2007年6月30日土曜日

ひろし君の御講

 昨夜、ひろし君の自宅にて御講が奉修された。入信したばかりの方々、その方の友人までお誘いしての御講席。夜の19時からの御講となり、お参詣者は約12名。 和やかな、そして緊張感もある御講席となった。

 妙深寺では、教区御講(導師御講)のほかに各受持御講師による部御講があるが、それ以外にも青年会御講や壮年会御講、入信したばかりのお宅に伺って1年間奉修する(1年後には部御講に移行できるようにさせていただく)入信者御講や、家族御講などその方のご信心がしっかりと前に進むようにご奉公させていただいている。

 ひろし君の御講は、お教化をされた方々をお集めして奉修する「入信者御講」でもあり、「妙深寺のアニキ」として若い人がお参詣させてもらったりする御講になっている(いつしか)。

 広いリビングに御宝前をお迎えしており、その前に小さな座布団を用意してお参詣する。そして、お看経、御法門、御供養をいただきながらの質問大会などをさせてもらった。

 さすが、「妙深寺のアニキ分」と勝手に自負しているだけあって、若い人がこんなにお参詣してくれたこともあり、たくさんの御供養を用意してくださっていた。輪を囲んで、御供養をいただきながら、「神さまって、佛立宗ではどう考えるんですか?」「江原さんとは何が違うんですか?」「そもそも『謗法』って何ですか?」などなど、面白い質問が出てきて、楽しい。

 また、最後の質問はお友だちからだったが、とても大切だった。「私の実家では、大地に感謝し、地域の氏神さまに感謝し、周りでもしっかりと助け合いながら、カチッとまとまって生活している。そこに、なんでわざわざ仏さまは本当はこうです、本当の信仰はこうですってやらなきゃいけないのかな、と思って」と。
 私は、感心した。そして、そういう地域があることは、とっても素晴らしいことだと思った。
 「しかし」と話をした。
 「お祖師さま、日蓮聖人も同じようにお考えになり、そして悩まれたと思う。みんなある地域では地域地域の神を敬い、ある地域では真言宗や念仏を信仰して、ある意味ではカチッとまとまっていた。でも、ふと目を転じると自然界が人間界が大変なことになっていて、戦争や紛争もある。子どもたちも家族もとても苦しんでいて、それで『自分の地域だけは大丈夫』と見過ごすのは間違っているのではないかって」

「そして、考えなければならないのは、私なりに言うと『普遍性』だと思う。どんな信仰でも地域でも、その場所だけが良いからとか悪いからではなくて、全世界、全地域、どんな人にとっても欠かせない共通に幸せになれる教えが無ければならない。本来、仏さまの教えは、誰にとっても通じる教え。僕はイスラエル、パレスチナに行って、その場所、その信仰が『謗法!』ということではなくて、そこでも素敵な老婦人に会ったりして、その人はそれで幸せだし、尊敬できる人だなぁと思った。でも、しっかりと勉強していくと、どうしても特定の民族への肩入れが強い宗教だったり、戦争を肯定するような教え、DNAがあると思える教えがあったりする。『それは、その地域はその地域のことだから、ほっといても良いよ』としてしまっていたら、何も変わらないと思うし、結局この世界から戦争や紛争は無くならないし、いつか自分の国や地域まで巻き込まれてしまうと思う。そういう意味で、世界中の誰にでも相通じる教えを仏さまは説かれた。それが法華経であり、それを全世界の人に伝えたい、伝えるべきだと教えていただいたのがお祖師さまだった」

 なかなか難しいが、そういう会話をしつつ、ひろし君の御講は終わった。

2007年6月28日木曜日

復活中で御座います

 ありがとうございます。
 ご心配をお掛けし、暖かいお言葉に心から感謝しております。

 ご奉公の過密では無い日程をお選びいただき、お休みを頂戴するとは、まさに御法さまの御采配には感激するばかり。気の緩みだけとは思えない御法さまの日程調整。本当にすごい、すごすぎるー、と思う私であった。

 また、独り言のように書いてきたつもりのブログだったのに、暖かいコメント。ウウウ、っと涙が溢れてくるではないか。有難い!!感謝いたします。お供水をたんとたんといただき、汗をたくさん出させてもらった。点滴を二本打たれ(打っていただき)、扁桃腺の腫れも引いてきたように思う。熱は下がりました。有難い。しかし、身体がドーンと重たい。なるほど、久しぶりに生身の身体を実感。そう思っていたら、ひろし君から「もう年ですから~」って。なんと、私はこんなに若いのに。一緒にするなって。いや、ご心配、有難い!

 そうこうしている間に、清顕師と清翔師は無事に帰ってきてくれた。ちょっとしか顔を見れなかったが、二人が到着して本堂にご挨拶をし、その後で庫裡の御宝前にご挨拶に来た。庫裡の御宝前でお礼の言上をして振り返り、あらためて清翔(オタッキー)の顔を見ると、な、な、な、なんと、顔が変わっている(いや、付け変わったのではない)、変わっているように見えるではないか。精悍な顔になっている。

「清翔、どうだった。しっかり、ご奉公させていただけたのか」

「は、はい(普通「は」が数回続くのだが、続かなかった)。えー、と、何度かカラ、カラ、空回りしてしまいましまして(ちょっと言葉が空回りしていた)、清顕師にご迷惑をお掛けしましたが、何とかご奉公させていただきまして、私の至らないところ、自分が外側から何も出来ていなかったところに気づくことが出来ました」

などと、何とまともな返事をするではないか。

「本当によかったなぁ。有難いよ。清翔、今回のご奉公を無駄にするんじゃないぞ。登山と同じだ。ピッケルやペグで、グッグッと上に登っていく。普段の生活の中に戻って、ダレたらダダーって落ちちゃうからな!こういう経験で、ガシッ、ガシッと頑張って上に登ったんだったら、ザザーッて落っこちないように、しっかりしろ。(いま私が話した内容を振り返るとイメージ的な話ばっかり。これで通じるのかな?と自分でも思うなぁ。身振り手振りで話しているけど、擬音ばっかりや。ジェットスキー教える時もそうだった。『いい、だから、ここをパシーッとやって、そこでダーッとしたら、次にススーッとね!』とか。誰も分からへんやん)。分かったな、清翔!」

「はい!」(そう答えるんだから、清翔も偉い。分かってるか分かってないかは分からんが)

 清顕に聞いてみると、本当に頑張ったらしい。

「清翔師は、本っ当に頑張っていました。いや、僕もいつもの御住職の随行をしている時に空回りしているので、『あぁ、いつも自分がこうなんだろうなぁ』って思えて、有難かったです」

と。さすが、清顕!慈悲が深い。

 そうこうしている間に、報告はゆっくりと後で聞くことにして帰した。有難いことだ。

 明日の夜は、そう御講だった。ひろし君の家で。この前、『今月最後の御講』と書いたが、間違っていた。すいません。明日の夜までには、何とか復活したい。(寺報の原稿も書き終えたい)

2007年6月27日水曜日

久しぶりに寝込む

 この数ヶ月間で、実は昨日だけが特別なスケジュールの入っていない日だった。たまっている原稿を書き上げる日と決めていたのだが、何と何と38.5度の熱が出てしまった。

 少しだけ喉の痛みはあったが、突然の発熱に自分でもびっくり。最近は風邪を引くこともなかったのに。今年、スリランカやブラジル、イタリア等々、忙しい日程を駆け抜けてきたが、何とか倒れることなくやってこれた。ご奉公でも健康第一なのだ。

 ところが、今は少し良くなったが、昨日は身体の節々が痛く、重くなり、ガクガクと震えが来て、妻に運転してもらって病院まで連れて行ってもらった。扁桃腺の炎症による発熱。点滴を打った方が良いということでやっていただいた。

 それにしても、このタイミングは信じられない。この日じゃなければダメだった。数ヶ月間、休みなくご奉公させていただけて、ピッタリとスケジュールの無い日に発熱するとは。御法さまのシナリオの上で生かされているなぁと思える。有難い。
 とにかく、久しぶりに寝ているしかないので、言われるとおりに身体を横にしている。

2007年6月26日火曜日

野良ゾウとのご奉公

 野良ゾウとのご奉公、恐ろしくもあり、楽しくもあり、何とも愉快だ。

 ここはスリランカ南部にご奉公に行く途中で通過した国立公園。道路沿いに果物を売っている露天があり、小さな小さな村もある。

 このゾウたちは何と400頭くらいの群れを作っていて、彼らが集団で移動している姿を見たら、その壮観さに言葉を失うほどだという。

 しかし、この写真に写っているゾウは怪我をしているのだそうで、この露天の近くにいて観光客からもらうバナナやマンゴーを待っているのだ。また、時折食べ物を探してゾウが農園に入り込んだり、怒り狂ったゾウが人を害することもあって、細い電気を流した鉄線が張られてしまっている。「野良ゾウ」と言っても、なかなか人間と共存していくのは難しい。

 大草原の中でゾウを間近にすると、やはり怖さも感じる。イルカと一緒に泳いだり、クジラのジャンプを見たりした時は、「間違いなく心が通じている」と感じられることもあったので、近づいていってお話をさせてもらおうと思ったが、ちょっと怖かった。(情けない!)
 
