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2025年4月20日日曜日

本日は「真説・坂本龍馬展」 スペシャルイベントです

本日は本山宥清寺の門祖会です。あわせて14時から京都佛立ミュージアムで坂本家十代目・坂本匡弘さんによる講演会が開催されます。

すでに予約で満席となっていますが、立ち見であれば参加可能です。テレビ局の取材も入る予定です。大変にありがたいです。

よろしくお願いいたします。

「真説・坂本龍馬展」オープニング映像

 2017年1月、龍馬が京都で暗殺される5日前、慶応3年(1867)11月10日に書いた書簡が発見されました。この書簡には龍馬自身の直筆で初めて「新国家」という言葉が記されていました。歴史的に極めて重要な意味を持つ書簡です。
 なぜか。
 今の時代がそうであるように、誰もが幕府の老朽化した政治システムの刷新を求めていました。有名無実の役職、機能不全の官僚主義、硬直化した序列、長く続いたヒエラルキーに国家としての活力が奪われ、大衆の不満は頂点に達しようとしていました。同時に、覇権主義の列強諸国は政治的、経済的、軍事的圧力を強め、人びとは幕府の政権担当能力に決定的な不信を募らせました。類推や憶測による陰謀論や流言蜚語が飛び交い、血で血を洗う幕末の大混乱が訪れました。
 佐幕と勤王、開国と攘夷。多くの若者が立ち上がり、それぞれが対立し、激突してゆきます。「天誅」と呼ばれた暗殺も横行し、生麦事件に端を発した薩英戦争、長州と列強四国との間に起きた下関戦争、二度にわたる幕府の長州征討戦争もありました。
 多くの血を流しながら、ついに幕府は政権を朝廷に返上、日本は新しい国として歩み始める時を迎えたのです。
 しかし、この時、大半の志士はもとより、革命勢力の中心にある西南雄藩、薩長土肥のリーダーたちでさえ、新しい国・日本をどのような国にすべきか、具体的なビジョンは持っていませんでした。彼らは、藩という枠の中から幕府と対峙し、腐敗した幕府を倒すことに没頭し、権力闘争のみに腐心していました。新国家の構想よりも先に、権力奪取とその掌握のみが目的化していたのです。

今の政治や経済や社会に問題があることは分かる。
それを指摘することも出来る。批判することもできるし、憤慨することも罵ることもできる。
しかし、では、どういう国にするのか。いったいどういう世界にしたいのか。

龍馬は全く違う風景を見ていました。
彼の心の中には鮮明な「新国家」がありました。
新しく生まれる国は、国民一人ひとりが主役で、差別なく平等、誰もが自由に、人生を選べる、望んだように生きられる、笑って暮らせる国。これこそ龍馬の理想でした。

多くの友の血が流れ、若き命を代償として生まれた「新国家」が、藩閥政治や縁故主義を踏襲し、一部の勢力が権力を独占し、専制政治を行い、汚職が横行し、賄賂に耽溺する国家となったなら、ただ腐敗した政治が別の腐敗した政治に取って代わっただけとなります。
新しく誕生する国をそうさせるわけにはいかない。
人びとが謀計をめぐらせていたその時、龍馬は国づくりに全力を傾けていました。

「真説・坂本龍馬展」
書簡の「新国家」という言葉に込められた深い信念と具体的なビジョン。
龍馬が説きたかった「坂本龍馬の真説」です。
龍馬は議会制民主主義国家をの樹立を目指していました。実は、山内容堂の「大政奉還に関する建白書」も寺内左膳や後藤象二郎による「別紙(副署)」も龍馬の文官・海援隊隊士・長岡謙吉によって起草されたものです。ここには上下両院からなる議会の設置が謳われており、龍馬の「新政府綱領八策」と合致します。龍馬の政体論は彼の死後に刊行された『藩論』に見ることができます。
また、龍馬は国際社会の中で活躍する日本人の姿を求めていました。幕末の日本にはおよそ二百七十の藩があり、それぞれが「国」としての側面も有していました。藩ごとの主従関係や帰属意識もあり、日本人としての意識を持つ人は多くありませんでした。それぞれが会津人、薩摩人、長州人などでした。藩を捨てた脱藩浪士による海援隊は、幕末期にあって独特の国際感覚を持つ日本人たちでした。同時に彼らは「世界の海援隊」として国際社会に打って出る覚悟を持っていました。彼らに続く日本人のために海援隊は初歩的英語教科書も出版しました。
さらに、龍馬存命中の慶応3年5月に刊行された海援隊蔵版『閑愁録』には、仏教によって国民の心を安んずるべきであるという「新国家」の国体論、宗教政策が説かれています。これは仏教が生きとし生けるものへの慈悲や平等思想を抱いていることに由ると考えられます。
 慶応3年11月15日、坂本龍馬は暗殺されます。日本史上、これほどまでに鮮烈な登場と活躍と退場をした人がいたでしょうか。龍馬は、人びとの夢や理想、そしてその時の政治の情勢や人情に従って復活を繰り返しました。だからこそ、逆に近年は龍馬の偉業を疑問視するような言説が世に流布されています。
 様々な資料が坂本龍馬の果たした役割の重要性を示しています。新発見の書簡もその一つでありこの「新国家」の一言にどれだけ重要な意味が含まれているか解題しなければなりません。
 京都佛立ミュージアム「真説・坂本龍馬展」
 今回、坂本家十代目・坂本匡弘氏の全面的な協力を得て、一次資料から坂本龍馬の真意を読み解き、憶測や類推ではない坂本龍馬の「真説」をご紹介します。
 ファクトとフェイクが交錯する世界は数百年に一度の大変革期を迎えています。ここに展示する龍馬の生き様やメッセージが、未来へ向かう私たちの灯火になることを期待しています。
 ありがとうございます。

