて仕方がないが、若気の至りで、アベちゃんの指揮の下でさせてもらった。恥ずかしい(笑)。祇園の八坂神社に近いライブハウスだったが、正確な場所は覚えていない。
 いま、ネッド・ワシントンの書いた『The nearness of you』という曲が素晴らしいと教えてもらって、毎日口ずさむようになった。このネッドという人は『When You Wish upon a Star(星に願いを)』という誰もが知っている曲の歌詞も書いている。そう、ディズニー映画『ピノキオ』の主題歌としてジミニー・クリケット(コオロギ)が歌っていた名曲だ。『御宝前に願いを』だったらもっとよかったが、日本語訳も素敵だし、私も昔から大好きな曲だった。
 実際にはジミニーを演じたクリフ・エドワーズが歌っていたらしい。その年のアカデミー賞の歌曲賞を獲得し、その後も「映画史における偉大な歌 百選」の第7位(ディズニー関連作品では最高位)に入っているということだ。
 この『星に願いを』は1940年に書かれた。そして、同じ年に発表されたのが『The nearness of you』だった。ニコール・ヘンリーが歌うこの曲が一番素敵だと思うが、またあらためて『音楽』の素晴らしさを思い起こすことが出来た。今年の年末の「教講納会」でご披露できたらいいなぁ。今年は新事務局、特に第二弘通部の方々の出席もあるだろうから気合いが入る(笑)。また、Jazzyな曲が歌えるようになったら山村御導師や恭代さんにも自慢できるし。
 ついでだから、ネッドが書いたこの曲の歌詞を載せておこう。
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『The nearness of you』
It's not the pale moon that excites me
That thrills and delights me,
Oh no, It's just the nearness of you
It isn't your sweet conversation
That brings this sensation,
Oh no, It's just the nearness of you
When you're in my arms
And I feel you so close to me
All my wildest dreams came true
I need no soft lights to enchant me
If you'll only grant me
The right, To hold you ever so tight
And to feel in the night
The nearness of you.
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 『星に願いを』と同じ作詞家の曲。あらためて、あの名作「ピノキオ」と同じ年に、同じ作詞家によって書かれたこの曲を、「素敵だぁ」と思うのであった。
 ちょっと豆知識を披露すると、実は『When You Wish upon a Star(星に願いを)』は、現在もスウェーデンとノルウェーではクリスマスソングとして歌われている。つまり、その「星」は「星」でも、何と「ベツレヘムの星」について歌っているのだというのだ。
「ベツレヘム」といえば、私も行ったことがある、イエスの生まれたとされる街。ユダヤ教徒にとってもダビデの住んだ街として神聖視されている。
 エルサレムから約8キロ。私はタクシー運転手と交渉して、その街に向かった。コバンというイケメン運転手だったが、彼をエルサレム旧市街の外、オリーブ山のゲッセマネで見つけて、一路ベツレヘムに入ったのだ。いや、一路ではなかった。すでにエルサレム近郊にはイスラエルとパレスチナを分断する「壁」が出来ており、私たちは山の中腹でタクシーを降り、ゴツゴツした山を少し下って、どこからともなく現れた別のタクシーに乗り込んだ。そして、現在はパレスチナ自治区となっている「ベツレヘム」に入った。
 「The nearness of you」は愛を歌った曲だが、『When You Wish upon a Star(星に願いを)』に宗教的意味があることを知る日本人はとても少ない。「クリスマスに起きた奇跡」というようなことをテーマにしているのだから、仕方がないのかもしれないが、こうしたことも頭に入れておくといい。単純な「クリスマス気分」で終わるようなものではない。「人類の心の闇」といわれる世界が、その後ろ側には広がっている。
 なぜなら、私が見たベツレヘムは、夢や希望、愛に満ちたものではなかった。パレスチナ自治区に住み人たちは、ニュースで報道されているイメージとは違う。人々はとても明るい。
 私がイエスの生誕教会(ここで生まれたのではないというのが今や定説だが)の前に立った時、すぐ隣にはイスラム教のモスクがあり、ちょうど午後の礼拝を呼びかける「アザーン」が鳴り響いていた。イスラム教徒たちは、そこにキリスト教徒が聖地と崇める教会があることなど全く関心を払わずに、午後の礼拝のために集まっていた。そして、一部の者たちは観光客相手の商売に精を出していた。
 もちろん、ユダヤ教徒であるイスラエル国家は、パレスチナ自治区であるベツレヘムの包囲と警戒を解いていない。コバンはパレスチナ人の中では数少ないキリスト教徒だと言っていたが、「イスラエルの警察に睨まれたら仕事が出来なくなり、何の理由もなく車も取り上げられて家族が飢えることになる」と言っていた。とにかく、3つの宗教は互いに牽制し合っている。
 そして何より、ベツレヘムの星を見上げているのは、いまや貧しい暮らしを余儀なくされているパレスチナの人たちである。そのことを裕福なキリスト教徒の巡礼者は全く気にもしていないようだったが。

