2011年12月31日土曜日

死を覚悟した年が終わる

2011年、平成23年が終わろうとしている。慌ただしさも例年と変わらない。穏やかさも変わらないような気がする。しかし、あの東日本大震災によって、決定的に人生を狂わされた方々がいる。被災地にも、仮設住宅にも、年の瀬が迫っている。私たちに、その灯り一つ一つの下にいる方々の気持ちを察することが出来るだろうか。昨夜、このタイミングでおせち料理などをお持ちすべきではなかったかと考えていた。考えているだけではダメだ。行動できなければ意味はないのだから。

昨日、秋山ご住職と電話でお話をして、3月11日のご回向のことや、ゴール市に「陸前高田ものがたり」を届けた報告をした。まだ、みんな、あの時の気持ちのままだ。妙深寺では、あの高祖会でこれまでの支援活動の集大成、全てを出し切った。しかし、それもひとつの通過点に過ぎないのだから。

今年、多くの人が「死」を意識し、覚悟したのではないだろうか。あの大震災当日のこと、テレビから流れてきた黒い津波の映像、その後の余震の中でのこと、原子力発電所が制御不能に陥っていた数日間を思い出してみて欲しい。あの時、誰もが祈るような気持ちになっていたと思う。

人間の限界、大自然の力を前にした無力さ、そして、人間の過信が引き起こした不測の事態。

世界の終わりさえ頭によぎったのではなかったか。

私は、一年を振り返って、痛烈に思い出すのは、死を覚悟したことであり、世界の終わりを実感したことだった。

3月12日から生きた心地がしなかった。ただ、ひたすら、祈った。チェルノブイリで被曝し、甲状腺癌を発症した妻を持ち、少ながらず子どもたちの将来の健康を心配していた自分。そして、放射能汚染の恐怖を学んでいたつもりの自分にとって、「制御不能」という事態が何を意味しているか痛いほど分かった。今でこそ「メルトダウン」や「チャイナシンドローム」という言葉が知られるようになっていたが、あの日、あの時、身震いするほどその恐怖を感じていたし、その現場で収束作業に当たる原子力発電のプロたちが直面している危機や恐怖も痛切に感じていた。

3月12日、ブログに「メルトダウン」が起きている可能性をアップし、今では笑われるかもしれないが、「換気扇まで閉めること」「決して外気を吸わないように」「できればヨード剤を摂取するように」と書いている。自分の慌てぶりが分かる。しかし、あの時、将来いくら笑われても良いと思っていた。放射能被害の実態は、すぐには分からない。原発近くに住む方々、特に子どもたちが、将来にわたって健康であったらいいではないか。「あの慌てていた馬鹿な住職」
と言われても、笑って、喜んで、謝ろうと思っていた。パニックになることはいけないとも書いたが、チェルノブイリの時と同じような過ちを犯してはならないと思っていた。

あの時、原発に近い住民の方々を段階的に遠隔地に避難いただくべきだとも書いた。収束の目処が付いたら7月か8月に帰宅できるのだからと説得して、早急に避難すべきではないかと考えていた。今でも、そうすべきだったと思っている。故郷を離れたくない気持ち、経済的な保障をどうするかなど、考えれば切りがないが、そうした判断が必要だったと考えているし、その後も除染の方針が固まり、実施が為されるまで、過疎化の進む地域の校舎などを全国に募って、せめて子どもたちの疎開生活を国家をあげて成立させるべきではないかと考えていた。すべて、過去形であることは極めて残念極まりない。結果的には住民に何の説明もなく大型バスに強制的に乗り込ませ、彼らを移住させたチェルノブイリ事故当時のソビエト政府よりも、対応は後手に回ったという印象を、私は持っている。民主的であることは、時に災禍を広げてしまう。

3月17日、18日、19日の気持ちは、言葉にするのが難しい。特に、首都高速羽田線の上で思い浮かんだ気持ちは、誰にも想像がつかないと思う。

緊急車輌指定を受けて、北上することに決めた。茨城県、福島県、宮城県への支援物資の運搬である。何かをしなければならないと考えていたし、原発事故の収束がままならない今だからこそ、普段から外護を受けて生きている僧侶が佛立菩薩として実践行動に出るべきだと考えていた。消防士の方々が、死を決して福島第一原発などの現場に向かう中で、「僧侶もファイヤー・ファイターである」と信じている私たちが何かをすべきであると信じていた。

