2026年6月12日金曜日
2026年2月4日水曜日
令和8年1月 青年会住職御講 「私たちの原点、戻るべき場所」
ありがとうございます。
1月の青年会御講の御法門に、先住のおケガの時のお写真などを入れさせていただきました。
明日は寒参詣最終日です。
ありがとうございます。
長松清潤拝、
2025年10月25日土曜日
心の中に鬼がいて、心に闇が訪れる。闇堕ちしないための仏教。【 10月 教区御講 】
心の中に鬼がいて、心に闇が訪れる。
心の中に菩薩がいて、光を届け、寂光へ導いてくださる。
心の闇を照らす妙法、その光。
闇に堕ちないように、谷底へ転落しないように、過信せず、慢心せず、朝に夕に御題目を唱えて、御題目を離さず、ご信心から離れず、生きてゆくことが大切。
信心修行は油断してはならない。続けなくてはならない。やったり、やらなかったり、したり、しなかったり、来たり、来なかったり、ではダメだ。
油断すれば、闇が訪れる。力を抜けば、谷に堕ちてゆく。
恐ろしい世の中に、複雑な心を抱えて生きる私たちに、「懈怠謗法」と、厳しくお戒め、ご注意くださる御教歌でございます。
御教歌再拝。「信行は山に車をおす如く 手をやすむれば谷におち入る」
み仏の教えが、この世界に不可欠であると、つくづく感じます。
悪世末法、末法の娑婆世界。恐ろしい世の中と言っても、ほとんどが茶番です。
巻き込まれても、流されても、貴重な人生がもったいない。
何より、私たちの心。本当に複雑で、取り扱いが難しい。
トリセツが見つからないので、空回りしたり、壊れたり、脱落したりする人も多い。
そうならないように、というご信心、御教歌、御法門です。
月始総講で拝見した御指南、あらためて拝見しますと。
「道は暫くも離るべからず。離るべきは道にあらずと〜」という原文です。
「正しい道からは、片時も離れてはならない。離れてしまう道があるなら、それはもはや道ではない。真っ暗な夜に灯火を手放して歩くことはできない。通い慣れた道でさえ、灯りがなければ人にもぶつかり、しばらく通っていなければ、水たまりもできるし穴もあき、常にそこに落ちる危険がある。仏の大いなる教えも同じ。ろうそくを懐に入れていても、火を点けなければ暗いまま。信徒となっても御題目を唱えなければ、御利益は顕れない。口唱を怠ることは信行がゆるみ始めている証だ。」
やったり、やらなかったり、来たり、来なかったり、ではダメだということです。
よくご存知のはずの、開導聖人の御指南を拝見いたします。
「人、一日一夜に八億四千万念の念慮おこるなり。その一念毎に信には信のひびき、謗には謗のひびきあり。故に行住坐臥に口唱すべし。片時も信心を忘れるは謗法なり。」
謗法のいましめ・聖典一三七
「一日に八億四千万の念慮が起こる」とあります。
本にも書きましたが、一日というのは八万六千四百秒なので、これを八億四千万で割ると約〇.〇〇〇一〇三秒になります。
仏教の説く「刹那」という時間の単位がありますね。この「一刹那」は一秒の七十五分の一と言われる。ですから、〇.〇一三三秒となります。
つまり、刹那より短い瞬間にコロコロと「念慮」、「想い」や「考え」が発生し続けていることになります。
毎日、笑ったり、泣いたり、喜んだり、怒ったり、いろいろあります。
イライラしたり、フワフワしたり、本当に人間は生もので、コロコロと変わる。
変わっていないようで、変わってる。
思いや考えは、次から次に浮かんでは消え、浮かんでは消えてゆく。
でも、その一つ一つに、とてつもない力があり、とてつもない影響があるんです。
信には信の響き、つまり影響、作用、謗法には謗法の響き、つまり、報い、結果があるとお示しで、これをおさえた上で、だからお看経だぞ、御題目口唱を、欠かしてはならないよ、と説かれているのです。
油断していると、やられてしまう、と感じる世の中です。
この複雑な世界も、この複雑な自分も、一瞬たりとも止まってはいないし一瞬たりとも油断できない。
何度言っても、分からないんです。伝わらない。危ない、やばい、と言っても無理。
「今一度 大きな罰が出て来ねば まことの信は起らざりけり」
本当に、油断していては、ダメという御法門です。
「信行は山に車をおす如く 手をやすむれば谷におち入る」
月始総講で闇堕ちの話、「もののけ姫」と「夜叉」のお話をしました。
闇に堕ちないでください、闇堕ちしないでください、という御法門。
「そなたの中には夜叉がいる」
映画を見ていると、もののけ姫だけではなく登場人物全員の中に夜叉がいると分かる。
「夜叉」とはサンスクリット語の「ヤクサ」、パーリ語の「ヤック」、「鬼神」のこと。
「そなたの中には夜叉がいる」
「あなたの中に夜叉がいる」
「私の中に夜叉がいる」
鬼をテーマにした映画とか漫画、多いです。怪物やゾンビの物語もあります。
なんで、こんなに鬼やゾンビの話が多いのだろう?と考えたりします。
心の病も多いし、心を病んでしまうこともたくさんある。
ラジオにも同じようなお便りがたくさん届いきます。
みんな、孤独で、孤立していて、寂しくて、でも人付き合いは苦手で、仲間作りも面倒くさいと言う。願望は強いし、プライドも高いけれど、なるべく疲れないようにしたい。
心の健康というか、心から力が抜けてしまっている感じ。
鬼の話が多くなるのは、時代の空気を背負っているのだと思います。
つい先日、町田市のマンションで面識のない七十六才の女性を、包丁で刺して殺害した辛酸な事件がありました。犯人は自称派遣社員の四十才、桑野浩太という男でした。
「抵抗されなさそうな人を狙った」
買い物帰りで両手のふさがっていた高齢女性を狙った悪質、残忍極まりない犯行です。
ご遺体には十ヶ所以上の刺し傷があったほか、殴られた打撲痕もあったそうです。
どれだけ恐ろしい、残忍な、極悪な、悪魔のような、まさに鬼のような心だったか。
本人は警察に。
「人を殺して人生を終わりにしようと思った。そう言っていたそうです。
と言っていたそうです。身勝手で、どうしようもない。
逮捕されて姿が映されましたが、顔まで痩せ細って、見るからにゾッとするというか、やはり何かに取り憑かれているような雰囲気。
逮捕されてボーッとしていましたが、間違いなく鬼に取り憑かれていたはずです。
鬼の物語に「鬼滅の刃」という漫画、アニメがあります。映画にもなってる。
『鬼滅の刃』は大正時代の日本で、家族を鬼に殺され、妹を鬼にされた少年・炭治郎が、妹を人間に戻すために鬼退治に奮闘するという物語です。
鬼を退治するために努力する姿、仲間との絆、家族愛、そして「敵である鬼にも悲しい過去がある」という点が大きな魅力だそうです。
もともとは鬼も人間だった。人間だったのに、鬼になってしまった。
この犯人の両親が泣きながらインタビューに答えていました。
「中学で友達見つけられず」
「人生に絶望感が溢れていた」
犯人が中学生だった頃の写真も報道されていましたが、いい笑顔の、普通の子です。
なんで、わが子がこんなことになったのか、分からない。
分からないです。本当に。
中学で友だちが見つからない、根の暗い子だった、就職活動は頑張った、就職したけど上司とうまくいかなかった、そして仕事を辞めてしまった、それから派遣社員だった。
何度でも言おうと思います。
み仏の教えは、この恐ろしい悪世末法で、なんとか闇に陥らず、ただ一つの命、たった一度の人生を、心を健康に、みんなと一緒に、幸せに過ごすためにある。
でも、心はコロコロ、十面のサイコロ、本当に難しいんです。
だからこそ、御題目、だからこそ、ご信心。だからこそ、お看経。
みんな抱えている闇、みんな持っている鬼。
一念三千という法理は、理解できなくても、厳然と存在する宇宙の真理です。
刹那より短い瞬間、〇.〇〇〇一〇三秒に一つ湧き起こる「一念」に、三千、宇宙全体が具わってる。どこまでも上れる可能性と、どこまでも堕ちれる可能性、恐ろしさ。
「信行は山に車をおす如く 手をやすむれば谷におち入る」
サンスクリット語の「ヤクサ」、パーリ語の「ヤック」は「鬼神」です。鬼。夜叉。
これは、あまりにも恐ろしい存在だけど、お教化を受ければ「八部衆」となり、守護の善神として自分を守ってくれる存在になります。
そうすること、そうさせることが大事。闇堕ちしない。鬼に食べられない。入れない。乗っ取られない。うっかりすると、油断していると、堕ちる、やられる、食べられる。
開導聖人の御指南に。
「鬼神に二あり。一には善鬼、二には悪鬼。善鬼は法華経の怨を食す。悪鬼は法華経の行者を食す。」
「善鬼、信心つよきを守り、悪鬼、よわきを害す。よわきは一無間等なり。つよきは成仏道理顕然なり。」品品供養抄・扇全二十五巻二三六頁
鬼神、鬼には二種類あります。一つはお教化を受けた善なる鬼。これは法華経にアダを為す人を食べる。そのままの悪鬼、悪い鬼は法華経の行者を食べる、法華経の行者の邪魔をする。善鬼はご信心強い人を守る。悪鬼はご信心の弱い人を害する。
また、すぐ続く御指南に。
「今本尊の中、梵王の次に魔王あり。されば信心つよきを守り、よわきを食す。善鬼悪鬼共に仏法を守る。」品品供養抄・扇全二十五巻二三六頁
御本尊の中に魔王もいる。それすら味方につける。必ず守ってくださる。そんな無敵のご信心、宇宙全体を味方につける、究極の仏教が、南無妙法蓮華経のご信心。
絶対に、離してはダメ、離れてはダメ、したり、しなかったり、来たり、来なかったり、やったり、やらなかったり、ではダメだ、ということ。
いつの間にか、鬼にやられて、鬼に騙されて、流されて、とんでもないところに行く。
気づいたら、とんでもないところにいる。気づいたら、狂ってた、ということもある。
開導聖人の御指南。
「心の鬼が地獄へつれ行き心の菩薩が寂光へ導くと云ふ事、此一句を口ぐせの様に云ひなれて、能々(よくよく)味ひて、御法門聴聞に行く道々にも心にたくはへ、御看経の時にも忘れず、朝起きても一番に思ひ出し、一日暮れて夜臥す折にも、心の鬼が地獄へつれて行き心の菩薩が寂光へ導くと、一日二日三日乃至一年十年一生の間忘れざれば、臨終の時には心の菩薩が寂光へ導かせ給ふもの也。御臨終の夕べには日蓮必ず御迎ひに罷向ふべしとは是なり。」開導要決十六 四四オ 聖典六四九
現代語
「心の鬼が地獄へ連れてゆき、心の菩薩が寂光へ導く。
この一言を口ぐせにして、よくよく味わいなさい。御法門を聴きに行く道中も心にたくわえ、お看経の時にも忘れず、朝起きたら最初に思い出し、一日が終わり寝る時にも同じように唱えなさい。これを一日、二日、三日、一年、十年、一生のあいだ忘れず続けていれば、臨終の時には、必ず心の菩薩が寂光へ導いてくださいます。
『臨終の夕べには日蓮が必ずお迎えに参る』というのは、このことです。」
心を鬼に食べられないように、お守りいただけるように、忘れてはならないのです。
離れてはならないのです。やめてはいけないのです。
別の御教歌に。
「信心をやめて悪魔に手をひかれ 地獄におつる人ぞかなしき」
悪縁用心抄・扇全十二巻二七七頁
悲しいです。とにかく。それでは。何度も教えていただいているのに。
怖い世の中、自分の心も怖い。だからこそ、御題目。だから、ご信心です。
夜叉まで、鬼まで、魔王まで、味方にするから、怖い人からも守ってもらえる。
どうか、このことを忘れず、絶対に油断せず、御題目、ご信心を離してはならない。
心の中に鬼がいて、心に闇が訪れる。世の中にも鬼がいっぱいいる。数えきれない。
闇に堕ちないように、谷底へ転落しないように、過信せず、慢心せず、朝に夕に御題目を唱えて、御題目を離さず、ご信心から離れず、生きてゆくことが大切。
信心修行は油断してはならない。続けなくてはならない。やったり、やらなかったり、したり、しなかったり、来たり、来なかったり、ではダメだ。
油断すれば、闇が訪れる。力を抜けば、谷に堕ちてゆく。
恐ろしい世の中に、複雑な心を抱えて生きる私たちに、「懈怠謗法」と、厳しくお戒め、片時も力を緩めず、信心修行することが大切と、お教えくださる御教歌でございます。
故に御教歌に。「信行は山に車をおす如く 手をやすむれば谷におち入る」
御教歌「浦島も あけてくやしき玉手箱 迷へば死ぬはいやにさだまる」
「浦島太郎は玉手箱を開けて後悔した。迷って生きれば必ず後悔する。時は過ぎてゆく。死は近づく。死ぬのは嫌だ、悔しい、悲しいと嘆いても遅い。時間は戻ってこない。正しい道を正しく、悔いなく、精一杯生きなさい。」
心の鏡を曇らせないように、御本尊に向かい、御題目を唱えて、ご信心する。
ただ一つの命、たった一度の人生を、惑わされて、迷わされて、生きてなるものか。
ご信心を柱に、自分の意志で生きなさい、ご信心があれば迷わない。ご信心がなければ迷って当然、迷わされても仕方ない。迷ったまま貴重な人生の時間を奪われていいのか。
慢心と懈怠を戒め、素直正直なご信心しなさいと、勧め励ます御教歌でございます。
御教歌再拝。「浦島も あけてくやしき玉手箱 迷へば死ぬはいやにさだまる」
ここからの世界。
すぐそこに、大変動、大変革の波が押し寄せています。
全滅するようなことはないけれど、大混乱の中で、格差が広がり、分断は深まり、弱肉強食、人間として生きていても、つまらない、報われない、苦しいだけという社会、世界、空気。
自信のない人、自信のあり過ぎる人。自己肯定感、自己否定感、バランスが取れない。
詐欺まがいのマーケティングで、囲い込まれて、買いたくないのに買わされ、行きたくないのに行かされて、遊びたくないのに遊ばされ、毎日を過ごしているように感じます。
これからどうなるか分からない。何を学ぶべきかも分からない。仕事もなくなるかも、ローンは支払えるのか。この家に住んでいられるのか。本当に、恐ろしい時代です。
しかし、どんな世界になろうとも、みんなで幸せに暮らしたいはずです。でも厳しい。
備えよ、常に。
立正安国。心を正しくすれば、世界は正しくなる。心乱れれば、世界も乱れる。
日蓮聖人、お祖師さまの御法門。最後の御法門。臨終直前のお話も立正安国でした。
それぞれ、ご信心をしっかりと持って、心にしっかりと据えて、生きてほしい。
久遠本仏、永遠の仏陀、上行菩薩、日蓮聖人。すべてお見通し。答えはここにある。
「浦島も あけてくやしき玉手箱 迷へば死ぬはいやにさだまる」
AIの実演をさせてもらっていいでしょうか?