2022年4月7日木曜日

大宥清寺展 ー京都北野の知られざる名刹ー オープニング映像


京都佛立ミュージアム
『大宥清寺展ー京都北野の知られざる名刹ー』オープニング映像
 
期間:令和4年3月26日(土)~令和4年10月10日(月祝)
場所:京都佛立ミュージアム 入館無料
TEL:075-288-3344
URL:www.hbsmuseum.jp
平日 10時−16時
土日祝 10時−17時
休館 月曜日(※但し、月曜日が祝祭日及び25日のときは開館、翌日代休。)
 
入場料:無料 どなたでも自由にご観覧ください。
場所:京都市上京区御前通一条上ル東竪町110

【第一章 オープニング】
知れば知るほど奥がある、訪れるほどに心満たされる。
山紫水明の都には、未だ知られざる物語が数多くあります。
美しい庭園を擁する寺院、国宝級の仏教美術が佇む名刹。
京都の魅力を語る中で、歴史ある古刹はその中心に位置します。

宥清寺。
日蓮門下、洛中最古の由緒を持つ名刹です。
しかも、本門佛立宗、全世界10カ国、32拠点、国内外、多くの信徒の信仰を集める唯一の本山であり、今なお生きた仏教が脈々と息づく仏教寺院。
その長い歴史と現在の姿に光を当てる高祖日蓮大士ご降誕800年慶讃特別展示「大宥清寺展」。
混迷を深める世界の中で本来「仏教とは何か」「寺院とは何か」と問い、ここに私たちの一縷の希望があることを見出してゆければと考えています。

鎌倉時代。相次ぐ自然災害、疫病の流行や飢饉の発生に、住む場所を追われ、愛する人を失い、苦しみ、傷つく人びとが溢れていました。
比叡の山中で仏法を習い究めた若き僧侶たちは立ち上がり、山を下りて民衆に分け入ります。その一人が日蓮聖人でした。
日蓮聖人は、ひたすら世の安穏を願い、度重なる怨嫉や迫害を乗り越え、史上稀有の宗教家、仏教者として生きました。滅後、弟子たちはその遺志を受け継ぎ、ついに帝のおられる京の都に到達。その最初期に創建された寺院こそ、青柳厨子本門寺、現在の宥清寺です。

古には「洛中二十一箇本山」、後に十六本山が日蓮門下の寺院として知られていますが、応仁の乱、天文法華の乱、時には権力者の思惑によって京洛内外の移転を余儀なくされながら、門下の寺院は変遷を重ねます。宥清寺も例外ではなく、数奇な運命を経てやがて京都の要地・北野に根を下ろします。

大宥清寺。
宥清寺の特色とは、門下洛中最古の歴史のみならず、特に幕末維新の仏教改革者・長松清風との接点でありました。檀家制度の中で、貴族化、典礼化、スコラ化、形骸化していた仏教を、仏教本来のあるべき姿、日蓮聖人の真の教え、生きた教えを再興すべく生きた仏教改革者は、この宥清寺と邂逅し、その法城をお預かりすることとなりました。そして、この宥清寺を中心に、仏教ルネサンスを日本中、世界中に広げてゆくこととなったのです。
宥清寺は、幕末維新の動乱や急速な近代化を経、今なお日蓮聖人の遺志を継承する“生きた仏教のお寺”として、人びとの心の依り所となっています。
この度、日蓮聖人御降誕800年にあたり、“日蓮門下関西圏最古の寺院”にスポットを当て、京都北野の歴史とともに、知られざる名刹の由縁を紹介します。
当展が、長引くコロナ禍や国内外の不安定な情勢など、鎌倉期や幕末維新に勝るとも劣らぬ激変の時代を生きる人びとの希望となり、力となり、社会に充満する閉塞感を打ち破る一助となれば幸いです。
ありがとうございます。

#本門佛立宗 #宥清寺 #仏教 #京都 #古刹 #名刹 #本山 #市電 #チンチン電車

ネパール被災地でのご回向の動画

ありがとうございます。 昨日、9月5日(土)、ネパール大規模土石流洪水の被災地に、妙深寺ネパール別院の教務、ご信者、総勢46名が入り、ご回向の一座を奉修させていただきました。昨夜23時に写真や動画が届きました。 つくづく涙が出ました。あれほど大変な大災害に、いち早く妙深寺の...