 手塚治虫さんの「ブッダ」という漫画には、お釈迦さまとゾウのエピソードがたくさんある。残念ながら、今やインド(特にビハール州などのブッダの御遺跡のある地域)ではなかなか見られなくなったゾウを、ご奉公の途中で間近にすると何とも感慨深くなるのだ。

 豊かな自然、多くの動植物たち。自然とのつながりをこんなに身近に感じられる。
 ご奉公中に、ゾウや牛、ピーコック(孔雀)や猿(白くて人間のような猿)が間近にいるスリランカ。

 そして、仏教史上、スリランカは特別の意味がある。私は、「たまたま」福岡御導師がスリランカとご縁が出来、ご弘通がスタートしたのではないと思っている。それは「たまたま」でも「偶然」でもなく、「必然」であり特別な「シナリオ」があるのを実感している。スリランカは、仏教史がひっくり返るくらいの重要な役割を果たしてきた国であり、その歴史や遺跡の中には聖地インドさえも超える重要な史実が埋もれている。そうした研究が進めば相当のインパクトが世界中を駆けめぐると思っている。

 スリランカには、法華経の弘まらなければならない理由があり、上行所伝の御題目が弘まらなければならない理由があったのだ。世界中の誰よりも、スリランカの人々がそのことを実感している。

 私は、このスリランカでご奉公させていただけることを心から感謝している。
 清顕師と清翔師も、こういう大自然の中でご奉公しているのだろう。彼らも御法さまはもちろん、福岡御導師やスリランカのご信者さんたちに感謝しているに違いない。

清顕師と清翔師のスリランカ

 昨夜は22時くらいに帰山した。遠方での御講だったことと、久方ぶりにお伺いしたお宅だったこともあってか、声が枯れてしまった。

 一度、そのお宅の高齢のお祖母さまが行方不明となったことがあった。海岸で発見され、そのまま病院に運ばれたと連絡があった。
 色々な事情があったのだが、私には単なる病気とも、高齢者の痴呆とも思えなかった。病室に伺ってお祖母さまの手を握り合ってお話をした。このようなことになったとはいえ、何とか無事に発見できて、生きていてくれたことが嬉しかった。御題目をお唱えしながら、ほとんど抱き合うような形で手を握り、背中をさすった。

 あれから二年くらい経つだろうか。ご信心の功徳、御題目の御力とは素晴らしいもので、お祖母さまは元気に元気に回復され、若い者がタジタジになるくらい「心」が若い。昨夜の御講席で久方ぶりにお会いできて、本当に嬉しかった。明るく、ケタケタと笑ってくださっていた。昔のご信心のお話、ご奉公のお話を元気に話してくださっていた。記念写真を撮る時にも、「お祖母ちゃんと僕は、ただならぬ仲だからねー」と笑って撮らせてもらった。「抱き合った仲だもん」と。この写真は大切にしよう。日博上人時代の、大恩ある方の奥さまなのだ。御恩の一端をお返しできたとしたら、これほど嬉しいことはない。

 寝る前にスリランカに行っている清顕に電話をした。福岡御導師の随伴をして、どうしても私が行けないので、兼子清顕に随行ご奉公に行かせたのだ。
 また、今回は京都の野崎清翔もスリランカに行かせた。彼は京都の由緒寺院・長松寺で育った。現在は大学に通っている19才。13才で得度したので、今は19才で私の弟子となっている。

 しかし、まだまだ世間知らずで、現代っ子そのもの。ちょっとした変わり者で、「オタク」「アキバ君」的な雰囲気を持っている。冗談で「お前は横浜に来たら『アキバ(秋葉原のこと)教区』の受持だな!」と言っている(そんな教区は無いのだが)。とにかく、これから人を助ける菩薩・教務としてご奉公できるか心配していた。だからと言ってはなんだが、生まれて初めての海外旅行、海外でのご奉公に行かせて、特にスリランカの純粋無垢なご信者さんの姿、御題目の御力、言葉の壁を越えたコミュニケーションを実感させたいと思い、断固とした決意で彼を行かせたのだ。

 最初は「えー、あのー、試験がー、あり、あり、ありまして、、、、」と言っていたのだが、徐々にプレッシャーをかけていったら「あー、ご住職、、、、行かせていただきます」と言ってくれた。福岡御導師には大変なお荷物をお願いしてしまったようだし、清顕も可哀想だが、とにかくそういうスリランカでのご奉公が続いており、毎朝毎夕ご祈願をさせていただいている。28日に帰国予定だ。

 昨夜、こちらの2時に電話をした。あちらは23時くらいだったろう。今回のスリランカご奉公では清顕と清翔はホテルを使っていない。コロンボに新しく出来た親会場に泊まらせている。朝から晩までご信者さんと顔を突き合わせ、朝のお看経からお助行が深夜まで続いているだろう。清顕は横浜で鍛えてあるから大丈夫だとしても、清翔にとっては相当にストレスがたまるだろうし、疲れるであろう。

 清顕の電話の声はさすがに疲れていた。実は、今回のスリランカは福岡御導師と別行動が多いのだ。清顕は、ほとんど一人で各ご信者のご家庭をお助行して廻っているとのこと。「お前、英語での言上は大丈夫か(教えていないと思って心配した)」、「はい、何とかやっております!」と心強い返事。さすが清顕だ。

 次に清翔。「おい、清翔。お腹を壊していないか?大丈夫か?」と聞くと、「えっ、えっ、あっ、大丈夫です」という清翔の声。大丈夫ではなさそうな声だが、清顕に聞いたら「はい、清翔師は頑張っています。お腹も大丈夫です。シーフードはダメなようですが、僕よりもたくさん食べています」とのこと。よかった。「毎朝ご信者さんもお前たちのことを御祈願してくださっているからな。頑張るんだぞ」と伝え、電話を切った。

 それにしても清翔。スリランカ料理が気に入ったようでよかった。あのスパイスの効いた料理にはまってしまうと抜け出せなくなるのだ(笑)。本当に美味しい。想像しただけで、あの深い味わいが蘇る。ご信者さんが真心を込めて作ってくださる御供養、本当に美味しく、有難い。決まった、あいつはアキバ(秋葉原)教区ではなくて、しばらくスリランカに行かせよう。

 ユニバーサル。御題目のご信心は国境を越えて、誰もが御利益を実感できる。そして、すぐに声が重なり、一つになれる。最も尊いバイブレーション。それを若い教務が実感し、常に現場、現場主義でご信者さんと向き合っていくところに本門佛立宗のご信心のすごさ、有難さがある。理屈をこねていたり、自分だけの修行でステージをあげていくものではないのだ。人のために生き、誰かと共に御題目を唱える中で、信じられないほど素晴らしい「気づき」が生まれ、自分の人間としての「器」が広がり、根っこから変わっていける。ステージが上がる。

 清翔の成長を期待しよう。帰ってくるのが楽しみだ。昨日はラジ女史からもメールが来た。有難い。
 写真は、一枚目が私が訪れた学校での一コマ。そして、二枚目はご信者さんのお宅で供されるある日の夕食。

 本当に美味しいんです!
 来年、みんなでスリランカに団参しましょう?みんなでスリランカにご奉公に行こう!素晴らしい国です、それこそ『美しい国』です。同時に、私たちの国、『日本』に親しみを感じ、愛してくださっている。『日本』の素晴らしさにも気づかせてくれます。(もちろん、失ってしまったものも)

 スリランカには「野良犬」がたくさんいますが、「野良牛」も当たり前のように見れます。そんな「牛」くらいで驚いてちゃいけません。僕はこの前「野良ゾウ」を見ましたから。「ゾウ」ですよ。すごいご奉公でしょ?!「野良ゾウ」を見ながらご奉公ができるなんて、アフリカ弘通の練習になります。