しかし、恐ろしい恐怖が、あの高速道路で浮かんだ。子どもたちの顔も浮かんだ。真っ暗な高速道路。清康が隣りにいたが、無言の車内だった。

続々とメールが届く。外資系企業のアメリカ本社からのメールを送ってくださった方もいた。事態の深刻さを伝えていた。身震いした。身悶えるような思いになった。

ふと「家にいたらよかった」という情けない気持ちが浮かんだことを告白したい。本当に、浮かんだ。「何も俺がすることはない」「俺は本当に馬鹿だ」と、一瞬、思ったのだった。

恐怖が、そうさせたのかもしれない。これが、実際の心境だった。もちろん、それは一瞬の心境で、その後は常に燃えていた。ただ、恐怖があったのは事実だった。

3月18日の深夜、福島第一原子力発電所から35キロ地点。ガイガーカウンターが鳴り響く車内。すでに水戸で現信師と会った後で、その時は覚悟が決まっていたが、清康と二人、やはり、確かに死を思った。密閉された車内で、警報音を鳴らしながらグングン上がっていくガイガーカウンターの数値を見ながら、私たちは背後でさらなるメルトダウンが起きていると思っていた。アクセルを、めいっぱい踏み込んだ。

年の瀬。一年を振り返り、あの日の気持ちが強烈に蘇った。そして、あの時の気持ちを持ち続けて、一年を過ごせただろうかと思い返す。

シリアスな報道番組もあるが、やはり、まるで、何もなかったかのように賑やかなテレビ番組、コマーシャル。正月が来る。

スリランカで、息子が突然懐かしいコマーシャルソングを歌った。「こんにちワン」「ありがとうウサギ」「こんばんワニ」「さよなライオン」などのコマーシャル。大震災直後、あのようなコマーシャルばかりが流れていた。あの時、日本は本当に危機を迎えていたのだ。それは、本当の危機だったのだ。余裕など、なかった。

いま、やはり余裕がある。それは悪いことじゃない。幸せなことだ。必要なことでもある。しかし、あの時の危機や恐怖から、忘れてはならないことを見つけなければならないと思う。

原発は、日本の代表する巨大企業の多くが参加する複合商品であり、しかも売切りの商品ではなく、一度も売れば年次ごとに膨大な管理費が手に入る。つまり、恒常的な売り上げを保障する日本の第一級の商品なのである。この流れを変えることは一筋縄ではゆかない。マーケティングで言えば、B to BでもC to Cでもない。「Customer」を「Country」に変えれば「C to C」とも言えるが。

いずれにしても、この危機を体験した私たちにしか出来ないこと、選択できないことがあると思う。それは、あの経験を本当に忘れずにいなければ、出来ないことだと思う。パラダイムシフト、考え方や価値観の劇的な転換が求められていると思う。全人類的なパラダイムシフトを起こせるのは、日本人だけだと思う。

とにかく、死を覚悟した年が終わる。

大晦日の夜明け

大晦日の夜明け。

2011年12月30日金曜日

坂本龍馬の『藩論』

世界的な金融危機や日本の財政破綻を目前にした消費税増税の可否、与野党の迷走を見るにつけて、龍馬の「藩論」を思い返す。

年内の出版を期した「仏教徒・坂本龍馬」も実現は来年に持ち越しとなってしまった。一般書としての校正作業により時間をかけなけえればならない。今こそ、この龍馬の本が世の中に必要だと信じて止まないのだが。

坂本龍馬の政見と言われる「藩論」には、冷徹な彼らの政治信条が述べられている。

「然レトモ其多才ヲ稟ル者寡ク其浅智ヲ賦スル者衆シ。故ニ下民ハ大率愚ニシテ一事安ヲ易ルノ小害ヲ忌ミ、朦朧トシテ大利ノ在ル処ヲ弁セス。夫レ薬ヲ飲ム者ハ苦ク、 ヲ弾ル者ハ痛ミアリ。然レトモ此苦痛ノ故ヲ以テ薬ヲ飲マス、其 ヲ弾セサレハ、病愈ル事ヲ得ス、身治ル事能ハス。政ヲ治ムルモ亦然リ」