すごいです、AI。すでに人間に追いつき、人間を超えようとしてる。そして、きっと人間を変え、社会そのものが変わってしまう。もう止まらない。
SF作家の星新一さんの代表作に「ボッコちゃん」があります。なんと今から67年前、昭和33年、1958年の作品です。その中に『肩の上の秘書』があります。
この時代の人は全員肩にインコを乗せている。
主人公が営業に行って小さな声で「こんにちは」と呟く。
すると、肩の上のインコが、「お忙しいところ突然お邪魔して申し訳ございません。お許しいただきたいと思います」
とハッキリした口調で喋り出す。
そう、このインコはロボットで、持ち主の「つぶやき」を理解して、相手を気遣って、愛想よく、丁寧な言葉を選んで、代弁してくれています。
相手も突然営業マンが来て面倒くさいし、不機嫌なのだけど、インコが上手に対応してかわしていく。そんな世界。
上司に説教をされた帰り道、会社にインコを置いてきた主人公はバーに立ち寄る。
「この店に来ることだけが人生の楽しみだ」と言って大好きなママとお酒を飲むのですが、ママの肩にもインコが乗っている、というお話。
分かりますか?マダムの肩の上にもインコが乗ってる。つまり、インコと喋ってる。
何か真実?どこが本音?どこに人間の心、本当があるの?というお話です。
今、すでにみんなAIを頼りにしています。メッセージもメールはもちろん、報告書も事業計画書も、動画も、音楽も、テレビも、全部が全部、彼らに依存するようになってる。
人間として最も大切なコミュニケーションまで任せるようになったらどうなるか。
便利で楽しい、頼り甲斐がある。パソコン、スマホ、AI。でも、それに任せていたら、人間は進化しているのではなく、実際には退化してゆくことになる。
怖い未来ですが、すぐそこにある現実です。
面倒なことはAIに任せて、楽しいことだけすればいい、という意見もあると思いますが、面倒なことの中にこそ学びがあったり、成長があります。苦しい中に真実がある。
面倒なことをせず、修行せず、自分のしたいことだけしていたらどうなるか。
自分のことは棚に上げて、慢心し、人のことばかりとやかく言って、自分を知らない、怪物か、抜け殻みたいな人間ばかりになる。そんな世界になってしまう。
「浦島も あけてくやしき玉手箱 迷へば死ぬはいやにさだまる」
御伽話の世界。
竜宮城のような世界。
玉手箱のような魔法の箱。
浦島太郎のお話はご存知のとおりです。
UFOに連れ去られた説もありますが、どちらでもいいです。
もともと古いお話です。最古の記載は『日本書紀』、原典は『丹後国風土記』。『日本書紀』には雄略天皇 二十二年秋七月とあるので、西暦478年の話です。
この話は明治の小学校の教科書にも載りました。明治29年のことです。
ギリギリ、開導聖人が亡くなられた後ですが、江戸時代にもたくさんの絵本が出されていました。その頃は竜宮城は水の中ではなく波の上の設定でした。だいたい同じ話です。
むかしむかし、海のそばの村に、浦島太郎という腕のいい若い漁師がいました。
ある日、浜へ行くと、子どもたちが一匹の亀をいじめていました。太郎はいじめられていた亀を助けて、そっと海へ返してあげました。
すると、その夜、太郎の船の横にあの亀が現れました。
「助けてくれてありがとう。背中に乗ってください。御礼がしたい。」
亀の背中に乗って案内されたのが豪華絢爛な竜宮城。珊瑚の柱にタコのダンス、美しい乙姫さまがいて、美味しい食事が並んでいて、太郎は時の経つのも忘れて楽しみました。
しばらく過ごしてから年老いた母や故郷のことが気になり、帰りたいと申し出ました。すると、乙姫さまは小さな箱を渡して言いました。
「さようなら。これは玉手箱です。そなたのため、決して開けないでください。」
陸上に戻った太郎は驚きました。家もなく、知り合いもいない。太郎は竜宮城(蓬山)で三年を過ごしたといいますが、三百余年(※後世は七百年とも)も経っていたのです。
失意の中で太郎は玉手箱を見つめます。「開けてはいけない」と言われていましたが、彼は玉手箱を開けてしまう。ふたを開けた瞬間、白い煙が立ち上りました。
すると、たちまち太郎の髪の毛は白くなり、背中は曲がり、顔はシワに覆われます。
この世とあの世、乙姫さまが渡してくれた玉手箱は時間の歪みを調整していたのです。
封印が解かれ、一気に年をとってしまった浦島太郎。
人生の大切な時間を、大切な人と過ごすこともなく、もう死の直前にありました。
「浦島も あけてくやしき玉手箱 迷へば死ぬはいやにさだまる」
もう戻れない、取り返しのつかない人生の時間。もっと違う使い方があったのに。
数日のつもりが数百年。迷いのうちに流れる時間の恐ろしさを教えてくれる物語です。
進化するAIやロボットなどのテクノロジー。
現実か仮想現実か見分けがつかない、竜宮城のような楽しい空間もあります。
ゲームに夢中になる、動画に夢中になる、YouTube、TikTok、Instagram、気がつけば一日中ずっと画面を覗きこんで過ごしてる。電車の中でも、歩いていても、ベッドでも、お風呂の中でも、ずっと画面を見て、その世界に入り込んで、過ごしてる。
70歳までの人生で計算すると、1日に8時間、寝たり、ゴロゴロしていたとすると、23年間は寝ていることになる。仕事に費やしている時間もザッと計算して23年。
もうこれで50年くらい過ぎてしまったことになります。寝てるか仕事してる。
ここに、食事をしている時間を足せば約6年。トイレに入っている時間は2年間。
そして、これにパソコンやスマホの「画面を見ている時間」を加える。
何年だと思いますが。
もし、テレビやパソコンやスマホを1日4時間見ているとしたら、人生の約11年間は「画面を見ている」ことになります。
これでいいのか、悪いのか、分かりません。
でも、やはり、これでは、もったいない。
きっと、もっと、することがある。
もっと、見るべきものがある。
もっと出会うべき人、もっと話すべき相手、もっと行くべき場所、もっとすべきことがありました。そんな生き方でいいの?もっと素敵な、価値ある人生を生きようよ、と。
それを、教えてくださる御教歌です。
浦島太郎になるな、玉手箱はいつか開く。
過ぎた時間は冷酷に矯正される。リセットされる。特別はない。
人として生まれて、真実のみ仏の教えに出会って、亀を助けるような優しい心を持っていても、末法悪世、複雑な世の中で、幻惑されて、惑わされて、迷わされて生きるなんて、これほどもったいないことはないのです。
自業自得、自分が悪い、自分が選んだ人生です。でもそんな生き方は悔しい、悲しい、絶対だめです。
もはや御伽話のような世の中です。幻惑の世界。竜宮城です。
世界の政治も、国内政治も、大変な状況ですが、どちらもしても「劇場型」ということです。政治家の名前をつけて「〇〇劇場」と言いますが、本当にそのとおりです。
劇場なんです。演劇です。演出されている。セリフの回し方、使い方、照明の当て方、喜劇、悲劇、衝撃、愛と憎しみ、戦争と平和、起承転結。
巧妙な演出にどっぷりとはまって、泣いたり、本気で怒ったり、憎んだり、流されて、生きてはいないか。これにAIが入ってきてる。アルゴリズムが効いてる。
恐ろしい時代です。本当に、竜宮城のタコのダンスのように、楽しくて、恐ろしい。
ただ一つの命、たった一度の人生を、惑わされて、迷わされて、生きてたまるか。
見たくないのに見て、行きたくないのに行って、欲しくないのに買わされてるなんて、そんな人生、冗談じゃない。
それこそが、この決意が、仏教徒の真骨頂のはずなんです。佛立仏教徒の真骨頂。
本当の自分はどこにいる。大切な人はどこにいる。大事なことはどこにある。
竜宮城で楽しんだはず、楽しかったはずなのに。「玉手箱」を開けて、事実に気づいて、後悔する人生があります。
気づけば、かけがえのない人生が、煙のように消えて、最後に「しまった」と悔やむ。
心を失わず、道を見失わず、迷いに呑み込まれずに生きるにはどうしたらいいか。
後悔しない人生を送るためのご信心なのです。
万物の霊長・人間の心が曲がれば世界も曲がります。人間の心が地獄界に沈めば世界も地獄になります。
だからこそ、人の心を正しく導くこと。鬼も悪魔も、神も仏もみな心の内側にいます。この十界の御本尊は宇宙の調和、イコール人間の心の調和を表しています。
いわば動的平衡の御本尊。動的御本尊。口唱することによって起動し、心を整える。
鬼に引きずられないように、悪魔に騙されないように、心の菩薩を呼び起こし、彼にリードしてもらえるよう、御題目を唱えれば、御本尊が起動して、御題目の磁力が働いてその力に引かれて、十界の全てが、あるべき姿に戻る、調和した姿になってゆく。
心にこそ、僕たちの心にこそ、みんなの心にこそ、現証の御利益が必要です。
後悔しない人生のため、そのためのご信心。絶対に離れてはダメ、やめてはダメです。
開導聖人の有名な御指南があります。
「心の鬼が地獄へつれ行き心の菩薩が寂光へ導く〜」開導要決十六 四四オ 聖典六四九
現代語にしますと。
「心の鬼が地獄へ連れてゆき心の菩薩が寂光へ導く。この言葉を口ぐせによくよく味わいなさい。道の途中でも心にたくわえ、お看経の時にも忘れず、朝起きたら最初に思い出し一日が終わり寝る時にも唱えなさい。これを一日、二日、三日、一年、十年、一生の間、忘れずに続けていれば、臨終の時、必ず心の菩薩が寂光へ導いてくださいます。『臨終の夕べには日蓮が必ずお迎えに参る』とはこのことです。」
絶対に後悔しない、大切な生き方をする。厳しい時代ですが、誰にでもできます。
鬼に騙されない生き方、菩薩に導かれた一生を送ることが目標です。
演出に幻惑された人びとは、簡単に人を傷つけます。簡単に人のものを奪うし、簡単に愚かなことをしでかす。心をくすぐられて、鬼や、修羅や、畜生に、心を支配されてる。
人間関係を「怒り」で台無しにする。キャバクラに通い、ホストクラブに迷い、浮気して家庭を壊す。金を求めて人を裏切り、プライドや嫉妬で人生を棒にふる。
人生の落とし穴は、自分で掘って、自分で落ちることの方が多いです。注意できます。
高祖会の結論は、AI時代の「立正安国」です。
竜宮城で遊んでいる場合じゃない。
玉手箱を閉じて、御本尊を開いて、御題目を唱えて、人生を開こう。
心を守り、健康を守り、家族を守り、時間を大切に、生きてゆこう、ということ。
今こそ、来るべき大変革の時代に備えて、自分を磨きましょう。
AI時代、怪物になってはいけない、抜け殻になってはいけない。
ご信心から離れ、ご信心をせず、慢心し、懈怠していたら、怪物になります、抜け殻になります。
AIは敵ではないです。いいパートナーになれます。道具です。使う自分次第です。
どうか、佛立信心は、AI時代、激動の時代を生き抜く人生のお守り、自分を、人生を見失わないためのお守りであると心得て、素直、正直に信行ご奉公に精進することが大切です。
ただ一つの命、たった一度の人生。一日一日を大切に。
絶対に後悔しない、幸せな人生を送ってもらいたい。
本当に大切な人を、大切にしましょう。迷わず、惑わず、生き抜きましょう。
幻惑されてなるものか、慢心しない、懈怠しない、素直正直なご信心の大切さをお教えくださる御教歌でございます。
故に御教歌に。「浦島も あけてくやしき玉手箱 迷へば死ぬはいやにさだまる」
2025年10月4日土曜日
【自己肯定感】自分にフォーカスして積極的に生きよう!【他人に期待するな】
自分にフォーカスして積極的に生きよう!