2007年10月20日土曜日

守口・義天寺へ

 地域代表者会議のレポートが後回しになってしまっている。残念ながら、今月も指が痛くなるほどキーボードを打っているが、お伝えしたいことの10%もご報告できていない。くやしー。

 いつも、「本門佛立宗の、菩薩の誓いを立てた方々は、人類の浄水器にならなければならない」とお話ししている。悪いことは自分で止める、良いことは地球の裏側までご披露する、これが私たちの生き方でなければならないと思う。悪口や愚癡を誰かに伝えても良いことなどない。逆に、良い話を自分だけで止めていては罪だとすら言える。だから、私たちは悪いことは自分で止めて、良い話は世界の裏まで」というような気持ちで、言葉を発したり、物を書いて発信したりしなければならないと思う。多くの人がそうした生き方が出来れば、地球も人類も、私たちの社会も、もっとマシになると思える。

 地域代表者会議の一行は、伏見を後にして守口に向かった。あの伏見港から川を下って、開導聖人がご遷化された場所まで移動するという、ちょっとした巡礼の旅。遠い国を代表する佛立信者の方々に、開導聖人の御一生を追体験しながら肌で知っていただくことにより、きっと多くの海外信徒が本門佛立宗の「ism」を感じてくださるに違いない。

 開導聖人は、この日のために秦氏が建造してくださった三十石船に乗船して川を下って行かれた。その情景が「御遷化略記」に詳しく書かれている。

「流るゝ水を見てのたまはく、昨日の水に非ずして流は絶えず、随緑不変・一念寂照・生々世々の菩薩行は、又楽しひ哉とて、すこしの間横にならせ給ひしが、やがて枚方うち過ぎる頃は十二時前にてありければ、師、仰せに、すこしあつさを覚えたれば、此の辺にて舟を止め、茶屋へあがり休息して、又風の涼しくなりて大阪へ行かんとありしかば、、、、、」

 開導聖人とご一行は、川が幅を広くして行き交う船や旅客が休憩を取る茶屋を見つけてお休みになられた。それが、森田伊六(大伊)の茶屋であり、ご配慮をいただいて奥座敷へ通され、そこを借りられた。そして、夏の暑い日差しを避けて休まれ、5時を過ぎたところで隣の部屋に休む開導聖人を八尾と現喜が声をかけた。

 その時、開導聖人は今晩一期74才にて化導を終えられ、安らかにご遷化されていたという。明治23年7月17日のことであった。

 創価学会の池田氏監修の本の中に「本門佛立宗」について述べた項目があり、この開導聖人のご遷化の様子について書かれていたのを見たことがある。そこには、長松日扇の死後、死相が悪くて多くの幹部が離れた、というようなことが書かれていた。長松八尾さんや品尾さんの気持ちを考え、私自身長松家の者として強い憤りを覚えた。一般の人でも、父親や母親、先祖の清らかな「臨終」について知ったようなことを書かれて怒らないはずはない。

