2005年5月14日土曜日

バス・ボイコット運動

公民権運動の、大きな発端となった事件、そしてキング牧師が公民権運動の指導者となる事件が、モントゴメリーで起きた「バス・ボイコット事件」でした。その当時のバスが、博物館の中に置いてありました。

1950年代の南部では、未だ公共機関のバスの座席は、白人用と黒人用にはっきりと区別されていました。モントゴメリーの市バスでは、36席のうち、全部の10席は白人専用で、たとえ後部が満席で前部に空席があっても、黒人が白人用の席に座ることは許されませんでした。さらに、白人席が満席の場合、黒人が席を譲らなければならないと決められていました。
この不条理な規則に立ち向かったのが、42才の黒人女性ローザ・パークス。デパートに勤めていた彼女は、1955年12月1日、仕事を終えて帰宅するために乗ったバスで、白人席のすぐ後ろに座りました。その途中、運転手が立っている白人を見つけ、運転席から同じ列の黒人3人と共に席を立つように命じました。ところが、これを拒否した彼女たちは、ついに逮捕されてしまったのでした。
ローザはすぐに釈放されましたが、当時のNAACP(全米黒人地位向上協会)は裁判にあわせてバスのボイコットを計画します。当時、これだけ不平等の条件だったにもかかわらず、モントゴメリーのバス利用者の3分の2が黒人でした。そのバス・ボイコットを成功させるために、デクスター・アベニュー・バプティスト教会に協力が依頼され、その指導者となったのが、その前年に牧師に着任したばかりの、弱冠26才のキング牧師だったのでした。

ローザさんは90才で、いまも健在とのこと。彼女は、この事件で仕事を失い、いやがらせも続いて引っ越しを余儀なくされましたが、公民権運動の英雄の一人として今も人権活動家の人々から尊敬されているということです。

このバスの中には、彼女を模した人形があります。そして、私たちが収録をしていると、次々と黒人の女学生が乗ってきて、彼女たちとの写真会になってしまったのでした。

博物館の中で

博物館の中に入る前に、4~5台の大型バスが停まっていました。私たちはモーテルの前でラジオの収録をしていると、そのバスからたくさんの学生たちが降りてきました。彼らは校外学習のために、きっとこの博物館の見学に来たのでしょう。あっという間に囲まれてしまいました。
しばらくすると、あることに気づきました。学生たちは黒人と白人、様々な人種の子どもたちが一緒にバスから降りてきて、私たちもそれを当たり前だと思っていたのですが、目の前に集まってみると、ピタッと白人のグループ、黒人のグループに分かれてしまったのでした。私たちは西海岸のアメリカは良く知っていて、そこでの学生たちやよくある青春映画で描かれるようなアメリカの学生たちは知っているのですが、南部の学生たちと接するのははじめて。ここは、人種差別の愚かな歴史を刻んだ博物館であり、そこから人種差別が撤廃され、アメリカは様々な努力を尽くして年を重ねてきたのですが、目の前のこの学生たちを見ていると、やはりその傷の深さ、解決しようと努力していても、まだ至らない「壁」のようなものを感じました。
その後、この博物館の中に入りましたが、そこでも子供たちは別々に廻っていきます。その内容は強烈なものです。それを、白人の子、黒人の子、双方に学ばせることで、いつかきっと人種差別の愚かな「壁」も取り払われていくでしょう。

恐ろしい差別の実態を表す標識が展示されています。「公共プール 白人のみ」という標識や「公衆便所~白人のみ~」「飲料水←白人 黒人→」などなど。シャワーも分けられていました。こうした展示物が所狭しと並べられています。さらに、最も衝撃を受けたのは、木から吊された黒人の写真などです。こうした展示物を学生たちと一緒に見て回ったのでした。

さらに驚いたことですが、私はこの博物館に改良服とお袈裟をかけて参りました。すると、黒人の子供たちは合掌して頭を下げてゆくのです。本当に、何人も何人もの子供たちに、極めて真面目で、尊敬してくれている姿で、合掌して頭を下げてくれるのでした。有難いことでした。

法は人によって弘まる

仏教徒である私が、何故キング牧師に共感を覚えるかといえば、それはキング牧師がキリスト教的な価値観を超えて、東洋的な価値観、仏教的ともいえる思想で行動したと思えることからです。彼は「兄弟愛」を説いて、聖書によって人種差別を正当化しようとする勢力、暴力によって白人と対決しようとする勢力を説き伏せてきました。彼の伝記には、その両勢力から強い批判や中傷を受け、傷つきながら公民権運動のリーダーとして立ち続けていくキングが見えてきます。キリスト教の「牧師」ではなく、「宗教者」として素晴らしい、学ぶべき点がある、と思うのです。
宗教者が、その宗教を「表現する人」「体現すべき人」であるとすれば、その人の生き方、理想も迷いも全て含めて、宗教者の一生は、全て大きな意味を持っているでしょう。ある意味でキングは、誤解されていた、間違ってきた宗教解釈も、その一身をもって正し、改めよと説いた。その生き様に、やはり強く惹かれます。

私たちには「法は人によって弘まる」という教えがあります。どれだけ素晴らしい「教え」「法」でも、それは「人」を介して伝わり、弘まっていきます。どこまで行っても、この人間界でブッダの法を弘めるのは「人」だと教えられている。だから、御法を手にする「人」は、佛法を体現する者として生きられるように努めなければならないのだ、と。間違った教え、法を信じていても、それに関係する「人」が様々な要因から魅力的であれば広まってしまう可能性があります。逆に、正しい教え、法を信じていても、そこにいる者が教えを体現せずにいればどうか。私は、このキング牧師の生き方を見ていると、真実の仏教・本門佛立宗の僧侶として、「何をしている」「もっと精進せよ」と思えるのでした。

クー・クラックス・クランの白装束

ジーン・ハックマン主演の映画、『ミシシッピバーニング』という映画を覚えていますか。社会的な問題作を描くアランパーカー監督の作品で、1988年に公開されました。実話をもとに製作され、扱っている問題とFBI捜査官に扮したハックマンの迫真の演技が強烈で、一度見るとなかなか忘れられない映画だと思います。
アメリカの病巣、ほんの数十年前に起こっていた人種差別問題。その中心的な存在だったKKK(クー・クラックス・クラン)によって引き起こされた殺人事件を中心に、人種差別が色濃く残るアメリカ深南部の実態と人間の愚かさを描いた映画でした。一般的には「KKK」として知られる「白人至上主義」「反外国人主義」の秘密結社ですが、その名称はギリシア語の「車輪・円」を意味する“クークロス Kuklos”に由来します。また「クラン」とは「クランズマン」=「会員」という意味から来ているようです。