【#長松清潤の仏教チャンネル】
===========
ありがとうございます。
長松清潤の仏教チャンネルにて【9月佛立倶楽部お講】の動画を投稿しました。
タイトルは
【自己肯定感】自分にフォーカスして積極的に生きよう【他人に期待すんな】
私たちは知らず知らずのうちに、他人に期待し過ぎているかもしれません。
それ故、人間関係にイライラしているかも。
その悪循環を抜け出して、自分にフォーカスした、【自分に期待する生き方】をしていきませんか?
どうぞご覧ください。
#長松清潤 #仏教 #モチベーション #自己肯定感 #法話
2025年10月2日木曜日
令和7年10月 月始総講 御教歌「吾祖師の 御なは日蓮世の人の こゝろのやみを照す妙法」
心の中に鬼がいる。心の中に鬼が出る。心に闇が訪れる。
心の闇に、光を届ける。それが本化のご奉公、私たちのご信心。
心の闇に届く、唯一、無二の光、「南無妙法蓮華経」の御題目。
この御題目さまを届けるためにお祖師さま、高祖日蓮大菩薩はこの娑婆世界へお出ましくださいました。
闇へ堕ちないように、御題目をしっかりとお唱えして、丁寧に生きる。御法から離れず、ご信心を離さず、生き切る、生き抜くことが大切とお示しの御教歌。
末法の娑婆世界。私たちが心を健康に保って生きることがどれだけ難しいか。
もしかしたら誰もが、心のどこかに闇を抱えて生きている。
その心に、み仏の大慈大悲、命そのもの、妙法という光を届けるために、大難四ケ度、小難数を知らずご奉公くださったのが、お祖師さま、本化上行菩薩、高祖日蓮大菩薩。
「吾祖師の 御なは日蓮」
「私たちのお祖師さまのお名前は日蓮」
お祖師さまのお名前は「日蓮」なのです。お約束の人、仏教史上最高のお名前です。
妙法蓮華経。お経の中の王さま、法華経。み仏の大慈大悲、すべてが込められている。
サッダルマ・プンダリーカ・スートラ。「白蓮華のように最も優れた正しい教え」
「法華経」は、仏教公伝、西暦538年、あるいは552年に日本に伝わり、『日本書紀』には推古14年、606年に聖徳太子が宮中で講義したと記録がある。しかし、法華経が素晴らしいことは分かるけど、その本当の意味は分かりませんでした。
法華経の中にあるお約束、滅後、しかも「末法」という恐ろしい時代の世界へ向けて、久遠本仏は久遠のお弟子を派遣される。それが上行菩薩。誰なんだ、何なんだ、ということになっていた。
伊豆への島流し、あるいは龍ノ口の御法難、そして佐渡への二度目の島流し。ついに「我こそは法華経に説かれた上行か」とのご自覚に至る。
その人の名こそ「日蓮」。誰も気づかなかった、誰も分からなかった。でも、分かってた。
これほど尊いお名前はありません。
太陽と、蓮華。レベルが違う。すごい名前。これこそ法華経の申し子。法華経を体現する御方の名前。宇宙の歴史の中で、仏教史上において、これほど凄い、尊い名前は無い。
歴史の中に仏陀がいて、歴史の中に法華経があって、歴史の中に「日蓮」という名前を選んだ実在の人物がいる。これは、本当にとんでもない、本当にすごいこと。名前からして現証であろう。
「空海」という名の人がいる。空には太陽が必要。太陽がなければ真っ黒の闇が広がります。
海は素晴らしいけれどそこに命がなければ恵みの海とは言えません。
お祖師さま・日蓮聖人がお生まれになった時、海には鯛が湧きました。今でも「鯛の浦」と呼ばれています。同じ日、浜辺に青い蓮華が咲いたといいます。今でもその浜辺は「蓮華ケ渕」と呼ばれています。
空に太陽、海に蓮。これだけでも日蓮聖人のレベルの違いが分かります。
人間の心の複雑さ。鬼は内、福は外です。
人間の心の中にこそ、仏も菩薩も、鬼も悪魔もいます。
追い出そうとしても付いてくる。出て行けと言っても出て行かない。
だから、心に闇がある、心に鬼がいることを自覚して、生きなければならない。
その姿こそ、南無妙法蓮華経のご信心、御題目の光、お看経という救いです。
仏もいて、菩薩もいて、鬼もいる。その人間が「南無妙法蓮華経」と御題目を唱える。
これこそ、この本堂で、今も、私たちがしていることです。
御題目口唱の姿こそ、御本尊であり、御本尊の中に入ること、御本尊をいただくこと。
御題目というみ仏の命、力そのものを、心の中に取り込むことです。
南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
あのやろう、このやろう、ちくしょう。くやしい、さみしい、つらい。しにたい、やりたい。殺したい。
南無妙法蓮華経と唱えれば、鬼もつられて、悪魔もつられて、御本尊に向かって、手を合わせて、御題目を唱えて、祈っていることになります。
仏教は、教えを説いたのではなく、生き方を説いたんです。やり方を授けてくれた。
心の闇に光を届ける生き方、やり方。南無妙法蓮華経は光、唱えれば闇に届く。
映画「もののけ姫」でアシタカが言います。
「そなたの中には夜叉がいる」
しかし、もののけ姫のサンに限ったことではありません。あの映画でいえば、登場人物全員、エボシ御前にも、ジコ坊にも、アシタカ本人の中にも、夜叉がいます。
「夜叉」とはサンスクリット語の「ヤクサ」、パーリ語の「ヤック」、つまり「鬼神」のことです。
「そなたの中には夜叉がいる」
「あなたの中に夜叉がいる」
「私の中に夜叉がいる」
何もしなければ、それが暴れて、それに食われて、食べられて、終わります。
心が闇に堕ちていって、真っ暗になってしまう。
妙法の光、南無妙法蓮華経の御題目、御題目口唱が、心の闇を照らすのです。
コレイア御導師が仰せのとおり、悪魔も、その鬼も、教化の対象。実際、仏教では教化された夜叉は「八部衆」となって守護の諸天善神になります。「南無久遠」で「天龍八部」と勧請させていただいています。
ご信心をする、御題目を唱えることによって、心の夜叉も、鬼も、鬼神も、天龍八部衆、守護の神となって、私を守り、導くほどになる。
無敵です。ご信心をさせていただけば。離してはいけない、離れてはいけない。
闇堕ちしてしまう。その可能性があまりにも高い。
開導聖人の御指南に。
「道は暫くも離るべからず。離るべきは道にあらずと。闇夜に燈火は離つべからず。常に歩行なれたる道だにも燈火なくては人も行当り、久しく通らぬ道には池も出来、穴も堀たり。されば落入あやまち必ずあるなり。大法又かくのごとし。蝋燭を懐にすとも灯さざる時は暗し。受持すれ共口唱せされば利生顕はれず。口唱を怠るは信行のゆるむ也。」
現代語。
「正しい道からは片時も離れてはならない。離れてしまう道があるなら、それはもはや道ではない。真っ暗な夜に灯火を手放して歩くことはできない。通い慣れた道でさえ、灯りがなければ人にもぶつかり、しばらく通っていなければ、水たまりもできるし穴もあき、常にそこに落ちる危険がある。仏の大いなる教えも同じ。ろうそくを懐に入れていても、火を点けなければ暗いまま。信徒となっても御題目を唱えなければ、御利益は顕れない。口唱を怠ることは信行がゆるみ始めている証だ。」
人間のこと、世界のこと、心のことを知ることが仏教です。まずそれが大事です。
一昨日、あるご家庭に御本尊のご奉安に伺いました。
ご奉安させていただいた後、いつものようにお話をしました。
「こちらは生きてましますみ仏、生きておられる御本尊さまです。
御本尊は心の鏡、御題目をお唱えして、心を磨きます。
御本尊さまは心そのもの。私たちの心の中に神も仏もいて、鬼も悪魔もいます。
人間の心は十面のサイコロ。菩薩が出ていい人かと思えば、鬼や修羅が飛び出してきて人生や家庭を台無しにする。
そうならないように、御題目をお唱えする。御本尊を敬い、お看経してください。」
心の中に鬼がいる。心の中に鬼が出る。心に闇が訪れる。
自己愛、利己主義、利己主張、ぜんぶ、気づかないうちに、もう闇堕ちしてます。
お祖師さまは、太陽と蓮。日月の光と、泥の中に生きて、美しく咲く蓮の花。
あり得ないほどのありがたさです。
このことを絶対に忘れず、油断せず、妙法の御題目、ご信心を離してはならない。
御題目をしっかりとお唱えして、お祖師さまの御恩にお報いすることができるように、闇に堕ちず、心の鬼にもって行かれず、暮らすこと、生きることが大事、ご信心、お看経、ご奉公を忘れてはならぬと、お示しの御教歌でございます。
故に御教歌に。「吾祖師の 御なは日蓮世の人の こゝろのやみを照す妙法」
令和7年 秋季総回向 御教歌「願はくは むすめむすこが親になり 欲のみ深くならずしも哉」
御教歌(令和7年 秋季総回向)
願はくは むすめむすこが親になり 欲のみ深くならずしも哉
愛する我が子の行く末、幸せな人生を歩んでほしいと願う親の心を詠んだ御教歌。
どうか、将来、わが娘、わが息子たちが成長して、親となる日が来ても、末長く家族が幸せで、一族が繁栄してゆくためにも、欲ばかり深く、強くなりませんように。
ご信心を失い、お寺から離れ、大切なことを見失って生きていれば、家族が幸せになれるはずもないのです。
どうか、しっかりと法灯相続をして、ご信心を持ち、先祖に感謝し、ご回向を重ねて、本当の家庭円満、末永く家運長久してゆきますように。
ご信心、法灯相続、先祖回向の大切さを感得させていただく御教歌。
「教えざるは師の失、学ばざるは弟子の失(教えないのは師匠が悪い、親が悪い。学ばないのは弟子が悪い、子どもが悪い)。」
「人なれど畜生よりもおとるあり よく深きもの恩をわするゝ」
親を蔑ろにしてきた子どもが、親になって子どもを育てる。
子どもにとって、これほどの不幸はありません。
人間は人間に育てられないと、人間にはならないのです。
姿形は人間だけど、欲深く、恩を忘れた畜生になってしまって、それが子育てをする。
子どもは、苦しいです。悲しいです。寂しいです。
不思議なものです。
欲というのは、生きるために必要で、幸せになるためにも必要なエネルギー源なのに、逆に人生を台無しにしたり、家族をバラバラにしたり、子どもを苦しめたりする。
「欲を全てなくせ」ということではなくて、「欲深くなるな」「大切なことを忘れるな」ということ。
日本民俗学の父・柳田國男の言葉。
「屢々(しばしば)滅失の危険にさらされる有形の財産よりも、寧(むし)ろかほど迄に親密であった先祖と子孫の者との間の交感を、出来るだけ具体的に知って居る方が、どの位家の永続に役立つか知れない。」
現代語
「たびたび失われる危険にさらされる有形の財産、土地とか、お金とか、建物などよりも、むしろこれほどまでに親密であった先祖と子孫の間の交感、供養やご回向の方法をできるだけ具体的に理解していることの方が、家の永続にどれほど役立つか分からない。」
まさに、私たちは、この一座で、お塔婆を建てて、御題目をお唱えして、お焼香をさせていただいて、先祖と子孫が「交感」=「交わり」「感じてる」=「感応道交」をしている。
「先祖と子孫との交感を、出来るだけ具体的に知っている方が、どのだけ家の永続に役立つか分からない。」
日蓮聖人の御妙判
「いかにも、いかにも、追善供養を心のおよぶほどはげみ給うべし。」
上野殿後家尼御返事
追善回向の大切さを、お祖師さまは重ね重ねてお示しです。また、「功徳回向抄」という別の御妙判には。
「我父母の物をゆづられながら、死人なれば何事のあるべきと思ひて、後生を訪はざれば、悪霊と成り、子々孫々にたたり(崇)をなすと涅槃経と申す経に見えたり。」 功徳回向抄
「我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり」忘持経事
頭も手足も、指も口も親からもらっているのに、死んだら関係ないと思って先祖のご回向もしないようであれば、ちょっと怖いですね、「子々孫々に祟りをなす」と涅槃経には書いてあるぞ、気をつけなさい、とお示し。
どうか、将来、わが娘、わが息子たちが成長して、親となる日が来ても、末長く家族が幸せで、一族が繁栄してゆくためにも、欲ばかり深く、強くなりませんように。
ご信心を失い、お寺から離れ、大切なことを見失って生きていれば、家族が幸せになれるはずもないのです。
どうか、しっかりと法灯相続をして、ご信心を持ち、先祖に感謝し、ご回向を重ねて、本当の家庭円満、末永く家運長久してゆきますように。
ご信心、法灯相続、先祖回向の大切さを感得させていただく御教歌です。
2025年6月1日日曜日
【教区御講 御法門】「引き寄せの法則」ではなく「押し出しの法則」
御教歌「人にさせせぬをとくかとおもひしに おのが果報をへらす損あり」
開化要談(九)・扇全13巻226頁
陰徳の事・扇全17巻274頁
先住の口癖
「我身をくだりて人を立て、徳は人にゆづりて苦労は我に引うくるやうにするを、本因妙と申し候。」
法華経本門のご信心、本門佛立宗の教えの根幹、妙深寺のご信心の指針です。
人にさせない。人にもらわない。
自分がする。自分が与える。
「引く信心」から「押す信心」へ変えなければならない。
あなたはどちらでしょうか?
