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2025年3月16日日曜日

【3月佛立倶楽部#01】なぜ心のデトックスが必要なのか【長松清潤】

3月の佛立倶楽部御講では「心のデトックス」をテーマにお話をしました。

3回に分けてアップしてくれるそうです。

よろしくお願いいたします。

2022年10月6日木曜日

13 years ago, I was in a refugee camp









































13 years ago, I was in a refugee camp in Sri Lanka.


There were 70,000 tents for people who lost their homes in the civil war. Tents were lined up one after another. People drying laundry on barbed wire and children playing. I was truly speechless.


We visited a refugee camp called Settikulam, sector 2, located in northern Sri Lanka. We entered the camp after being informed in advance that there were members of the extremist group LTTE and their families in the camp.


Terrorism, war, history, ethnicity, religion. Face a dauntingly huge problem. we have to overcome these.


"Hello" in Tamil is "madhiya vanakkam". As I handed the toys to the children, tears welled up when I thought of the harsh days they had gone through.


I gave a small seminar at a vocational school in a refugee camp. I was impressed that some people were taking notes.


Lots of nostalgic photos from 13 years ago. Now Anju is working in Japan, and Dasun is working for us in Sri Lanka and India. They are true primordial Buddhists who can be seen anywhere in the world.


Next year, Sri Lanka will celebrate the 25th anniversary of HBS. The Gohoukou that we have accumulated has steadily taken root and become an essential part of their lives.


Now, the world is about to plunge into an era of war again. You should be aware that you have already entered such a phase and be prepared. Don't panic when the time comes.


Think globally, Act locally.


Today as well, where you are, let's live there to the fullest. live life to the fullest.


World peace made by one person. World peace comes from one person. If one person changes, the world also changes. The world changes because one person changes. Let's change for the better.


Gokyoka

"If you change your enjoyment and imitate a wise man, you'll hate all fool does."


Now is the time to update your values.


Namu Myo Ho Ren Ge Kyo,,,

Arigatou gozaimasu.


13年前はスリランカの難民キャンプでした。


内戦で家を失った人びとが暮らす70000世帯のテントが立ち並んでいました。行けども行けども、テントが立ち並んでいました。鉄条網に洗濯物を干す人や、子どもたちが遊んでいる姿。本当に言葉を失いました。


私たちが訪れたのはスリランカ北部に設置されたセンター2、Settikulamという難民キャンプ。キャンプ内には過激派組織LTTEの構成員や家族もいると事前説明を受けてキャンプ内に入りました。


テロ、戦争、歴史、民族、宗教。気が遠くなるような巨大な問題を目の当たりにする。私たちはこれを乗り越えなければならない。


タミル語の「こんにちわ」は「madhiya vanakkam(マディヤ ワナッカム)」。子どもたちにおもちゃを手渡しながら、彼らが経験してきた過酷な日々を思うと涙が溢れてきました。


難民キャンプの中の職業訓練校で小さなセミナーを行いました。メモを取ってくれている人もいて、ありがたかったです。


13年前の懐かしい写真がたくさん。いま、Anjuちゃんは日本で仕事をしているし、Dasunはインドで僕たちのために活躍してくれました。彼らは世界中どこに出しても恥ずかしくない本物の佛立仏教徒です。


来年、スリランカは開教25周年。積み重ねてきたご奉公は着実に根を張り、彼らの人生で欠かせないものとなりました。


いま、また世界は戦争の時代に突入しようとしています。すでにそうしたフェーズに入ったと認識し、準備しておくべきでしょう。慌てないように。


Think globally, Act locally.


今日も、自分のいる場所で、そこで、精一杯、生きましょう。生き切りましょう。


一人から作る世界平和。世界の平和は一人から生まれる。一人が変われば世界も変わる。一人が変わるから世界は変わる。よりよく変わろう。


御教歌

「たのしみをかへてかしこのまねしたら あほのすることみないやになり」


今こそ価値観をアップデートしよう。


南無妙法蓮華経

ありがとうございます。

2011年12月21日水曜日

平成23年度 高祖会 御法門

平成23年度 妙深寺 高祖会 メインテーマ「生きる」
第二座 御法門 サブテーマ「ひとつ」

御教歌

「我祖師の めぐみは此世 ばかりかは のち世かけての お慈悲なりけり」

 本年を締めくくる高祖会、第二座を奉修させていただきました。昨日は秋山御住職をお迎えし、第一座を奉修いただきました。被災された現地から、福田さんもお参詣くださり、大変貴重なお話を伺わせていただくことができました。約500名という本当にたくさんのお参詣をいただき、本当にありがたい気持ちでいっぱいです。千年に一度と言われる大震災が起きた年の高祖会ですから、一生に一回という思いで締めくくっていただけたらありがたいと思います。

 それでは、御教歌を拝見させていただきます。

 御教歌に、「我祖師の めぐみは此世 ばかりかは のち世かけての お慈悲なりけり」

 佛立開導日扇聖人が『十巻抄』という最も重要な御指南書にお示しくだされた御教歌でございます。

 本年は色々なことがございました。しかし私たちは、今、生きている。生かされている。このめぐみ、この大慈大悲、優しさ、温かさを、片時も忘れず、人を生かす、人を救う、支え、助ける、佛立菩薩として生きることが大切とお示しの御教歌でございます。

 11月8日は、旧暦でお祖師さまの祥月ご命日でした。言うまでもなく、お祖師さまは、上行菩薩としてこの世に御題目をお届けくださったお方であります。この御題目は、どのような人種、どのような言語、どのような知識、学問のレベルや年齢であろうと関係なく、必ず現証の御利益を顕す、マントラ、万能のお薬、妙不可思議の御力を持つものです。

 この歴史上、数え切れないほど多くの人が、この御題目によって救われ、妙不可思議の御利益を目の当たりにしてきました。私自身も、絶体絶命の先住(父)の怪我、家族が絶望のどん底に落ちたところから、御題目で救っていただいた。他にも数え切れない不思議な現証を拝見させていただき、今でも、毎月の妙深寺報にも、たくさんの人がその不思議を感じておられる。もはや、疑う余地はないわけです。

 ダメなものがダメでなくなる。とにかく御題目、ここに極まる。誰であろうと、この「御題目をお唱えする」という味わいを知っていただければ、それで必ず今日の高祖会のテーマである「生きる」ということの本当の意味が分かっていただけると思います。

 今も言上させていただきましたが、お看経などのとき、私たちはお祖師さまのお名前をお呼びするときに、「高祖日蓮大菩薩、大慈大悲大恩報謝」と言上いたします。この「大慈大悲」とは、「すべての人の苦悩を取り除き、すべての人々に幸せを与える」というのが「大慈大悲」の意味です。

 お祖師さまは、この御題目によって、このご信心によって、私たち一人ひとりが抱えている苦しみや悩み、それが病気の問題であろうと人間関係やお金の問題であろうと、それを取り除き、マイナスの方向からプラスの方向に向かわせよう。しかも、このわずかな一生だけではなく、私たちが今生きている「一生」が終わった後、死後、来世まで、「苦しみを取り除き、楽を与える」という覚悟でご奉公くださったのであります。

 それを、改めてこのことを思い出してみなさいと、御教歌にお詠みくださっている。

 このお祖師さまの、大きな、大きなご恩に、少しでも報いたい、ご恩返しをさせていただきたいと思い励むことを「大恩報謝」と言います。つまり、これが「大慈大悲大恩報謝」という言葉の意味です。

 冒頭に申しましたとおり、私たちは、いま、生きています。しかし、人間の赤ん坊を思えば分かるとおり、たとえ無事に産まれても、誰かのお世話にならなければ、私たちは数日で死んでしまう。生き続けることはできない。

 つまり、「生まれた」は「生きる」とイコールではない。誰かのおかげでやっと「生き延びた」「生きられるようになった」ということになります。

 しかし、このことを、私たちは忘れてしまう。生きていることが、さも当然の、当たり前のことのようになってしまう。「生かされてきた」「生かされている」ということを忘れてしまう。「自分で勝手に育ってきた」と思うようになってしまう。これほどの間違い、過ちはありません。