2007年6月25日月曜日

スポーツから学んだこと 競争の中の選択

 やはり、恥ずかしいので、このくらいで一度やめておこう。今日は朝が門祖日隆大聖人のご命日ご修行御総講、夕方から今月最後の御講となる。

 ブログを見た方から、「ついにご住職の青春まで暴露してしまわれましたね。もう後がないですね~」とメールをいただてしまった(笑)。そのとおり。ついに貴重な青春時代まで暴露してしまった。どうしたものか。いや、なんのその。格好付けても、隠していても仕方ない。今となっては、これも尊いご信心をお伝えする一助にしなければならないし、もっともっとネタはあるのでご安心を(笑)。
 あの頃は、イケイケドンドン、海馬ゼロ、人間に進化する前の猿のようなものだった(笑)。今でこそ、何とか「全てがご奉公に結びついている」と思える(思おうとしている)が、それも今だから言える話。どこに飛んでいくか分からない風船のような私だったから、どれだけ両親や周り方々に心配をかけたか分からない(実際、こんな時代にも、周りの方々は寺内の御会式や門祖の慶讃ご奉公、開導百遠諱などのご奉公で一緒にご奉公してくださっていたのだから)。
 しかし、とにかくあらゆる経験が現在の糧になっていることは間違いない。今の私があるのは、全て御法さまのお陰、父や母のお陰、皆さまのお陰。心から感謝している。ありがたい!
 いま、ブログや寺報の巻頭言に難しいことを書くと、「いや~、ご住職はよく勉強されていますねぇ~」などと言われるのだが、それは大学卒業後のこと。学生時代というのは完全に脳みそが『潮焼け』していた。頭の中はジェットスキーのレースに勝つこと、学連や自分の所属するJET SKI TEAMを盛り上げることだけ考えていた。普通に、真面目にすることが出来なくて、破天荒にムチャクチャやっていた。そんなのが今では住職になってしまっているのだから、真面目な青春時代をお過ごしになった御導師や御講師方には申し訳ない。ホントです。
 とにかく、私は正真正銘の「不良信者」「不良教務」だった。ただ、「悪に強き者は善にも強し」という言葉を教えていただいて、そのエネルギーの向かう所を「菩薩行」に大転換して努力している最中なのである。
 一般的には「マリン・スポーツ」というとナンパなイメージになってしまうかもしれないが、私たちの場合は全く違っていた。それだけは言える。
 そこは非常にシリアスな勝負の世界だった。単なる「趣味」ではなく、「競技」に出て「勝つ」ことを目標にして練習し、腕を磨いていたからだ。
 レースというのは厳しい世界で、完全な実力勝負。コンスタントに勝ち続け、プレッシャーと戦い、身体を鍛え、体調を管理しなければならないし、年間のタイトルを取ることは極めて難しい。そういう「勝負、勝負」の世界を生き、経験できたことは何物にも代え難い貴重な人生経験、糧となった。
 あるレースの真っ最中、私たちの目の前で江戸川で一緒に練習していた仲間が亡くなった。1週間前に一緒に練習した仲間だった。衝撃的なことで、耐え難いショックを受けた。
 今のレギュレーション(ルール)ではどうなっているのか知らないが、その頃プロ・クラスは海に浮かべたタイヤ(ブイ)を飛ばなければならなかった。マシンはモディファイ(改造)されていて相当なスピードが出るのだが、そのままホーム・ストレート上に障害物として設置されているタイヤを全速力で飛び越えるのである。ここが一つの見せ場でもあり、順位の入れ替わるチャンスでもあった。
 私も、神津島のレースではこのタイヤに全速力で激突し、クラッシュした。そのまま海に浮かんだ。右手でアクセルだけ握り何とかコースから離脱して、浜に打ち上げられたから良かった。そのまま救急車で運ばれた。胸を強打して息が出来なくなり、ヒザの皮がパックリと割れていた。
 当然、なけなしのお金で買った当時のマシンは、ジンベイザメのように口が開いた状態になってしまっていた。(この時に壊れたマシンの前方部分は記念に保管している)
 亡くなった彼は、このタイヤ(ブイ)の部分で転倒し、浮かんだ後頭部を後ろから猛スピードで走ってきたマシンに突っ込まれた。海のスポーツで転倒すると頭だけが浮く。私たちはレースで頭にヘルメットを被り、背骨にはコルセット(脊椎ガード)を入れていたが、どうしても首だけは守れないのだ。
 海が真っ赤に染まり、我々は愕然となった。コース・マーシャルが彼の身体をジェットスキーで引いてきて、浜辺に揚げようとした。私たちはそこに駆け寄って、彼を抱きかかえて波打ち際から丘へと揚げた。ヘルメットの中から血が溢れていて、反応はなかった。ウェットスーツに血がベットリと付いた。女性が駆け寄ってきて、彼の胸を叩いて「ダメー!」と叫んだ。その声が浜辺に響き渡っていったのを今でも思い出す。
 そのまま救急車で運ばれていった彼。沈黙の浜。1時間くらい経っただろうか、死亡が確認されたと連絡があった。言葉を失った。頭の中が真っ白になった。その直前まではカーニバルのような騒ぎだったというのに。全く、何も考えられなくなってしまった。
 私の所属していたチームと学生連盟を代表して、確か若いのは二人だけでお通夜に参列した。その時、喪主の方々との会合が持たれ、私は学連の代表としてその場に座らされた。事故の原因を究明し、責任の所在をはっきりさせるためだったと思うが、それもはっきりと思い出せない。ただ、胸を叩いていた女性が彼の新婚の奥さんであり、妊娠しておられ、子ども産まれることを楽しみにしていたところだったと聞いた。
 その怒りとやり場のない感情で誰もがピリピリしていた。やはり誰だかはっきりとは覚えていないのだが、故人の関係者であろうの方から、「おい、学連のナガマツ、お前はどう思うんだ!どう感じているんだ!」と怒鳴られたのを覚えている。どう答えたのかは全く覚えていない。
 その後、私たちはレースに出る際に「誓約書」を書くようになった。協会からの誓約書はそれまでにもあったのだが、仲間同士で書こうということになり、これだけ危険なレースに自分の意志で参加しており、誰の過失でもないことを書いて、それにサインすることにした。 今から考えると滑稽にも思えるが、あの頃はそれほど真剣にスポーツに取り組んでいたし、恐ろしいくらいの緊張感があったのだ。
 プロになってレースに出ていた時、同じように事故があった。クラッシュした選手がバック・ストレートで顔を水につけたまま気絶していた。つまり、うつ伏せの状態で浮かんでいたのだ。
 しかし、誰も止まらなかった。助けにいくことはなかった。私も同様だった。海の上の大会では、安全対策のためにコースを巡回するコース・マーシャルが数人(台)いて、事故に備えているのだが、簡単には駆けつけられない。彼は非常に危険な状態だったが、「競争」しているのを投げ出して彼を救うという余裕はレースに参加している誰にもなかったのだ。
 レース後の選手会。選手としてのモラルが問われた。残念ながら、これもはっきりとは覚えていないのだが(海馬ゼロ)、この一件は深く深く残っている。
 つまり、「競争」と、「人間として為すべきこと」の両立について考えさせられた。このことを、父と夜中まで話し合った。
 その頃は、私はプロになっていたのだから、プロである以上「勝つ」こと「良い成績を残すこと」は至上命題であり、スポンサーのためにも必須のことだった。そこには、「人を思いやりましょう」「人助けしましょう」というような美辞麗句が届かない。視界が狭くなり、他人をかまっていられるか、ちょっとでも気持ちが弱くなったら負けてしまう、他人を押しのけても「勝つぞ、勝つぞ」で行かなければならない、と。
 しかし、それで良いのか。それだけで良いのか。これは、ジェットスキーのレースに限ったことではない。武士道やスポーツマン精神が教えているように、ルールではなく精神性、規制や規則ではなくモラル、人間性の問題なのだ。あまりに競争や成果主義が激しくなると、このことを誰も教えてくれなくなる。本人も感じられなくなる。そして、長い目でみれば結果的には惨めな結果しか残らなくなるというのに。「レースよりも大切なこと」、このことを忘れていたら、どんなタイトルを手にしたとしても、あるいは勝っても、負けても、大した意味がなくなってしまう。
 そのバランスをどう取るのか、レースに出ながら、競争しながら、「勝とう」と思いながら、ずっと頭を抱えていたように思う。ただ、そのことを先代のご住職は私に時間を掛けて教えてくださっていたし、ご信心とはこのことを教えられているのだと、後で気づくことが出来た。
 ある意味で、人生も勝負の連続。競争率の高い受験生や就職浪人だけの問題ではない。何歳になっても、極めて厳しい競争社会の中で、負けないように生きていかなければならない。少しでも気を抜いていると大変なことになる、出し抜かれる、追い抜かれる、騙される、と思って必死に走り続けている人がいるかも知れない。あるいは、「もう、いいや」と諦めている人もいるだろう。あるいは逆に、余裕があるなら「スローライフ」を貫ける人もいるだろう。どちらにしても、キビシイ世の中だ。
 しかし、こうした経験を通じて、競争社会、厳しい勝負の世界ですら、大切なものを見失わない生き方、心を豊かに保つ生き方、幸せになるための道について、深く深く考えさせてもらえるようになった。

2007年6月23日土曜日

Hot-Dog PRESS

 よし調子に乗って載せてしまおう。

 プロになってからだと思うが、私の若い頃には「ホットドッグ・プレス(HOT DOG Press)」という人気の雑誌があった。若者だったら大抵の人が読んでいるという雑誌だったのだが、そこからインタビューを頼まれ、調子に乗って取材を了承し、出させてもらったのである。ここに紹介する写真は、相模川の馬入橋の下で講談社のカメラマンさんに撮ってもらったものだ。(こういう具合だったから、父は本当に心配していたと思う)

 若者文化の一翼を担う雑誌に紹介されることで、このスポーツの認知を促すことが出来れば良いと思っていた。なにせ、この頃は海に『網サン』を履いていくようなことはなかったし、ウェットスーツの着方を間違った過去のことなどはひた隠しに隠して、「海へようこそ。海のスポーツって言うのはね、、、、」などと偉そうなことを言うようになっていたのであった。(恥ずかしい!)