幸せは「引き寄せる」のではなく「押し出す」ことで得られる。
幸せは、押し出して、その反動で戻ってくるもの。
本門佛立宗のご信心は「引き寄せの法則」ではなく「押し出しの法則」なんです。
先ほどの御指南を丁寧に見ていきますと、
「我身をくだりて人を立て、徳は人にゆづりて苦労は我に引うくるやうにするを、本因妙と申し候。
此修行の心得は、ヨコヅチを中につりたるやうなるものにて、向ふへおせば、こなたへ来る。御さとりなさるべく候。」(現世安穏祈願成就抄・佛立聖典四四九)
幸せは重たい振り子のようなもの。引っ張っていようとすれば大変な力がいるし、少しでも力を抜けばあっという間にあっちへ行ってしまう。
プラスとマイナス。マイナスとプラス。
どちらを先に選ぶか。そのように問いかけておられます。
因果の道理は、「先に与える」「先に苦労する」「先に払う」「先に押し出す」からプラスになるということ。
「先にもらう」「先に楽する」「ボーッと待っている」では絶対に幸せにならない。
今日は、別にお参詣しないわけでも、ご奉公しないわけでもない。そういう私たちに、「そのご信心は、しっかり罪障消滅できるご信心、菩薩行のご信心になっていますか?」ということを問う御法門です。
ご信心はあっという間に落ちてゆく。同じように本門佛立宗のご信心をしていても、あっという間に間違った、功徳の薄い、他の信仰と変わらない、自分さえ良ければいいという考え方、まったく開導聖人の御指南と違うやり方、いじわるさ、ずるさになる。
そこをシビアに見つめ直さないと、ドドーっとご信心は落ちて、いつの間にか形だけのご信心、間違ったご信心になってしまうと注意されてる。
「人にさせせぬをとくかとおもひしに おのが果報をへらす損あり」
人にさせて、自分はしない。
それで得をしたと思う。それで儲けたと思う。やったー、助かった、ラッキー!
しかし、自分の果報を減らす、自分の功徳を減らす、時間を潰す、台無しにする。
そんなことばかりではないか。
これは、方程式が間違ってしまうので、そうなっても気づかない。
いつしか、そうやって過ごしていても、何も不思議じゃない、当たり前になる。
なるべくお寺には行かないで、なるべく交通費は使わないで、なるべくゆっくり寝て、なるべくご奉公に時間と手間をかけないで、楽をして、楽な道を選んでしまう。
「今日もオンラインにしておこうかな」
「今年はあの人に任せておいて、自分はいいわ」
何度かさせていただいていますが、星野鈴江さんのご信心のお話、ご奉公のお話。
どうしても、頭から離れないエピソード。
同じ時間を使う、同じように体を使う、もらう、もらわない。
どちらを選ぶか。
本門佛立宗のお寺でなければ、こうした教えがなければ、「お金をもらって当たり前」「送り迎えがあって当たり前」になります。
いつの間にか、お寺にいる人、大きな法要の準備ご奉公でも、全部が業者さんがやる、職員さんがやる、そこに檀家さんはいない、そこにご信者さんはいない、という話。
いつの間にか、そうなってしまうんです。
お寺の中が、職員さんだけになってしまって、「ご信者さん」は全員お客さんになる。お客さん気分です。お客さまは神様です。仏様よりも偉い。
これでは全く修行になりません。仏教ではありません。因果の道理から外れてる。
「人にさせせぬをとくかとおもひしに おのが果報をへらす損あり」
「我身をくだりて人を立て、徳は人にゆづりて苦労は我に引うくるやうにするを、本因妙と申し候。」
本当の幸せは、菩薩心から生まれる、菩薩行でいただける。
「幸せよ、こっちに来い、こっちに来い」と思って、「よいしょ、よいしょ」と引いても、腕はプルプル、力が必要で疲れるばかり。
やっとのことで引き寄せても、少しでも気を抜いたら、あっという間に反対側に逃げてしまう。なかなか幸せは来てくれない。
ご信心していても、ご祈願は全部自分のため、自分の家族のため。それ以外は、できません、しません、面倒です、忙しいんです、年なんです、と。まったく、人のために動いていない。振り子を押してない。こっちにばかり引きよせようとしてる。それじゃダメ。
どんな時に人のために動けたか、それが大事なんです。菩薩を育てる。これはお寺の人材が足りないからというだけじゃないです。正しい佛立信心はそこにある。そこが本当の佛立信心。
どうか、今日お参詣の皆さん、この御教歌の御意をいただいて、徹底的に、本門佛立宗の本物のご信心を身につけましょう。
「引く信心」から「押す信心」へ。もらう信心ではなく、押し出す信心、動き出す信心。
後戻りせず、いい負を取り、身を削り、心を尽くし、ご奉公する。
人にもらわない。
自分が与える。
今日も功徳を積んでゆく。
凡夫転倒を乗り越えて、積功累徳、本物のご信心をさせていただくことが大切と教えていただく御教歌です。
故に、御教歌に。「人にさせせぬをとくかとおもひしに おのが果報をへらす損あり」
2025年5月23日金曜日
【生きるために死を考える】命を輝かせるために意識すべきこと【5月佛立倶楽部】
長松清潤の仏教チャンネル。オープンから1ヶ月が過ぎました。
ラジオと同じく、仏教ルネサンスに向けてご奉公を進めています。
ショート動画、佛立倶楽部御講の法話、これからは視聴者の方々のご質問にお答えしてゆくQ&Aもアップしてゆく予定ですー。
ひとまず、5月の佛立倶楽部御講では「生きるために死を考える」がテーマで、切り抜き動画を見ていると「少し暗かったかなー」と反省するのですが、それでも「この命、この人生を最大化する」ためには避けて通れない大切なテーマだと思って取り上げさせていただきました。
御法門とは違う、ラジオとも違うので、お時間のある時にご覧いただければ嬉しいです。
下記はメモですので、参考になればと思います。
御教歌
「しなぬ人 一人もなし心得よ 臨終の事 大事也けり」
< 日蓮聖人/ 妙法尼御前御返事 >
「夫以れば日蓮幼少の時より佛法を学び候しが、念願すらく人の寿命は無常也。出る気は入る気を待事なし、風の前の露尚譬にあらず。かしこき(賢)もはかなき(愚)も、老たるも若きも定め無き習也。されば先臨終の事を習ふて後に他事を習ふべしと思ひて、一代聖教の論師、人師の書釈あらあらかんがへあつめ(勘集)て此を明鏡として、一切の諸人の死する時と、並に臨終の後とに引向へてみ(見)候へば、すこしもくもりなし。此人は地獄に堕給ふ、乃至人天とはみ(見)へて候を、世間の人人、或は師匠、父母等の臨終の相をかくし(隠)て、西方浄土往生とのみ申候。」
< 仏典 紹介 >
「天にも海にも、山の洞にも、死を逃れられる地はない」『ダンマパタ』128
「愚かな者は『雨季にはここに住み、冬季・夏季にはここに住もう』と言って思いを巡らす。しかるに、死は、そのように思い巡らす者をさらって行く――眠れる村を押し流す洪水のように。」『ダンマパタ』286‑287
「熟した果がいつ落ちるか知れぬように、生まれた者は常に死にさらされる。賢者は世の習いを知り、嘆かない」『スッタニパータ』3.8 Salla‑sutta〈矢の経〉Sn 574‑580
「百年の内に人は死ぬ。たとえ長命でも老いに勝てぬ。死に際して“わがもの”は尽く離れると知り、賢者は執着を離れる」『スッタニパータ』4.6 Jarā‑sutta〈老いの経〉Sn 811‑813
御教歌
「死ぬる時 たのしみのなき人はみな 世にあるをりに 怠たれるなり」
「生きるために死を考える」
行から見る死。
唱えることでコネクトできる。
究極の時間。
「さとり」は、今、ここに、行の中にある。
「南無妙法蓮華経」とは生命であり、永遠への鍵。
御教歌
「一人来て独帰らむ道なるを 妙法五字にともなはるとは」
2025年5月2日金曜日
【5月月始総講】こんな時代だからこそ菩薩行に励もう【長松清潤ご住職】
御教歌「怠りの魔軍を責て弘むべし まけてはならぬ祖師の御味方」
先日、大学生のお子さんを持つお母さまから、大学の校内とか、門の前とかで、宗教の勧誘が活発に行われていて学校側が注意を呼びかけているのだというお話を聞きました。
主に韓国系キリスト教団体だそうです。若い女の子が新入生に近づいていて、サークルの勧誘のように声をかける。韓流ブームもあって、ホロホロっと韓国ドラマの延長線上で話を聞いてしまう。
ついていったら、ほとんどもう終わりです。それまで自分が知らなかったような情報が怒涛のように入ってくる。荒唐無稽なものもあるし、変だと思うのですが、すごい勢いで語られて、聞かされて、話されてくる。
人間は、それぞれが自分の物語を書いているんですね。一生懸命、作ってるんです。その物語、ストーリーが書き換えられてしまう。
気がつけば、「ブレインウォッシュ」という「洗脳」、そして「マインドコントロール」という中に自分自身が取り入れられてしまう。
地方から都会に出て来て、新しい環境にいる孤独な青年たちが、優しい言葉に誘われて今なおそうした恐ろしい宗教に勧誘されているなんて、考えただけでもゾッとします。一歩でも足を踏み入れたら、とんでもないことになります。貴重な人生が台無しです。青春も人生も奪われる。しかし、今日も学校で、街角で、子どもたちが狙われています。
信教の自由と不自由。
「信教の自由」というのは、昔キリスト教の教会権力が圧倒的に強くて、それぞれの人生を縛り付けていた。結婚も、離婚も、教会の許可が必要でした。
王様が離婚したくてカトリック、先日お亡くなりになった教皇の治めるカトリックから独立して作ったのがイギリスの国教会。ヘンリー8世。すごいです。
そんな教会から人間を解放するために生まれた人権、権利を「信教の自由」という。
人間には宗教を選ぶ権利がある。誰でも自分で自分の宗教を選んでいい。
すごく大切だし、いいことのように思えますが、この末法では「大丈夫?」と思う。
特に、最近、カルト宗教が乱立して、陰謀論が渦巻いて、詐欺が横行し、インターネットやスマホが進化する中で、大丈夫でしょうか?
信教の自由によって、人生の不自由になっている人が多くいるのではないか。
むしろ、その宗教によって人生の自由を奪われる不幸な人たちが続出しています。
「だから宗教を信じない」ということとは違います。人間に宗教は不可欠です。特定の宗教はないという人も「無宗教」という宗教に入っているだけ。「スマホ教」という新宗教もあります。自分が教祖になって勝手な解釈を繰り返しているだけで、これも妄想と幻想の中にいるのと同じ、自由と思い込んでいるだけで不自由に見えます。
とにかく、信教の自由だけど、今日も学校で、街角で、子どもたちが狙われています。
御教歌「怠りの魔軍を責て弘むべし まけてはならぬ祖師の御味方」
四月二日、『こころ仏る 空飛ぶお坊さんの仏教の言葉47』を出版することが出来ました。ラジオと同じように、本の力を信じて、お教化や法灯相続にお役立ていただきたいです。何とぞよろしくお願いいたします。
今回の本では「本門佛立宗」について紹介しています。
本門佛立宗は仏教の再興、法華経や日蓮聖人の教えを復興するために設立されました。本山は日蓮門下京都最古の歴史があり、その宗名は最も由緒がある。
「佛立」とは「仏が立てた教え」という意味で、「人立」とは「後世の人が立てた教え」という意味。つまり、「佛立宗」というのは、同じ仏教でも、添加物のない「本来の仏教」を伝えようとするもの、それを表明、証明しているのが「本門佛立宗」だということ。
「お葬式仏教」でもなく、過剰にスピリチュアルで、ビジネスライクで、政治的な新宗教でもない。普通の仏教、本来のお寺の集団。このように本に明記しました。
『こころ仏る』では「御題目を唱えて現証の御利益をいただく」という佛立信心の核心までは書き切れていません。あくまでも私たちのスタンス、土台、前提が書いてあります。
しかし、だからこそ、本門佛立宗や妙深寺が分かるはずです。どんな土台があるのか。何を前提として「南無妙法蓮華経」とお唱えしているのか。
本門佛立宗が、妙深寺が、絶対に偏ったカルト宗教でないこと、本物の、正当な、仏教の宗団であることを分かっていただけると思うのです。
怖い宗教が暗躍する中で、一人でも多くの方々に、本物の仏教、生きたお寺を知っていただきたいと願っています。知っていただけると思います。
AIの登場によって、逆に人間の「バグ」が顕著になっています。
人間って、これほど愚かなのか、ということを痛感する。
私は、もう人間のボロ負けだと思っています。
これからは、ありとあらゆる情報をAIに聞くようになるのではないでしょうか。
彼らは冷静で、丁寧で、証拠を集めて、そして優しく教えてくれます。
情報を鵜呑みにすることはできない時代、きっと何でもAIに聞く時代が来る。
人間は、情報に翻弄されて、感情に支配されて、思い込みも激しく、あっちを信じたり、こっちを信じたり、恨んだり、嫉妬したり、エコひいきしたりして、政治も、経済も、仕事も、まともにできない、ということになる。
自動運転になったりして仕事がなくなるんじゃなくて、人間に任せていたらズルいことばかりするから、政治家も、行政も、ありとあらゆる仕事はAIにしてもらいましょう、ということになるんです。
その時、人間は何をするんですか?