 千年に一度という大震災で、今なお多くの方が行方不明のままの状態、約2万人の方々が、瞬時に命を奪われ、家族を失った恐ろしい出来事を通じて、改めて、こうしたおごった気持ちの間違いに気づくべきであるということを、突きつけられています。「生きる」ということ。

 昨日の秋山御住職のお話でも、とにかく自分も被災したが「生かされた」と思った。そして「だからこそ、生き残った自分がしなければならない」と思った。「誰かがやるだろう。しかし、僕はその誰かになりたい」と仰っておられました。

 陸前高田の「うごく七夕まつり」を実現した福田さんも、「仲間もたくさん死んでしまいました。でも、生き残った僕たちが子どもたちの笑顔のために、何かしなきゃいけないんだと思ったんです」とお話をくださいました。

 そうした秋山御住職や福田さんがお話しくださったように、「生かされている」が、「生きる」となる。本当の「生きる」とは、他の人の命まで「生かす」ということ。それで初めて「生きる」なんだ、と。「生かされている」がなければ「生きる」ではない。せっかく生きているのに、自分一人のことばかり考え、誰かの命を「生かす」、誰かのために生きるということを忘れていれば、死んでいるのと同じになってしまう。

 末法悪世に生まれた、欲深く、嫉妬深く、勘違いしやすい凡夫は、ここに気付かなければなりません。ここが分からないと、一生「生きる」が分からない。一生「生きられない」「生きていない」ことになる。

 ですから、私たちはこうした出来事から学び、また、お祖師さまの大慈大悲を感じて、生き改める、生き直す、ということが大事。

 ひな鳥は巣の中で鳴きながら親鳥が運んでくる餌を待ち、その餌を食べて成長します。そして、成長すれば、今度は自分がひな鳥のために餌を運び、命を養う側に立ちます。

 赤ん坊として生まれて来てから、みんなのお世話で生かされてきた、生きている私たち、生き残った私たちがすべきことは何か。ここを考えなければ、震災後の支援活動も、御題目に出会った者の本当の「生き方」も、分かりません。苦しみも取り除かれず、幸せにもなれない。

 生かされた者は、それに感謝して、誰かのための「生きる」を始めよう。御題目による現証の御利益を見た者は、今度は誰かを救うために、菩薩として「生きる」を始めていただきたい。

「我祖師の めぐみは此世 ばかりかは のち世かけての お慈悲なりけり」

 お祖師さまは、苦しみや迷いに直面する私たちの命を、「生かす」ためにご奉公くださいました。この一生だけではなく、その死後まで「生かす」ため。

 「仏教が霊魂の存在を否定した」とか、「ブッダは死後の世界を認めなかった」とか、「仏教は哲学である」とか、「仏教はただ人間の心の平穏を得るための方法を教えただけである」という近代仏教学の提唱は、根本的な大間違いです。中村元氏や司馬遼太郎氏などは、「中論」や「唯識論」が過激に進めた反実体論だけを取り上げ、それでいて唯物論的世界観や自然科学の手法に影響されて仏教を規定してしまった。彼らは仏陀が霊魂や死後の世界を無いと説いたと考え、それが新しい仏教理解、それが高度成長期のインテリの、最先端の考え方だと思ってしまった。これは実に不幸なことでした。少なくとも私はそう思います。

 最も古い経典の一つ、ブッダの肉声が納められていると言われているスッタニパータには、次のようにあります。

「何者の業も滅びる事はない。それは必ず戻ってきて業を作った本人がその報いを受ける。愚者は罪を犯して来世にあってはその身に苦しみを受ける」

「罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は実に悲惨である。だから人は、この世において余生のあるうちになすべきことをなし、おろそかにしてはならない」

 「有る」「無し」を論じるよりも、ここに厳然と存在する因果の道理を見据えなければなりません。

 現世と来世を救う教えが仏教であり、仏道であり、お祖師さまのなされた大慈大悲のご奉公であり、現実、上行所伝の御題目は現証の御利益によって多くの人々の苦悩を取り除き、思いも寄らない幸せを与えてくださっています。来世が救われるかどうか、死後の世界があるかどうか。それは、今を見れば分かります。大慈大悲の尊いみ教え、揺るぎないただ一つの真理、真実です。

 お祖師さまは法蓮抄という御妙判に、「近き現証を引いて遠き信を取るべし」と、お諭しくだされています。いま、人々が救われていくのを見れば分かるはずだ、と。

 世の中には、「つぶやき」が溢れています。「つぶやき」のことを「ツイート」と呼ぶそうで、実は私も「ツイッター」というものをやっています。しかし、「つぶやき」で世の中がよくなると思いますか?

良くなるはずがありません。むしろ、きっと悪くなる。ブログというものもありますが、いい加減な情報が溢れかえっています。スピリチュアル系のブームは、今や物体から知識に変わってきています。昔はヘンテコな石やブレスレットやネックレスを買って、着けたり、部屋に置いておいたりするだけだったのですが、今は違う。インターネットに氾濫する偏った理論の迷路に入り込んでいる人が多いのです。本当の意味の「セクト」が乱立している。宗教とも理学療法ともつかない。民間療法や勝手理論です。今やオウム真理教と変わらない、雑多な思想を組み合わせた「信仰」が、ネットの中に溢れています。

 本当に恐ろしい時代になります。恐ろしい人生になります。これでは宇宙だ、地球だ、人類だと言っていても、平和など来るわけがない。普遍的じゃない。その人にも穏やかな人生が来るわけがない。それが分からない。分からないで、入って行ってしまう。哀しいことであり、恐ろしいことです。

 今日の第二座は、サブテーマに「ひとつ」と題しましたが、これは「お祖師さまとひとつになりなさい」ということです。それこそが、幸せのサイクルに入る秘訣、極意です。エセ科学、エセ心理学やセクトに入り込むのでも、「生かされている」ことを忘れて一生を過ごすのでもなく、ここで「ひとつ」になること。

 お祖師さまの大慈大悲の中で「ひとつ」になり、御題目をいただいていた「ひな鳥」から成長して、今度は自分がひな鳥を生かし、育てようと、菩薩の生き方に励む。これが極意を身につけた人です。かならず、この方は幸せのサイクルの中に入っていきます。

 今のご自分の状況をよく考えてください。幸せのサイクルに入ると、本当に不思議といい縁に恵まれます。そして、一日の中にいいことがたくさん見つかるようになります。トラブル、災いから逃れさせていただく。不思議に家庭も円満で、仕事もうまく回っていく。

 しかし、この逆がある。不幸のサイクルです。いま言ったことを、すべて逆にしてみれば分かります。悪い縁ばかり来る。いい縁が来ない。一日を振り返っても、いいことがない。悪いことばっかり。だから夜はイライラする。虚しくなる。孤独だ。ネットや何かで紛らわす。災難に遭う。家庭の中がゴタゴタ、ガタガタする。仕事がうまくいかない、良いところまでいって、必ず大きな壁が出てくる。

 それは、この極意、「ひとつ」になってないからなんです。大慈大悲とひとつになっていない。まだ、「生きる」が分からない、「生きる」ができていないからだと教えていただくのです。

 仏教は、お祖師さまがいなければ、正しく理解できず、何をしていいのかも分からなかった。お祖師さまの存在を認めなければ、仏教の知識をいくら使っても、つなぎ合わせても、普遍的な真理を得ることはできない。幸せになることはないし、苦しみから逃れることもできないのです。

 社会が行き詰まり、大自然の悲鳴、あるいは恫喝、あるいは痙攣が人間を苦しめるような事態の中で、私たちは、御仏の、お祖師さまの教えてくださった「生きる」ということ、つまり「私たちは生かされている」「生きるとは他のために生きること」に、素直に立ち戻って、再スタート、再生をすべきなのです。