64年、ミシシッピーの小さな町で、3人の公民権運動家の行方不明事件が発生し、そこにFBIの若きエリート捜査官と、たたき上げのベテラン捜査官が捜査に乗り出してゆきます。ところが、住民は彼らに敵意をもった目を向け、KKK団が執拗に捜査を妨害する。困難な状況のもと、思想も捜査方法も正反対の2人は、対立しながらも事件の真相をひとつひとつ暴いていくという映画。あの時代とはどういうものだったのか、当時の南部社会がどうなっていたのか、実にリアルに描かれています。人間の尊厳や誇り、憎しみや悲しみ、怒りについて問いかけてくる社会派サスペンス映画です。
政治家から警察官という公職にある人が、ある種の自信と自覚をもって「人種差別主義」を標榜していたのは何故なのか。単純に「いじめ」のようなことをしていたのではありません。彼らはある種の目的や使命感を持っていました。現代の私たちから見て、「あれでも人間か」と明らかに憤りを覚えるような行為も、白人至上主義の彼らにとっては正当性があり、崇高な使命のためにやっているような感覚を受けます。
この映画をここで取り上げた最大の理由は、捜査に協力するはずの警官が、実はKKKのメンバーであることが判明し、包囲網が犯人に迫ってくる段階で、ここで警官の妻がジーン・ハックマン扮するFBIの捜査官に告白をするシーンがあるのです。彼女は苦しそうにアメリカ南部で人種差別が残り、夫もそれに巻き込まれてしまった理由を語ります。「教育が悪いのよ。子どもの頃から『聖書の創世記9章27節に書いてある』って教え込まれる」、と。人種差別は、南部の敬虔なキリスト教信者たちが最も敬い崇める聖書(バイブル)からきている、というのです。このことを知っていただきたいと思うのでした。

この章、創世記は旧約聖書の冒頭。ご存じの方もいると思いますが、特にこの27節の前後は「ノアの箱船」で有名な物語が書かれた部分です。箱船から出たノアとその家族が農夫になった後、ささいなことからノアが怒りだします。ノアにはセム、ハム、ヤペテという3人の息子がいますが、そのハムはしたことに激怒し、ハムの息子カナンを名指しして、25節「彼は言った。カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」、26節「また言った。セムの神、主はほむべきかな、カナンはそのしもべとなれ」、27節「神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ」。仏教徒の私からすると、この部分だけでも偏った考え方に恐ろしさを感じますが、これを「黒色人種はその特別な堕落の状態が述べられている」として、「カナンの末裔が有色人種である」という見解に発展し、「彼らが我々の奴隷となることは神が定めたのである」という解釈に至るのでした。

私は、このロレイン・モーテルの中に作られた国立公民権博物館で、この中に飾られたKKKの実物のコスチュームを見ました。映画の中でしか見たことのない、あの恐ろしい白装束が飾られ、それを小学生や中高生の黒人と白人の学生たちと共に見て回ったのでした。

2005年5月10日火曜日

あれから、2週間

帰国から、あっという間に時間が経ち、明日で2週間です。秋田にご奉公に行かせていただき、横浜妙深寺に帰山したのは30日の午後2時過ぎでした。そのまま夕方の4時から佛立開講150年奉賛記念大会の会議があり、布教区の管内寺院の有志者にご参集いただきました。この「グランデ・ファミリア」と名付けられた奉賛記念ご奉公は、今後の妙深寺、そして神奈川県下の寺院では最も重要なご奉公と位置づけており、30日の会議では奥山氏が事務局長に就任下さるなど、私にとっては非常に嬉しく、充実した会議となりました。時差ボケで頭がボーっとしていましたが、そんな疲れも飛んでしまうほど嬉しい第一歩でした。
次の日は5月1日。例月のお寺の行事では、最も忙しいのが1日です。月始総講があり、協議会という役中(ご奉公くださる方々)の会議があり、教務会もあります。しかも、5月1日には最近購入を果たした隣接地の地鎮の法要があり、この日も目一杯に充実した日でした。次の日の2日には、これも新しい試みで、妙深寺の近くにある「エンクエントロ」というレストランで、「ともしび法話」という会が催されたのです。これは、それこそ本当の有志の方々、高島さんという素晴らしいパーソナリティーと感性を備えた方がリードして開催にこぎつけたサロンのような試み。普段は固くなり過ぎて、実は住職とは話が出来ていないということで、こうした場所で「ティーパーティー」のような形で、住職を囲んでみよう、と。小さくて、本当に落ち着くレストラン、「エンクエントロ」は「出逢い」という意味だそうで、実は横浜経力寺のご信者さんが経営されているお店。そして、その名前の通りに、当日はご信者さんだけではなく、芸術家から詩人、歌人など、多くの方々が参集されていたのでした。ここでは、妙深寺所属で、ローマ芸術家協会名誉会員の詩人、安彦志津枝姉の詩の朗読会も開催。本当に素敵な会でした。和やかに、暖かく、盛り上がりました。そして、京都のご奉公に上がり、長松寺で御講有猊下の随身をさせていただき、横浜に帰山してから連日教区御講、布教区総会、御総講、神奈川布教区住職会、等々、、、、と。あっという間の、2週間で、今日、今さっき、夕方になって、ようやく落ち着いてPCに向かい、「ブッディスト・トランス・アメリカ」のことを考えられるようになりました。ようやく写真も整理して、見直して。
上のこの写真はグランド・ゼロ。あの時のこと、ご回向のこと、私の気持ち、御題目口唱の御声。それらを思い起こしていました。次の写真は、ロレインモーテル前のストリートにそれとなく置かれたテーブルに、キング牧師の写真が飾られていたもの。非常に印象に残っている風景です。
アメリカでは、何とか御祈願してくださっている方々のためにも、このブログで報告したい、と思って頑張って書いていましたが、読み返してみると誤字脱字ばかり。しかも、内容も単なる旅行記になってしまっていて、ラジオ収録で話をしたご信心的な中身が薄い。これは大変に申し訳ないな、と。運転して、深夜にホテルに着いて、そしてブログに書き込んでいたので、こうなってしまいましたきちんと、続けて書いていこうと思います。TJSラジオでは、5月13日(金)から放送という連絡がきました。ケンジ君が編集作業を続けてくれています。

2005年4月28日木曜日

仙台の松島海岸より

本当に申し訳ありません。ブログへの書き込み、やはり毎日は出来ませんでした。いま、私は仙台の松島海岸の朝焼けの中で、このブログを書いています。
ニューヨークまで、一気に走り切ることが出来ました。ニューヨークでは、グランド・ゼロでの一座の法要も無事に奉修。また深夜3時まで撮り残した内容を収録。朝、慌ただしくJFK国際空港に向い、飛行機に飛び乗って帰国しました。帰国後、そのまま成田から電車で仙台に。秋田県応護寺で門祖会のご奉公があり、妙深寺のご信者さんと仙台で合流するためでした。東北新幹線で仙台、仙台から東北本線で松島海岸へ。何と、ニューヨークから26時間で到着。妙深寺のご信者さんの大拍手で迎えていただき、本当に感激しました。また、このブログで、少しずつラジオ番組の内容、旅の感想を書き込んでいきます。今のままで終わるわけには行きません。「本門佛立宗」というアイデンティティーが伝わらなければ意味がありませんから。また、しっかりと続けますので、読んでくだされば有難いです。