恐ろしい時代です。
何度でも言います。仏教は、ずっと言ってきました。
「狂った象より間違った情報を恐れよ」
誰もが狂った情報に囲まれ、見せられ、聞かされ、迫られて、生きています。
気がつけば、変な宗教、変な考え方にどっぷりと使って抜け出せなくなる。
「怠りの魔軍を責て弘むべし まけてはならぬ祖師の御味方」
今、もし、私たちが諦めたり、逃げ出したり、やめたりすれば、終わると思います。
もう一つ、付け加えるとすれば、本門佛立宗は本物で、どう考えても、敵なしです。
お葬式仏教、新興宗教、カルト宗教、そういうものと比べても勝負にすらならない。私たちは本物中の本物の仏教をいただいています。しかし、だからこそ、敵は外にいるのではなく、内側にあります。百獣の王、ライオンなんです。草原に敵はいない。だから、獅子身中の虫。敵は内側にいる。自分の中にある。
私たち、本門佛立宗の教務、ご信者が、習い損じて、欲に溺れて、怠け心にも負けて、ご弘通の意欲を失って、小さな枠に止まっていたら、もう資格がありません。
この御教歌のお書き添えには、私たちが御講席で拝見するお祖師さまの御妙判の一部が記されています。
「怠りの魔軍を責て弘むべしまけてはならぬ祖師の御味方。後生は慥かに申に及ばず浄土参拝の人也。貪欲は諸の苦のたね也といふを信じて常につつしめ。」
尊く、深い御指南。「後生は慥かに申に及ばず」「死んだ後のことは言うまでもなく」と言う意味。「今、ここ」ということ。
お祖師さまの御妙判の全文は、「祈祷抄」と言う有名な御妙判の送り状にあります。
「一切法華経に其身を任せて金言の如く修行せば、慥に後生は申に及ばず今生も息災延命にして勝妙の大果報を得、広宣流布の大願をも可成就也。」最蓮房御返事(祈祷経送状)
「祈祷抄」は佐渡島でお教化になった比叡山の学僧、最蓮房に宛てたものです。最蓮房は身体が弱く、病弱でした。その病弱な最蓮房を気遣って、必ず御祈願は叶う、と言うことをお示しになられたのが祈祷抄です。
「大地はさゝばはづる(外)とも、虚空をばつなぐ者はありとも、潮のみちひ(満干)ぬ事はありとも、日は西より出るとも、法華経の行者の祈のかなはぬ事はあるべからず。」
この送り状に、「山にこもって修行するのがいいか、どうか」と言う質問がある。最蓮房は病気でしたから、そのようにしていいでしょうか?と。
お祖師さまは如説修行抄にあるとおり、「山林に閉じこもって修行するのは摂受であり末法の修行ではない」とお諭しになります。しかし、最蓮房は病気なので、山にこもることを一往は認めて、それでもまた病気が治ったらお教化、お折伏のご奉公に頑張るんだよ、とお示しになられています。
お祖師さまのお慈悲がしみじみと伝わって、ありがたいのです(涙)。
「一、御山篭の御志の事。凡そ末法折伏の行に背くと雖も病者にて御座候上、天下の災、国土の難、強盛に候はん時、我身につみ知候はざらんより外はいかに申候とも、国主信ぜられまじく候へば日蓮尚篭居の志候。まして御分之御事はさこそ候はんずらめ、仮使(他とひ)山谷に篭居候とも御病も平愈して便宜も吉候は者身命を捨て弘通せしめ給ふ可し。
一、仰(おお)せを蒙りて候末法の行者息災延命の祈祷の事別紙一巻註し進らせ候。毎日一返闕如無く読誦せらる可く候。日蓮も信じ始候し日より毎日此等の勘文を誦し候て、佛天に祈誓し候によりて種種の大難に遇ふと雖も、法華経の功力釈尊の金言深重なる故に今まで無相違候也。付其法華経の行者は信心に無退転身に無詐親、一切法華経に其身を任せて金言の如く修行せば、慥に後生は申に及ばず今生も息災延命にして勝妙の大果報を得、広宣流布の大願をも成就すべきなり。」
開導聖人の御指南に。
「信者は人を助けて法を弘む。」
「宗祖の御本意ここにあり。故に諸大菩薩、諸天善神守らせ給ひて現世安穏也。」
自分のためにも、子どもたちのためにも、世界のためにもみんなで精進致しましょう。
負けるわけにはいかない。負けてはならない。負けてはダメだ。
そんな強い思いをもって、「お教化させていただきたい」「お教化させていただこう」と励もうではありませんか。
懈怠謗法。ボーッとしていてはダメ、油断してはいけない、怠けていてはいけない。
本当の敵は自分の中にいます。
お祖師さまの弟子、本物のご信者として、「南無妙法蓮華経」の御題目を握りしめて、お教化、お折伏の菩薩行、法灯相続、ご弘通ご奉公に精進することが大事大切とお示しをくださる御教歌です。
故に、御教歌に。「怠りの魔軍を責て弘むべし まけてはならぬ祖師の御味方」
2025年4月21日月曜日
情報社会に立ち向かうための仏教 〜心の健康を保つために〜
「情報社会に立ち向かうための仏教
〜心の健康を保つために〜」
佛立倶楽部御講 / 2024年4月
・心の健康とは何か
・仏教は人類史上初めて「情報リテラシー」を説いた
「菩薩よ、悪象等に於ては心に恐怖すること無れ悪知識に於ては怖畏の心を生ぜよ、何を以ての故に是れ悪象等は唯能く身を壊りて心を壊る事能わず、悪知識は二倶に壊るが故に、悪象の若きは唯一身を壊る悪知識は無量の身無量の善心を壊る、悪象の為に殺されては三趣に至らず悪友の為に殺されては三趣に至る」等と云云。此経文の心は後世を願はん人は一切の悪縁を恐るべし。一切の悪縁よりは悪知識ををそるべしとみえたり。」日蓮聖人 『顕謗法抄』 / 昭和定本254-262
・「もし悪友にあえば即ち本心を失う」
御教歌「人のため善友になれ悪友に なるな本心ともにうしなふ」
御教歌「悪友はおのが心にあるものを ほかより来るとおもひける哉」
・心を健康に保つ難しさ。内的要因。外的要因。
・映画『マトリックス』から
ロバート・ライト教授(進化心理学者)著『なぜ今、仏教なのか(Why Buddhism is True)』
「赤い薬を飲む」か「青い薬を飲むか」。目覚めるか、幻想のままに生きるか。
・インターネットに溢れる思い込み。認知バイアス。統合失調症。
信じれば教祖、疑えば病院
・心の棲家について
御教歌「おなじよに すむと見ゆれど 信不信 心のすみか常にことなり」
・精神疾患と向き合って
「鬱」とは心から「信」が消えた状態。「疑い」だけになった状態。
愛する人から裏切られたとしても、愛することそのものを止めるか?
仏教の結論は「心に信を取り戻す」「心に信を立てる」
・「信者」という言葉に軽蔑や侮蔑を感じる哀れな時代。
御教歌「さとれるをさとらずといひさとらざる 信者をさとるといふ宗旨也」
・仏教の結論「信じる」
六度行─布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧
『大般若経』『般若心経』=
「智慧がなければ、いかなる善行も真実に至らない」
布施も、持戒も、忍辱も、精進も、禅定も、「智慧」によって導かれなければ単なる“善行”や“修行”で終わり「彼岸(悟り)」に至らない
「智慧なくして六波羅蜜にあらず」
日蓮聖人「慧またたえざれば信をもって慧に代う」
「信は道の元、功徳の母」
「信」はあらゆる修行・功徳の根本であり智慧の源泉
末法悪世、滅後の人びと。「信をもって慧に代える」
・信じるを取り戻す作業
「信とは行なり。行とは口唱なり。」
御題目は心の薬
「口唱」は「心のトリートメント」
「信心」は「心のプロテクター」
「御法門」は「心の羅針盤」
・朝夕に「南無妙法蓮華経」と唱えることで心を磨き、守り、保つ。
2025年3月19日水曜日
限界を決めずに挑戦してください【妙深寺 3月教区御講 長松清潤 住職】
御教歌「すればする体を己れ持ながら でけぬと云は心也けり」佛立要義録(一)49(50ウ)・扇全29巻189頁
御題目をいただいた以上、ご信心にお出値いした以上、幸せになってください。目的を達成してください。目標を達成してください。
自ら限界を決めず、挑戦して、可能性を追求して、成就する。
御題目、ご信心があるから、成就できる。可能になる。不可能はない。
そういうご信心が出来るように、そういう人生を歩めるように、本物の仏教徒、佛立信者の可能性を示し、激励くださる御教歌です。
この御教歌は「経云若持法花経其身甚清浄の事」と題された御指南書に収められています。法華経本門八品、法師功徳品 第19の御文「若し法華経を持たんは其の身甚だ清浄なる」から引用
「六根清浄の功徳」に引き続き「資生業等 皆順正法」の御文。
「諸の所説の法 其の義趣に随って皆実相と相違背せじ。若し俗間の経書・治世の語言・資生の業等を説かんも皆正法に順ぜん。」
佛立信徒それぞれの生活、営み、人生のことをお示しです。
ご信心をしているのだから、御題目があるのだから、もっと勇気を持って、もっと自信をもって、もっと前向きに、もっと地道に、精進しなさい、挑戦しなさい、努力しなさい、ということです。
この御指南書、御教歌は、明治13年、1880年に書かれた。明治維新から僅か13年。世の中がひっくり返るほどの大変革期だった。
この御指南書の中の、この一文を拝見して、今こそこの御教歌で御法門を説かせていただこうと思いました。
「世の中、大いにあらたまらんとする也。然るに、人々、時節まけと云てなげく」
当時、「世の中についていけない」「なんでこんな世の中なんだ!」と言って、時代に負けた、時代に負けそうな人がたくさんいた。みんな嘆いていた。
そんな人に向かって詠まれたのがこの御教歌なんです。
「すればする体を己れ持ながら でけぬと云は心也けり」
「自分で自分にリミットをかけるな」
「制限をかけるな」
私たちは何でもできる身体を持っている。
どんな風にだって行動できる。
それなのに「できない」と決めつけてしまう。
それは「心の問題」に過ぎない。
世の中の問題じゃない。
限界を作っているのは自分自身だ。
あなたの心だ、ということ。
ましてや、私たちには御題目がある、このご信心がある、不可能なことなんて一切ない。
必ず乗り越えられる。
夢は必ず叶う。
何一つ不可能はない。
信心があれば、なんだって出来るはずだ。
私たちは、何度も、迷います。
人生と言う旅で、道を外れることも、見失うこともあります。
そんな時は、立ち止まって、地図を見直せばいい。
自分が今どこにいるのか、ご信心があれば見つけられる。やり直せる。
御指南書の結びには次のようにあります。
「しかるに不心得の愚人は月給をあらそふ也。月給あらそふものに忠義のものなし。」
「不心得の愚人」とは、道理をわきまえず、目先のことばかり考える人です。
そういう人はお金のため、給料のために仕事をして、そればっかり考えて、仕事の目的や目標を大切にしない。つまらないツバぜり合いやイザコザばかり起こして誠実な働きはない。結局、成功するわけはない、とお示しです。
結局、お金のために働く。悪いことではないけれど、目的が違う。力添えなし。
人生は「目的」と「目標」と「方法」をしっかりと定めること。
グチャグチャにして、前後左右して、ここに迷ってはダメです。
御利益をいただけるか、いただけないかは、すべて、自分次第です。挑戦です。
せっかくですから、勇気のあるご信心をさせていただきましょう。
ご信心で勇気をいただきましょう。
自分に負けるな。
「すればする体を己れ持ながら でけぬと云は心也けり」
2025年3月16日日曜日
【3月佛立倶楽部#01】なぜ心のデトックスが必要なのか【長松清潤】
3月の佛立倶楽部御講では「心のデトックス」をテーマにお話をしました。
3回に分けてアップしてくれるそうです。
よろしくお願いいたします。
2025年2月26日水曜日
【門祖会第一座ご法門】 御教歌「つとむれば罪障滅し つゝしめば 身をおこすべき利益蒙る」 長松清潤
令和七年二月十五日 門祖会 第一座
御教歌「つとむれば罪障滅し つゝしめば 身をおこすべき利益蒙る」
開化要談(五)・扇全十三巻一三八頁
ありがとうございます。
今年最初の春の御会式、門祖会にお参詣、ご奉公いただき、ありがとうございます。
令和七年も二月中旬となりました。
ものすごい勢いで世の中が変わっています。とんでもない、圧倒的なスピードです。
こんな時代だからこそ、絶対に変わらないものを大切にしなければ自分を失います。
仏教は、きっと世界で初めて「情報リテラシー」を説いた宗教です。
「情報リテラシー」とは、情報を収集したり、理解し、活用する能力のことです。
毎日毎日、私たちは情報の洪水の中で溺れそうになりながら生きています。正しいニュースもあれば、完全に間違ったもの、デマ、罠、詐欺、いっぱいあります。
仏さまは「狂った象を恐れるよりも、間違った情報を恐れなさい」と言われました。
間違った情報は人生を台無しにする。人生を台無しにするということは、大切な時間を奪うということです。遠回りをさせる。無駄な生き方をさせる。愚かな道を選ばせる。
人間は、間違った情報によって、狂ってしまうんです。
自分のことも、家族のことも、子どもたちのことも、今こそ、昔から絶対に変わらない、み仏の教え、御題目のご信心で守らなければなりません。
つくづく、そう感じています。
とんでもない時代に突入しました。
AIであっても、悪い情報を入れれば暴走します。国と国、民族と民族が争う時代。
きっと、それぞれがAIに悪い情報を入れて、戦わせることになるでしょう。
アメリカのAIと中国のAI、「情報戦争」に「リテラシー」はあるでしょうか?