 今、毎日お参詣をされている新谷さん、車イスに乗られながら、毎朝毎朝お参詣を続けておられます。本当に頭が下がります。

 また、今、黒崎さんと一緒に、境内地の掃除を毎日のように一生懸命してくれている岩本龍二君。龍二君は先住と同じように、交通事故で脳挫傷、頭蓋骨骨折で、何ヶ月も意識不明だった。そのころ、まだお母さんはご信者さんではなかったが、同じ職場で働いていた板倉さんを頼ってお寺に来た。そして話をして、何とか御利益をいただいてほしいということで、ご信心をすることになった。そして、岩本さんの入信の言上を先住が上げられたその日に、龍二君の意識が目覚めた。大変な御利益を頂かれました。それから15年以上が経ち、色々なことがあり、最近、また本当に苦しいことがあって、そこから、今、もう一度、生き直そうとしてお寺の清掃ご奉公に励まれています。もう一度原点に立ち戻って、あのとき、本当は死んでいたかもしれない命を助けていただいたじゃないか、と気付いてくれた。先日、彼はご信者さんの前で「僕はあのとき御法さまに生かされたんだ」と言ってくれた。本当に涙が出ました。

 どうか、私たちは、いま、生きています。それは生かされているということです。この貴重な命を無駄にすることなく、生きる、生きていく、生かしていくために、片時もその御恩を忘れず、お祖師さまとひとつになって、その大慈大悲の一分でもお返しできるように、人を生かす、人をも救う、佛立菩薩としてご信心、ご奉公させていただくことが大切と、お教えいただく御教歌でございます。

2010年12月21日火曜日

「怠薬」と「断薬」

 心の病について、佛立教務として書きたいと思います。

 私は、統合失調症やうつ病、自律神経失調症の方々へのご奉公を重ねさせていただき、この中で、たくさんのご利益を見て、本人同様に、私も感激し、本当に嬉しく、有難い体験をしてきました。

 ただ、この中で感じたことや体験的にお伝えしていることがあるので、「罪障」や「障礙」というご信心の用語や難しい理論を使わずに、少し書いておきたいと思います。

 特に、今回は、「怠薬」と「断薬」の危険性について書きます。

 こうした心の病気には、お医者さんで様々なお薬が出ます。この「お薬」を飲むということは病気の症状があるということで、出来るならば「お薬」を飲まないようにできれば一番です。お医者さまにも、「薬を出すのが仕事」と「薬を減らすのが仕事」という2つのタイプがおられます。というか、その一方ではなく、その両方を医療の目的とするのが本当のお医者さまです。

 特に、抗うつ剤や安定剤や眠剤は、とてもだるくなるお薬です。病気を持っておられる方でも、このお薬のもたらす作用と精神的な安心感に依存する方と、このお薬を忌み嫌う方に大きく分かれます。これは、どちらも正しくありません。

 ご信心では、精神的な病気に限りませんが、こうした強いお薬を、できる限り減らして、自分自身に与えられた免疫や大自然の理をもって生きてゆけるようになるのが目標です。御題目という薬と同列に医学的な薬を並べて考えたり、そうした比べ方をして御題目を軽んじたりすることは御利益の妨げです。しかし、「宗教と科学はあざなえる縄の如し」「信仰と医療はあざなえる縄の如し」と言うように、この両方を、丁寧に結んでご奉公させていただかなければなりません。極端から極端は、下手が名人の真似をするようなもので、結果的に現証の御利益も、ご弘通のご奉公も叶いません。
 いずれにしても、まず大事なのは、御題目のお薬をいただくこと。これが大前提で、すべての基本。「信じる」という心の機能を取り戻さないかぎり、心の闇からは抜け出せません。しかも、インチキな「モノ」や「人」を信じても仕方ない。あとで「裏切られた」となれば、さらに以前より心の状態は悪くなり、回復不能になります。だから、「人」でも「理屈」でもなく、「南無妙法蓮華経」という万法具足の御題目を信じることで、まず、心の病気と戦う最低限の準備が整うと考えます。

 その上で、お医者さまからいただいたお薬を飲み、それをお医者さまと相談しながら、症状を見て、しっかりと先生の言うことを聞いて、減らしていくことができれば道は開けてゆきます。そうした病院や先生と出会うことも、大切です。心の病は、身体の癌や重篤な病気と同じくらい、恐ろしい病気です。簡単に済ます、ということは出来ません。

 しかし、問題なのは、「心」に闇を抱えているということは、「疑い」に心が支配されている場合が多く、自分自身で正確に、客観的に判断する能力が、本人から奪われている場合が多いことです。つまり、そのお医者さまが、「いいのか」「悪いのか」を、客観的に判断することが出来ません。そして、多くの場合、自分自身で、「このお医者さんは駄目だ」「分かっていない」と決めてつけてしまいます。もちろん、先ほど書いたように、本当に強い薬を出すだけのお医者さまもいて、違う病院を探した方がいいこともあります。しかし、この病気の場合、本人だけで決められるものではないのです。こうして、次から次へと、「信じられる先生に出会えない」と言い続けて、病院を巡っている方が多くいます。

 お医者さまも、まず、信頼関係を作る努力をされており、その苦心は窺えます。きついことを言わず、理解を深めようと努力してくださいます。しかし、圧倒的に患者さんが多く、本人が転院したり、違う病院に行き始めれば、それ以上は何もできません。こんな風に、悪循環が続いてしまいます。だからこそ、ここで、ご家族や、私たちのようなお寺の住職や教務が寄り添って、ご奉公させていただくことになるのです。

 ご奉公していて一番こわいことに、薬をのむのをサボってしまう「怠薬」と、何らかの理由をつけて意図的に服薬を中止する「断薬」があります。どちらもよくないこと、いけないことで、抗うつ剤等は、自分勝手に止めたり出来るような簡単な薬ではないのです。飲み始めて、数日であれば何とかなりますが、何ヶ月、何年間も飲んでいるなら、なおさら、絶対に途中で、勝手に止めてはいけません。先生の指導を受けながら調整しないと、「薬を減らす」「健康になる」どころか、元に戻ってしまいます。

 一生懸命に治療してある程度まで来ると、多くの人は「よくなったから薬を止めてみたい」と考えます。たしかに、薬が強いですから、飲んだら身体がだるくなるのです。本人が一番知っています。そして、その薬を止めたらシャキッとする。だから勝手に止めてしまう。そして、バラバラ、ドタドタ、ドカン、と来て、元に戻ってしまう。これが「怠薬」や「断薬」の怖さです。

 そういうことを、何度も何度も見てきました。もちろん、お看経とご信心があれば、いつか薬も止められる。でも、薬が止められるほど、固くて、強いご信心を持てたかどうか、教務も本当にチェックしなければならないのです。先ほど書いたように、下手が名人の真似をしてケガをしたら大変です。私は、こうしたご奉公の中で寄り添いながら、本当に、こうした状態から、完全に良くなっていく方々を見てきました。御題目があって、しっかり指導をいただけば、必ずよくなります。勝手にしていたら駄目。

 お助行は、御題目の「怠薬」や「断薬」が起きないようにする最高のご奉公です。こうしたご病気の方に限らず、末法の私たちは全員が病気を抱えているようなもので、御題目の「怠薬」や「断薬」を常に起こしています。お看経も、なかなか一人ではできません。言うまでもなく、お看経は心のお薬です。しかし、やはり、みんな薬は好きじゃない。一人では出来ない。一人ではしない。

 それを、自分の家までお講師やご信者さんが来てくださり、横に座ってお薬を飲ませてくださる。こんなに有難いことはありません。

 御題目やお助行も、病気のお薬も、自分勝手な「怠薬」や「断薬」は、本当によくありません。三毒の病気も、不安も、薬が切れて出てくる、元に戻る。だから、自分で決めて止めてはいけません。飲みにくいかもしれないけど飲んでくださいね、一人で飲めないなら、隣に行って飲めるようにしてあげます。それがお助行。

 そうして、いつか、御題目は「心の薬」「心のサプリメント」だから飲み続けるとしても、副作用の強い科学薬は止められる日が来る。こうした科学薬を止めても、心豊かに、心晴れやかに、生きてる日が来ます。

 そこを目指して、ご奉公させていただきます。それが佛立信心、仏教のメソッドです。

 ここに、仏教があります。

2010年12月1日水曜日

班長さんへの手紙 平成22年12月

ありがとうございます。

今年も師走となりました。一年間を振り返り、きちんと締め括りを致しましょう。妙深寺の十二月は「心の大掃除」の月です。

開導聖人は御指南に、
「懺悔は悪魔退散の祈祷也。
懺悔する心の内のすゝはきに 悪魔のほこりたゝき出されぬ。
悪魔とは病・貧・死の三神也」
とお示しです。「疫病神」「貧乏神」「死神」は三兄弟。油断すると家に入り込んできます。反省と改良を決意した「お懺悔」こそ、この三兄弟を近づけない秘訣であり、幸せの秘訣、災難除滅の秘訣です。どうか、身も心も軽くして、次の一歩が踏み出せるよう、しっかりと一年を締め括りましょう。