2005年4月25日月曜日

マーチン・ルーサー・キング・Jr

世に知られるキング牧師は、後に「ダディ・キング」として知られるマーチン・ルーサー・キングの息子です。もう、この時点で、僕はキングに少しだけ共感してしまうのですが、彼は悩みながらも父と同様に牧師としての人生を歩み始めます。そして、本人が望む、望まないに関わらず、キングにしか出来ないような課題、為すべきことが何であるかを知るのでした。
リンカーンが奴隷解放を宣言したにもかかわらず、アメリカの深南部では根強く人種差別が残っており、「ホワイト」と「カラード」と書かれ生活空間すら共有させない風習が残っていたのでした。食堂、トイレ、手を洗う場所、バスの座席に至るまで、まるで白人と黒人はすみ分けをされていたのでした。人間として、同じ権利を持つことが出来なかった、させなかったのでした。当時の黒人には選挙権すら与えられていませんでした。これが、わずか50年前のことです。
モントゴメリー事件という、疲れた初老の女性が、バスの中で腰掛けた白人シートに、運転手が猛烈に恫喝したことから、キング牧師は黒人の権利を獲得する、平等の権利を主張する運動のリーダーへとなっていきます。
彼や、彼とは別の団体も、このアメリカに巣くう病巣を変えるため、「人種隔離廃絶運動」「選挙人登録運動」を推進していきます。しかし、同時に、それを進めるための方法にも、様々な意見が出て、黒人の運動は激流のような流れを、どのように、どの方向に、上手に導いていけるかが、最も大きな問題となったのです。一触即発、過激な方法で「公民権」を獲得しようとする勢力、政府の転覆や社会不安をもっともっと煽ろうとする勢力が次々に現れてゆきました。
その中で、このキング牧師は、黒人や白人勢力の双方からいらだちや罵声を浴びながらも、「非暴力」「無抵抗」という主張を展開し、暴発寸前の黒人感情を、歴史に残る形、永遠に尊敬される運動へと導いていったのです。これは、キング牧師がインドで植民地支配のイギリス帝国と交渉していたマハトマ・ガンジーを敬愛していたことから考え出され、提唱・実行されたのです。
ところが、このキング牧師もまた、マハトマ・ガンジーやJFKと同じように、1968年4月4日、午後6時前後、黄昏のこのモーテルのバルコニーで、右のあごと首を狙撃され、命を落とすことになったのです。

暗殺の現場

「ブッディスト・トランス・アメリカ」は、ふと考えてみると「暗殺現場を巡る旅」のようになってしまっている、とディレクターのケンジくんが言っていました。確かに、お坊さんが出ているだけでも難しい番組設定です。その上、旅の内容が重たい場所ばかりで暗い話ばかりしていては仕方がありません。一生懸命に、分かりやすいお話をしよう、楽しくしよう、と思っているのですが難しいものですね。でも、やはりこの旅は、いまや世界の中心ともいえる超大国アメリカの今を、歴史に残る出来事や事件、人や場所で区切って、「仏教的に」どのように見えるかを対話形式で伝えていくのですから、少々シリアスな現場に足を運ばなければならないでしょう。いま、目の前にあるモーテル。花輪の飾られているあのバルコニーで、キング牧師は暗殺されたのでした。

ロレイン・モーテル

言ってしまったら、怒られるかも知れませんが、私はある視点から、キング牧師やマザー・テレサ、そしてマハトマ・ガンジーを尊敬しています。それは、彼らがある理想をもって邁進し、何事にも恐れず、信念を持って生きたことによります。異なる信仰に支えられた人ですら、こんなに素晴らしい人がいるのですから、佛立宗の教務はこれ以上の信念と実際の「行動」が求められているのだ、と。それを、思い知るために、そして宗教を超えて尊敬できる活動家として、このメンフィスではキング牧師の暗殺現場である、「ロレイン・モーテル」を訪れました。

ミシシッピー

新車に乗ってメンフィスの市街地に入りました。メンフィスは、雄大なミシシッピー川を中心として発展しています。この街は、エルビス・プレスリーゆかりの地であり、何よりキング牧師の暗殺されたロレイン・モーテルのある街。私は、二度目の訪問になりました。
このメンフィスには、テレビ番組の収録で訪れたのです。その番組はお正月の特別番組として制作された「トランス・ミシシッピー」というもので、ミシシッピー川の源流であるミネソタ州のレイク・ベミディジという小川をスタート地点として川を下り、遙かニューオリンズを超えてメキシコ湾まで縦断するというものでした。最初、この途方もない計画は、喫茶店でヒロミさんと話をしていただけの、たわいもない夢物語でした。しかし、そこから番組となり、約2週間にわたってジェットスキーで6000キロを超える旅をすることになったのでした。この番組、この旅も、大変な思い出になりましたが、その時にメンフィスを訪れたのです。記憶が完全に戻りました。
幅600メートル以上あるミシシッピー川を下り、メンフィスに近づくと大きな橋がありました。左側にはメンフィスを象徴するピラミッドがそびえていました。そのメンフィスの街を一度通り過ぎて、そしてUターンする形でピラミッドの真下にある桟橋までジェットスキーとボートに座って入っていったのでした。
その記憶が、メンフィスの、昔、川の上から、ジェットスキーに乗って見上げていた橋の上を通りながら、思い出したのです。そして、市街に入ってからも小高い丘を探して、ミシシッピー川を見下ろしました。懐かしく、暖かく、ミシシッピー川を、もう一度見ることが出来て、嬉しかったです。

タイヤの亀裂

私たちは、リトルロックからメンフィスを目指して、ルート40号を東へ約140マイル走りました。ここまで既に走っている距離は、2454マイル。つまり、3926キロ。フォードのエクスペディションに5人が乗っているのですが、ちょっとタイヤをチェックしてみるとフロントの右タイヤに大きく亀裂が入っていることが分かりました。いや、これも「チェック」ではなくて、実はパッと見て偶然に発見したのでした。
私たちは恐る恐る運転しました。というのは、アメリカのハイウェイはバーストしたタイヤの破片がゴロゴロと転がっていて、それをよけることが何より大事なほど。それだけ道路上のゴミなどでタイヤを傷つけ、バーストしてしまう車が多いということです。バーストとは、タイヤのパンクのことですが、高速で走っている最中に起きてしまうと、まさに「爆発」のような状態になってしまうのです。ハンドルも取られてしまいますし、非常に危険です。
私たちはレンタカー会社のハーツに電話をして対策を練りました。タイヤ交換をしてもらおうとハーツのお店を探さなければなりません。そして、とにかく安全運転でメンフィスまで行けば、メンフィスの国際空港近くのハーツで車ごと無償で交換してくれるということになりました。やっとメンフィスに到着し、ハーツに駆けつけ、4000キロちかく走ってくれた車にお別れをして、新しいエクスペディションに交換しました。
この車、今までの車よりも新しく、ほとんど新車の状態。サスペンションもタイヤも新しく、交換できてみんなで喜びました。この車であと1112マイル。ニューヨークまで1772キロです。

2005年4月22日金曜日

リトルロック・セントラル・ハイスクール

リトルロックでの私の最大の興味は、セントラル高校でした。ここで、壮絶な人種差別問題を語る顕著な一例が示された。その模様は全米に放映され、さらに公民権運動は大きく広がっていったのです。実は、この高校に寄る予定などはなかったのですが、道を間違えてしまいまして、3時間も遠回りをした果てにリトルロックの市街に入ることになったのです。せっかくリトルロックの市街に入るのであれば、「セントラル高校に行きたい」と急遽訪れることにしました。
この「リトルロック」という名前を全米の人々の心に刻んだのは、公民権運動の初期に起きた黒人生徒の公立高校編入をめぐる「リトルロック危機」。その舞台がセントラル高校でした。
アーカンソー州で最も有名な人といえば、ビル・クリントン米国前大統領です。私たちは、アーカンソー川沿いに最近建てられたクリントンセンターを横に見ながら、ダウンタウンから3マイルほどの高校を目指しました。そう、クリントン大統領は、このセントラル高校の卒業生でもあります。