AIを狂わせることは簡単です。間違った情報をインプットすればいい。
人間と同じです。
そうなった時代の恐ろしさは計り知れません。もう、終わりだと思います。
彼らは疲れません。AIを狂わせないための「教え」も仏教の中にあるはずです。
とにかく、今こそ、仏教の時代です。正しい教えを説かなければなりません。守らなければなりません。実践しなければなりません。
人間らしさの詰まった、究極の人間学です。
ただ一つの命、たった一度の人生を、幸せに生きるための教えです。
迷うことなく、罪障を消滅して、功徳を積み重ねて、生きる道を示してくださいます。
今生人界、この教え、このお寺、この御題目にお出値いできたことに感謝して、信行、ご奉公に気張らせていただきましょう。
では、本日の御教歌を拝見いたします。
御教歌に。
「つとむれば罪障滅しつゝしめば 身をおこすべき利益蒙る」
佛立開導日扇聖人、お示しの御教歌でございます。
「つとめる」、命を価値を知り、自分の使命や目標を明確にして、努力を惜しまない。
「つつしむ」、自分の愚かさを知り、慈悲の心を失わず、周囲と調和して生きる。
この二つを念頭に生きてゆけば必ず充実した人生になる。ゴールにたどり着ける。
佛立教講の人生の指針、「つとめ」「つつしむ」大事をお示しの御教歌。
御教歌再拝。「つとむれば罪障滅しつゝしめば 身をおこすべき利益蒙る」
なぜ、ここにいるのか。
なぜ、こうなのか。
なぜ、こんなことが起こるのか。
なぜ、この人と出会ったのか。
なぜ、この人と別れるのか。
なぜ、なぜ、なぜ。
答えは、どこにあるでしょうか。
すべてに理由があります。
すべて、突然、降って湧いた出来事ではないということです。
これは、楽しい話ではありません。
とても、受け入れ難い、冗談じゃないという人もいるでしょう。
何も悪いことはしていない、どうしてこんな目に遭わなければならないんだ。
そう言いたくなることも事実です。
赤ちゃんの病気や、あまりにも不幸な環境に生まれた子どもたちを見てみれば、それが「本人のせい」ということは、「仏教とはなんて冷たいんだ」と言いたくなります。
しかし、一人ひとり、果てしもない過去から、現在に至るまで、持って生まれた果報、謗法や罪障、ポジティブなカルマ、ネガティブなカルマ、様々なものを背負い、過去からの延長線上に立って、ここにいます。
とにかく、何もないところから、真っ白なところから、ゼロから、パッと生まれてきて、何もないところに消えていく存在ではないということです。
これは、絶対の真実、絶対の条件、絶対のことです。
お金持ちの人もいるでしょう。健康な人もいるでしょう。恵まれた人もいるでしょう。
貧しい人もいるでしょう。病気を持って生まれてきた、あるいは病気になってしまった人もいるでしょう。
人生の初めの頃は良かったけど、後半はどうしようもなくなってしまった。あるいは、最初はどうしようもなかったけど、徐々に良くなった、という人もいる。
本人の努力もあるし、周りの協力もある。本人の怠慢もあるし、本人の悪い面もある。周りの邪魔もある。
なぜか、恵まれている人もいる。なぜか、幸せに、穏やかに、生きている人もいる。
逆に、恐ろしい事件に巻き込まれて、恐ろしい目に遭わされて、トラウマを抱えてる、苦しんでいる、生きにくさを抱えている、つらく、悲しい日々を過ごしている人もいる。
人生です。人生の浮き沈み、アップダウン。いい人生、悪い人生。一人ひとり違う。
でも、ただ一つの命、たった一度の人生。
これだけは間違いありません。
仏教は、運命論ではありません。これだけは覚えておいてください。運命論ではない。
それぞれに、持って生まれた運命がある。はい、確かにそうです。
しかし、それは変えられないものか。いや、変えられる。そのために、ここにいます。
人生は、障害物競走、あるいはペナルティを課されたままスタートする人もいるし、シード権を持ってスタートしている人もいる。
でも、もうそれぞれにスタートしてしまっているのが「人生」なんです。
悔やんでも、うらやんでも、意味がありません。
好きとか嫌いとか、そういうことではなく、人生は挑戦であり、練習期間です。
だとしたら、逃げずに、あきらめずに、くさらずに、驕らずに、前を向いて、障害物を乗り越えて、飛び越えて、歩んでゆく、走ってゆくしかない。
そのために、南無妙法蓮華経の御題目があります。
そのために、お寺があります。
そのために、仏教があります。
持って生まれた謗法、罪障を消滅して、功徳を積んで人生の意味を最大化しましょう。
「つとむれば罪障滅しつゝしめば 身をおこすべき利益蒙る」
仏教は運命論ではありません。本当に、このことは忘れないでください。
偉大な仏教学者、インド哲学者の中村元先生は、
「仏教の思想は時間論と言ってもいい。それは『今を生きる』ということだ」
と話されていたそうです。どういう意味か分かりますでしょうか?
仏教は時間論。時間は別世界に、別個に存在しているわけではありません。
過去も現在も未来も一体で、現在の理解と解決こそが仏教の説く核心なのです。
お祖師さま、日蓮聖人の有名なお言葉があります。結論です。
「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ、
未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ。」
「過去の原因を知ろうと思うなら現在の結果を見なさい。
未来の結果を知りたいと思うなら現在の原因を見なさい」
現在を見れば過去が分かる、現在を見れば未来も分かる。むちゃくちゃシンプルです。
仏教は「だから今なのだ」と言います。叫びます。徹底的な「現在主義」なのです。
「現実主義」「リアリズム」ではない。「プレゼンティズム」という言葉も少し違う。
言うなれば「ナウ・アンド・ヒアイズム」「今」「ここ」主義、「現在主義」です。
今が不幸であれ、今が幸せであれ、永遠にその状態が続くことはない。
今しかないです。今があれば何でもできる。
過去に囚われた「現在」から抜け出してください。
未来を夢見て不安にならなくていい。今しかないのだから。永遠に「今」なんです。
これが「因果の道理」の正体です。
絶対に忘れてほしくない教えがあります。
それは「過去の事実は変えられないけど、意味は変えられる」ということです。
これが仏教です。これがご信心です。南無妙法蓮華経です。
「過去の事実は変えられないけど、意味は変えられる」
だから「今」なんです。
ここから、やるぞ、ここから、生きるぞ、生きれるぞ、ということです。
旧約聖書の「ヨブ記」、あまりご存知ないと思いますが、本当に西洋の人、ユダヤ教もキリスト教も、イスラム教を信じている人たちも、不幸だと思います。
ヨブは神を信じる敬虔な人物です。
しかし、天上界で神と悪魔、サタンが話し合う。
神は「ヨブの信仰心は本物だ」と絶賛しますが、悪魔は「いやいや、もしヨブに苦難を与えればその信仰は崩れるでしょう」と言う。神は「いや、そんなことはない」と言う。
そして、なんの罪もないヨブを題材に、恐ろしい試練が始まります。
まず、家畜が略奪され、羊や羊飼いが天からの火によって焼かれてしまいます。でも、ヨブはこの試練に耐えて神への信仰を捨てません。神は喜び、悪魔は悔しがります。
そして、次。子どもたちが集まっている祝いの会の最中、建物が崩壊してみんな死んでしまいます。これほどの不幸はありません。それでも神への信仰を捨てない。
悪魔は怒ります。自分が恐るべき病気にかかればさすがのヨブでも神を疑うに違いないと言って、身体中に激しい痛みをともなう皮膚病を与える。
それこそ、人生に降りかかる、さまざまな不幸、アクシデントも、トラブルも、怪我も、病気も、全部、神と悪魔の相談で起こってる。それでも信心を捨ててはダメだ、という。
「神は死んだ」とニーチェが言いたくなるのも分かります。
だって、これでは神を殺さなければ自由になれません。
仏教から見れば、これは宇宙の真理ではない。そんな運命、運命というか、神と悪魔が決める幸せや不幸は、真実ではありません。
「過去の事実は変えられないけど、意味は変えられる」
だから「今」。そのための、南無妙法蓮華経。そのための、ご信心。
一週間前はスリランカで御会式でした。大白蓮寺、本堂いっぱい、入りきれません。
スリランカの大白蓮寺に「アチンタ」という青年がいます。
優秀なカメラマンで、前回の八月は同じくカメラマンでご奉公しているディヌーシャ君のお友だちとして、ボランティアで撮影をしてくれていました。
あくまでもボランティア。彼は上座部も信じていなかったし、宗教とか信仰とか興味がないと言っていたからです。
しかし、実は、彼の心には深い傷がありました。彼には結婚の日取りまで決まっていたフィアンセがいました。その彼女がどうしても必要ということで六百万スリランカルピーを貸しました。叔父さんから借りたそうです。
しかし、その後、彼女は消えてしまった。消息不明。音信不通。アチンタ君の心は深く傷つきました。もう誰も信じられない。どうしようもない。
去年の八月、僕はアチンタ君に
「ご信心をさせていただかなければ罪障消滅は出来ないよ」
と言ったそうです。全然記憶がない。しかし、その言葉は彼の心に響いたと言います。
彼は良潤師に自分の胸の内を相談しました。
良潤師は、
「入信するかしないか決める前に、まずはお寺にお参りしてみたらどうですか?そして、自分でとにかく御題目を唱えてみてください。きっと、あなたには心のトリートメントが大切です。南無妙法蓮華経の御題目を唱えれば心のトリートメントが出来るのです。」
「心のトリートメント」、初めて聞きました。罪障消滅のことです。
そして、彼は朝参詣をスタートしました。毎日毎日、お寺にお参りしました。
すると、次々ととんでもないことが起こる。
今まで来なかった仕事の依頼が次々と入るようになる。除夜法要にお参りした時には、帰ってみたらずっと待ち望んでいたスタジオが空いて突然入れることになる。
ロータスカフェのご奉公をしていたら、そのご奉公中に取り扱っている商品のモバイルバッテリーの三百個の注文が入る。これらはあり得ないことで、本人がビックリしてる。
今回僕がいた時の出来事で、あまりにも不思議で、この売上の二割を御有志させてください、と申し出ていました。
そして、彼はメンバーになりました。
彼は良潤師に言ったそうです。
「こうして仕事で次々と不思議な御利益をいただきましたが、一番の現証の御利益は自分の心が変わったということなのです。私は自分の人生に起こる全ての出来事の受け止め方が変わったのです。これが一番の御利益です。」
過去は変えられない。でも、過去の意味は変えられる。
過去の意味を変えて、より良い今を生きられていますか?ということです。
それが出来るのがご信心です。
今回のスリランカで僕はアチンタのことを「アチンタ御導師」と呼んでいました。
一番のお手本だからです。歓喜踊躍、初随喜、感激、感謝。
つとめ、つつしむ、そのご信心。
ただ「これは初回限定御利益なので気をつけなさい」とも伝えました(笑)。
みんな、最初は、言われた通りにすれば、劇的な現証の御利益をいただきます。
しかし、またそこから、試される期間が始まるのです。
「罪障消滅トライアル期間」「定業能転チャレンジ期間」です。
今度は簡単にクリアできません。
なかなか御利益も現れない。謗法や罪障と向き合う期間です。
クリアする条件は「古法華にならないこと」です。
まさに「つとむれば罪障滅しつゝしめば 身をおこすべき利益蒙る」です。
お祖師さま、日蓮聖人の御妙判に。
「悦ばしからん時も今生の悦びは夢の中の夢、霊山浄土の悦びこそ実の悦びなれと思食合せて、又南無妙法蓮華経と唱へ、退転なく修行して、最後臨終の時を待て御覧ぜよ。」
松野殿御返事・昭和定本一二七三
「深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし。何様にしてか磨くべき。只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり。」一生成佛鈔・昭定四四
どうか、とんでもない時代だからこそ、心だけは健康に、病まずに、迷わずに、ご信心をしっかりと強くして、乗り越えましょう、幸せになりましょう。
過去の事実は変えられないけれど、意味は変えられる。未来は変わるのです。
「つとめる」、命を価値を知り、自分の使命や目標を明確にして、努力を惜しまない。
「つつしむ」、自分の愚かさを知り、慈悲の心を失わず、周囲と調和して生きる。
つとめ、つつしみ、素直に、正直に、ご信心に励み、みんなで幸せのゴールへとたどり着くことが大事大切とお教えいただく御教歌でございます。
故に御教歌に「つとむれば罪障滅しつゝしめば 身をおこすべき利益蒙る」
2024年12月25日水曜日
【12月門祖総講】自分との戦いに打ち勝て【長松清潤ご住職】
御教歌
「悪友はおのが心にあるものを ほかより来るとおもひける哉」
敵は自分の中にいる。
勘違いしてはいけない。思い違いをしてはいけません。
疑い、迷い、誇り、怠り。
謗法、罪障、慢心、懈怠。
戦わなければならない相手はたくさんいますが、何より自分に負けてはならない。ただ一つの命、たった一度の人生、一日一日を大切に、御本意に叶うように、約束の道、ご信心、ご奉公、菩薩行に励むことが大切とお示しの御教歌。
オーストラリアの山村光子ベインさんは、先住松風院日爽上人の乗泉寺時代のご学友、12月31日が祥月ご命日の山村日光上人のお嬢さまです。日光上人は熱海 妙立寺のご住職をされておられ、今から20年ほど前に妙深寺の御会式の奉修御導師をお勤めくださいました。