 同時に、いくら新興宗教とはいえ全く事実と異なることを書き、明らかに単なる「誹謗」や「中傷」を重ねているということ、その宗教的な「DNA」を哀れに感じた。「御遷化略記」など数々の書物にも残され、同時に御遷化の地にも立派な寺院が建立されている事実をしても、きっと彼らは認めないだろう。そして、いつも思うのだが、文中の何といっても恐ろしい言葉づかいには辟易する。こうした中傷合戦を今は内輪でやっているようだが、これも仕方ないことなのだろう。哀れでしかない。

 それはさておき、開導聖人のご遷化後、後継となられた佛立第二世講有日聞上人の下、大規模な報恩教化・ご弘通ご奉公が展開され、各地の教線は大いに伸びていった。もちろん、異体同心のご奉公が実り、奮起して励む中で、この守口のお茶屋も本門佛立宗の教講で護持することとなった。明治29年の頃、この開導聖人ご遷化の地に「宥清寺出張説教所」と題した道場(通称「守口道場」)が建立された。

 昭和8年、開導聖人ご入滅の御座敷を永世に記念保存するために、日雲上人が森田家に保存されていた材料を使用して、あらためて茶屋の奥座敷が「義天閣」として再現建立された。つまり、この義天寺にある開導聖人ご遷化の間、「義天閣」は当時の材料を使い、御入滅の時と同じ空間を保存してくださっているのであった。

 その義天寺に、海外信徒の多くがお参詣させていただき、本堂で御題目をお唱えし、奥座敷である「義天閣」にまで上がらせていただいたことは、何より素晴らしい機会であったと思う。スリランカのお二人も大変に感激していた。

 前回も書いたが、開導聖人はブッダや高祖日蓮大菩薩(お祖師さま)と同じように、ご奉公の旅の途中でご遷化を迎えられた。この天下万民への慈愛と、ご弘通への思い、実践を忘れることは許されない。同時に、開導聖人はご遷化の直前に、

「清風は どんなおやじと人問はば 何にもしらぬ真の俗物」

と遺されておられ、あくまでも「凡夫」として上行所伝の御題目にお縋りし、「信」の一字をもってご弘通させていただいたに過ぎないという御意を表されている。事実、ご存命中に何の称号も、僧侶としての位階も求められなかった。

 昨今、生きている間に数え切れない程の称号を得ようとする者や位階を求めて止まない僧侶も多いが、この開導聖人の御意はもちろん、ブッダやお祖師さまもされなかったようなことを末弟である私たち佛弟子がして良いわけがない。それ以上に大切なことを忘れては何の価値もない。

 事実、「生き恥かいても死に恥かくな」である。生きている間に神のように敬われ、ありとあらゆる称号を得ても、死んでから蔑まれ、疎んじられ、貶められる者の多さは歴史書を見れば枚挙に暇はない。生きている間は権力を駆使して何でも出来るが、死んでからこそ真価が現れるのではないか。

 開導聖人は、ご遷化当時何の称号も位階も持っておられなかったが、ご遷化後から徐々に多方面から認められるようになられ、最終的に法華宗は大僧正位を追贈、その教えはじっくりと世界への広がりを見せている。近年は、開導聖人という幕末の偉大な宗教改革者、芸術家、書家としての側面に、大変な注目が集まっている。「これぞ、仏教」と感じるのである。

2007年10月17日水曜日

友介と、包丁と、喜びの御講

 京都。長松寺の庭に落ちる光がまぶしかった。

 昨晩、横浜に飛んで戻って、今朝は10時から御総講を奉修させていただいた。また、今朝から清顕師が福岡御導師の随伴としてスリランカに出発した。毎日毎日、様々なご奉公がある。メールも毎日40通は軽く超えるので、返信が遅くなる。その一つひとつが有難い。本当に毎日がありがたい。

 長松寺の庭は開導聖人が心から愛された庭。そこを守らせていただいているのだから、どれほど有難いことだろう。16日の夜の御総講でも、こんなに有難いことはない、だからこそ「御弘通の思い」をもっともっと強くして、ご奉公させていただかなければ勿体ない、とお話させていただいた。