「アメリカで最も美しい」と絶賛されたセントラル高校の校舎。当時のアメリカ社会は奴隷解放令が出ていたとはいえ、特に南部では根強く人種差別が残されており、この美しい高校は事実上「白人のためだけ」の高校となっていました。ダンバー高校という黒人専用の高校もまた開校されましたが、その建設費はセントラル高校の4分の1でした。
1954年、最高裁で「人種分離教育は違憲」という判決が出され、全米黒人地位向上委員会(NAACP)はダンバー校から成績優秀な9人をセントラル高校に転入させる手続きを取ったのです。
黒人の生徒を受け入れることに反対した市民とPTA。その高校に入学することを許された黒人の高校生9人。市民評議会は「彼らの入学を許したら、いずれ我々の子供と結婚する黒人が現れることだろう。異人種間の結婚は病気が懸念される」というものでした。わずか50年前のことですが、この現実に歴史に刻まれている恐ろしい言葉が信じられないくらいです。この男子生徒3人、女子生徒6人の黒人生徒は、数千人規模で集まった反対派が囲む中、プレッシャーと命の危険もかえりみずに登校しました。州知事は州兵を動員して、実力で黒人の生徒の登校を拒否。その後、白人至上主義者とNAACPとのにらみ合いが続き、緊張の度は増すばかりだった、と。その中で勇気ある行動をし、平等に教育を受ける権利を表明した黒人生徒9人は、今でも「リトルロック・ナイン」と呼ばれ尊敬されています。
結局、アイゼンハワー大統領は州知事に指導をしましたが、それも功を奏さないため、1200人の武装兵士を校内に駐留させ、黒人生徒が学校に通えるようにしたのでした。現在、フィリピンがイラク戦争に派遣した兵士の数が200人。それでも撤退を考えているというニュースもありますが、その6倍の兵士が学校に駐留していたのです。アメリカにとって、どれほど大きな「危機」だったか分かります。
テレビを通じて、彼らが多くの群衆に罵られ、押し戻されながら登校する姿が全米に放送されていました。その衝撃が全米中に伝わり、公民権運動はさらに加速していくのでした。今のリトルロック高校の芝生の上からは想像もつきません。過ぎた日の恐ろしい出来事も穏やかな空気に包まれて夢のようです。
この9人の中の1人が卒業する際、かのキング牧師も卒業式に参列し、心からお祝いをしたそうです。

ホットスプリングス

アーカンソー州の州都、リトル・ロックの手前。森と湖となだらかな山に囲まれたホット・スプリングスという伝統のある温泉地があります。私たちは余りにもハードスケジュールだったので、そこに寄って休むことにしました。もともと、アーカンソー州のニックネームは「ナチュラル・ステイツ」と呼ばれ、紅葉の素晴らしい森林、石灰岩の地層に浄化された水をたたえた湖、全米屈指を誇る川、肥沃なミシシッピデルタと、大自然が最も豊かです。大地もダイヤモンドをはじめ、鉱物や農産物にも恵まれ、驚くことにコシヒカリの名産地としても知られているのです。その大自然の恩恵を一身に受けられる場所が、ホットスプリングスという歴史ある温泉場。
ここは、1541年に発見されたと言われています。これは、アメリカ大陸の発見が1492年ですから、大陸発見からほんの50年足らずしか経っていない頃から湯治場として人々に愛されてきたのです。南北戦争当時の兵士達も傷を癒したと言われています。全米での有数の水晶の産地であることから、無色無臭のさらりとした湯はその水晶が二酸化珪素の形でたっぷりと溶け込んでいるそうです。バスハウスといわれる湯治場では、独特の入浴方法で入らなければなりません。アル・カポネ、ベーブルース、ルーズベルト大統領が湯治していたホットスプリングス。
私たちは、深夜に到着し、ホテルを探す時間がなかったので、「アーリントンホテル」に入ってしまいました。「入ってしまった」というのは、ここが非常に由緒正しいホテルで、ちょっと高いホテルなのでした。そして、次の日の朝、7時からみんなで湯治場に入りました。白いタイル張りの、本当にレトロなバスハウス。古いタイプのサウナの機械などがあります。左右に1人用のバスタブが6コづつ並んでおり、真ん中に1人用のベッドがあります。そして、一人一人がバスタブに入るのです。それを案内してくれるのはウィル・スミスという俳優さんに似た黒人の青年でした。そこで15分間お湯につかり、ジェットバスのスイッチが入れられます。汗が噴き出てきて、さっきの黒人の方がなんと身体を洗ってくれるのです。その間に、温泉のお湯を注いでくれて、2杯くらい「飲め」といわれるのです。言われるままに飲むと、本当に無色無臭でおいしい。
「ウェイカップ。フォローミー(起きて、付いてきな)」と言われて上がると、次はサウナ室に入ります。サウナ室は45度くらいの温度で全く熱くないのですが、ここに5人で15分。さらに汗が噴き出します。また、彼が入ってきて案内されます。次は中央にあったベッドに寝ます。また、彼が来て、熱いタオルを、腰、背中、首に3枚ほどで巻いてゆき、白いシーツでくるまれる。そこでまた15分。苦しいくらい、汗が噴き出ました。そこで、最後のシャワーに案内されて終わり。シャワーを出た後は、また丁寧に彼が拭いてくれます。申し訳ないくらいでした。
マッサージも受けたのですが、これは20分で、黒人の60才くらいの方が腕をふるってくれます。指圧というよりも、オイルマッサージに近いのですが、香りの良いオイルで血行をよくしてくれる感じです。
とにかく、これがベーブルースやアル・カポネ、ルーズベルト大統領までが体験したというホットスプリング式の湯治方法なのでした。これが効くのかどうか分かりませんが、何となく疲れが取れたようです。いよいよ、メンフィスに向かいます。

2005年4月21日木曜日

ブッディスト・トランス・アメリカ・チーム #2

この最高のチームを支えている仲間に、妙深寺の兼子隆二くんがいます。彼は、国際免許、いや日本の運転免許も持っていなかったのですが、このラジオ番組収録の話を聞きつけて、日本で免許を取り、国際免許も取得して、これまでのご奉公で、本当に誠心誠意ご奉公を続けてくれています。
確かに、スリランカの後の海外ご奉公がアメリカで、ちょっとショックがあったようですが、見ただけの風景ではなく、毎日色々なことを感じてくれているようです。とにかく、21才ですから、彼の感性を信じてあげたいと思います。

寝不足が重なっているので、とにかく寝ましょうね。隆二君。

ブッディスト・トランス・アメリカ・チーム

ラジオ番組の名前は「清潤、博の、ブッディスト・トランス・アメリカ」。ロスのTJSというラジオ放送局で、30分枠で5月初頭から2ヶ月にわたって放送予定とのこと。なかなか難しいご奉公ですが、自分に与えられたことの中で、今まで修行してきた、信心してきたことを最大限に活かせるように、自分自身で色々と考えながら、悩みながら頑張っています。きっと、この機会をご弘通に活かせないとしたら、自分の修行、日々の信心が懈怠していたということだと思います。それにしても、全くご信心をしていない人からの質問、しかも日本人では無い人からの質問には答えに窮しますよ。日頃から、本当に真剣に、様々なフィールドの人にご弘通をするんだと心掛けていないと、全く返事など出来ないと思います。本当に難しいですし、住職を敬ってくださるご信者さんの中で生活していると、いくら忙しくても緊張感が薄れて、千載一遇のご弘通のチャンスに弱くなるような気がします。それではいけない。
お爺さんやお祖母様が佛立宗、ご両親が佛立宗、という人、つまりある程度佛立宗への知識がある人に対してのみ接していると、どこかで本来のご奉公の意義が狂います。きっと、狂っています。それを是正する必要もあったり。とにかく、裸の王様はイヤです。本門佛立宗は究極の、末法唯一、真実の仏教です。僕らが立ち上がり、緊張感を持ち、真実の仏教を説く者が、カゴの中の鳥にならぬように、常に国内外で縁の薄い人へのご弘通を意識して修行しておくことが大事だと思います。そうでなければ、格好はつけられても、きっとご弘通できないから。

今回のラジオ番組のタイトル名は、「清潤、博の、ブッディスト・トランス・アメリカ」というものです。その旅に同行してくれている心強いサポーターに、伏見妙福寺の松本現薫師がいます。現薫師は人間的な魅力に満ちあふれた最高の佛立教務です。今回の旅には、自坊のご奉公も、佛立開講150年のご奉公が忙しく、とても同行できる状況ではなかったのですが、師匠である妙福寺御高職、松本日延御住職のご許可を得て、同行していただくことにました。
運転から、現地での交渉、英語でも会話、収録など、本当に活躍してくれています。佛立教務はホントに幅が広い!素晴らしいです。ありがとう!