先住と山村御導師、大学生だったそうですから、乗泉寺の同室で一緒に寝起きしながら大好きなジャズを聴いたり、映画を観たり、貴重な学生時代を過ごされたそうです。
山村御導師が妙深寺の御会式を奉修してくださった時、光子さんとご主人のアラスターも来てくださいました。シンポジウムのようなことをしてみんなで交流いたしました。
あれから20年。何と光子さんはたった一人でオーストラリアのクイーンズランド州、8年後にはオリンピックの開催が予定されている新興都市ブリスベンで、一人ひとりをお教化なさり、徐々に、徐々に、丁寧に、丁寧にご奉公なさって、長谷川御導師や松本御導師のご教導をいただきながら、八王子清流寺クイーンズランド組を創設、今では学徒の方もおられ、十数人の方々がご信心しておられます。
佛立新聞でも度々ご披露されていますから、ご存知だと思います。
本当に、すごいことで、心の奥底からありがたいと思っています。
光子さんとはこれまでもずっと繋がって、オーストラリアから励ましていただいたり、遠くから応援させていただいたりしてきました。
光子さんのご信心は、それはそれは本物の、見事なものです。
ご宝前は生きておられる、お看経が第一、何はなくともご宝前に座り、御題目をお唱えさせていただけば、必ず答えは出てくる、現証が顕れる、というもの。
そう、佛立魂です。見習わせていただきたいと、いつも思います。
寂光で、山村御導師と先住が現在の娑婆世界をご覧になっておられて、そこにいる私たちのご奉公を見て、どんな話をしておられるだろう。
私は、山村御導師は間違いなく光子さんのご奉公を誇らしく、ありがたく、尊く思っておられて、胸を張って、先住にお話くださっているのではないか、と思っています。そのようにお話ししています。ありがたいことです。
そんな光子さんのお母さまはご信心をしていない家庭から山村御導師に嫁がれました。ですから、佛立第15世ご講有・大本寺 乗泉寺の日晨上人は特別なご配慮をもって光子さんのお母さまに接してくださっていたそうです。
そんな山村御導師の奥さまが、ある時、日晨上人に「ご信心とは何でしょうか?」とお聞きになったそうです。もしかしたら、奥さまも何か壁に当たっておられたか、悩んでおられたのかもしれません。
すると、日晨上人は、たった一言、次のようにおっしゃいました。
「戦いだよ」
すごい!と思いました。忘れてはならないと思いました。
本当に、光子さん、山村御導師、奥さま、もちろん日晨上人、すごいです。
そうなんですね、ご信心とは戦いなんですね。
末法でご奉公する、ご信心する、簡単なことなんて、何一つないんです。
三災七難盛んに起こり、三障四魔、粉然と競い起こる。
あり得ないほど、苦難や困難に直面する。
自分の身の上も無常。生老病死、末法の世間も世知辛く、厳しい。
無茶苦茶、グチャクチャ、油断していると、とんでもないことになるんです。
だからこそ、のんびりしていて、成就するご奉公はない、ご信心はないんです。
そういうことになります。
光子さんのご信心、ご奉公を見ていて、ご両親の凄さが分かる。本物であることが分かる。
もし、教務であっても、ご信者であっても、大事なところを忘れて、お看経もしない、お給仕もできない、ご弘通できない、お教化したこともない、そうであったらどうか。
ただの学者、研究家、オタク、あるいは政治家のようになって、ご弘通ご奉公を忘れていたら、「親の顔が見たい」ということになる。
「親は何を教えていたんだ!」
こんな情けないこと、恥ずかしいこと、申し訳ないことはありません。でも、ギリギリ、そういうことが多く見られます。
「ご信心は戦いだよ」
この言葉の意味を深く深くいただかなければなりません。
しかも、今日の御教歌をよく拝見してください。
「悪友はおのが心にあるものを ほかより来るとおもひける哉」
外側に敵がいるのも当たり前。でも、本当の敵は自分の中にいる。
悪友は外にいて当たり前。いや違う。自分の中にいる。
そいつに負けてはダメなんだ。
そいつにやられてはダメなんだ。
そいつに流されてはダメなんだ。
そいつにそそのかされてはダメなんだ。
悪友、悪い友だちは、自分の心の中にいるんです。
外からウロウロ隙を窺って近づいてくるんじゃない。もう内側にいる。いつもいる。
とにかく、勝負していない人はダメ、ということになります。
勝負していない人はニセモノ。
戦い。
誰との戦い?
自分との戦い。
謗法との戦い
罪障との戦い。
「信行は山に車をおす如く 手をやすむれば谷におち入る」
状況が悪くなると「なんでだ」と考え込んでしまう。
「どうしてこんなことになってしまったんだ」と。そして、人生を振り返る。その時は見えていなかったことを、ゆっくり振り返ってみる。
すると、一番簡単な結論にたどり着く。
「あぁ、アイツが悪い」
「あの人のことを信用したからいけなかった」
「あの人に騙された」と。
違う。
自分に負けてるからだ、逃げてるからだ、戦っていないからだ、と。
開導聖人の御指南。
「すえのよのわれら如きの悪人は、御題目より持つ法なし、弘め弘めて弘め死にせよ、折伏をして万人ににくまるゝとも、教主釈尊おひとりにほめられたらばそれでたんのう」
自分と闘い、自分に勝つ。
謗法の心、懈怠の心、「これで我よし」と思う心です。
ダメです。それでは。
御本意に叶うようにご奉公しなければ果報を使い果たして終わる。
勝負して、勝って、胸を張って、寂光参拝の功徳をいただきなさい。
自己否定もダメ。でも自己肯定感だけでもダメです。菩薩行が大切なのだから。
負けないで、親の顔が見たい、ではなく、親に誇れる生き方、信行ご奉公に気張らせていただきましょう。
故に御教歌に「悪友はおのが心にあるものを ほかより来るとおもひける哉」
【12月教区お講】感謝感動を身体中で表そう【長松清潤ご住職】
御教歌
「いか計うれしき事のあるやらむ みるにゑまるゝみるにゑまるゝ」
ご信心は感謝と感動です。
苦しかった時、だからこそ、助けていただいた時、御利益をいただいた時、その歓喜、感激、感謝、感動を忘れず、忘れていたら思い出し、奮い起こし、信行ご奉公に気張らせていただきましょう。
本門佛立宗の本物のご信者さん、お教務さん。誰が見ても、全身から喜びが溢れているような人、「歓喜踊躍のご信心」、その大切さを感得させていただく御教歌。
どれだけ嬉しいことがあったんだろう。見ていてこっちまで笑顔になる、見ていて思わずこちらまで微笑んでしまう。
そんなこと、ありますよね?
「うわー、あの人、幸せそうだなー」「なんかいいことあったのかなー」「いいね!」と。
もし、そういう人を見て、
「なんだヘラヘラしやがって」
「幸せそうでムカつく」
「イライラする」
となっていたら、もう鬼、ガキの心、修羅の心が出ていますね。これはヤバい、マズいです。お看経してください(笑)。
幸せな人を見ていたら、こちらまで幸せな気持ちになる、思わず笑顔になる。
「笑う門には福来る」
いつも笑顔で、笑っている人には、幸せが訪れる、という意。
「和気財を成す」という言葉もあります。「和気」とは楽しくて仲が良さそうな雰囲気のこと。
「楽しくて仲が良さそうな雰囲気の所には自然と運気がやってくる。だから「財を成す」「お金が入ってくる」「お金が貯まる」という意味の諺。うまく行っていない時でも、雰囲気を良くするように心掛けると、徐々に運気が回復してくる。うまくいっていないから暗くなる、元気がなくなる、イライラする、塞ぎ込んでいるようでは、そこからずーっと抜け出ることができないでしょう。もったいないです。
さて、いかがでしょうか?
どんな顔、どんな心、どんな気持ちで、毎日を過ごしているでしょうか?ご信心させていただいているでしょうか?
仏像ではないけれど、普通の人は仏教の悟りの世界は、静かで笑いもしない、無表情ななんとも言えない凡人には分かり得ない世界だと思っているのではないでしょうか?
確かに、スリランカの上座部仏教、テーラワーダのお坊さんは笑わないです。
説明すると難しいのですが、笑うことは戒律で禁じられている。
ところが、お経の王様、法華経に示されたことは違うんです。悟りの世界、その心持ちというのは、歓喜、感動、躍動する喜びの世界だというのです。
法華経の様々な場面でこのことが説かれています。
法華経の方便品には
「諸の疑惑なく心に大歓喜を生じて自ら当に作仏すべしと知れ」法華経 方便品 第二
譬喩品には
「心大に歓喜し踊躍すること無量なり」 譬喩品 第三
「我等今日仏の音教を聞いて歓喜踊躍して未曾有なることを得たり」譬喩品 第三
とあります。本門八品を締めくくる嘱累品第二十二も最後の言葉は「歓喜」です。
「仏の所説を聞きたてまつりて、皆大いに歓喜す」嘱累品第二十二
凡夫ですから、笑いを難しく考えても仕方ないです。
嬉しかったら、表情に現れる。全身から「ああ、あの人、いいことがあったんだね」と分かるくらいの喜び、感謝、感動、それは踊り出すほどなんです。
「踊躍」っていうのは「喜んで、おどり上がること。とびはねること。」です。
難しく考えず、法華経の教えでは、末法の凡夫、ありのままに、みんなで、どこにいても、誰が見ても、「ああ、あの人を見ていると、こちらまで幸せになる、元気になる、思わず笑顔になる」というようなご信心が出来たらいい。
なかなか、出来ない。しかし、そこが、ここが、目標、修行です。
本門佛立宗のご信心では「宗論問答無益」という教え、ルールがあります。宗論、つまり教義を戦わせて、議論しても、意味がない、メリットなし、だから禁止、やめておきな、ということです。
では何を戦わせるか、何で勝負するか?どうやってお教化するか、法灯相続するか、ということになります。
本門佛立宗の場合、それは現証くらべ、御利益で勝負する、随喜比べ、御法さまへの、御利益をいただいたことへの、感謝、感動、歓喜、感激を比べる、ということになります。
そのくらい法華経に示されている信者の姿、弟子の姿「歓喜踊躍」は大切なのです。
信心とは随喜です。
信心とは本心です。
本心が随喜です。生きているから随喜です。喜べないのは罪障です。感謝や感動を失うのは本心ではなく、謗法や罪障にやられているからです、負けているからです。
「古法華利益なし」
このように考えると、古法華とは謗法と罪障に逆戻りした人のことです。
そうなってはいけません。
頭でっかちになり、慣れて、揺れて、慢心していると、罪障にやられてしまいます。
生きていれば、つらいこと、苦しいこと、寂しいこと、イライラすることばかりです。
ご信心でも、末法では簡単じゃない、難しい、行き違うこと、すれ違うこと、いっぱいあるし、「なんでこんなことしなきゃいけないの」「なんでそんな言われ方しなきゃいけないの」「なんで」「どうして」と思うこともたくさんあります。
でも、それでも、法華経のご信心の、お祖師さまの教え、本門佛立宗の本物の教えとはなんなのか、しっかりといただいて、しっかりと貫いていかなければなりません。そうでなければもったいないです。
謗法に負けてはダメ、罪障にやられてはダメ。
日蓮聖人のお言葉(御講聞書)。
「所詮、信と随喜とは心同じきなり。随喜するは信心なり。信心するは随喜なり。」
開導聖人の御指南
「うれしさ身にも心にもあまりてをき慮なし。歓喜踊躍これなり。捨身決定して励むべき也」扇全五巻四〇〇頁
「佛立講の初心の題目の行者。此義趣を心腑に染付て、歓喜踊躍して今生人界の思出と口唱すべき也」扇全十四巻三九四頁
「他人の信心にも随喜すべしそねむは謗法なり」御書抄(全)扇全十五巻三三〇頁
どうか、ご信心は感謝と感動です。感謝、感動のないご信心はございません。
なければ、反省、改良するしかありません。
苦しかった時、だからこそ、助けていただいた時、御利益をいただいた時、その歓喜、感激、感謝、感動を思い出し、奮い起こして、信行ご奉公に気張らせていただきましょう。
本門佛立宗の本物のご信者さん、お教務さん。誰が見ても、全身から喜びが溢れているような人、「歓喜踊躍のご信心」に励むことが大事とお教えいただく御教歌です。
故に御教歌に。「いか計うれしき事のあるやらむ みるにゑまるゝみるにゑまるゝ」
【12月高祖総講併大御本尊会式】死後持っていけるのは功徳だけ【長松清潤ご住職】
御教歌
「箸かたし持てはいなぬ娑婆のもの 身にそふものは功徳ばかりぞ」
ただ一つの命、たった一度の人生を、驕らず、迷わず、本当に大切に、悔いなく過ごすため、リアルに、具体的に、覚悟しなさい、生き方を定めなさい、と教えてくださいます。
あの世に持っていけるものと、持っていけないもの。
持っていけると思っているものは持っていけない。
自分のものだと思っているものは自分のものではない。必ず手放す時が来る。置いていかなければならない時が来る。
人間にしかできない、ご信心にお出値いした佛立仏教徒にしかできない生き方、まさに一日一日を大切に、功徳を積み重ねる大事をお示しいただく御教歌。
御教歌では「お箸一本も持っていけない」ということをお示しになられています。
お気に入りのお箸も、お茶碗も、お湯呑みも、お洋服も、大好きなテーブルも、イスも、一生懸命に集めた小物、気に入っているグッズも、何もかも、ただの一つも、持っていけない。
もっと言えば、愛する人も、家族も、奥さんも、ご主人も、一緒に行ってはくれない。
一生懸命はたらいて、なんとか節約して貯めたお金も、一円、一銭も、持っていけない。
ただ一人の旅です。
つまり、功徳しか無い。そう教えていただいています。
娑婆のものは持っていけない。あなたの身に寄り添うものは「功徳」しかない。
功徳、です。もちろん、実際には「罪障」も「謗法」あります。
今生、この一生で積み重ねた善悪の所業、カルマ、その行為、そのエネルギー、功徳と罪障、謗法のシナジーが、あなたの魂に寄り添うのです。
それだけです。
いかがでしょうか?