御教歌
「怠りの魔軍を責て弘むべし まけてはならぬ祖師の御味方」

人生は、自転車のようなもの。自転車は停まっていると一番バランスが悪いものです。少しでも前に進んで、ゆっくりでも走り出せば、バランスは保てるようになります。私たちも、頭で考えている間は駄目です。止まっていては駄目です。少しでも動くこと、動き出すことが大事なのです。

善いことをさけまいとするエネルギーがあります。功徳を積むことよりも罪障を積むことの方が凡夫には気持ちいいものですし、快楽ですらあります。

何度も申しますが、「人のせい」にするのは、真実の仏教を知らない人のすることです。自分の「謗法」が動けなくしている、自分の中の「罪障」がご奉公をさせません。それが罪障の本体なのです。
凡夫は、自分以外の、周りの人や状況に邪魔されてご奉公が出来ないと言います。末法ではご奉公が出来ない理由はいくらでも見つかります。

しかし、そこに「魔」があり「罪障」がある。結局、周りのせいにして素直正直なご信心やご奉公から離れてしまった人は、疫病神や貧乏神、死神にも取り憑かれて、苦労ばかりしています。負け惜しみや痩せ我慢をしていても、無理に無理を重ねているのが見えます。素直に懺悔改良すればいいのです。しかし、それでも出来ないのが、恐ろしくも哀れなところです。

動けなくするのは自分の心です。自分の中の罪障が、お看経やお参詣、御法門聴聞やご奉公をさせなくしています。自分の心の中に「怠り」が生まれる。これを「怠りの魔軍」とお示しです。これに負けたら、ご奉公しません。喜んでご奉公出来ません。善なる力は、もうピタッと止まってしまう。だから、人生のバランスが悪くなるのです。人生は自転車です。少しでも前に、前向きに、歩みを進めなければならないのです。

先日、法深寺の高祖会で聴聞させていただいた御法門は、こうした反省を促していただきました。

「小人閑居して不善を為す。」(大学)

「小人(しょうじん)」とは「徳のない人」「器量が小さい人」「思慮分別の足りない子ども」を指しています。誰もそんな人間にはなりたくありませんが、結果「小人」になってしまっていると気づくもの。ですから、その「小人(しょうじん)」が「暇(閑)」になってどうする、と。「つまらない人間が暇でいたら、ろくなことをしない」という意味を教えた言葉。忙しさに暇を求める私たちの心に、別の角度から光を当ててくださいます。

ご信心は、罪障消滅と積功累徳の道ですから、決して離れてはいけません。ご奉公を外れて時間が出来ても、三毒強盛の凡夫にとってはろくなことがないということです。

「小人(しょうじん)窮(きゅう)すれば斯(ここ)に濫(らん)す」(論語)

「徳のない品性の欠けた者は、困窮すると自暴自棄になって悪いことをしてしまう」

こうなってはいけません。「小人(しょうじん)」という言葉の逆側に「大人(たいじん)」という言葉があります。読んで字の如く「おとな」です。大人は子どものように駄々をこねることもなく、自分の気分次第で動くことはありません。相手を思いやり、物事の因果を弁える人のことです。こうした方は、周りに配慮しながら、善行であるご奉公を続けてゆきます。

「敵は○○にあり!」ではなく「敵は自分の心の中にあり!」です。怠りの心に負けない、負けてはならない、と決意して、幸せの道を外れずに生きてゆきましょう。

負けるわけにはいきません。祖師の御味方は「大人」のあなたですから。

2010年10月5日火曜日

『喜びを忘れていないか』

 良いことがあるから喜ぶのではありません。何かをもらった時にだけ御礼するのではありません。私たち佛立信徒が交わす挨拶。
「ありがとうございます」
 良いことがあっても、悪いことがあっても、この言葉から離れてはいけないと教えていただきます。
 本物のご信心を持っているか、あるいはそうではないかは、実はその人の顔を見れば分かるのです。特に、御法門を聴聞する時のお顔、ご奉公の話をしている時の表情や態度を見ていれば、その人の信心が分かります。
開導聖人の御教歌。
「よろこんで聞かぬ位のこゝろにて 何の願ひのかなふものかは」
 佛立信心の判定基準は「喜び」です。誰の人生も悩みはあります。そこで元気を失い、覇気も無くし、ブスッとしてる、下を向いているというのでは仏教徒と言えません。そんな時こそ思い出してください。
 天台大師の偉大な後継者の一人、妙楽大師の御指南には、
「障り未だ除かざる者を怨と為し、聞く事を喜ばざる者を嫉と名づく」
と「怨嫉」の本質をお示しになられています。つまり、外から来るものだけを「怨嫉」というのではなく、聞くことを喜べない自分の心の内側に「怨嫉」の正体がある、と教えていただくのです。

「自ラ喜ビ難キ。コレ罪障ナリ」
「喜んで聞かざるは仇」

と開導聖人はお示しです。喜びが無いということは仏道修行をしている仲間のようで、実は反対側にいる「敵」のようなものだと仰せです。喜んで聞けなくなったのは、自分の蒔いた悪い種が芽を出して、邪魔をしている。それがあなたの罪障の正体、それが怨嫉なのです。

 罪障に負ける訳にはいきません。魔や慢心が前面に出てしまっては罪障に負けていることになります。注意しなければなりません。

 喜びの中でご信心することこそ、最大の修行です。自発的な喜びを持つのは至難の業で極めて難しいものです。自分自身の内側にある罪障が相手なのですから、簡単なはずがありません。

 最初の頃は機嫌良くしていても、少し慣れてくると心は変わります。凡夫にとって感謝や感激は長続きしません。周囲から優しい言葉をかけられたりしている間は喜んですることもできるのですが、都合の悪い事が起ころうものなら即座に逆のエネルギーが働き出します。ご信心では、さらに強く反作用が働きます。これが罪障なのです。

 残念ながら、末法ではそうした場面に頻繁に遭遇します。いくら正当性を主張していても、随喜を失った人は罪障に呑まれています。善悪正邪の壁を越えて、「喜び」が基準なのです。喜びを失った者は、瞋恚や愚癡に食べられてしまった者ということになってしまいます。

 末法は、困難なことの方が多いものです。「難甚だし」とあります。私たちの人生も、困難が多いのはよくお分かりになると思います。

 ですから、その困難な時こそが、ご信心の本領発揮の時、ご信心の強さや弱さが見える時なのです。苦悩しながらも、ご信心があれば喜びや感謝を失わず、そこに立ち返ることが出来ます。ここで本物と偽物、御利益の有無が見えます。

 喜びのあるご信心、喜んで御法さまの教えをお聞きするご信心が、ご祈願を成就し、困難や苦難をも一大御利益へと変える力を持っています。どんな時でも喜びを捨てないことが大切で、苦しいから、悔しいからといって、大切なものを失ってはいけません。

 自分の命と向き合っている奈々ちゃんや晃子さん、芽衣ちゃん。本人やそのご家族は、厳しい現実に直面してもなお、感謝や喜びの言葉を口にされています。そこに御仏の本当の教えや御法さまの光が見えます。眩しいほどです。

 泣いていても一日。しかめっ面をしていても一日。笑顔でも一日。喜んで、感謝して過ごしても人生の貴重な一日であることに変わりはありません。そうであるならば、御題目をいただいている私たちは、感謝して、喜んで、ご奉公します。

 不幸が続き、不運に陥ったなら、嘆きたくもなります。それが普通、正常です。しかし、いま目の前に出てきた事象の原因は過去にあり、結果を嘆くだけでは意味がない。ただし、分かっていても出来ない。それも分かる。しかし、私たちは、「結果」ではなく「原因」を見る。

 過去は変えられませんが未来は変えられます。苦境にあっても、未来のために、笑顔で、喜んで、幸せの種まきに努める。まさに、前に進むしかありません。しかし、前に進めば、必ず未来は変わるのです。