2005年4月20日水曜日

JOHN FITZGERALD KENNEDY

1960年代初頭、最年少、初のカトリック教徒の合衆国大統領として注目をあびたが、任期中の63年に暗殺され、世界中の驚きと哀悼をうけた。 1917年、マサチューセッツ州ボストンに、銀行家ジョセフ・パトリック・ケネディの次男として生まれる。父はフランクリン・ルーズベルト大統領政権の駐英大使をつとめた。40年にハーバード大学を卒業。第二次世界大戦への準備不足を指摘した卒業論文、「イギリスはなぜ眠っていたか」で注目される。アジア太平洋戦争がはじまると海軍に志願、魚雷艇の艇長となりソロモン沖海戦で撃沈されたが、部下を救助する軍功をたてた。戦後、民主党に入党したケネディは1946年、マサチューセッツ州から下院議員選挙に出馬して当選。52年には上院議員に選出された。53年、ジャクリーン・ブービエと結婚。57年には英雄的政治家の伝記「勇気ある人々」をあらわし、ピュリッツァー賞を受賞した。 1960年の大統領選挙では、リベラル派を代表して立ち、選挙参謀に弟ロバートら、才能ある若い政治家をすえて、指名を獲得。彼らは、大衆や進歩的知識人の関心をよぶニュー・フロンティアをスローガンにかかげるなど、巧みな選挙運動を展開した。共和党大統領候補ニクソン副大統領とのテレビ討論では、防衛・経済問題がとりあげられ、ケネディは落ち着いた若々しい話しぶりで、新指導体制の必要性をうったえ、わずかの差で勝利した。ケネディ大統領の演説は、彼らしく理想に満ちていた。『「この地上に大学ほど美しいものはめったにない」と、ジョン・メイスフィールドはイギリスの大学への賛辞のなかで述べている。そして、この彼の言葉は、今日、ここでもそのまま通用する。彼のこの言葉は、大学の塔や学園の芝生の、ことを言っているのではない。なぜならば、彼の大学賞賛の言葉は、次のような言葉だからである。「無知を憎む人々が、知る事に努め、真理を知っている人が、他の人々の目を開かせようと努力する場所が大学である。」だからこそ私は、無知がしばしばはびこり、真実がごくまれにしか理解されない地上の問題を論じる為に、今日、この場所をえらんだのである。この問題こそ、地上の最も重要な問題、すなはち平和ということである。今日、われわれがそれを使う必要を確実になくすために調達される兵器に毎年費やされている何十億ドルもの支出は、平和を維持する為に絶対に必要である。しかし、破壊することができるだけで、決して創造することのできない、これら遊休兵器の蓄積が、平和確保の唯一の方法でなく、いわんや最も有効な方法ではないことは確かである。』彼の理想は、第二次世界大戦という混迷の時代を乗り越え、新しい世代の台頭を意味していたと思う。人々が模索し続けた末に、新しい未来が訪れようとしていた、その予感の中心にいた人がケネディだったのだろうか。

ダラス、あの場所

私は今ダラスにいます。
オクラホマシティーから真っ直ぐに南下すると、テキサス州に入ります。ダラスはアメリカを象徴する歴史的な都市であり、永遠に記憶に刻まれた恐ろしい出来事が起きた街でもあります。
昨夕、このダラスに到着し、歩いてジョン・F・ケネディ大統領が暗殺された場所、エルム通りの教科書倉庫前まで行きました。近代史の流れを大きく変えたのではないかと考えられる大事件であり、図らずも初の衛星放送でこの事件を報じることになった日本でも、このニュースの衝撃は大きなインパクトでした。

1963年11月22日12:30(日本時間23日5:30)アメリカ大統領ジョン・F・ケネディがテキサス州ダラスでパレード中、何者かによって射殺されました。事件のわずか80分後、元海兵隊員のリー・オズワルドという男が犯人として逮捕されます。しかし、そのオズワルドは2日後護送中にクラブ経営者のジャック・ルビーという男に射殺されます。そして、そのルビーもその後まもなく死亡。死因は「癌」とされていますが、詳しいことは分かっていません。映画にもなり、様々な憶測があり、オズワルドやルビーの周辺で幾人もの人が謎の死を遂げていることが指摘され、単独犯行説は完全に否定されつつ、やはりその真相は闇の中です。
ただ、結果として、当時ケネディ大統領はベトナム戦争から撤退しようとしていましたが、暗殺後の大統領たち、つまりジョンソン、その後のニクソンはいずれも戦線を拡大させ、アメリカは泥沼に陥ります。ケネディは、63年までに情報機関の策略などで超大国同士に危機的状況が起こらないようにクレムリンとホワイトハウスにホットラインを引き、63年8月末にはイギリス、ソビエトと共に部分的核実験停止条約を締結した。続けて、傀儡政権との切れぬ関係にあったアメリカを「米軍の完全撤退計画」を推し進めた。さらに、ケネディは「石油消費税27.5%」という税法の抜け穴を撤廃する案を提出しており、大規模石油会社を大きく動転させていました。最も動転し、大打撃と恐れたのは、リンドン・B・ジョンソン、リチャード・ニクソン、ジェラルド・フォード、ジョー・マッカーシーなどを支援し、巨額の寄付をし続けていたダラスの石油億万長者、H・L・ハントだったでしょう。しかし、これらは複雑に絡み合った糸の一部で、何の確証もありません。

ただ、近代史が、この事件をきっかけに大きく変わってしまったことは事実です。そのことによって、世界史が変わり、思想の流れが変わり、多くの人の人生が変わったのではないでしょうか。私は、ガンジー氏の暗殺、キング牧師の暗殺、ジョン・F・ケネディー、ロバート・ケネディの暗殺、そしてジョン・レノンの暗殺、その「暗殺」という恐ろしい行為と、その衝撃、陰謀の有無によらずその奥に潜む人間の愚かさ、恐ろしさを思います。しかし、私たちの社会を大きく変えてしまったことは事実で、今でも政治的にも、思想的にも、大きな影を落としていると思います。この場所に立つと、歴史の重みを感じずにはいられないのです。