「しかしながら、優れた能力を授けられた人の数は少なく、圧倒的多数の人々が浅学である。ゆえに、下層階級の人々は大部分が愚かで彼らは目先の快楽を妨げるわずかな障害を忌み嫌う。彼らは朦朧としていて長期的な利益を識別することが出来ない。薬を飲むことは苦しく、潰瘍の手術には痛みが伴う。しかし、この苦痛を嫌って薬を飲まず、手術を拒んでいたなら、病は癒えず、身体が健康になることはない。政治とはこれと同じことであ
る。」

龍馬らの思想は、マキアヴェッリの如く冷徹で現実的であった。民衆の資質、政治家の資質を徹底的に観察した上で、現実的な政治手法を論じていた。君主制は独裁制になり、寡頭制は貴族制になり、民主政は衆愚政になる得るということを、彼らはすでに書いていた。

昨今の政治の混迷を眺めながら、一刻も早い出版をと思いながら、反省をしつつ年の瀬を迎えた。

2011年12月29日木曜日

日湘上人のご遷化

鎌倉顕証寺の日湘上人がご遷化になられました。

小学生から中学生の頃、修学塾で、丁寧に、優しく、そして楽しく、ご信心のことをお教えくださったことは忘れられません。

その枕辺にお参りさせていただき、幼い頃からのご恩対して御礼の御題目をお唱えさせていただきます。

大鏡餅つき!

今日は大鏡餅つき!

朝からたくさんの人でお正月のご宝前にお供えする大鏡餅とお参詣者にお配りする小餅を作らせていただいています。

若者たち、大活躍。

無事に帰国できました。

無事に、帰国できました。

9才の子を連れて、何事もなくご奉公できたこと、御法さまに、心から感謝いたします。

ありがとうございます。

2011年12月28日水曜日

搭乗

搭乗。帰国します。

ギルバート

二宮さんのお助行の後、ギルバートと待ち合わせ。時間ぴったりに彼も登場。彼はシンガポール一番の紳士だと思います。

八田さんご夫妻にギルバートをご紹介できました。それにしても宥華さんのご信心はすごい。みんなが背中を押されながら、新しい素敵な縁に喜びを感じて。

ギルバートがアラビア料理のお店に連れていってくれました。彼の幼馴染みのお店。大好きです。彼にご馳走になってしまいました。息子もたくさん食べていました。

もう、空港に向かっています。ギリギリだけど。

ご奉公は第一に

愛する息子と二人でご奉公出来たことは生涯の思い出です。

御講の後、八田さんご夫妻がナイトサファリに連れていってくださいました。御講をゆっくりしていて、とても遅くなったのですが、諦めずに行ってみました。

「自分たちのご奉公を軽く考えて遊びを優先したら、もし行ったとしてもいいことがないよ。御講が一番大切。ご奉公を第一に考えていたら、遅くなってもきっといいことがあるよ」

そんな風に息子に言い聞かせながら、ナイトサファリに来ました。長蛇の列に案内されて、3つの車両が並んだバスに乗りましたが、なんと、最前列の最高のシートに案内されました。

本当に、これぞおはからい。並んで、並んで、偶然にご案内いただいたのが、最高のシートなんて。いや、だからこそ、偶然ではなく、必然なのですね。

ナイトサファリ、息子が楽しみにしていたので、本当によかったです。楽しんでいました。

いま、シンガポールは1時半。明日は9時にギルバートとフロントで会って、10時にお助行、15時過ぎのフライトで日本に向かいます。

2011年12月27日火曜日

シンガポールの御講

八田さんのお宅をお席に、松尾さんも清田さんもお参詣くださり、本年最後のシンガポール御講を奉修させていただきました。先日、角口さんのご高齢のお母さまがご帰寂され、日本に戻られているとのことでした。ご回向させていただきます。角口さんがいないとさみしいですね。

ご供養、お話がたくさんできて、よかったです。ありがたい御講になりました。

いま、シンガポールは21時です。

シンガポールのお助行

清田さんのお宅にお助行させていただきました。斬新な、綺麗なお戒壇です。ご家族全員、八田さんご夫妻でお参りいただき、ありがたいです。

これから八田さんのお宅に移動して、御講を奉修させていただきます。

シンガポール

朝早くから八田さんに空港まで迎えに来ていただき、ホテルにチェックインすることができました。

シンガポールまで、元気に戻ってくることができて、本当にありがたいです。

ラジ姉とアレックスと

ラジ姉と、アレックスと。

ありがとう。

ラジ姉さんのプレゼント

ラジ姉さん。話していると、なんだか涙が出て来るんです。ラジさん。

ラジさんとの出会い。スマトラ沖大地震の直前、今から7年以上前でした。あの津波被害があった年の暮れ、ラジ姉は妙深寺にも来てくれました。何度も一緒にインドに行ったし、スリランカでのご奉公、日本での再会など、会う度に、彼女の、本当に素晴らしい人間性、精神性に感動しました。