 先週で横浜での御講が終了した。特に、集合写真を撮った横浜港北地域での御講について書いてみたい。その御講席は川崎のインターから近く。港北地域には「新横浜」「緑」「青葉」という3つの教区がある。その方は「新横浜教区」に所属されている。

 先日、「絆」という本でもご紹介したのだが、その方の家で御講を奉修することが出来るのは、貴子ちゃんの御講とはまた違った感慨・感激があった。それは、私にとって一つの忘れ得ぬエピソードがあったからだった。

 何年前になるだろう。そのお宅の長男、友介が高校生だった頃のこと。私は神奈川布教区の住職会という会議に出席していた。突然、私の携帯電話にお寺から連絡が入った。友介が包丁を持って家で暴れているという。確か、お姉さんからお寺に連絡してくれたのと思う。

 それを聞いて住職会を飛び出した。お寺に連絡をし、清康にも川崎まで向かうように指示した。

 家に到着すると、玄関にガラスの破片が散乱していた。家のドアの一部にガラスが使われていたのだが、それが割れて散乱していたのだ。そこには血痕がいくつも落ちていた。

「誰かを刺してしまったのだろうか」

と不安になったが、聞いてみると自傷して友介が血を流しているということだった。ひとまず安心した。

「友介はどこにいる?」

と家族に聞くと、包丁を持ったまま2階の自分の部屋に閉じこもったという。家族は動転し、涙を流していた。そのまま1階にある御宝前に向かい、ご挨拶をさせていただき、これから友介の部屋に行かせていただく、お守りください、と御祈願して、階段を上がった。点々と血痕が部屋のドアまで続いている。そのままドアをノックして友介の部屋に入った。部屋に鍵がかかっていたか、開けてくれたのかは覚えていない。

 当時、私は友介のことは知っていたが、親しく話をしたことはなかった。ただ、「千春ちゃんの弟さん」という程度の認識だったと思う。後で本人から聞いたところでは、友介も私のことを余り知らなかったという。

 友介はベッドの横で包丁を握ったまま座り込んでいた。何度か呼びかけると顔を上げたが、ゾッとするような冷たい眼が見えた。いまの友介からは想像できない。友介の手から血が流れていた。どういう内容を話したかは定かではないが、何かを話しかけながら包丁を渡してくれるように言った。何分かが過ぎて、友介は私に包丁を渡してくれた。

 話が前後するが、包丁を渡してくれる前か後、何を言ってもダメだと思って友介を抱きしめたのを覚えている。抱きしめながら背中をさすって、御題目をお唱えしていた。

「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、、、、、、友介、どうした。何があった。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、、、言ってご覧。大丈夫だ。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、、、、」

 何分かして、友介をベッドの上へ座らせて、彼からの言葉を待った。じっと動かないまま、何も言わなかった彼の口がモゾモゾと動いて、学校での出来事、家の中のこと、その中で悶々としていて不満があること、悲しいこと、苦しいこと、部活のこと、いろいろなことを聞かせてくれた。私はただ黙って聞いていた。

 しかし、十分に彼から話を聞いた後で、一つだけ聞いてもらいたいと思って言葉をかけた。

「友介、お前全部人のせいにしてるな」

 この言葉は、いまでも誰かにご信心についてお話しする時に伝えているのだが、仏教の大原則は「人のせいにしない」ということであって、どれだけイライラ、ムカムカしていても「誰かのせい」にしている間は解決の糸口が見つからない。光が見えてこない。

 だから、「自分」という枠の中で、自分の抱えている問題を処理しなければならないということになる。そして、そうは言いながらも自分たちは弱い「人間」なのだから、御題目をいただいて、ご信心をいただいて、お縋りしたり、お願いしたり、御懺悔したりさせていただく。そして、「他人のせい」にして悪循環を繰り返していた人生、考え方を断ち切る。それは佛立信心の直道、御利益をいただく王道なのだ。

 それを彼に伝えて、彼がその時点で理解してくれたとは思っていない。ただ、どのくらいの時間が経ったか分からないが、彼と一緒に部屋を出て、下で待ってくれていた清康師やご家族と一緒にお話をした。そして、御宝前の前でお看経をさせていただくことができた。また、清康師には、彼がどれだけ理解しているか分からないため、今後一週間の詰め助行をしていただくことになった。