 法華経で説かれた菩薩像とは、「泥まみれの菩薩」「唱える菩薩」「笑顔の、喜びの菩薩」でした。一般的には、美しい衣服をまとい、沈思黙考する穏やかな菩薩を思い浮かべるかもしれませんが、そうではありません。

 本化の菩薩方とは、末法の娑婆世界を自ら選んでお出ましになり、気難しい人間たちが織りなすドロドロの渦の中に飛び込んでご奉公される方々です。泥中を厭わないから汚れ役も買って出られます。

 さらに、本化の菩薩方は、常に黙しているよりも、声なき悲鳴に耳を傾けながら、こちらから声を発してゆかれます。あちらの反応を待っている方々ではありません。

 唱え導く方々。声を発する菩薩たち。それが私たちが目標とする本化の菩薩の生き方、ご奉公です。

 そして、本門佛立宗の菩薩とは、笑顔の菩薩、喜びの菩薩なのです。どれほど賢くても、正論を説いていても、顔をしかめていたならば、それは佛立菩薩ではありません。現在の幸不幸に左右されず、全てを必然と受け止めて、感謝を忘れない人、喜びを忘れない人が佛立菩薩です。
開導聖人の御指南に、
「この障りを除きて、喜んで説き、喜んで聞き、喜んで口唱読誦する者、喜んで法筵を設け、喜んで供養し、喜んで人を誘引して参詣し、喜んで供養を受けする者、法華経の持者、弟子檀那の菩薩なり」
とお示しです。信行ご奉公の前に、全て「喜んで」と置かれています。つまり、喜びの有無こそが何より大事な分岐点なのです。ご奉公をしていても喜んで出来ていないのであれば何らかの改良が必要です。
 まず、住職や教務を見て下さい。苦労や困難の中でも喜びを忘れずご奉公に励みます。菩薩の誓いを立てた一人一人が、率先垂範して苦労の中でも喜びの心を忘れない本化の菩薩を目指しましょう。
 喜んでするから幸せになれます。いま、喜びを忘れていませんか。

2010年9月3日金曜日

妙深寺報 平成22年9月号

妙深寺報、平成22年9月号。

フルカラーになって3ヶ月。今月の内容は年に一度の特別御講と得度式。なんとか、この記事でまとめてゆきました。

夏期参詣で語られた家族の信行体験談は10月号となります。とにかく、特別御講の御法門とそこでお話しいただいた現証の御利益が有難いです。是非、お読みいただきたい。

また、7月と8月は教養会の月。子どもたちをサポートする月、子どもたちが主役の月。この機会に、子どもたちと自然、子どもたちとお寺、家族と子どもたちとご信心を考える月ですから、そうした記事が並びます。

ボーイスカウトの日本ジャンボリーやガールスカウトの団キャンプ感想文や薫化会のファミリーキャンプまで、子どもたちの声が満載。

そして、今月号の何よりの目玉は、得度式。その模様や鈴江御導師のご訓辞、福岡御導師からのご挨拶、様々な方から寄せられたお祝いの言葉。本当に、素晴らしい得度式だったことを参列できなかった方にお伝えすることはもちろんですが、これは今回の素晴らしい出来事を後世に伝えるものになりそうです。

そして、何度も書かせていただいておりますが、今月12日は一万遍口唱会。妙深寺の弘通部門広報部は、進化に進化を重ねて、どこまで行くか分からない。もう、全員がプロ級です。
いや、そういうスキルの問題ではなくて、やはり「志」「ご信心」の思いが強い。伝えたいことがある、何とか伝わるように、と、ビジネスではなく、ご信心で考えてくださってるのです。
お忙しい中、みなさんにご奉公いただいて、本当に有難いです。
今月も、寺報を読んでエネルギーを充電して、みんなで功徳の積める生き方、幸せに至る道を、しっかりと歩んでいければと思います。
何度か書いてきているように、凡夫というのは、それとは逆の生き方の方が性に合ってる、気持ちがいい、というものです。功徳を積むより放出する方、将来苦しむことになっても今が気持ちよければいいと思ってしまう。
寺報も、まず読む気が起きなかったり、パラパラめくって読んでいるようで読んでいないのは勿体ない。「喜ばざるは罪障なり」です。喜べないのは、すでに「罪障」で、罪が障っている、ということです。負けないで、エネルギーを充電しましょうね。
一人でも多くの方を、清く、潤したいと思います。

2010年8月11日水曜日

どこに行っても、どこにいても

 名残惜しい。さみしい。
 長い日程のご奉公でした。朝から夜中まで、毎日一緒にご奉公させていただきました。妙深寺では、あり得ない。妙深寺でも、御講師方がこうしたご奉公をしてくれていると思いますが、とにかく教講がもっと一緒の時間を過ごさなければ心が通じることはありません。
 4泊5日の教務養成所は、本当に特別な機会、特別なご奉公でした。加行者もそうだと思いますが、私もクタクタになりました。ただ、気持ちのいい疲れです。なぜか。生まれたての菩薩たちの旅立ちのように思うからです。
 終わってしまうと、別れは、だからこそ、さみしいです。でも、ここに参集した全員が、これから全国、全世界、どこに行っても、真実の佛立菩薩として活躍されることは間違いない。それを信じています。信じているから、疲れも、心痛も、癒えます。
 最終日は「海外弘通について」というテーマで講義もさせていただきました。少しでも、海外弘通の現状を知っていただき、それを自分とは関係ない、遠くの話にせず、国内弘通のエネルギーにしてもらいたい。「think globally, act locally」。
 これほどの期間を一緒に過ごした加行者同士、全員が、これからもお互いを高め合って、それぞれの人生に悔いなく、力強く、明るく過ごしてゆけるようにして欲しい。どこに行っても、どこにいても、年齢が離れていても、忘れずにいてほしいと思います。
 ただ、真っ直ぐに歩むことは難しいです。一人一人は、とても弱い。日常に流され、いろいろなものに縛られ、身動きが取れなくなることがあります。本音と建て前を使い分けて、貴重な自分の人生を、また自分ではない自分が生きていくような、悪循環の生活サイクルに入ってしまうことがあります。
 そうならないように、Keep in touch。どこに行っても、どこにいても、ここで得たご信心を離さず、ここでした修行に誇りを持って、頑張ってほしいです。
 ガンバロウ。

 と、言いながら、もう次の会議に出ています。弘通局の皆さま、本当にすごいタフです。

 ありがとうございます。

2010年8月3日火曜日

慰問演奏

 書きたいことがあるのに書けないのは歯がゆいです。
 まず、書きたいことというのは、妙深寺の近くにある特別養護施設・羽沢の家に妙深寺のコーラス部と長野教区の篠原さんが慰問演奏に行ってくださったこと。なかなか、今の妙深寺は、お寺としての福祉活動が出来ていません。しかし、こうして、各教養部が協力して、自発的な活動をしてくださっています。ありがたいことです。
 篠原さんは、マウスオルガンの演奏をしてくださいました。篠原さんは、これまでもお年を召した方や身体に障害を抱えておられる方への演奏活動をしてこられました。特に、篠原さんは「何かをしてあげる」ということではなく、こちらから「学ばせていただく」という姿勢で一貫しておられます。いつも、こちらが勉強させていただいています。
 介護を受けなければならない人に演奏を聴いていただくのと同時に、介護をしているご家族への心と心の交流をしておられる。なかなか、佛立教務でも、佛立信徒でも、できることではありません。

 私たちは、一人ご病気の人が家にいたら、家族全員が同じ病気だと思ってご奉公しなさい、と教えられるのです。自他彼此の心なく、自分や他人という境界線を低くしてするのがご奉公だと教えていただきますが、それが実践できている人は少ないものです。でも、これは難しいことです。
 ほとんどの人が、境界線を引いて壁を高くしておかないと自分が守れないと思っている人ばかりです。
 自他彼此の心をなくして、向き合うこと。本当に、難しいことなのです。それを、篠原さんはしてこられたし、こういう慰問を通じて学ばせていただくことが出来ます。
 先日来、100才を越える方がどこにいるか分からないなどと報道されています。情けない話です。年金を不正受給していた問題は明らかな犯罪ですから司法にお任せしますが、親の消息が分からないと堂々と公言する子どもやコメントを避ける報道番組に違和感を感じます。親子です。「知らない」で済むことではありません。言語道断の事態。たとえば篠原さんのご両親を想う気持ちに比してこの当事者を考えると、その気持ちに天地雲泥の差があり、胸が締め付けられるような気持ちになります。「恩」や「愛」について。
 ご高齢の方の人権にも関係しますから不用意な発言は出来ませんが、110才前後の方が自分で引っ越しをしていくなどとは、明らかに考えにくいです。芸能人の事件や「長野サリン」事件などは、いらぬ詮索を繰り返してきたのに、これほど重要な事件に対してなぜか「のんびり」しているように感じます。