 前にも書いたが、プロになるとその分野のスポーツ振興や安全面を指導する役割も果たさなければならないし、実際に夏の海ではトラブルが相次いでいた。サーフィンやウィンドサーフィンの方々、スキューバ・ダイビングの方々からも嫌われていたし、漁協のオッチャンや怖いお兄さんからも睨まれることが多かった。私たちは湘南の中でたくさんの仲間がいて、ジェットスキー以外のスポーツのプロやショップと仲良くしたり、漁協のお偉いさんに一升瓶を持ってご理解を深めることもしていたのだが。
 そういう活動を通じて、マナーを守ったマリン・スポーツがみんなで楽しめれば良いと思っていた。

 ちょうどその頃、私の住む横浜では『横浜博覧会(YOKOHAMA EXOTIC SHOWCASE '89 = YES'89)』が開催されていた。横浜市政100周年、開港130周年を記念して1989年(平成元年)、横浜の臨港地区(今のみなとみらい地区)で大々的に行われていたのだ。今ではすっかり横浜港のシンボルとなっている観覧車はこの時に設置されたものだった。
 この博覧会の会場に「海のパビリオン」があり、江ノ島水族館からイルカも出張してきて演技をしていたのだが、私たちもそこで6ヶ月間ジェットスキーによるデモンストレーションを行った。まさに「イルカに乗った少年」(違うって)。反対側の埠頭からジェットスキーを海に下ろして、仲間と一緒に横浜港を横切る。その光景は今でも忘れられない。

 この博覧会に、一度だけ父が来てくれた。今まで、映画に出てもテレビに出ても全くの無関心を装い、私のスポーツには何の期待も関心も寄せていないと公言していた父だったが(しかし、姉に言わせるとテレビを録画して、夜中に観ていたという)、京都から友だちご家族を招待して、「横浜博」に来てくれたのである。とても嬉しかった。いつも以上に頑張ったのを覚えている。

 ジェットスキーを、私は孫悟空の乗るキント雲だと思っていた。最初は、どうにも自分の思い通りにいかない、立とうとしても全く立ち上がることも出来ない、世界で一番乗りにくいと言われる乗り物なのだが、乗りこなせるようになったら何もかもが思い通りになるのである。飛ぶこと、潜ること、180度ターンから360度、それ以上のターン、ウイリー、何でも自由自在で、雨の日も風の日も嵐の日も雪の日も出来る。波が15メートル以上ある台風の日にも海に出て、ピョンピョン跳んでいた(これは初心者は絶対にマネしてはいけません。いや、初心者じゃなくてもダメかもしれません)。

 波で飛んだり、跳ねたりするのを、「ウェーブ・パフォーマンス」というのだが、たとえば3メートルの波をアクセル全開で飛ぶと、波の形にもよるのだが10数メートルも空中に舞い上がる。そのまま、頂点で軌道を変えて真っ逆さま、逆方向に落ちて(口で説明するのは難しい)、一旦マシンを潜らせ、そして出てくる。そういう「技」を競う(あれから20年。今では、マシンも技ももっと進化してログ・ロールという離れ業まで開発されているし、誰でも出来るようになっている)。

 ホットドックの撮影では、その頃は珍しかった「ジャックナイフ」という技を紹介した。結局、この写真が載ることになったのだが、カメラマンは根性がある。後ろ向きで水に浮かぶカメラマンめがけて走っていき、カメラマンの頭を飛び越えて、マシンの軌道を空中で「ジャックナイフ」のように曲げて、着地するのである。その時に、カメラマンさんがシャッターを切るというわけである(いま考えると恐ろしー)。

 とにかく、そういう撮影をしたり、競技をしたり、活動して、学生生活以上にジェットスキーのプロとしての生活をしていたのだった。

今月5往復目の新幹線

 新幹線を見るとお腹が痛くなるような。今月5度目の新幹線往復のご奉公である。京都への往復、佐渡への往復、さらに京都へ往復すること2回、そして今日は上越新幹線で往復のご奉公である。

 もう少し、ゆっくりと朝も朝参詣の後でもお参詣の方々と語り合えたら有難いと思うのだが、なかなかそうはいかない。特に遠方のご奉公が入っていると慌ただしくなってしまう。

「スローライフしたいなぁ」と思うのだが、ちょっと今はできないなぁ。そう、若い頃から単なる「のんびり」じゃしょうがないし、「持続可能で心豊かなエコ・ライフ」である「ロハス」は大事だと思うのだが。

 今朝は、東京の住宅街を新幹線の窓から撮ってみた。

2007年6月22日金曜日

ついでにワールドカップの写真

 そんなこんなで、ジェットスキーに夢中になって、大学ではJJSBA(日本ジェットスキー協会)の下に全日本ジェットスキー学生連盟を設立・組織し、その初代会長になって、このスポーツの振興や安全について考え運動するようになった。
 アマチュアでタイトルを取ってプロになり、ワールドカップにも二度出場させてもらった。上の写真はその時のもの。厳しいレースで、実際には散々だった。ルーキーとしてパンフレットにまで紹介されているのに成績は振るわなかった。特に、米国のトッププロであるビクター・シェルドンに周回遅れにされたことは忘れられない。「ビュー」っと真横を吹っ飛んで走っていて、レベルの違いを見せつけられた。
 写真のように、レースは1年で15戦ほどあり、ヘルメットを被ってコース・レーシングを行ったり、フリースタイルといって飛んだり跳ねたり潜ったりする技を演じるものがあった。プロになってから、パーソンズというアパレルメーカーがスポンサーになってくれて、マシンの調達、メカニック、遠征費などを出してもらっていた。
 同時に、このスポーツの安全のためのパンフレットに出たり、韓国に派遣されたり、映画「彼女が水着に着替えたら」にも出演させてもらった。織田裕二さんのデビュー映画であり、私の大好きな原田知世さんが主演の映画だった。当時、織田さんは撮影の待ち時間があると釣りばかりしていた。こんなに素晴らしい俳優になられるとは思っていなかった。別の映画では沖縄ロケを2ヶ月くらい行い、大学を休んで撮影することもあった。
 プロになってしまったのだから当たり前なのだが、大学時代はスポーツばっかりしていた。そんなこんなで、留年までしてしまったのだが。

18才と19才の時の写真

 話の中では何度かヤンチャな青春時代について書いたが、なかなか想像つきにくいと思う。

 いや、自分でも想像できないくらいあれよあれよという間にコロコロと転がるような人生だったのだから赤の他人には全く想像や理解が出来ないのは当たり前だと思う。

 真面目な小学生が中学校で不良になり、何度も何度も学校で問題を起こし、家庭裁判所にまで行った。その後、少しは更正して海の仲間と出会った。

 最初に海に行った時のことは、今でも仲間の笑いのネタだ。

 海になんて、中学校の悪い友達と三浦海岸に行ったくらいしかなかった私は、高校で出会ったサーファーの友人に連れて行かれた大磯にも、その時と同じような格好で行けばいいと思いこんでいた。ヤンキーが海に行くような「ファッション」である。

 そして私は『網サン(網で出来たオバさんサンダルのことで、ヤンキーはこのサンダルに金具を付けてチャリチャリと音を立てて歩く)』を履いて、タバコのLARKの赤い(!)紙袋で行ったのだった。(うわー、恥ずかしい)

 当時、白いヘインズのTシャツにジーンズという爽やかな格好が普通のサーファーのスタイルだったのだから、これは衝撃的だった。駅であった友人にゲラゲラ笑われた。当たり前だ。いま、思い出しても恥ずかしい。(この他にも私の青春時代には人に語れないような恥ずかしいことは山ほどある。たとえば、ボーイスカウトのキャンプに始めて行った時のこともそうだ。お坊ちゃま育ちの私は夜になって「家に帰りたいよー」とホームシックになって泣いたのだ。今でも妙深寺のボーイスカウト横浜35団のOBから現役にまで笑われている。トホホ、である)

 しかも、その時、友人からウェットスーツを借りて海に入った訳だが、私はそんな海女さんのようなものを着たことがないし、見たこともなかった。(格好わる!)