 現在、あれから何年経ったか。高校生だった友介は成人式も終えて、立派な社会人となった。彼女がいないのが悩みの種だが、聞いている限り仕事の面でも頑張っている。私も、彼の成長を見る度に、ご奉公させていただいて良かったと思う。これが佛立教務の真骨頂だと思っている。ありがたい。

 私たちは御法さまの下で家族であり、何かあったら駆けつけるのは当たり前のこと。そこが葬式仏教や観念的な宗教とは違うところであり、だからこそ自ら「僧侶」という役割もお経を読むだけ、説教するだけとは違う。そんなのと一緒にされたら、「バカにすんなよ」と元ヤンキーとしては言わせていただきたくなる。命を張って、命を削ってご奉公させていただくのが私たちの使命だと信じている。

 あの時、友介に刺されなくて良かった。あれから数年は、友介に会う度に「友介、お前に刺されなくて良かったよー」と笑い合った。彼が御宝前係をしてくれたり、泊まり込みでご奉公してくれているのを見るに付けて、嬉しさが込み上げてくる。「お前は宝物だ」と思う。何としても幸せになってもらいたい。そして、誰かを救えるような器になってもらいたい。

 御講席で、私の隣に座る友介。真面目そうな顔をしている。嬉しいなぁ。うれしかったよ、友介。どんなに嬉しいか分からないだろうなぁ。

 ご家族の幸せそうな顔。お父さんの顔。そう、友介、頑張るんだぞ。ほんと、刺されなくて良かったよ。

貴子ちゃんの御講

 月曜日、嬉しい御講が奉修された。窓の外から手賀沼の水面が見えるマンションの高層階。こんな日が来るとは思っていなかったなぁ。

 このブログでも紹介した脚本家、そしてグランデ・ファミリアで開導上人伝を書いてくれた貴子ちゃんが新居で御講を奉修された。今年の春に婚約者を紹介してくれて、この夏に妙深寺の第二本堂で結婚式を挙げた貴子ちゃん。もう、感慨ひとしおだった。

 彼女と初めてあったのは3年前のお母さんの御講だった。当時、お母さんのお宅はリビングに御戒壇を奉安されていた。お看経を終えて振り向くと、キッチンが見える。そのキッチンで一生懸命ご供養を作ってくれていたのが、一見今時の女の子の貴子ちゃんだった。

 御法門が終わってご供養の際、貴子ちゃんと初めてお話しした。脚本家を目指して勉強しているとのこと。ちょうどグランデ・ファミリアのご奉公に突入している最中で、ぜひ「開導上人伝」の脚本を担当してもらいたいとお願いした。

 数週間後、お母さまと一緒に妙深寺にお参詣してくださった。そこで、いま考えると申し訳なかったのだが、ドサッと開導聖人の御指南書や人物伝を渡して「では、脚本を書いて」とお願いした。「えー?」と思っただろうが、非常に前向きにご奉公してくださるようになった。

 最初、しどろもどろ、はにかみながら話をするのが貴子ちゃんだった。でも、心を開いてくれると、とっても明るく、パワフルで、努力家であることも知った。やはり脚本家を志しているだけあって、感性が豊かで文章力がずば抜けてある。感情を文字に起こすことは容易ではない。しかし、彼女にはその才能があり、同時に彼女自身の人生もとても深いものであることを知った。

 グランデ・ファミリアの直前には、妙深寺に泊まり込んで青年会などの出演者たちとご奉公してくださっていた。その甲斐あって開導上人伝は大成功を収めた。本当に素晴らしい内容になったと思う。手探りではあったが、だからこそ醍醐味がある。決して、プロが集まったわけではないけれど、貴子ちゃんの指揮の下、淳慧師の絶大な協力もいただきながら、素晴らしい内容の演劇が出来た。