「桜は、その満開の美しさと散り際の潔さから命が短いと思われている。今の世界の状況や日本が置かれている状況、その中にある本門佛立宗のご弘通の状況を見ていたら、「細々と長生きして」なんて言っていられない。宇宙に衝撃を与えるような、沈滞した何かを変えてられるような生き方をしなければならない。そのためには、誰かが命を削る必要がある。命を削っても、いいと思っているのでしょう。だから、あなたは桜という名前を選んだのでしょう」と。

涙が出てね。話を聞いていて。息子もいるし、ほんの、わずかな時間しか話せなかったけど、ラジ姉とは、長い時間が、いつもいらなくて。

そして、だから、神田さんは全部分かっていて、桜の中でも、もっとも「しぶとい」ぼたん桜を選んで妙深寺にプレゼントで送ってくれた、と。

泣けてまうやろー、です。

で、今回、息子を連れてきて、何をプレゼントしようか考えてくれて、「小さなギフトも考えたのだけど、これから何十年経っても残るものがいいと思って、桜の花に似た木を選んできたの」と言い、「アレックスが大きくなって、スリランカでご奉公するようになった時、父親とはじめてスリランカに来たことを思い出せるように、私の、この美しい湖の畔りにある家の前に、木を植えたらいいと思って」と。そして、長男にも、「あなたの成長とともに、この木はスリランカで大きくなっていくでしょう。あなたは、いつでも、父親と一緒にスリランカに来た時に植えたこの木を、思い出せるのよ。頑張ってね」と。

最高の、プレゼントです。ありがとう、ラジ姉。僕は、幸せ者です。彼に、永遠の宝物をくれました。それは、思い出なのですね。今回の、旅の思い出。父親と、食べる時間も、寝る時間もないほど、一緒に、走り回った、ご弘通ご奉公の思い出なのですね。

ありがとうございます。

真夜中のお絵かき

スリランカの空港にチェックインしました。彼の体調を見て少し早めに。

やはり疲れているはずです。「お前、よく頑張ったな」と言ったら、「だって、あー、疲れた、よし休もうって思ったら、すぐ、よし、アレックス、次に行くぞ!って言うんだもん。えーって思ったよ」と。エライ。これがドサ回りの海外弘通じゃ。大きくなって、少しでも覚えてくれていたらいいなぁ。

夜、少し食事を戻してしまったので心配したのですが、もうケロっとしてる。安心しました。日本ではこんな夜中まで起きていることはないだろうから。また、慌ただしい人間が誕生しそうです。

今は搭乗までレストランに来ました。外のベンチで座っていようかと思ったら、体力的に限界みたい。

彼は、お気に入りのキング・ココナッツの写真を模写しています。本当に、絵が上手。全く絵心の無い僕とは違う。僕は隣りでブログをアップ。日本時間は3時15分。いまスリランカは23時45分。頑張ってます。

なんか泣いちゃった

ラジ姉さんと話してたら、なんか泣いちゃった。

2011年12月26日月曜日

長男のスピーチ

隣りに、ちょこんと座り、自己紹介と、自分が高い柵から落ちて助かったという体験談をスピーチする長男。午後の御講でも、しっかりスピーチできました。ぶっつけ本番。南無妙法蓮華経。