 「これ着ろよ」と爽やかな笑顔で貸してくれた友人に御礼を言って西湘バイパスの高架の下で着替え、波打ち際にいるみんなの所に行った。

 すると、みんなが「ギャハー!」と笑うのである。「なんで、なんで笑うの?」と思っていると、ゲラゲラ笑いながら友人の一人が、「ナガマツ!お前、ウェット逆だよぉ!ガハハハハ」と言うのである。

 ナ、ナ、ナント、「え?なんで?どこが?まさか?」と思っていると、確かに「ありゃりゃ、そうか」と気づいたのである。お坊ちゃまの私には分からなかったのだが、洋服のボタンを留めるのは前に決まっているではないか。ところが、ウェットというのは違うのである。チャックが付いていたから、当たり前のようにチャックが前にくるように着たのだが、ウェットスーツはチャックを後ろにするのである。

 つまり、私は「なんでかなー、キッついのー」と思ってギューギューになりながらウェットスーツを着たのだが、それは逆だったからなのだ。おしりの部分は股間の前に着ているのだから、たまったものではない。

 みんなの笑いは全く止まらず、浜辺で呆然とする私。そそくさと高架の下に股間を押さえて走って着直したのであった。

 どう?面白いですか?難しい話が続いたらいけないと思って、こんな自虐ネタを入れてみました。

 まぁ、情けない話。ヤンキーの格好をして、網サンを履いて紙袋で海に行くサーファーがいますか?ウェットを反対に着るなんて。それを見て笑う男友だちやその友だちの女の子たち。こっ恥ずかしいったらありゃしません。

 とまぁ、こんなことが続きつつ、めげない私は持ち前のセンスでメキメキ波乗りの腕を上げ、まさに湘南のサーファーとして成長していったのだった。最初の写真はたぶん18才くらいの写真で、既に大学に行くために勉強に専念(?)していて、あまり海には行っていなかったと思うのだが、部屋の中で撮った写真である。どこに私がいるか分かります?分からないでしょうね。ホント。ヤンキーも3年経って、海の男の雰囲気が出てきて、こんなに成長したのでした。

 上半身裸の男の子が私なのである。あぁ、素敵。

 そうやって波乗りからジェットスキーまで、海のスポーツをするようになり、高校時代、大学時代と駆け抜けて、そして本山での修行、先住のお怪我、横浜でのご奉公、お寺を離れて社会での生活、お寺に戻ってのご奉公、先住の御遷化、住職就任、そして今、と私ですら目が回りそうなくらいだから、みなさんが想像付かないのも当たり前。

 私もこういう写真を見ていて「はぁ?」と不思議に思う。まぁ、開き直って、ちょっと今日はハードディスクから秘蔵の写真を出してみた。(だって、たまにはこういうのを書かないとつまらないでしょ)

 大学に入ってすぐ、ジェットスキーをはじめたのは前にも書いたとおり。友人10人と2台のジェットスキーを買ってローンを支払いながら順番に練習していた。真冬には母のお便所掃除のビニール手袋とストッキングを夏用のウェットスーツに着けて(その当時はちゃんと着れるようになっていた)ジェットスキーに積もった雪を払って練習していた。

 もう、このスポーツに私は没頭しました。その頃の大親友である久男くんは、高知の出身でいつも一緒にいた。 上の写真の右側が久男くんで、左側が私。

 持つべきものは友だちで、私は本当に友だちに恵まれ、たくさんのことを学ばせてもらった。

2007年6月21日木曜日

ただいま、「エンクエントロ」

 今日はエンクエントロ。
「エンクエントロ」とは横浜の国道一号線沿いにあるレストランで、反町駅近くの素敵な素敵な隠れ家のような場所。スペイン語で「出逢い」という意味だという店名で、心地良い音楽、南米の手作りの小物やアクセサリーも置いてあり、美味しいお食事やカフェ、紅茶もいただける。

 この素敵な空間をお借りして、妙深寺の私たちが「ともしび法話&ライブ」というティーパーティーをさせていただくようになった。あれから早2年、その名の通り、たくさんの「出逢い」が詰まった会合となってくれた。

 この会合では、ご信心をしている方、しておられない方を問わず、脳外科医をお呼びしたり、NGOの代表をお呼びしたり、医療・介護・看護、家庭の問題から子どもたちの教育問題に至るまで、さまざまな分野の先生やリーダーに来ていただいて、勉強しつつ、楽しく交流させていただけている。

 今日は「第二回 ともしび俳句会」だ。第一回は二ヶ月前。この「俳句の会」は西澤さんに先生をお願いし、素敵で柔らかい声で俳句を学ばせていただいたのだが、まぁその楽しかったこと。私は、本当に心から楽しめたし、勉強になった。

 西澤先生は、2年前のイタリア団参に参加していただいた。その折にも、素晴らしい俳句の才能を発揮されていたのだ。その時の俳句は今日のエンクエントロには持ってきていないので紹介できないが、本当に素晴らしい俳句を、訪れたローマ、フィレンツェ、御講などで詠んでくださるのである。団参の後、その俳句を思い起こすたびに思い出が蘇る思いがした。また、昨年の先住御七回忌にも印象的な歌を詠んでくださるのだ。

 また、何より素晴らしいのが会の進め方。まず、「日本語は何と綺麗な言葉を持っているのだろうか、と俳句を作りながら感じられるのです。日々の情景、感じた事々を、日本語だけが持つ言葉を編んで作れることが素晴らしいではないですか」との言葉に、私は感銘した。
 その説明をいただいた後、そのまま各々が作らせてもらうのである。季語などもあるが、それは教えてくださる。勉強するよりも、率直に季節の情景を詠むのが良い、と。肌で、眼で、香りで、感じる季節を、自然を、詠んでみてください、と。「これなら私にもできるかも」と思わせてくださるのが、西澤先生の教え方の素晴らしさ。
 そして、作った俳句を、順序バラバラにして誰が作ったのか分からなくして一枚の紙にまとめ、それを人数分コピーする。そして、それを一人一人に配って、自分が素敵だと思う歌を三首選ばせてもらうのだ。その際にはこの会を主宰する高島さんが作ってくださった「選句」のための紙に書く。

 それを集めてからが面白い。一人が選句されたものを読み上げる。「長松清潤選。三番。老い仕度 済ませし女(ひと)や 初螢」とか読み上げていく。そして、集計をしていくのだ。それまで、誰が作ったのか分からない。
 全員の選んだ句を発表し、点数を集計した後で、「なぜ、あなたはこの句を選んだのですか?」と聞かれる。「いや、情景が浮かぶのです、夏の川が」などと言う。そして、「では、この歌はどなたが作られたのですが?」と聞いて、「私です」と作った方が手を挙げ、自分がなぜこのような歌を詠んだのか話す。これが、何とも自然で、全員参加型の会合になって、大盛り上がりするのだ。

 「灯籠草 暗き世界の道案内」
 「七回忌 母の単衣にハッとする」
 「蕗の薹 見つけてよぎる母の味」
 「そらあおぎ 雨をふれよとなむをする」
 「雨の香に つつまれ歩む 梅雨の街」
 「雨音に 起こされ始まる梅雨の朝」

 いま、私はエンクエントロでこのブログを書いている。周りは大変な盛り上がりようである。上の写真はエンクエントロに置いてある可愛い犬の「イス」である。信仰師と姉の千延は、このイヌちゃんが気に入って、なんと買わせていただいた。
 だから、二人の家に行くと、私はこのイヌに座っているのであった。

2007年6月20日水曜日

スピリチュアル・ブームにもの申す

 ずいぶん前に書いた文章だが、昨今のスピリチュアル・ブームを見ていて感じることが多々あるので、夢を無くすわけではないが、ちょっと考えてもらいたいと思い、ここに載せてみる。私は多分に松井孝典教授の影響を受けているが。

 数千年前から、人は月に憧れを抱いてきた。真っ暗な夜空に輝き、様々な形に姿を変える月は、意識する必要もない程大きな存在の太陽より魅惑的だったという。

 ある時は鏡のように、ある時はか細い女性のように、ある時には暖かい母のように、月は人を魅了してきた。
 約六千年前、チグリス・ユーフラテス川の下流域に住んだシュメール人は29.5日を周期として月が姿を変えることを知り、時間の尺度にした。
 ローマ人は、月のはじめの日を「月を呼んだ日(カレンダエ)」と呼び、この真っ暗な新月の夜空を見上げた時のローマ人の表現が、英語の「カレンダー」という語源となった。

 日本人は、十六夜月(いざよいづき)、立待月(たちまちづき)、居待月(いまちづき)、臥待月(ふしまちづき)、宵待月(よいまちづき)と、素敵な呼び名をつけて、天空に浮かぶ月に魅惑的な世界があり、そこに天女が住むと空想していた。