 その貴子ちゃん。いろいろな苦労もあったのだが、御法さまからのプレゼント?使者?とも言える素敵な旦那さまを射止めた。いや、射止めたというか、射止められたというか、とにかく素晴らしい彼と出会い、こうして結婚することになった。

 二人は新居を求め、そして見事に御戒壇を建立した。ご信心を家庭の中心に据えて、二人の人生がより有意義であるようにと生活を始めたのだった。どんな家なのだろうかと想像していたのだが、初めての御講に伺って、まさに「愛の巣(こう言ったら怒ってたけど)」だし、御戒壇が光り輝いて見えた。

 貴子ちゃんのお母さんにとっても、こんなに幸せなことはないだろう。二人のお嬢様がいるが、それぞれがお母さんの家の近くに住んでいて、お姉さんは貴子ちゃんのマンションから見える隣の棟に住んでおられる。素晴らしいお婿さん、お孫さんに囲まれて、まさかこんな展開になるとは思っていなかった、感謝しなければなりませんね、と語っておられた。本当に、お母さまがこうした優しい言葉、感謝の言葉を口にするなんて、心から感動した。

 「御利益は三年経って振り返れ」と教えていただくが、まさにこの展開は御法さまからのお導きとお見守りと思える。ここまで素直に、スーッとご信心を育み、そして幸せを手にしてくれる、それを見せてくれるというのも珍しい。いや「珍しい」と言えば語弊があるが、やはり泊まり込みをするくらいのご奉公の姿勢や、何度かつまづきそうにはなったが結局は素直にご信心に向かう姿勢、そして何よりお母さんのお看経が、家族全員が御利益をいただいてゆく基本にあるのだろう。

 本当の信仰というのは、家庭の中にあり、生活の中にある。特別な日の、特別な人の、特別な修行をしなければならないということではないということを痛感した。ごく当たり前に生活の中にあるもの。生活の中に欠かせないもの。それが私たちの信仰であることを教えていただいたように思う。


 御講席の席主・願主となった貴子ちゃんは、3年前と同じように真心のこもったご供養を準備してくださっていた。見事な圧力鍋の使い手で、自慢の腕を披露してくれた。ウィークデーだったので、ご主人の貢一君はお仕事だったのだが、本当に心のこもった御講席となった。お参詣者の方々も心をホッと温められたのではないだろうか。

 私は、この千葉の御講席から直接京都まで来させていただいた。私にも電車を乗り継ぐことが出来るんだなぁと思いつつ。高校生に囲まれつつ。人混みに揉まれつつ。

 御講席でご供養をいただきながら彼女のPCを使わせてもらって、貴子ちゃんに無理矢理ブログを始めさせた。その名も「Takako's Style」。彼女の文章は本当に面白くて、そして深い。「Yaccoさんのブログ」もYaccoさんが詩人だから素晴らしい文章と感性。同じように貴子ちゃんも彼女なりの視点で、世の中を切ってくれるに違いない。そして私たちにとってすごく「身近なご信心」を語ってくれると思う。

 今後、とっても軽い気持ちで面白い文章を書いてくれてゆくと思う。ありがたーい。

2007年10月16日火曜日

「2008 青少年の一座」 始動

 来年8月3日に開催される予定の「青少年の一座」。その準備会議の報告を続けたい。

 既にこのブログでも書いたが、今年7月にはじめて奉修・開催された「青少年の一座」とシンポジウムは、継続してご奉公させていただくことになり、来年は場所を東京・渋谷乗泉寺に移して開催されることとなった。

 一連のご奉公に関しては、雲をつかむようなところもあり、全てが順調というわけにはいかないのだが、手探りでも10月13日に「実行委員会準備会議」の開催までたどり着くことが出来た。

 第1回の奉修・開催では、台風を退けて多くのお参詣者が感動を分かち合った。第2回の開催についても、特にホスト地域である第4、第5、第6支庁の方々を中心にご奉公を進めていただき、参詣者が佛立信心の素晴らしさや喜びを感じてくださるように企画を進めていただこうということになった。