ゴール市のご宝前も、さくらのご荘厳。本当に、ありがたかったです。

高田松原ものがたり

佐々木さんの「高田松原ものがたり」を、スマトラ沖大地震・津波で甚大な被害を受けたゴール市に持ってきました。

アローシャに贈呈し、みんなで読んで欲しいと伝えました。

パンツ

今日は、あまりに忙し過ぎて、ブログもアップ出来ずにいました。車に乗ると、寝てしまったり、とにかく頭を休めたくて。

息子は、昨日の夕方、海岸を走り回りました。海にも飛び込んで。ズボンを持ってきてないことが判明。パンツも。

海水パンツを乾かして、そのまま夜のお助行に行ったのでした。実は今日の午前中も彼は水着でした。

でも、ほんの30分だけど、海に入れて、海岸を走れて、よかったね。

午後の御講が無事に終わって、いまラジさんの家に向かっています。電池が切れそう。息子は元気です。

ジナット

朝一番のお助行は、ジナット君の家。本当に、元気になりました。今や家族中でご信心しています。

アレックスとジナットが会えてよかった。

カニ

長男と海辺まで下りてきました。大きなカニがいて、びっくり。

スマトラ沖大地震・津波から7年

鳥たちの鳴き声がすると、朝が来るのが分かります。大合唱。

朝焼けが、美しい。本当に。海が顔を出しました。空も、やっぱりピンク色です。

今日を、このスリランカのゴール市で迎えるとは思ってもいませんでした。今日は、12月26日。あの「スマトラ沖大地震・津波」から、ちょうど7年目の朝です。

あの日、全く地震の揺れを感じなかったスリランカを巨大な津波が襲いました。約7000人が命を奪われ、ゴール市近郊は大変な被害を受けました。

世界中に配信されたバスターミナルの映像はゴール市で撮影されたものです。子どもたちが流され、バスの屋根に男性が乗っていました。

あの恐ろしい映像を見ながら、自分たちに出来ることはないか考えました。最初に高島さんが動き、妙深寺のメンバーが支援活動のためにスリランカを訪れることになりました。みんな、大活躍してくれました。妙深寺の支援活動は、東日本大地震のずっと前から続いていたのですね。動きが早いのは当然です。

そして、7年後の今日、僕はスリランカのゴール市にいます。想像もしていませんでした。いま、街も人々も復興を遂げ、美しい空や海は穏やかに輝いています。あの津波で失われた大切な命は戻ってきてくれませんが、このゴール市に僕たちを待ってくれているたくさんのご信者さんがいて、センターも出来ました。夢のようです。

ジナットのような可愛い男の子も命を救われました。数えきれないほどの人たちと、笑顔で会話しています。

小さな、小さな、ご縁でしたが、7年を経て、こんなに大きな輪になりました。

本当に、今日、この日に、この街にいられることは、偶然ではなく必然なのですね。僕は、考えてもいなかったのです。年末のこの日にしか日程が取れなかっただけで、今日ゴール市の御講になることも知らなかった。昨日、ゴールのご信者さんに教えていただいたのです。「やはり、こうなりました。この日に、あなたはゴールに来ることになっていたのです。今日は、特別な日なのです」と。

手探りで、精一杯させていただいてきたご奉公。御法さま、見てくださっているのでしょうか。そう、見てくださっているのだと思います。

今日から、また頑張ります。恐ろしい苦難を乗り越えて、それがあったからこそ、たくさんの人が幸せになれるように。

また、こんなに美しい空を見せてくれて、時に怖い顔を見せる地球にも、感謝しなければなりません。

バルコニーで記事を書いていましたが、長男も起きてきました。美しい景色にびっくりしています。伝えます。ここを、津波が襲ったことを。伝えます。僕たちがしてきたことを。そして、小さなご縁がこんなに大きくなったことを。そして、やはり地球や自然が、こんなに美しいことを。

蚊帳のある部屋

今夜はゴールのホテルに泊まります。蚊帳のある部屋。彼には初体験みたい。3年ほど前に一度泊まらせていただきました。スリランカ本門佛立宗のメンバーと。いい思い出です。

明日の朝、窓の外を見たら驚くと思います。とっても美しい景色だから。

何とか長男も頑張っています。朝7時過ぎからお助行、朝のご供養をいただいて、9時半からゴールのセンターで御講ミーティング。コロンボに戻ってコホワラのセンターで荷物をまとめ、シャンタさんのセンターに移動して15時から御講ミーティング。終わったらラジさんの家のお助行。夕食をご馳走になって空港に移動。午前1時過ぎのフライトでシンガポールに向かいます。