ナオミさんとの出逢い

朝の9時1分、突然侵入してきたトラックが連邦ビルの下で爆発。9時3分にその惨禍はビルの片側を大きくえぐった。ニューヨークの9・11テロの時のように、朝の出勤直後の人々、朝一番から申請などをしようと庁舎に集まった人など、子供を含む168人の方が尊い命を落とされた。
この記念式典は、当時半壊したビルの跡地に造られたモニュメントで行われました。薄い水面の池。この池は亡くなった方を偲ぶ人が、鏡のような池水を覗き込むと、そこに失った愛する人の顔が浮かんでいればいい、という思いから造られたそうです。墓標がイスに似た形であることも、亡くなった方がゆっくり休めるようにという考えからと聞きました。それぞれの思いが、この場所に込められているのだと思います。
街頭には、犠牲者一人一人の名前が読み上げられていきます。交代で、きっと遺族や友人が名前を呼んでいるのですが、その声も時折涙で詰まってしまいます。私は、このテロの被害者に想いを馳せながらも、何より今目の前にいる「家族」の苦しみを目の当たりにして、心が痛くなる思いがしました。
こうした場所は、確かに誰もが、いつでも訪れられます。想像力があれば、事件当時の惨禍から現在までの苦悩、突然命を奪われ、幸福を踏みにじられる人々のことを考えられるでしょう。しかし、こうした記念の瞬間でなければ、そこには建造物だけがあって、人の顔は見えないものなのです。ところが、私たちは幸福なことに、彼らと言葉を交わし、彼らの顔、ご家族の顔を見ながら、お祈りをすることもできる。これは、大変なことでした。御法さまのお導きを感じました。
そして、その場所での御祈願、ご回向を終えて帰ろうとした時、女性から声を掛けられました。彼女の名前は「ナオミ」さん。アメリカ空軍のユニフォームを着けておられる女性兵士の方で、お母様が日系であるということ。
「日本の方ですか?私は仏教徒なのです。この近くにお寺はあるのですか?」と。
「いや、私たちは日本から来た仏教徒です。この近くにお寺があるかは分かりません。ただ、今日は犠牲者のためにと、お参りしたのです」と答えました。
彼女は、心から感動してくれている様子で、「そうですか。私もそうです。犠牲者のために来ました。私は、これから嘉手納に配置されるので、日本に行きます。私の家は仏教なのです。日蓮宗で南無妙法蓮華経と唱えます」と。
日系の顔立ちに、綺麗な薄みどり色をした瞳の真摯な言葉に、本当に有難く思えました。
彼女は、「私は4年前にニューヨークに住んでいました。9・11では、私の友人や家族が犠牲になって、亡くなったたくさんいて。そのために、私はアメリカのミリタリーに入りたくて。やっぱり私は6才から仏教を勉強して、南無妙法蓮華経を毎日お母さんとお唱えした。やっぱり、私はみんなに教えたいんです。私たちは仏教で、みんなにサポートをあげたいんです。私は、別にユダヤ教でも、クリスチャンでも構わないんです」
と。「今日、ここに来てどうですか」というディレクターの質問に、
「やっぱり4年前と同じ。生き残った家族と出会って。本当に。私たちはみんなのために来たけれど、みんが私たちに有難うって言う。やっぱり、私たちはもっと強くなって、みんなのために、私たちはこういうことが二度と起こらないように、一生懸命に毎日働いて。私の生活に仏教があるように、もっと強く、ユニホームと御数珠を持っていて、もっと何か出来ると思う」
と答えられました。彼女と出会えたことも素晴らしいお導きでした。素晴らしいことでした。もっと考え直さなければならないこと、教えられることがあります。そして、彼女は本当に純粋で、素敵な笑顔、暖かい笑顔をしてくれていました。「御数珠とユニホーム(軍隊の制服)」という言葉。よく考えなければなりません。とにかく、こういう視点から世界の平和や戦争やテロを考えてくれている人がいてくれる、仏教徒がここにいることを知ることが出来て、本当に嬉しかった。私は、この場所で出会った二人の耳に向かって、「南無妙法蓮華経、、、、」とお唱えしました。

一番最初に救助に駆けつけた消防士

あのモニュメント、重たい雰囲気の中に入っていきました。御題目をお唱えし、コメントを撮りながら。
そこでは、驚くことに多くの人が私を見て、合掌し、挨拶をしてくれる。本当に驚きました。テキサスと州を接していて、仏教の僧侶など見たことも無いキリスト教の方が多いと思いますが、大切な慰霊碑のフィールドに異教徒である私を暖かく迎えてくれました。
そして、一人の屈強そうな老齢の男性が近づいてこられました。彼と挨拶を交わし、お話を聞くと、「僕は、あのテロの時、一番最初に駆けつけたチームの一人で、実際に何人かの人の救助をした。なので、今日は自分にとっても特別な日だ。そういう日に、あなたに会えたということは嬉しい。わざわざ、あなたがここに来てくれて嬉しいし、意義があることです。本当にありがとうございます」とゆっくりと話してくれた。
本当に嬉しかったし、涙が出そうになった。また、素晴らしい出逢いが続いた。

オクラホマシティーのテロ

世界の平和、今起きている紛争やテロを考える時に、欠かせない重要な出来事があると思います。
特に、アメリカを襲った悲惨なテロ攻撃とその犠牲者を忘れることは出来ません。アメリカという国家に対するテロは1993年から立て続けに起こり、何らかの関連性があるように思えます。1993年、ニューヨークの世界貿易センタービルで爆弾テロ。6人が死亡、1000人以上が負傷する事件がありました。そして、1995年4月、オクラホマ州オクラホマシティーの連邦政府ビル前で、爆弾が仕掛けられたトラックが爆発。168人が死亡。主犯とされたティモシー・マクベイ死刑囚は2001年6月に死刑になりました。続いて、1995年11月サウジアラビア・リヤドの米軍駐留地で車に仕掛けられた爆弾が爆発、5人が死亡。1996年、同じくサウジアラビアの米軍基地宿舎近くで爆弾事件。19人が死亡、372人が負傷。以降、1996年7月、トランスワールド航空800便が離陸直後墜落。テロの可能性あり、と。7月、オリンピック開催予定地のアトランタでパイプ爆弾のテロ。1人が死亡、111人が負傷。1998年、ケニアとタンザニアの米国大使館で同時爆弾テロ。224人が死亡。2000年、イエメンに停泊中のイージス艦「コール」に爆弾テロ。乗組員17名が死亡。2001年9月11日、ニューヨーク・世界貿易センター及びワシントンDCの国防総省ビルの同時多発テロ事件、死者・行方不明者2797人。
これだけ考えても、背筋がゾッとしますが、これが今の世界の現実。しかも、ごく身近にあります。一連の事件を見ても、米国を標的としたテロの初期に、オクラホマシティーでのテロが位置していることに気づきます。主犯格はマクベイというネオナチに傾倒している青年と報道をされ、捜査と逮捕が進み、結審して死刑も執行されましたが、当初から単独犯行説に無理があり、マクベイの背後に何らかの組織や主犯格が存在していることは知られており、現場を担当していた担当者・記者・後には国防総省の顧問弁護士も、そのように指摘していたのですが。
オクラホマシティーでのテロは、多くの人命を身勝手に奪いました。このモニュメントを前にして、そこにある墓標、死者が休めるようにデザインされた「シート」を前にして、また子供用の小さなシートを前にして、恐ろしいテロに巻き込まれる人々の苦悩、運命を無理に変えられてしまった家族の方々の苦悩を、目の当たりにしたのでした。私は、改良服でセレモニーの中に入らせていただくことが出来ました。