 今回、9月の布教区青年会代表者と参与御講師の会議に於いてご披露させていただき、組織作りなどの準備のために会議が開催されたのだが、60名近くの参加者をいただいて嬉しくなった。遠く関越布教区や静岡布教区からも駆けつけてくださっていた。本当に有難かった。

 この会議では、実行委員会の組織作りや委員長の選出を行うことが出来た。それぞれ、事前にご披露や協議を重ねてくださっており、その発表を聞いているだけでワクワクした。委員長に選ばれた塩田くんは唱題寺の方で、昨年には房総布教区での大会を指揮したご信心の篤い好青年。倉田さんの推薦を受けて、布教区の青年会代表者の満場一致で委員長に選出された。

 その際、乗泉寺の金沢くんが「委員長にすべてのご奉公を押しつけてしまうことがないように、ご奉公はきっと大変なこともあるから、それはみんなで補い合えるようにします」と発言してくださり、そのこともあって拍手の中で委員長に選出された。また、白水さんや中坪さんなども大変前向きにご奉公に取り組んでくださり、心強く感じた。ワクワクして仕方がなかった。

 今回、私たち教務は黒子役にまわり、彼らのサポートに徹したいと考えている。斬新な発想で、彼らの手で、私たちのご信心の感動を伝えてもらいたい。様々な問題や事件が噴出している世の中にあって、彼らこそが希望の星だと思う。人のために祈り、人のために行動しようと心掛け、それを実践している。

 ポケットの中に薬がある。この薬を、苦しみ迷っている人たちに届けたい。そのことを実感して、みんなで共有して、ご奉公させていただければと思う。

2007年10月14日日曜日

来年の夏へ向けて

 とても眠い。

 昨夜は渋谷・乗泉寺に於いて、来年8月3日に開催予定の「青少年の一座 ~HBS東京シンポジウム~(仮称)」に向けた会議でした。

 非常に有意義で、とても嬉しかった。ありがたかった。

 それにしても、眠いです。

2007年10月13日土曜日

伏見、妙福寺へ

 大津・佛立寺から伏見・妙福寺へと移動。そこは、海外部長のお寺であると共に、明治23年7月17日早暁、開導聖人が最後のご奉公に向かわれた伏見港に隣接したお寺である。

 明治23年7月17日早暁、麩屋町の法宅(現在の長松寺)を出発された開導聖人は、人力車で伏見港に到着された。

 当時の伏見は、淀川を運用幹線として活用していたため、非常に重要な交通拠点として栄えていた。坂本龍馬で有名な寺田屋も伏見にあり、妙福寺からは歩いてすぐの距離である。

 その年の5月頃から開導聖人は体力の衰えや不調を感じておられた。御歳74才。しかしながら、大阪の秦氏からの御願いで、大阪でのご奉公を快諾された。ご弘通ご奉公のためには、身命を顧みない姿勢を貫かれていた。その前夜、朝方まで駆けつけた2世日聞上人や3世日随上人のお給仕を受けながらお休みになり、17日早朝にはお二人よりも早く起きられて、大阪へ向けて麩屋町の法宅を出られた。早朝にも関わらず、麩屋町通りには大勢のご信者方がお見送りに来ていた。

 今回、妙福寺にお参詣し、皆でお看経をさせていただいた後、妙福寺の松本御導師のご配慮をいただいて、その伏見港の面影を残す十石舟に乗船することが出来た。妙福寺では、婦人会の方々が心のこもったご供養を準備して下さっており、大変に感激した。妙福寺の婦人会は、本当に素晴らしい。現薫師の奥さまとなった祐歌ちゃんも、元気にご奉公して下さっていた(新婚旅行を延期して、このご奉公をしてくださっていた)。

 妙福寺から歩いて伏見の港、十石舟の乗船地へ。海外の方々ははじめての経験ということで、開導聖人の当時のことを深く心に刻めたことだと思う。

 秦氏は、開導聖人を大阪にお呼びするために三十石舟を新たに建造された。当時としても、これは大変な御有志であり、お給仕であったと思う。御導師(大尊師)をお迎えするに当たってお給仕の誠を尽くすという志であったのだろう。