長男、大丈夫かな。ちょっと最初にしては厳し過ぎたかな。シンガポールに朝7時過ぎに着いて仮眠、そしてお助行、御講です。

夜のお助行

20時半からウィーラシンハさんの家のお助行。もうお助行だけで5回以上お伺いしてます。

最初は小さな小さなお戒壇でした。お料理の上手なお母さんが「お戒壇を立派にさせていただいてから、おはからいをいただいて、ついに家が建てられました」と話してくださいました。

ありがたいです。

2011年12月25日日曜日

カナーマディリア

こんなに、蛍が飛んでる。はじめて見た、こんなの。

シンハラ語で「カナーマディリア」と呼ぶそうです。英語はロマンチックじゃないからダメ。「firefly」とか「lightning bug」。カラーマディリア。すてきだ。

オーバーヒート

ゴールを目前にしてオーバーヒート(涙)。惜しい。

「ゴール」って、なかなか遠いものです。のんびり、冷めるのを待たないと。

これも、スリランカらしい。それにしても、疲れたなぁ。

さくら色

空、さくら色になりました。いつ見ても、きれいです。

ウミガメ

高速道路を途中で降りて、またヒッカドゥワの海岸へ。長男に、せめて海、そしてウミガメを見せようと考えてくださって。

とにかく、よろこんでいます。

スリランカ初の高速道路

コロンボからゴールまで、スリランカにはじめて出来た有料高速道路に乗りました。

牛や犬やヘビが入ってきて何回か事故が起きたようです。アナコンダが轢かれていたのをアベイさんが見たとか。

こうやって、すごいスピードでスリランカが変わってゆくのですね。なぜか、とってもさみしいです。

明日は、またまた偶然、いや必然で、特別中の特別な日でした。

いつも、導かれているのを感じます。

日蓮仏教排撃運動

いまスリランカでは日蓮仏教を排撃する動きがあり、ご信者さんに動揺があると聞いていました。

今日の御法門では、本門佛立宗と他の宗派との違いを分かりやすくお話しました。難民のように、お寺を失った方々ともお会いしました。

長男、分からないながらも、とにかく頑張ってました。

桜のご荘厳

ゴールに向けて出発しました。16時を過ぎてしまいました。

青年会のダスン君が写真を撮っていてくれましたが、ご宝前の桜のご荘厳、本当に、美しかったです。

スリランカの仏丸

午前の御講が終わりましたぁ。さすがかなクタクタです。長男はまだ現金です。真近で最初から最後までお参詣していました。自己紹介と、体験談も発表させました。

アップが間に合わない。いま、もうウィージェセケラさんのセンターで会議をして、帰り道です。

コホワラのセンターの庭には、仏丸の植栽が。世界中で愛されるシンボル。

スリランカの桜

御講が始まりました。今は「ミッション・イン・インディア」について放映中。

昨夜、センターに到着したら、ご宝前のお花が桜てした。5000枚の桜の花びらを、みんなで織った手作りの桜てした。

2011年12月24日土曜日

チャンギ国際空港

もう眠くなってるみたいですが、頑張っています。

日本時間の23時50分のフライトでコロンボに向かいます。到着は日本時間の3時半過ぎ。そこからセンターに行って仮眠。

朝参詣の後、9時半から御講ミーティングです。終わったら場所を移動して会議。会議終了後、ゴールに向かいます。

真夏のクリスマス

空港はどこも同じ表情。無事にシンガポールまで着きました。ここで乗り換えまで4時間を過ごします。

蒸し暑い。

機内アナウンスもクリスマス、空港のバンドもBGMもクリスマスソング、店員さんもサンタのコスチューム。こちらは真夏のクリスマスですね。仏教徒、しっかりしないと。

息子は折り紙をしています。暇をもてあましている感じ。いつも一人だから、こっちがドキドキします。

原稿を書かなければならないから相手してあげられない。今夜までの原稿は機内とこの空港内で書き上げました。これから明日の朝までの原稿を書かないと。頭が回らない。気が散るなぁ(涙)。

息子、たくさん食べました。鶴と、コブラを、作りました。

それにしても、暑いです。

映画「[窓] MADO」の上映会にお越しください🙏

10月2日のFMヨコハマ「横浜ラグーン」は先週に引き続き俳優の西村まさ彦さんをお迎えし、映画『[窓] MADO』の麻王監督にも加わっていただいてお話をお聞きしました。 映画『[窓] MADO』は「横浜・副流煙裁判」と呼ばれた一つの出来事をテーマにしています。原告家族「A家」と被...