オクラホマシティーへ

偶然は無い。全ては必然である。また、そう思えることがありました。
私たちのルートは、ある意味では決まっていないようなもので、主要な都市を指定して距離を逆算し、収録の時間などを考慮しながら臨機応変に進めていくというものでした。
昨日、モニュメントバレーを後にして、少しだけコロラド州に入りました。そこには川の側に立つカフェがあり、開拓時代からの展示物も飾ってある、とても落ち着く空間だったのですが、そこから同じ道を戻って、セドナという街まで南下するルートを当初は考えていました。セドナは精神的に特殊なエネルギーに満ちているなどと言われている街で、私はその真偽、ルーツなどについて調べてみたいと考えていましたが、余りヒーリングなどのブームを好きになれない気持ちや、同じ道を戻ることが時間を無駄にしているのではないかと思って、そのまま大きく迂回しながらルート40(古のルート66と言われています)を東に向かうことにしたのです。
ずいぶんと車を走らせ、ホテルに着いたのですが、そこであのオクラホマシティーの連邦政府事務所の入ったビルが爆破されてから、明日の9時3分でちょうど10年目とのこと。こんな機会は二度とない、そこで行われるセレモニーに出席しよう、と思い立ちました。考えてみれば、あのオクラホマシティーで起きた悲惨な爆破テロは、168名の方の命を奪い、911に続くテロの線の中でも重要な位置にあると言われてきました。グランド・ゼロを目指して旅している者を、何か導かれてオクラホマシティーに連れて行かれているような、そんな感覚になりました。オクラホマシティーまでは車で30分、そこに9時までに到着し、御衣を着けさせていただき、亡くなった方々、何よりそのご家族と共に、宗教宗派を超えて、本門の御題目でご回向させていただきたいと。そう思って、とにかくテロの起きた跡地、記念式典の行われるモニュメントまで行きました。

2005年4月19日火曜日

やっとホテルへ

今日も、無事にホテルに到着しました。12時ちかくにホテルにチェックイン。
朝、昨日泊まったホテルの前で車がスピンしたといいます。私は見なかったのですが、同行者数名の目の前で起きた出来事で、眼を丸くしてビックリしていました。「あれだけ大きくスピンして、どこにも当たず大事にならなくてよかった」と話をしました。すると、同じように昼間の出来事ですが、ハイウェイを走っていた時、なんと追い越しをした車が目の前でガードレールに衝突。それは、ほんの10メートルくらいの距離。しかもスピードは60マイルくらいで走っている高速道路ですから大変危険です。もし、前の車の衝突が、少しでも激しかったら巻き込まれています。朝からみんなで、「きっと、車のスピンを見たのも、気を付けなさいということだよ」と言っていたら、その通りに、その通りの状況になってしまったのでした。衝突した方を心配をしましたが、車もガードレールと平行に当たっていて擦った程度だったようです。見ると、お年寄りのご夫婦でしたが、身体には何の心配も無いようでした。
また、お守りをいただいたと思います。本当に、私たちのご信心は「サイン」がたくさんある、と思います。お褒めのサイン、ご注意くださるサインなど、それは様々です。そのサインを感じる心を大切にしたいです。
今日は、ニューメキシコ州からメキシコ州、そしてここはオクラホマ州です。明日、何とオクラホマシティーの連邦政府ビルの爆破事件からちょうど10年ということ。CNNでも朝からニュースで特集を組んでいるほどです。可能であれば、記念の式典に参列したいと思います。そして、次はダラスに向います。いま、もう夜中の2時近く。東に向かえば向かうほど、当たり前ですが時間を1時間づつ早めなければなりません。ですから、私たちは既に2時間も時計を進めながら旅をしています。これは相当に疲れることで、1日の時間を削られてしまっている気がします。眠くて仕方がありません。

2005年4月18日月曜日

モニュメント・バレー

グランド・キャニオンからルートを北に取りました。アメリカの原風景といわれている、モンニュメント・バレーに行くためです。渓谷にそってアリゾナ州からユタ州にむけて北上していきます。
ここに行く理由。アメリカの原風景を観ることも当然の目的でしたが、何よりアメリカ先住民である「ナバホ族」に触れることが目的でした。
LA空港に到着してすぐに車を走らせ、深夜の2時に睡眠して4時に起床。グランド・キャニオンで日の出を見て、そしてすぐにモニュメント・バレーへ。大変な強行軍です。しかし、ナバホの人たちの生活や思想に触れることも、現代アメリカ、現代社会、文明と文明、文化と文化を考える上で、非常に大切です。
ナバホ族はいうまでもなく、アメリカ大陸に先住していた民族です。西欧からの移民と西部開拓によって、彼らの文化や伝統、住む地域は変化を迫られてきました。そこにはまた大変な歴史があり、ここで書くことは出来ませんが、想像を超えた苦難の時代があり、今はグランドキャニオンからモニュメントバレーにまたがる地域、アリゾナ州、ユタ州、コロラド州、ニューメキシコ州など、3州から4州にかけて彼らは住み、特に「ナバホ・ネイション」と呼ばれる「国」「自治地域」を持って住んでいます。最近は京都大学の河合隼雄先生がナバホ族の精神生活について、非常に興味深い本を出版されています。
彼らの経営する牧場、特にモニュメントバレーで乗馬をさせてくれる場所で、私たちは車を降りました。ナバホの背の高い方が出てきてくれます。彼と話をして、乗馬をすることにしました。そして、乗馬をしている間、彼も一緒についてきてくれて、一つ一つの山についてナバホではこうした伝説があるということ、風習や神話などについて少しだけ話をしてくれました。
このナバホを考えることも、ラジオ番組の一つになるでしょう。彼らは多神教で、日本人の思想と非常に似ていることが指摘されていますし、現実に今日案内してくれた彼も「ナバホ族には蒙古斑がある。だから、中国人や日本人に非常に親しみを感じているんだ」と。そして、彼らの居住区域に入り、収録をしていましたが、本当に素晴らしい笑顔で通り過ぎるナバホの人たちをたくさん見ることが出来ました。
しかし、現実は厳しく、ナバホの成人男性ではアルコール中毒になる確立が非常に強いといわれています。文化を守ること、しかし入り込む現代アメリカ文化、それに抗することにも疲れ、仕事もなく、生活は苦しい、と。援助もありますが、その援助も苦しみを生み出す悪循環になっているのではないかと指摘されているほどです。とにかく、太古から大事に受け継がれてきた思想が簡単に断絶してしまうのは残念です。
仏教は多神教ではないのですが、そう簡単に結論づけることは出来ないと思います。仏教は、シャーマニズムのような「あらゆる自然、太陽、月、空、大地、水に神聖を感じる」ということの意味は充分すぎるほど理解しています。その上で、という点。そうした勧請したくなる神々の、その後ろ側にある宇宙の法則、真理を説くのです。だから、別に取り上げて祀ったり、勧請したりしない、と。私も「南無久遠~」という御文では、毎回勤行するたびに「地神水神~」と唱えています。これは南無妙法蓮華経という宇宙の真理、御仏の御本意が開顕された時にはじめて敬うという立場ですが、このことだけ考えてみても、よくお祖師さまの教えを「一神教と似てる」などと言う人があるようですが、そんなに単純な話ではありません。