 年金受給者への管理を担当する方々が記者会見をしておられましたが、申し訳ない言い方を率直にすれば、その発言内容、態度、緊張感、危機感を含めて、いかにも無能そうに見えました。彼らは、社会を健全に保つことに情熱を感じているでしょうか。

 「一人信心でよしと思ふは、給銀メ当の実意なき臣下と云もの也。かやうの人々なれば不忠もの也。法に取りては大謗法となりて、仏祖の冥加にはずれたる人とならん事、疑ひなし。慎み給ふべし」隆師年譜(下)

 全国で同じ案件がないかチェックすると同時に、その背後にある一人ひとりの心の問題、社会問題を発見し、何とかしてゆかなければらないと思います。

2010年7月31日土曜日

7月の締めくくり

 今日は7月の最終日。

 本当に、いろいろなことがあった、いろいろな現象を体験し、現証の御利益を感得した1ヶ月でした。

 7月の1日は、昔から「障礙憑き」と呼ばれてご奉公されてきた壮絶なお助行で幕が開けました。厳しくも現証あらたかな今月のご奉公の前途を予感しつつ、教務会も途中で切り上げて、それぞれのご奉公、お助行に走り出しました。

 その7月が今日で終わります。明日から、8月。

 障礙憑きと考えられるお助行も、壮絶な夜通しのお助行によって2日には加行者全員が体験したこともないような現証の御利益を見せていただきました。

 教務部全員、教務の家内、家族、青年会、弘通部の方々が夜を徹したお助行に参加してくださっていたのですから、このご奉公そのものが尊い御法さまからの課題、御利益だったのだと思います。全員が、御法さまのすごさ、御題目の御力、お助行の大切さを感得したと思います。

とはいえ、「悪魔ー、天使ー、魔王ー!」と叫び、「ナガマツー!!」と私の名を叫んで暴れ回る、叫び回る、飛び回る姿を思い返すと、御利益をいただけるという確信も、お助行中はなかったように思います。ただただ、必死でした。翌日の夕方、隣で泣きながら御礼を言う本人を見て、私も泣きました。
 佛立信心は、凡慮の及ばざる現証の御利益が現れる、だからこそ、「できるか」「できないか」ではなく、「するか」「しないか」になると思うのです。私ですら、お助行中は「大丈夫だろうか」という迷いも生まれます。だからこそ、「お縋りするしかない」と素直に御法さまの前で初心に返れるのです。
 開導会の彩雲。これは、永遠に忘れられません。もちろん、気象現象としては珍しくないのかもしれませんが、この日、このタイミングというのは間違いなく御法さまからのサインです。疑義を抱く余地もない。小賢しい人は人間の大切な感性を失っているから分からない。
 御法さまからのご褒美。真っ直ぐな、まごころに、天は反応してくださいます。余念なく、一心にご祈願やご奉公をされている方だけが見る特別な世界があります。特別な現象(現証の御利益)があります。まさに、この彩雲もまた、妙深寺の全員が見せていただき、感得することができました。有難いことです。

 だから、どうしたらいいでしょう。私は、この彩雲は、私たちのご信心を喚起してくださるものだと思います。如何なる困難にも負けてはならぬ、くじけるな、というサインだと信じています。喜んでいるばかりではダメで、これで浮かれているのは佛立信心ではないはず。

 お祖師さまの「瑞相御書」という御妙判には、

「夫天変は衆人をおどろかし、地夭は諸人を動す。佛、法華経を説かんとし給う時、五瑞六瑞を現じ給ふ。(乃至)人の悦多多なれば天に吉瑞を現し、地に帝釈の動あり。人の悪心盛なれば天に凶変、地に凶夭出来す。瞋恚の大小に随て天変の大小あり。」
とあり、そのようにお諭しになられた上で、やはり、末法は善き瑞相よりも悪い心による悪しき瑞相が多く、それを察知して菩薩行に精進するのが真のご奉公であるとお示しになられています。
 御法さまは、近くにいてくださる。それを、あらためて、はっきりと教えていただいた、気づかせていただいた。お助行や、開導会のご奉公、こうした彩雲によって。
 しかし、だからこそ、その果報に甘えるのではなく、自分の罪障や悪い業、末法悪世のご弘通に立ち向かわなければなりません。それが、この「サイン」の意味、ここが「正念場」、ここからが「本番」と教えていただいているように思います。
 「売り家と唐様で書く三代目」という川柳。言い得て妙です。
 財を築いた初代のご苦労も知らないで、勝手なことばかりしている三代目。財産を全て食いつぶして家を売りに出す。その札の文字は当時流行の唐様で書いてある、と。これは、本当にやらなければならないことをせず、それを疎かにして遊芸に溺れていた、余計なことばかり考えて、していた、ということを皮肉っぽく詠んでいます。
 私も、この川柳を胸に銘記してご奉公に当たらなければなりません。子どもたちにも、このことだけを教えておきたいです。雑学ではなく要学。実験と体験のご信心が佛立であること。頭で考え、机上の空論で悦に入らず、ご奉公の実践を重ねてゆくこと。
 とにかく、こうした7月の現証を忘れずに、佛立信心を初心の原点に立ち返らせて、自己流を廃して、決して慢心しないように、自屈、上慢、二乗心に注意して、負けん気と根気と慈悲で、精進してゆくように。
 夏期参詣は、8月13日まで続きます。明日、8月1日は、「虹の日」です。妙深寺は、「虹」「虹」と言ってきたから「彩雲」が出たのかな(笑)?一人でも多くお参詣ください。

2010年6月6日日曜日

102歳の御講願主

 今日の御講、お席主は星野鈴江さん、102歳。今年、103歳になります。元気、元気、ありがたーい。

 連日の教務御講は、昨日の土曜日、午前中の御講が43名、午後の御席が41名、今日の星野さんの御講はジャスト50名のお参詣でした。

 大都会の横浜で、週末の住宅街にお拍子木の音が鳴り響きます。本当に、ありがたい。「近所迷惑」とは言わないで。菩薩が集い、必ずご近所の方にも功徳が巡ります。「龍馬伝」や「三丁目の夕日」で自然に流れていた拍子木の音を思い出して。心を健康にするお薬です。「良薬口に苦し」で、「うるさい」と思うのを越えていただけば、お薬をいただけます、心身が健康になる。

 星野さんは、東京の乗泉寺から横浜の妙深寺でご奉公をしてこられて、もう生粋、筋金入りの佛立信者さんです。先住がご遷化になられた10年前ですら93歳だったわけですから、すごい(汗)。
 今日の星野さん。元気でしたぁ。元気すぎて、思わずキスしてるみたいになっちゃった(笑)。
 僕が赤ちゃんの頃からのご信者さんです。もう、星野さんにとったら、執事長の正教師も「若い御講師」という感じですから、僕などはいつまで経っても子どものようなもの。
 でも、いつも、心から敬ってくださり、気遣ってくださり、自分の方が体調が悪いというのに、「気をつけてよ。風邪、引いちゃいけませんよ。大事にしてくださいよ」と言ってくださいます。
 今日、御講の御法門、ご供養の中での楽しいお話が終わって、最後の最後に星野さんのところに行って、ご挨拶。
 ご挨拶というか、目が少し悪いので顔を近づけなければならないから、顔を近づけたら、そのまま抱き合ってしまって、お参詣者50名の前でものすごい抱擁になってしまいました(汗)。さらに、ほぼキスした状態でお話して、「いい、住職。無理しちゃいけないよ。身体を壊しちゃ元も子もないんだからね。休んでくださいよ」と。
 ありがとうございます。この写真、宝物にします。ありがとう、星野さん。さらに、頑張れます。