大丈夫ですか?
ハッキリさせなければ分からないことがあります。
曖昧なままでは決断できないことがある。
ハッキリさせるためには「死」について考えることです。
それを、もっとリアルに、しっかり、じっくり、見ることです。
そして、見ているだけではなくて、生きている間にできていること、死んだら出来なくなること、もっと言えば、あの世に持っていけるものと、持っていけないものを、しっかりと区別して、自分の周りのものを見てご覧、ということです。
「はい、全員荷物を置いてください。バックも置いてください。携帯も置いてください。お財布?ダメです。はい、洋服も脱いでください。パンツ?ダメです。抜いてください」
それで「たった一人で旅に出てください」と言われて、外に出されて、耐えられますか?
とてもとても恐ろしい。それじゃ刑務所です。留置場です。
丸裸にされて、検査されて、放り出される。
取調官の前に、裁判官の前に、放り出される。
ついてくるのは、功徳だけなんです。
何をしたの?どうしたの?できたの?できなかったの?やっちゃったの?やったの?
功徳か、罪障か、謗法か。
開導聖人の御指南。
「さて逗留中のはたごだに用意せば、家蔵所領諸道具迄裟婆の宿やの世界の物也。必々箸かたし。ぬすみもちかへることなかれ。故に御弘通御奉公を一大事として高名手柄に油断有べからず。これを大金もうけをしたりと申す。この大金もうけとはただ今仏果にかなふをいふ也。心得違ひすべからず」14-190
お箸一本、盗んで持ち帰らないようにしてください。持ち帰ることはできません。
そうお示しです。
また別の御指南に。
「故に御弘通御奉公を一大事として高名手柄に油断有べからず。これを大金もうけをしたりと申す。この大金もうけとはただ今仏果にかなふをいふ也。心得違ひすべからず。」
命のある限り、功徳を積ませていただきましょう。
御教歌
「己が身につみし功徳は火にもやけず 人もぬすまず持て行なり」
ただ一つの命、たった一度の人生を、驕らず、迷わず、本当に大切に、悔いなく過ごすため、リアルに、具体的に、覚悟しなさい、生き方を定めましょう。
人間にしかできない、ご信心にお出値いした佛立仏教徒にしかできない生き方、まさに一日一日を大切に、功徳を積み重ねる大事をお示しいただく御教歌でございます。
されば御教歌に。
「箸かたし持てはいなぬ娑婆のもの 身にそふものは功徳ばかりぞ」
2024年12月4日水曜日
【12月月始総講】喜びのない信心はない【長松清潤ご住職】
御教歌「うれしさを忘れぬ人ぞ世の中の 人にすゝめて法を弘むる」
御教歌「さとれるをさとらずといひさとらざる 信者をさとるといふ宗旨也」
「諸の疑惑なく 心に大歓喜を生じて 自ら当に作仏すべしと知れ」法華経 方便品 第二
「様々な疑惑を持つことなく、心に大歓喜を起こして、自らまさに成仏すると知りなさい」」
植木雅俊先生訳
「だからこそ、世間〔の人々〕の教師であり、保護者であるブッダたちの深い意味が込められた言葉を知って、疑惑を捨て、疑念を取り除くならば、あなたがたは、ブッダとなるであろう 。〔だから〕あなたがたは歓喜を生じなさい。」
「歓喜踊躍(かんぎゆやく)」 妙法蓮華経譬喩品第三
「我等今日 仏の音教を聞いて 歓喜踊躍して 未曾有なることを得たり」
「仏の所説を聞きたてまつりて、皆大いに歓喜す。」法華経 嘱累品 第二十二の結びの御文
妙法蓮華経 五百弟子受記品第八は、その冒頭から「踊躍」という言葉。
「貧人此の珠を見て 其の心大に歓喜し」五百弟子受記品
「御義口伝(おんぎくでん・六老僧 日興上人による日蓮聖人 講義録)」
「此の文は始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり。」
「御義口伝」 全文
「五百品
・日本国一切衆生
・題目御本尊
・心法色法
・煩悩即菩提生死即涅槃
貪人見此 珠其 心大歓喜
信心ノカタチ
此の文は、始めて我が心、本来の佛なりと知るを即ち大歓喜と名く。所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり。」御義口伝・昭和定本2708
同じく「御講聞書(おんこうききがき・六老僧 日向上人による日蓮聖人 講義録)」
「一貧人見此珠其心大歓喜の事。
仰に云く、此の珠とは一乗無価の宝珠なり。貧人とは下根の声聞なり。惣じては一切衆生なり。
所謂、末法に入つて此の珠とは南無妙法蓮華経なり。貧人とは日本国の一切衆生なり。此の題目を信じ奉る者は心大歓喜せり。
されば見宝塔と云ふ見と此の珠とは同じ事なり。所詮此の珠とは我等衆生の一心なり。一念三千なり。此の経に値ひ奉る時、一念三千と開くを珠を見るとは云ふなり。此の珠は広く一切衆生の心法なり。此の珠は法の中にある財用なり。一心に三千具足の財を具足せり。此の珠を方便品にして諸法実相と説き、譬喩品にては大白牛車、三草二木、五百由旬の宝塔、共に皆一珠の妙法蓮華経の宝珠なり。此の経文色心の実相歓喜を説くと見へたり。
見此珠の見は色法なり。其の心大と云ふは心法なり。色心共に歓喜なれば大歓喜と云ふなり。
所詮此の珠と云ふは我等衆生の心法なり。仍て一念三千の宝珠なり。所謂、南無妙法蓮華経なり。」'御講聞書・昭和定本2574
同じく法華経に示された十四誹謗の一つに「顰蹙(ひんじゅく)」ある。意味は「しかめっ面
」=「正法正師を見て顔をしかめて非難する」。
「感動」の反対。「顰蹙」あるいは「無関心」を装うこと。
これらは「謗法」「罪障」
「うれしさ身にも心にもあまりてをき慮なし。歓喜踊躍これなり。捨身決定して励むべき也」扇全5巻400頁
「悌立講の初心の題目の行者此義趣を心腑に染付て、歓喜踊躍して今生人界の思出と口唱すべき也」扇全14巻394頁
「口唱にあらでは利益蒙りがたく、歓喜にあらざれば信者と申ものになし。われと。わかでに。今度の成仏のなるや、ならずは、知らるる也。」4/179扇全4巻179頁
「障未除者爲怨の事」扇全16巻126頁には明確にお示し。
「関目抄(三二オ)
妙楽云。障り未だ除かざる者を怨と為し、聞く事を喜ばざる者を嫉と名づく。
自ら喜び難き。これ罪障也。
睡眠、退屈、懈怠等、皆サハリ也。
弘法の為に身を働かし心を用ふること喜ばれざる者、これ未徐者也。」
「この障りを除きて
喜んで説き
喜んで聞き
喜んで口唱読誦する者
喜んで法筵をもうけ
喜んで供養し
喜んで人を誘引して参詣し
喜んで供養を受け、する者
法華経の持者、弟子、旦那の菩薩也。
この怨嫉を除き
人の怨嫉を責めずんば
何ぞこれを菩薩と言わん。
何ぞこれを佛子と言わん。
何ぞ供養を受けることを得んや。
人身を得、大法にあい
喜ばざるは
これを信者、行者と云ふべきや。
何ぞ成仏することを得ん。
もとより成仏を願はぬ者也。」
扇全十六巻一二六頁
御仏の、法華経の御法門をよろこんで聴聞できない者は仏法を怨み、嫉む者である。自分の背負っている罪障が深いからこそ、喜べないのだ。
気をつけなさい、罪障に負けていてはいけない、御利益もいただけない、と。
この妙楽大姉の御指南は、ご信心前を計る尺度です。
つまり「喜び」「随喜」「感謝」「感動」の有無が、本物か、ニセモノかの指標。
日蓮聖人の御妙判。
「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ。」崇峻天皇御書・昭定一三九七頁
お祖師さまのこの御妙判の御意をいただけば、その人の表情や言葉や所作振舞に「喜び」「感謝」「感動」が表れているか、いないか、という点こそ大事。
それが、本物か、偽物かを判断する指標。
すでに、あなたの顔に、言葉に、行動に、現れているのです。
この「喜びの有無を、自分の生活やご奉公に当てて省みてみる。食事をする、食事を作る、会社に行く、仕事をする、お参詣する、お給仕する、法城護持をする、その生活の場面、場面に、喜びがあるか、ないか。
開導聖人は、
「自ラ喜ビ難キ。コレ罪障ナリ」
「喜んで聞かざるは仇」
とお示しです。
喜びが無いということは仏道修行をしている仲間のようで実は反対側にいる「敵」のようなものだということです。
感動のない、元気のない、笑顔のない者は「未除者」「謗法と罪障にやられている者」ですから、三類の強敵、「俗衆増上慢」「道門増上慢」「僭聖増上慢」であると心得ましょう。
ニセモノにならないように修行してください。
南無妙法蓮華経
ありがとうございます。
カルパ・ウダンタさん体験談/Speech by Mr. Kalpa Udantha on his faith & practice
ありがとうございます。
スリランカのカルパ君が妙深寺ネパール別院・カトマンズ親会場の開堂式でしてくれた体験談に、日本語のテロップが付きましたので是非ご視聴いただきたいと思います。随喜と感動、情熱に満ちた素晴らしい体験談です。
ちなみにテロップは有馬清朋師が付けてくれました。ありがとうございます。
よろしくお願いいたします。
南無妙法蓮華経
ありがとうございます。
長松清潤拝
2024年8月19日月曜日
ブラジルでご紹介した体験談。みんなで涙しました。
ポルトガル語のテロップを付けていただいた創太くんと猿谷さんの体験談です。
昨日の日教寺、新本堂初のお総講でご紹介させていただきました。
聴聞させていただいたブラジル教区の皆さんが涙を流しながら感動してくださっていました。
本当に、ありがたいです。是非、ご視聴ください。
若い二人が「生きた仏教」を証明し、世界中に示してくださっています。
仏教は難解な哲学ではなく、個人が悟りを得るためのものでもありません。ましてやビジネスなどではありません。
苦悩を抱えた人間が支え合い、助け合う菩薩行。その実践の中に悟りがあり、醍醐味があります。
自力でもなく、他力でもない、経力と仏力、信力の3つの力を和合させることによって救われる生きた仏教。
南無妙法蓮華経
ありがとうございます。
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