国立公園

グランド・キャニオンは国立公園です。アメリカの国立公園の多くがそうであるように、壮大な敷地を誇り、管理されていて、観光客が絶えません。石ころ1つも持って帰ることは許されない、それが国立公園。ただし、このグランド・キャニオン、近年環境が著しく破壊されてしまっているそうで、車での乗り入れを規制することが決まっています。いまは直ぐ近くの観光ポイントまで車が入れるのですが、もう暫くすると車を降りてから列車に乗らないと、この渓谷に入れなくなるそうです。
この道を車で走っている間、コヨーテがいたり、「あっ、バンビだ」って突然の出逢いに驚いたり。自然がたくさん残されています。この雄大な場所では、明らかに地球の長い歴史が刻まれていて、そこにはその時代時代に生きた動植物の化石もあり、本当にこんなに身近に地球に刻まれた真実を目の当たりに出来て羨ましいと思います。でも、考えてみると、こうした大自然に囲まれ、様々な標本を手にしても、今のアメリカでは進化論を否定する動きが広がっていたり。そういうことをお話しできました。また、空間的な側面、時間的な側面と両方の軸がありますが、その双方の軸がどのくらいの長さか、高さかで、人の幸不幸に感じる尺度が変わっているということなどを小泉さんと話しをしました。俯瞰的に、ちょっと高い視点から、自分の人生、立場、やるべきことなどを考えてみることが大切であるように、地球の歴史、人類の立場、いまやるべきことなどを、少し違う視点で考えることが大事だと。そうしたことを考えるには最適の場所がグランド・キャニオンでしょう。

難しいラジオ収録

ラジオ番組の収録、特にこうした旅形式の収録ははじめての経験です。二股に分かれているマイクをディレクターの方が持つ小さなMDに入れていきます。その話をしている内容を、ディレクターの方がメモに取っていきます。このメモがラジオ番組では最も大切で、テレビ番組ならば映像と内容をサーチすることも可能ですが、ラジオ番組ではそうはいきません。ですから、しっかりとメモをしておいて、編集作業をするそうです。
私にとってもはじめての経験です。こうした機会を与えてくださったことに感謝して、精一杯やってみるしかないと思っています。そして、偉いお坊さんや頭の良い知識人でもないので、ありのままの長松清潤という等身大で話をしています。相棒の小泉も、友人としての質問と「住職!」という会話を使い分けていて、肩を張らずにいこうと思っています。
しかし、こちらの宗教チャンネル、キリスト教のテレビ番組は、最近さらにスゴイですね。何がスゴイかというと、その話をしている内容とロケの場所、演説師のパフォーマンスなどです。確かに数万人収容の競技場などで演説会をしている番組には圧倒をされます。当然ながら、そういうパフォーマンスも、お金を掛けた広報宣伝活動も出来ません。ただ、身の丈にあった、正直な話は出来ると思うのです。レトリックに長けて、瞬間で感動させる、他を圧倒するということではなくて、背伸びをすることなく、清濁含めて、ご信心をさせてもらって有難いということをお伝えしたいと。しかも、私の全てを知っている友人と一緒ですから、格好もつけられません。人間的にはまだまだ修行の足らない住職ですが、真実の仏教の尊さだけ、自分の人生に照らしてお話を出来れば良いと思って、難しいラジオ収録に挑んでいます。

グランド・キャニオン

グランド・キャニオンを訪れたのには理由がありました。
この場所は、世界的にも有数の場所。宇宙からはっきりと見える地上に残された傷跡。そこに立つと、悠久の歴史の中で自分の小ささを思い知ることになる、と。
このグランド・キャニオンは、年間で500万人の観光客が訪れる場所。その一番上の層は、約1億8000万年前のもので、コロラド川が削って現れた最下層の地層は18億年、一説では30億年も前の地層まであると言います。
私はこの場に立って、実はちょっと拍子抜けをしました。上から眺めていただけだからでしょう、コロラド側が流れる下まで行けば違う感覚を持ったと思いますが、余りにも凄すぎて実感が湧いてこない、ピンとこなくなってしまったのです。余りにも凄くて、しかも白いベールのような霧がかかっていて、まるでCGや壁に書かれた画を観ているようだったのです。なかなか、この状態から抜け出すことが出来ませんでした。
それから、バックパッカーの方と話をしたり、国立公園内に住んでいるコヨーテと出会ったりしてから、何だか心が晴れたような状態でした。とにかく、ここでのコメントも無事に終えました。

到着後、すぐに出発

ロスの空港に着いたのは朝の9時45分。税関が混んでいて、少々出るのに時間が掛かった。写真撮影と指紋の捺印は今や当然の如く誰もがしているから。偉いなぁ。
外に出て、現地の方々が迎えに来てくれていました。疲れて搭乗したので、さぞ眠れるだろうと思っていた飛行機の中、結局うまく寝付けず、撮影に流れ込んでしまう。そのままレンタカーを借りて、今日中にグランド・キャニオンまで走るということ。トホホ、何というスケジュール。
このラジオ収録には、ケンジくんという非常に優秀なディレクターが付いてくれていて、車の中ではじまった収録の指示をくれます。
番組は私の友人である小泉氏と、小泉氏がゲストとして迎えた本門佛立宗の僧侶であり友人の私と、アメリカの様々な風景を旅しながら、仏様の教えを聞いてゆく、というものです。しかし、これが非常に難しかったです。
とにかく、結局夜中の1時過ぎまで走りました。やはり、私は車の中でも寝付けないのですが、12時に付いた場所はウィルソンというグランド・キャニオンに北上していくための入り口に当たる小さな街。そのモーテルに荷物を降ろして、日本からの汗を流してベットの中に入ったのは2時。しかも、5人で一緒の部屋に寝ることにしました。なぜなら、2時に寝て、4時に起きて、グランド・キャニオンに昇る朝日を眺め、コメントを収録することになっていたからです。
そして、4時に起きました。グランド・キャニオンまでの道、白みはじめる空と青のグラデーション、地平線に浮かび上がった稜線など、本当に綺麗でした。奇跡的なタイミング、何と日の出のほんの1分前に着き、マザーポイントに車を急停車して、その瞬間に立ち会うことが出来ました。コメントの収録も無事に終了。本当によかったです。

2005年4月16日土曜日

ラジオ番組の収録?

ありがとうございます。
なんと、私もブログなるものを始めることになりました。とてもそのような時間も余裕も無いと思っているのですが、とにかく始めることにしました。それも、こうした場を通じて、少しだけでもご信心の輪、ご奉公の輪が広がればと思って。
今も、ゆっくり書き込む時間がないので、簡単に書かせていただきます。
本日から、ラジオの収録のために、アメリカに渡航することになりました。私の友人がロサンジェルスのラジオ局で役員をしており、仏教の番組を作りたい、是非ナガマツに番組を持って貰いたい、と話をしてくれまして、その好意に甘えてご奉公しようということになりました。このラジオ番組は、ロサンジェルスでは数少ない日本語放送のラジオ局で放送されるということですが、企画内容はロサンジェルスからニューヨークまで車を走らせながら、現代アメリカ社会や大自然を旅して、本門佛立宗の僧侶である私にナレーターが質問をしてゆくという形式です。これも、真実の仏教を弘める一助になればと思い、国内でのご奉公を整理して断行することにしました。横浜妙深寺のご信者さんにはご迷惑をお掛けします。

実は、出発する今日も御講があります。本日は16日ですが、今月はこれまでに19席の御講。このアメリカでのご奉公のために、通常のご奉公がギリギリまで詰まってしまいました。でも、とにかく飛行機に乗り、あちらに行って指示に従っていれば何とかなると思い、12時過ぎにお席を離れ、成田に向かい、飛行機に飛び乗るつもりです。

また、このブログを作っていただいたので、ご奉公の報告など、色々としてゆきたいと思います。ありがとうございます。

The movie summary of Sri Lanka HBS activity in 2018.

The movie summary of Sri Lanka HBS activity in 2018. スリランカHBSが制作した2018年の活動をまとめた短編映像です。