 シュメール人はアッカド帝国に滅ぼされ、アッカド帝国はバビロニア帝国のカルデア人に滅ぼされた。カルデア人は遊牧民で、夜になると星の動きを読み、季節の変化にともなって星が移動することを知り、活用しはじめた。そして、多くの星が規則的に変化しているにもかかわらず、五つの星だけ他の星よりも一段と輝き、何より全体の秩序から外れていることに気づいた。カルデアの人は「行く先に迷っている星」、「惑える星(プラネット)=惑星」と呼んだ。それが、水星、金星、火星、木星、土星だった。

 カルデア人は、この五つの惑星に神様が住んでいると考え、太陽と月を付加した七つの星に、人が生まれてから死ぬまでの一切と、地震や洪水や飢饉(ききん)という自然現象の全てが支配されていると信じるようになった。これが星占い、占星術の起源である。

 多くの人が夢中になる星占い。これらの「惑える星」である「惑星」から六つを選んだ「六占星術」だとかいうモノを使うらしい細木数子姉が本を出し、いくつものテレビに出て人々の注目を集めている。惑星物理学が大好きな私には何の興味もないのだが、それこそ迷信に翻弄(ほんろう)されている人の多さに、悲しくなるばかり。

 この惑星による運命論を、根底から突き崩したのは、約450年前のニコラス・コペルニクス。この聖職者にして政治家、医師にして詩人でもあった数理天文学者は、地球が宇宙の中心で制止しているのではなく、太陽の周りを回る惑星の一つに過ぎないということを明らかにした。地球自身が「プラネット」だったと解明したのである。1543年のことだった。

  これらの七つの「惑星」が、地上の人や出来事に影響を与えているという考えは、地球がその惑星と別の存在、宇宙の中心にあればこそ、それなりに理に適っていたのだが、コペルニクスは地球も大きな「体系」の中の一つの惑星だと明言したのだ。

 カルデア人の時代から三千年もの間、人類はそのことを知らずに、惑星や星座の動きにあらぬ不安や期待を抱いてきた。太陽や月の存在が人類の父や母であること以外は、迷信の枠を出ないということであろう。もちろん、以前に書いたように、森羅万象、太陽や月や星々から見えざるものを感じる「詩人」の心を持つことは大切だと私は信じているが、「迷信」や「邪信」を抱けとは思っていない。

 最も近い月ですら、1969年まで表面の模様は謎のままだった。高名な哲学者であるカントは火山説の主唱者であったし、アポロ11号の月着陸まで、現代の私たちであれば当然のように知っているクレーターの存在や月の表面にある模様について、その謎は解かれないままだった。

 夢の無い話ばかりをするつもりはない。これらの最新の宇宙科学に匹敵する教理が御仏(みほとけ)の説く真実の仏教と完全に合致すると、私には考えられる。

 十方の宇宙に広がる過去・現在・未来の世界を説かれた仏教の宇宙観は、古代インドの散漫な思想などではない。人間は何故、何のために存在しているのか。宇宙こそどのような存在なのか。それを克明に、詳細に覚知(かくち)され、人間のあるべき生き方を示されたのが御仏である。

「宇宙は、宇宙を知り、理解してくれるヒトを求めていた」と先端科学の分野で「人間原理」が注目されている。この惑星に生命(人間以外の動植物すべて)が誕生したとしても、ここまで進化を遂げた現生「人類」がこの「宇宙の存在」について識り、そこから何も見出せないとしたら、この「宇宙」を人類以外の何者が認知してあげられるのだろうか、と。これは最大の科学的テーマである。

 N=Ns×fp×ne×fl×fi×fc×L/G

「天の川銀河に人類のような高度技術文明を持つ生命が存在するか」という問題を考える時に、必ず出てくる「ドレイクの方程式」が前述の数式。

 この銀河系に存在する高等文明の数を「N」とすると「Ns」は、銀河系に存在する恒星の数。「fp」は、その恒星が惑星系をもつ確率。「ne」は、そのなかで生命が生存可能な環境をもつ惑星の数。「fl」は、そこに生命が発生する確率。「fi」は、その生命が知的生命体に進化する確率。「fc」は、その生命体が他の星に対して通信をおこなえる確率。「L」は、その高等文明の継続時間。「G」は 恒星の寿命。

 数式一つ一つに数字を当てはめ、科学的に推定を加えた仮説では、今現在の時点で人類と同じような高等技術文明を持つ知的生命体が存在する可能性のある星は約1000個であるという。まだまだ議論の余地はあるが、これは十分あり得る数字だというのだ。

 しかし、この数式で最も重要なのは「L」。つまり、「その高等文明の継続時間」である。
 ある学者は皮肉にも、高度な技術を持つようになり、宇宙の存在を知り、理解するようになった「文明」の継続時間を、たった「100年」としているのだ。人類は智慧を発達させると同時に、愚かさから自滅するというのである。

 1000個の恒星までの平均距離は、およそ100光年。文明の継続時間がもし100年だとすると、地球圏外の生命と交信することは極めて困難ということになる。

 宇宙に意志があり、宇宙が人類を求めていたとするならば、御仏は宇宙の意志を知り、宇宙の意志を体現された方ではないか。想像を絶する宇宙の大きさと時間の流れの中で、過去の人類、現在や未来の人類を説かれるスケールに驚愕(ぎょうがく)せずにいられないし、仏教とは宇宙の中で生を受けた人間の最も人間らしい生き方を教えてくださるものだと確信している。

 昨年、ギャラップ社の調査によると、米国の45%の人が「人類は約一万年前に神により創造された」と答えている。彼らの信奉する創世記や占星術に迷っていては、高度な技術文明を持つ人類も数百年も経ずに自滅してしまうかもしれない。迷信や邪信では、人類の存在意義にすら迷ってしまう。1960年代に入るまで米国では進化論を教えることすら拒絶していた。現在でもディープ・サウスといわれる米国南部ではそれらを拒否している教育機関もある。そして、最近では「インテリジェンス・デザイン(ID)」という学説が出てきて、進化論に異を唱えて、それらがブッシュ政権にすら影響を与えている。環境問題どころではない。

 天災や人災が相次いでいる。私たちが「仏教」の本質を知らずに、迷信・邪信に甘んじていれば、高度文明の破滅の予兆の中で苦しむことになるだろう。それはカルト的な予言でも何でもない。

 しかし、私たちはオーソドックスな仏教、修行はあくまでシンプルだが、その背後に深遠な教理・哲学を内包する御題目口唱のご信心をいただいているのである。

 迷うことなく、本当の仏教、信仰をしてもらいたいと思う。

ダンプカーって

 今朝は早々に横浜妙深寺を出て、静岡の清水清啓寺まで修学塾のために出発した。修学塾とは教務の勉強会であり、それぞれ「宗学」「弘通学」「法門学」を1ヶ月に一度づつ集まって講義をいただく。同時に、私はこの修学塾で「弘通学」の授業を担当させていただいているので、休むわけにはいかないのだ。神奈川県と静岡県の寺院から御講師方が集まっての勉強会。今月は2日間にわたるので、今は1日目の授業を終えて清水港を見渡せるビジネスホテルの部屋である。

 今朝、東名高速を使って淳慧師の車で走ってきたのだが、ちょうど以前から思っていることがあるので、ここに書きたいと思う。
 それは、ダンプカーのことである。なんで、土砂を積んで、ホロも掛けずに高速道路を走れるのだろう?バラバラ、バラバラと土砂が飛んでいる。当然ながら、そのバラバラと飛んでくる石は淳慧師の車にも当たってくる。フロントガラスに当たる石も怖いし、小さな車だがお寺の浄財で買わせていただいた車だから大事に乗っているのに、ダンプカーの土砂で傷ついたらかなわない。「うわー」と思いつつ、清従師が追い越してくれて、ホッと一息。

 しかし、なんでこんな基本的なことのルールが作れないんだろう。ヤンチャだった頃、道路交通法に違反して家庭裁判所まで行かされた私がこんなことを言うのは何だが、こりゃ暴走族と同じだろう?それを何で取り締まらないの?タクシーとかダンプとか運送業とか、天下の公道を使わせていただいてお仕事をされているのだから、せめて他の車に配慮したりするのが当たり前。それを教えることも大事だし、せめてキチンと取り締まってもらいたいなぁ。僕はスピード違反よりも大事なことじゃないかと思う。

 なぜなら、まず全く関係のない一般車、大事に大事にして買った車が土砂によって実際に傷つくのだから。フロントガラスが割れようものなら、危ないことはもちろんだが、直すのにお金が掛かる。
 そう、土砂は高速道路に堆積して、それを清掃するにも大変な料金がかかるだろう。その土砂を他の車が踏み、跳ねて反対車線に飛んでいくからフロントガラスなどが割れる。この連鎖を考えても、私の若い頃の愚かな違反以上に危険だと思うんだがなぁ。

 こんなことを書くつもりじゃなかったんだが、何で相変わらずホロも何にもしないで土砂が後続車から見えるような積み方をしているダンプカーが悠然と走っているのだろうかと不思議だから書いてしまった。