2010年5月1日土曜日

『お知らせとお叱り』

 真実の仏教だからこそ、生きておられる御仏、お祖師さま、普遍にして不変の御法さまだからこそ、この信仰を始めた直後から様々なサインが現れてくる。

 見るもの、聞くもの、出会う人、電話やメールが来るタイミング。目の前で起こるすべての出来事は、偶然ではなく必然であると気づく。最近世間にはそう「思い込ませる」手法が溢れてきたが、真実の仏教では、事実この宇宙が御法を中心とした法則に則って動いていると「知る」「気づく」ことができる。

 有難いことだ。この「御法」にお出値いした者が手にする功徳や御力を思えば、打ち震えるほどに有難いと思う。ダメなものがダメではなくなる。最大の不幸も最高の幸せに変わる。この上行所伝の御題目をお唱えすることによって、その人は確実に「現証の御利益」をいただく。「願う所、虚しからず」「妙とは蘇生の義なり」等云々。

 しかし、私たちの信仰は狐狸の類に油揚げをあげて「現世利益」を求めるのとは訳が違う。決してこの点を勘違いしてはいけない。

 「現証の御利益」とは「現世利益」ではない。自分に都合のいいことを「現世利益」と言うなら「現証の御利益」はそれのみを指さない。

 生きている御法さまだからこそ、欲深い私たちにとって都合のいい「サイン」のみが御利益ではない。

 人間は、喉もと数十センチの欲のために身体全体の健康を害する。その愚かさを医師は教えてくれる。同じように、凡夫の願うところや考えと、人生の幸せとは相反することが多い。つまり、凡夫の願いを叶えてくださる御法は、同時にその愚かさも教えてくださるのだ。

 本当の「現証の御利益」とは、幸せの道から外れないように、時には励ましのご褒美をくださり、時に軌道修正を促してくださるものだ。

 生きた御法さまからのサイン。嬉しいサインもあれば、厳しくて受け入れがたいサインもある。

 「御罰」というとアレルギー反応を起こしてしまうだろうか。いや、それこそが間違いである。御利益は欲しい、しかし、御罰はコワイ、いらない。心情は理解できるが、それは間違い、勘違いである。

 「御利益速かなる故に、御罰も又必ず来る。御罰来らざれば御利益も有べからず」

 御利益と御罰は表裏一体なのだ。単に忌み嫌うのが御罰ではない。西欧の「神罰」と混同せず、真実の仏教が説く御慈悲に溢れた「御罰」の意味を知っていただきたい。

御教歌「罰といふ御折伏のなかりせば われらに信は起らざらまし」

御指南「御罰即御利益也。御罰の当らぬは真の御罰也」

 考えて欲しい。あなたは、この「御罰」「お知らせ」「お叱り」を、今、いただけているだろうか。

 実は、末法では御利益よりも、御罰やお叱りの有無が、御本意に叶い、御法さまに通じたご信心かどうかのバロメーターになる。

 「なんであんなにイヤな人なのに、幸せなのかしら」

 「真面目に信心してる私には苦労があって、信心してない人の方が幸せそうよ。なんで?」

 こんな風に思ったことはない?私だけかな(笑)。いや、七百年前のお祖師さま(日蓮聖人)も、開導聖人も、同じ設問を設けて、この疑問にお答えくださっている。

 開導聖人の御指南。
 「信者にて懈怠謗法して罰のあたらざるはいかん。答曰。手習子に習はせ置て、いまだ直しに及ばぬ間のごとし。されば家来にも弟子にも呵らるるは見処あるが如し」

 第一には、まだ指導するに至らない、準備段階という御意。第二の理由はその人の素質の問題。叱って伸びるか。言って分かるか。あるいは、言っても分からない相手か。

 末法有縁の大導師、お祖師さまは、さらに核心を諭されている。

 「一闡提の人になりぬれば、順次生に必ず無間地獄に堕つべき故に現罰なし」(開目抄)

 厳しすぎて二の句もない。御罰がバロメーターとなる最大の理由である。

 同じく開導聖人の御指南。
 「賞罰の目に見えぬ人あり。如何。順次生に堕獄の人、今生にとがめなし」

 世界は一見すると一昔前よりも豊かになり、人も賢くなったように思う。しかし、末法は恐ろしい悪業を背負った者の生まれる時代。嘘を重ねて周囲を苦しめ、自分も傷つき、改良せず、命を浪費する。それが、仏法に最も縁遠い末法の人々、「一闡提」という。彼らはその罪障の深さから臨終して間もなく恐ろしい境涯に堕ちることが決まっている。逃れようもない。だから、悪業を放置する人には、軌道修正の為の「サイン」もない。

 何も起こらない状態。何となく過ごせている。穏やかな日々かもしれない。普通はこれが一番いい。しかし、そこに落とし穴はないか。アリとキリギリスの寓話のように、今の幸せは不幸を先送りしているだけで、その先には大きな不幸が待っているとしたら落ち着いてはいられないはずだ。

 「御罰の当らぬは真の御罰也」

 何もないのは、一闡提の罪障や謗法の業からで、実は御法さまに見放されているのかもしれない。御利益は欲しい、御罰はいらない、ではなく、御法さまが「見所」があると見込み、軌道修正を促してくださる「お知らせ」や「お叱り」を喜ぶ。この「サイン」があれば恐ろしい境涯に陥ることはない。その逆は最も恐ろしいことになる。

 永遠の寿命を持つ御仏が、なぜ御入滅されたか。如来寿量品にはその理由が説かれている。

「常に我を見るを以ての故に而も 恣の心を生じ放逸にして五欲に著し悪道の中に堕ちなん」

 常に私がいると思えば堕落する。故に、恋慕渇仰の心を起こさせ、仏道精進をさせるため、「近しと雖も而も見ざらしむ」。そしてお姿を隠された。

 しかし、今の私たちは、御本尊を通じて「常に我を見る」果報をいただいている。信徒であれば家に御宝前があり、御本尊を拝見しようと思えば拝見することが出来る。残念ながら、そうして安心し、油断してしまうのだ。これが落とし穴になる。「放逸にして五欲に著し」てゆく。その時、生きてまします御仏はお隠れになる。見放されてしまう。御罰もいただけなくなる。

 「信徒の中にも治し難き病あり、病名を古法華と云」(名字得分抄)

 十代、二十代でも古法華になる。何十年、何代目といえば、なおさらだ。本音と建て前を使い分け、謙虚さを失って侮る。自屈、上慢、二乗心。ある時は敬い、ある時は尻に敷く。縁故と情実のみで判断し、動いてしまう。「古法華利益なし」と言うが、御利益が無くなるなくなるのはもちろんだが、それ以上に、改良のきっかけである「御罰」すら与えてくださらないことの恐ろしさを感じなければならない。

 末法悪世、苦しむ人が溢れている中、幸せだ、晴天だと喜んでいても、それは御法さまが呑気な奴らだと見放してしまったからかもしれない。そのセンス、その感性を失うな。それが信心。「お叱り」がいただけなくなれば終わり。改良の機会を見逃すな。

 「天の為せる災は逃るべし。自ら為せる禍は逃れ難し」

2010年4月12日月曜日

カー、たすけて

 また、小さな命が、近親者によって奪われた。止まることなく続く恐ろしい事件を見聞きしていて、何をしなければならないか頭を抱える。ご奉公の不成就を思い、自分のせいのような気持ちにもなる。そう、子どもたちを守るためにも、正しい信心を一人でも多くの人に届けねば。
 人間のことだ。菩薩にも、鬼にもなるのが人間。わが心を鏡に映す。その術を知らなければ、愛する子を傷つけたり、幼い子どもを感情のはけ口にするような事件は起き続けていく。

 最近の事件で、小さな子どもの身体に100ヶ所以上暴行した痕が見つかったと聞いて、身の毛がよだった。事件として発覚した今、世間の目がその家族にそそがれているが、今も、この社会のどこか、どこかの家の片隅で、泣いている子どもがいると思うと何ともやるせない。地獄だ。
 以前書いた文章を、また読み返していた。だから、また、再掲してみる。
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 ずっと忘れられず、頭にこびり付いた言葉。山形県で起きた5才の 加藤 翔(しょう)くん殺害・死体遺棄(いき)事件で、翔くんがこの世に残した最後の言葉が「カー(おかあさん)、たすけて」でした。