 開導聖人とご一行は、その三十石舟に乗船され、伏見港から宇治川、淀川へと下って行かれた。私たちは伏見港の佇まいを今でも残している風景を楽しませていただいた。大変に贅沢な時間だった。柳の葉が水面まで垂れて、両岸に酒蔵。その壁となっている杉の色が何とも言えない京都の雰囲気を漂わせていた。

 私にとっても初めての経験だった。坂本龍馬は若者の誰もが憧れる。私とて例外ではなく、伏見に来たら頭に浮かぶのは寺田屋。今では近所にガソリンスタンドがあって都会の喧噪の中にある。そのすぐ脇にこのような風景が広がっていようとは思っても見なかった。

 「おーい、竜馬!」という漫画に、寺田屋の前の風景が描かれているが、まさにそうした雰囲気そのもの。歴史を紐解けば、戦国時代を経て、豊臣秀吉が「太閤堤」をはじめとする宇治川の治水事業を行った。その際、この地に港が設けられ、三十石船が伏見と大阪の間を行き来するようになったという。

 江戸時代に入って高瀬川が開削され、京都の中心部と伏見が結ばれ、さらに交通や交易が盛んになった。江戸時代中、さらに伏見は栄え、参勤交代の大名のために本陣や大名屋敷が建設・設置されるようにもなった。

 明治時代に入り琵琶湖疏水が開通すると疏水とも接続、大津から大阪までの水上交通が完成して蒸気船まで運航されるようになる。今回も記念館で当時走っていた蒸気船の写真を見ることが出来た。

 川を下っていく途中で、停泊している三十石舟を見ることが出来た。これほどの大きな舟を御有志したのかと思うと、当時の秦氏のご奉公にも頭が下がる。右の写真がそれだが、この舟に揺られて、開導聖人と奥さま、品尾さま、日聞上人、日随上人等は川を下ってゆかれたのだ。

 何度か「ご信心とは覚悟である」とブログに書いてきたが、この時の開導聖人の御覚悟は半端なものではない。高齢で、しかも体調が不全であるのにもかかわらず、ご奉公を優先し、ご信者の思いに応えようとする姿勢。まさに私たちのお手本がここにある。

 ブッダが最晩年に弟子一人だけを連れて、また布教のご奉公の旅に出られたことは有名である。大勢の弟子にお給仕され、設備の整った精舎から、ブッダは何故出て行かれたのだろうか。他の仏教宗派では、「ブッダが覚りを開いた」ということにだけ注目して、瞑想をし、座禅を組む。しかし、ブッダの生涯、特に覚りを開かれた後の50年を見てみれば、それ以上に大切なことが見えてくる。

 ブッダは、苦しみ悩む人を救い尽くそうと、精舎を出たのだ。閉じこもって、お給仕されて、それで良しとするのがブッダの本意ではなかったのだ。「まだまだいける」「まだ、しなければならないことがある」と覚悟し、決定して、ブッダは最後の旅に出られた。そして、その途中で、貧しい家に立ち寄られ、そこでご供養をいただかれてから涅槃に入られることになった。そのことの、その生き方、そして涅槃の迎えられ方の意義を考えねばならない。

 お祖師さまとて同じである。今日はお祖師さまの祥月ご命日。弘安5年10月13日に御入滅になられた高祖日蓮大菩薩、お祖師さまも、旅の途中での御入滅となった。最後の最後までご奉公をし続けられたということである。

 開導聖人もまた、この伏見港から大阪へのご奉公に向かわれた途中で、ご遷化を迎えられることになる。7月17日の早朝はご気分がよかったと伝えられているから、この風景をゆっくりと楽しまれていたことだろう。品尾さんは冗談がお好きだったから、開導聖人が心和むように楽しい会話を続けておられたかもしれない。時折、クスクスと笑って下さっていたかも知れない。

 今回、十石舟は三栖閘門と三栖閘門資料館まで行って下さった。その大きな水門の上は登れるようになっていて、宇治川が展望できる。この川を下って大阪に向かわれたのだ。

 海外信徒の方々に通訳している私の方が、感動で胸がいっぱいになった。

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