2007年6月19日火曜日

人間の数だけヒーローがいる

 17:46発の帰りの新幹線。徐々に沈んでいく太陽を背にして、横浜に向かう。
 新幹線の窓から美濃の豊潤な平野が見える。この風景を見ながら、いつも思い出すのが長渕剛さんの「浦安のクロちゃん」という曲だ。浦安のクロちゃんと一緒に新幹線で大阪に向かうのだが、その新幹線から見た風景への描写にとても共感する。

 「田んぼのあぜ道を白いヘルメットかぶり、自転車通学の学生が気になる。名も知らぬ町で、名も知らぬ風に吹かれ、アイツもきっと夢があるんだなぁって、、、」というくだりだ。「あぁ、僕もそう感じるなぁ」と思うのだ。

 猛スピードで通り過ぎる風景の中。何処とも知らない、だだっ広い平野に広がる水田。その細いあぜ道を白いヘルメットを被った学生が自転車を走らせている。その子のことに少しだけ思いを巡らせてみると、何とも不思議な気持ちになる。「アイツも夢があるんだろうなぁ」と。新幹線の中と名前も知らない町の田んぼの中の少年。普通ならば何の接点も無いはずだが、新幹線が通過していく一瞬の刹那に、ほんの少しだけ結ばれる私と彼。

 一人一人、人間は自分だけの人生を歩んでいる。当たり前のことだが、それぞれがそれぞれの視界や視点を持ち、苦楽を抱きながら、でも必死に生きているのだろう。普通、それは自分だけの世界であり、自分以外の人が深く知り得るものではない。一人一人の人生なのだ。

 夢と希望、挫折と期待、努力と苦悩、愛や恋。それぞれの人生にはそれぞれのそれらがあるはずだ。日が落ちてきて、家々に灯りが点りはじめると、その灯りの一つ一つにも私の知り得ない人生があるはず。家に点りはじめた灯りを見ながら、そこに住むご家族にも思いを馳せる。

 不思議なものだなぁ。人間という動物だけではないか。こうして自分の外にある世界に、人々に、ここまで思いを馳せられるのは。有難いことだなぁ。

 昔、ファンタのCMのコピーに「遊びの数だけヒーローがいる」というのがあった。私はそのコピーが大好きで、スポーツに関係するビジネスをしていた時に何度もこの言葉を使ったし、今でもそう信じている。大リーグやサッカーのトップ選手だけが「ヒーロー」ではなくて、まさに「遊び」の数だけヒーローがいるなぁ、と思うのだ。街角のスケートボードをやっている少年でも、サーフィンに夢中の中年でも、遊びの数だけ輝かしいヒーローがいると思う。

 同じように、「人間の数だけヒーローがいる」のではないか。もちろん、それは「人(ヒト)」では物足りない。「人」と「人」との「間」にあって、必死に、夢中に、懸命に生きている人を「人間」と呼ぶのだとすると、その「人間」の数だけヒーローがいる、と思う。

 愚かな側面もたくさんあるけれど、そう考えれば人間を信じたくなる。本当のヒーローになってもらいたいと思う。自分一人では「人間」になれないように、自分のことばっかり考えているヒーローなんていない。ヒーローは自分の夢や希望、使命に向かって、必死に頑張る。人のために汗を流し、自分の力を振り絞って使命を果たす。

 そのヒーローの手本こそ、ご信心をしている人であって欲しい。御仏の教えを信じている人であって欲しい。「ご信者の数だけヒーローがいる」「菩薩の誓いの数だけヒーローがいる」と言いたいのだ。

 田んぼのあぜ道を走る少年、会ったこともない人々、名も知らぬ町に住んでいるたくさんのご家族たち。
 あの一つ一つの灯りの下に暮らすご家族、子どもにとってお父さんは強いヒーローであり、お母さんは優しいヒロインなのだろうなぁ。パパやママにとっては子どもたちが小さなヒーローかもしれない。いや、ヒロインと言わないと怒られるかな。

 「人間の数だけヒーローがいる」。そして、本当の「ヒーロー(ヒロイン)」になってもらうために、御仏の教え、お祖師さまの教えを、名も知らぬ町の人たち、ご家族にも伝えたいと思う。

2007年6月18日月曜日

世を眺めつつ

 お寺は生きている人が集う場所。法事(回向)や墓参りで訪れるだけの場所と勘違いしてもらっては困る。老若男女、世代を超えて「お寺と共にある暮らし」の素晴らしさを実感してもらいたいと思う。
若い人には若い人のための、パパやママにはパパやママのための、子どもには子どもへの、お年寄りにはお年寄りへの教えがあり、学びがあり、交流がある。

 日本では、宗教と距離を置く傾向があるので、若い世代には敷居が高いのだろうか。妙深寺では若いお参詣者が増えているが、それにしてもお年を召した方が多いことは事実であり、それでも良い。ご信心は年を取ってからすれば良いと言っている人には「そうではない」と反論したい。若い今だからこそ信仰を持つべきだと言いたいが、言葉だけでは伝わらないだろう。

 とにかく、お年を召した方が多いのは事実。私はそうした方々を大切にしていきたい。妙深寺でもミニ・デーサービスや、老老介護へのサポート、孤独死ゼロのための企画を進めている。真に心豊かに、いきいきと、何歳になっても「お寺と共にある暮らし」が何より有難いと実感してもらいたいと思う。
 それにしても、最近そのお年寄りに関係する出来事で腹に据えかねるニュースが続く。いや、お年寄りの問題だけではない。若い世代にとっても関係している「年金」の問題がそれだ。
 私は何事も実際にアクションを起こしたり、自分で見聞きしたりしないと気が済まないので、いま話題となっている年金の相談電話窓口に電話をかけてみた。電話番号は0120-657-830なのでみなさんも是非掛けてもらいたいが、報道されているとおり全くつながらなかった。「ただいま、回線が混み合っております。後ほどお掛け直しください」というアナウンスが流されただけだ。
ムカ、ムカムカムカ。
 先述したとおり、お寺には年を召した方が多い。そうした方々の大半が年金で暮らされている。つまり、お年を召した方の貴重な御志は年金の中からお包みくださっていることが多いのである。「お寺のものは祖師のもの」という合い言葉の下、お寺のものを大切に、水道電気ガスなどを節約するのは大切なことなのだが、何よりお年寄りの方々の貴重な「年金」から御志を預かっているという事実も忘れてはいけないだろう。何より貴重な貴重な「浄財」なのだ。
 しかし、そういう私もつい最近まで年金の大切な意味など分からなかった。正直なところ、社会の全員が年金制度を支えて相互に助け合うという大切さよりも、むしろ何度も報道される年金に関連する不祥事に憤りを感じるばかりだった。官僚システムの腐敗や運用の愚かさばかりが眼について、恥ずかしながらお年寄りの目線で年金の大切さを知ったのは30才を超えてからだった。
 それにしても、今回の問題は何だ。何ということなのだろう。どこに問題の本質があるのか。何が問題なのか。
 年金からお寺に御有志してくださっている方々や、年金を支えている世代、これから年金に頼っていくという全世代が集うお寺の中心にいて、この国の政治、社会保障、年金に関連する問題について眼を背けるわけにはいかないと思う。
 年金の問題だけではない。今の日本社会は病んでいると思う。健全ではない。何が健全ではないかといえば、豊かさを背景に、宗教に無関心であるのと同様に政治に対してあまりに無関心なのである。だから、一つの政党が戦後永らく政権の座を独占して、官僚機構に腐敗や癒着が生まれていても、検証する機会を見過ごしている。それこそ、この国の病巣ではないか。
 近代は限りなく政治的な「技術」が進化した時代だと思う。古代ローマの時代から、「アルテ(技術)」と呼ばれる様々な政治的「技術」が開発され実施されてきた。
 カエサル(シーザー)は「ガリア戦記」などの著作(レポート)を戦場からローマに送ることによってローマ市民の支持を得、ついには「ルビコン川」を渡った。いや、渡れたのだと思う。古来から政治家と民衆を如何に結びつけるか、どのような方法で「語るか」ということが、法治国家の法整備と同じくらい重要であったのだ。
 古くから政治家は国民に意思を表明する義務があり、それらを演台や石板、石柱や紙面を用いて伝え、説明して理解を促し支持を訴えた。民主主義的な国家に限ったことではない。封建的な国家であっても民衆を黙らせるために「法」以上にメディアは活用されてきたし、それを活用する「アルテ(技術)」は研究されてきた。
 近代に入り、演台や石板、石柱や紙面に、「ラジオ」や「テレビ」という新しいメディアが加わった。すると、政治家は競ってそれを利用するようになった。
 ヒトラーがラジオを巧みに使ったことは有名だ。ヒトラーに限らず、敵対する連合軍も、第一次・第二次大戦を通じてそれを活用した。あらゆる政権は、意図するところに従ってニュース映画を製作し、それを国内各地に配給・放映した。中立性・客観性を表す「ジャーナリズム」という活動は、永らく根ざすことも出来なかった。各国政権与党は、政治的な成果を期待してニュース映画を製作し、日本でも「大本営発表」などという戦意高揚のための映画が盛んに放映され、それを見ていた民衆の選択の余地は非常に限られていた。
 第二次世界大戦はヒトラー率いるドイツが敗北し、日本も敗戦国となった。私はエルサレムでホロコースト記念館を訪れたが、ヒトラーの背筋も凍る蛮行にはあらためて戦慄した。しかし、その場所でもヒトラーを悪魔として見立てるだけでは不十分なように感じた。なぜなら、何よりヒトラーは政治的なアルテ(技術)を駆使して、あれだけ民衆の「熱狂的な」「支持」を集めたのだ。その事実こそ驚異だと思うがどうであろう。アインシュタインなどの賢明な者(ユダヤ人に限らず)はドイツ国外に亡命したが、多くの国民は疑いを抱きつつも大多数の人間が彼を信じ、彼に政権を与えたのである(ベルサイユ条約によってドイツが背負わされた天文学的な債務を放棄して、ドイツ経済を立て直すという偉業はヒトラーによって実現した。そうした「経済的理由」によって多くの民衆が彼を信じたのであった)。