 韓国の人気ドラマ「冬のソナタ」や小説「世界の中心で愛をさけぶ」などの純愛ストーリーが大ヒットとなる中、人間生活の原点である家族や家庭内の問題は深まる一方です。この矛盾(むじゅん)は何なのでしょう。わが子を愛せない母親や接し方に悩む親。心の通わない関係が夫婦から親子にまで広がっています。特に、幼児虐待という最も恐ろしい事件には顔を背けたくなります。

 秋田県内に住んでいたお母さんと翔くん。周囲から見ると、母子家庭ではあっても、幼稚園の送り迎えも欠かさない、とても暖かい親子だったそうです。ところが、ある時、母親が出会い系サイトで、一人の男性と知り合いました。

 若いお母さんです。寂しさからなのか、すぐに関係は深くなり、一緒に住むことにもなりました。平成15年5月のことです。相手の男性にも子供がいる、自分にも子供がいる。新しい生活は4人でスタートすることになりました。

 先天性の腎臓(じんぞう)病を患(わずら)う翔くんは、尿を漏(も)らしてしまいます。それが気に入らない29才の板垣直樹という男は、厳しく翔くんを叱るようになります。最初はわが子が叩かれたり、殴られたりする姿を見て、母性のある母親ですから、「あぁ」と思い、可哀相(かわいそう)だと思う。ところが、「何でお前は叱らないんだ」と男が激怒するようになる。逆に、翔くんをきつく叱ると誉めてくれる。いつしか、母親としての正常な気持ちは消え、翔くんをきつく叱ることで男が優しくなることから、感覚はマヒしてくる。母性を喪失した彼女は、翔くんを「恋愛の邪魔」と考えはじめた。

 最初は、きつく叩く。そのうちに罰として食事を減らす。食事を水だけにする。強く殴る。何度も殴る。バルコニーに立たせておく。数時間が、1日、2日と増えて、後に3日間バルコニーに放置したこともあった、と。

 パイプ椅子で殴り、アゴの骨を折った翔くん。最後の日は、男と二人で風呂場に連れて行き、やせ細った翔くんに熱湯をかけ、ハサミで皮膚を切り取り、衰弱死(すいじゃくし)させました。

 その翔くんの最期の言葉が、「カー、たすけて」という言葉であったというのです。私は、その言葉を聞いて、涙が出て涙が出て仕方がありませんでした。食事も与えず、恐ろしい顔で自分を殴り、熱湯を浴びせかけて、皮膚を切り取るような母親に、「カー、助けて」「お母さん、助けて」と言いながら死んでいった翔くん。何ということでしょうか。その気持ちを考えると涙が止まりません。

 その後、母親は男に指示された場所に遺体を埋めに行きました。彼女は、全国の風俗店を転々としながら男にお金を送り、翔くんの遺体が掘り起こされるのを見て、はじめて我に返ったといいます。刑務所の中で彼女は弁護士に話をしました。翔くんが秋田にいた頃、いつも「ボク、カーと結婚したい」「カー、大好き」と言ってくれていた、と。先月の6月7日に判決が出ました。懲役11年。判決を聞いた彼女は「死刑にして下さい」と泣き崩れたそうです。

 決して、他人事ではありません。別世界の、狂人の話として片づけてはいけないと思うのです。何が大切か、何が大事かということを忘れるのが私たちだからです。自分の心の奥底にも、恐ろしい心、愚かな心が隠れています。それが何をきっかけにして表に出てくるか。性欲か、名誉欲か、金銭欲か、嫉妬(しっと)なのか、恨(うら)みなのか、怒りなのか。正常と異常の境界が見えなくなります。自分の愚かな行為も、すぐに正当化したり、肯定したり出来るから、人間とは恐ろしいのです。

 心を映す鏡を持たず、過信して、肯定して、人のせいにして生きていては、「純愛」が出来てもサルと同じです。サルの方がましです。

 千葉県袖ヶ浦市では、母親から両祖父母、曾祖父まで一家5人が逮捕されるという、極めて残忍な幼児虐待致死事件が起きています。その殺された3才の子供の名前も「翔くん」でした。

 こうした残酷な事件を聞くたびに、豊かになったこの国に生きる一人一人が、「自分」と「家族」の在り方を見つめ直し、崩壊していく人間という存在価値に対して「答え」を模索する必要があると痛感するのです。

 多くの人は、その答えを御仏(みほとけ)の教え以外に求めるでしょう。より具体的で、現実的な捉え方や解決方法があるはずだと考えるのだと思います。小学6年生が起こした同級生カッターナイフ殺人事件と同じように、遠回りしながら社会は核心に触れようとしていないのです。モノにばかり気を取られ、「心」を置き去りにしてメンツや体裁(ていさい)を整えようとしている間は、健全な家庭や家族を生み出すための答えが見えてこないのだと思います。

「慈愛(じあい)」「恩愛(おんあい)」「癡愛(ちあい)」「愛執(あいしゅう)」と、家族を支えるべき「愛」にも色々なカタチがあり様々に変化します。その「愛」を健全に育み、伝える努力が人間には必要で、見失えば苦しみを増すばかりなのです。

 親である者が迷い、大切な心を置き去りにして、忙しさを口実に家族と向き合うこともなく生活をしていれば、近くに住んでいても、心は遠く離れてしまうのでしょう。そこに残るのは、欲と見せかけの形式的な、契約のような、家族という「単位」でしかありません。

 御仏(みほとけ)に縁の深い者であっても、家族の在り方は永遠のテーマです。形式的な信仰の中に健全な家庭を築くためのヒントはありません。生活と御仏の教えを結びつけられない人は、社会の風潮に流されて、家庭の中に歪(ひず)みを抱えるでしょう。そこに気づいて御宝前(ごほうぜん)に近づき、祈り、教えを聞き、菩薩の誓いを立て、行う姿勢が必要なのです。

 哀れな親は、哀れな子供を生み出します。何が哀れかといえば、目先のことに終始している親が、家族で何をして、何処へゆくべきなのかを見失っていることです。遊園地や食事に出掛けても、家族で祈るべき場所を知らない、家族で足を運ぶべき尊い場所がない、家族が揃って尊い教えを聞く場所がない。お参詣もせず、御法門も聞かず、家族の中に一人の菩薩もいなければ、真に健全な家庭への道は遠のき、迷うばかりです。

 「カー、たすけて」という言葉を他人事にすべきではありません。

2010年3月15日月曜日

この夕陽は忘れられない

 スリランカのご奉公が終わろうとしています。
 スリランカは赤道直下ですからお彼岸を迎える3月と9月が一年で一番暑い。前回、難民キャンプに支援に向かったのも9月。そして、今回は3月。なんか、一番暑い時を選んで来ているみたいですね。でも、ここしか日程が取れない。ちょうど、この時期になります。
 この夕陽は、一生忘れられないと思います。本当に、綺麗でした。
 心が綺麗に透き通る。どうしたら透き通るのか。その答えが、とても身近にあるのに、気づけないし、気づこうともしない。サプリメントや良い化粧品には飛びつくのに、心はほったらかしで、悪循環を繰り返してしまう。
 さみしいのかな。なぜ、そんなにセンシティブになるのか、センチメンタルになるのか。自分を、そうして置きたいのかな。
 周りの反応で生き方を変えるのは止めにする。止めに出来る。小学生の算数と同じで、分母と分子が同じカズになったら「1」になる。人生で必要なことを分母にして、自分で確かめられたことを分子にすると、いつの時点で「1」になれるか分からない。でも、迷ってばかりでは仕方ない。「1」になったと言えるボーダーを、自分なりに引かないと。
 非日常体験の時だけ「癒やされた」というのではなく、自然の中で、常に透き通った気持ちで生きてゆければいい。それが目標ですね。

あの恐ろしい映像から分かったこと

  ネパール・中国国境の建物を土石流が一気に呑み込む恐ろしいCCTV映像が拡散されています。何度も何度も報道されていますが、少し違和感を覚えていました。 私は川下から上流へ登って中国チベット自治区との国境にあるあの建物にたどり着きました。 しかし、あの土石流に巻き込まれた建物と同...