 私は、政治の技術が進化しすぎていることを忌避しているのではない。しかし、今の日本の病巣にあるのが一党の長い支配にあると思っている私としては、既に社会の重要なシステムが機能しなくなっているにもかかわらず、あらゆる技術を駆使して民衆の支持を得ようとしている政権与党に不安を感じている。私は特定の支持政党は持っていない。しかし、何党が良いということではなく、年金の問題にしても何の問題にしても、「人間の性」「社会・組織の性」として一党独裁の中に自浄作用を期待できないと思っている。それは、「あらゆる組織は腐敗する」と言ったジェファーソンの言葉を借りる必要もない事実だと思う。
 私は特定のイデオロギーというものを持ったことがない。勉強不足なのだから当たり前だ。しかし、仏教の歴史、あらゆる宗教の歴史を考えても、年月と共に教えが形骸化したり、聖職者が特権階級化したり、腐敗したりすることを知っている。それが、なかなか自浄作用では改善されないことも知っている。かといって、「革命!」と叫びたくはないし、次々に新しい宗派が「今後も」生まれることを望んではいない。歴史から学ぶべき「人間の性」「社会や組織の性」があると思っているだけで、イデオロギーを信奉するだけの知識がないし、そうした情熱も湧かない。ただ、腐敗すること、癒着すること、人間の弱さや欲望の果たす役割については知っている。だから、「佛立宗」は「人」ではなく「佛」を立てる宗旨としての「名」を掲げている。あくまで「人」が前に出ると性として腐敗していくものであるし、情実に流されればブッダの真意は伝えられず、受け継がれないと考えているからである。あくまでも、「人面法裏」ではダメで、「法面人裏」なのである。
 年金24時間相談窓口、フリーダイヤルの電話受付、それらを約束した首相、政権与党。そうした言葉を耳にしつつ、「お上(かみ)を信じよう」という気にもならないでもないが、実際に電話してみて機能していない様を実感すると「やはり」と思える。「アルテ(技術)」はあっても「ヴィルドゥ(器量)」「信義」がない。残念ながら、そうした言葉を信じていたら、また政治的な技術に踊らされているだけで、後々には失望するのである。

 ハイエク(1974年 ノーベル経済学賞)は、ヒトラーの蛮行に相前後して、1944年『隷属への道』という大著を発表した。私は彼の理論を全て信奉しているわけではないが、彼は「ナチス(ナチスは国家社会主義)と戦う側のイギリスなども本質的にはナチスに通じる主張をしているではないか」と批判した。つまり、晩年は哲学者・思想家の風貌を持ったハイエクだが、私が感じたままを言えば、結局「どっちもどっち」ということだった。社会主義だろうと自由主義だろうと、問題の本質は別の次元にある、と。もっともっと根深い、と。当たり前のことだが、「社会主義」にしても「市場主義」にしても、「社会」を構成しているのは「人」である。「人」の本性を無視して主義もへったくりもない。自然科学的なアプローチでそれが解明されることは素粒子実験で5次元を実証するのと同じくらい難しいと感じるのだが。とにかく、ハイエクは「自由主義」とも言われたが、これも西欧の宗教的価値観を前提にした理論だと私には感じられる。
 社会は、「機能」が大事で「主義」では変わらないと思う。機能とは、とにかく国民による選挙というチェック機能、判断、政権が健全に交代するという「機能」だと思うがどうであろう。あえて言うなら、私は「機能」や「主義」で変わらなくても「信」で変わると思っているのだが、唐突過ぎてこれを読んでいる人は理解できないと思う。
 ヒトラーは国会に放火し、放火したのは共産党だとデマを宣伝して選挙にも勝ち、憲法を改正し、チェック機能を残したまま蛮行に至った。その「事実」こそ「蛮行」以上に問題だと思う。そして、ヒトラーを信じた人々は、最終的には彼の妄想によっておぞましい地獄を味わった。未だにヒトラーの亡霊は世界に息づき、影を落としている。
 「ヴィルドゥ(器量)」「信義」を棚に上げて、「アルテ(技術)」だけで政治が行えるとしたら、恐ろしい。実際は、「行える」のである。メディアを活用し、小泉前首相のように政治的な天才は民衆の想像力を巧みに使いながら支持を獲得する。私は、残念ながら彼の魅力は認めるが、あの「劇場」には二度と行きたくないと思っている。
 「民営化」すれば良いという意見には大反対である。その前に「公」とは何かが官僚に対して何ら語られず、小手先の「民営化」で政官業の癒着や腐敗が改善されることはないからだ。「民営化」だの「有識者会議」だのは、結局一党支配を続けるための小手先の「アルテ(技術)」の一つだと思う。それ以上に問題なのは、各省庁の官僚と一党の政治家との代わらざる関係であり、票田となっている準官僚団体と政権与党との癒着なのだ。抜本的に改革できる自浄作用があるとは信じがたい。
 森前首相のように「選挙に行かないで、家で寝ていてもらいたい」と無党派層に呼びかけるような国では、年金問題に限らず、国民を愚かな方向に陥れる「蛮行」が繰り返されないとも限らないと思うがどうだろう。国民を安心させるだけの「有識者会議」など屋上屋(屋上の上にさらに屋上を作る)で恣意的過ぎる。では、政治家の役割とは何なのか。
 イギリスでは野党にのみ政党助成金を支払う。強い野党が無ければ健全な民主主義が機能しないと考えているからだ。日本では政権与党を支えるために政党助成金は与党にもがっぽりと入り、それすら機能していない。
 とまぁ、こんな感じで書いてしまったが、新幹線の中が暇だったので仕方ない。
 突き詰めると、「年金問題」は国民全員に責任があるのだろう。そういう政治を選んできているのだから。しかし、後で後悔しても仕切れなかったであろうドイツ国民のようにならないように、と祈る思いだ。

「公」について

 今、また新幹線の新横浜駅。17時からのご回向のご奉公をさせていただいて、明日11時からの会議のために京都に行く。慌てて準備をしていると連絡が入り、明日の会議が15時に変更とのこと。疲れた身体にさらにムチ打つような電話に、「参った」という気持ち。しかし、一緒に明日ご奉公していただくことになっているひろし君は既に新幹線の中だと留守電が入っていたので、私が行かない訳にはいかない。しかも、出発の30分前ではどうしようもない。

 いつ書いたが忘れたが、ご奉公とは「公に奉る」と書くように、ご信心でいえば御仏に、それは即ち今の言葉で言えば「Something Great」に、あらゆる人のために我が身、我が時間、お金を「奉る」ことであろう。このことを忘れると、口では「ご奉公」と言いながら「私に奉る」で、「ご奉私」になってしまうのだ、と。

 しかし、私は最近の官僚機能の腐敗についてつくづく思うのだが、精神論ではなく人間の性として組織は腐敗するのだ。官僚が「公」に奉るという意識を持っていたら癒着や腐敗が起ころうはずはない。しかし起こるのである。あらゆる宗教、仏教に於いても、何度も僧侶は特権階級化し、「公」に奉る姿をしながら「私」だけに終始して歴史に汚名を残した。
 そうはなりたくない。ただ、だからこそ、宗門のご奉公に携わる者には本当の「ご奉公」が求められているのだろう。

我が親愛なるジョン・レノン

 私はジョン・レノンが好きだ。いや、好きだを通り越している。今、身体が重たくて仕方がないので、You Tubeでジョンの声を聞き、ビデオを見ていた。

 3年前、アメリカ横断をしていた時、最終目的地のニューヨークで彼が凶弾に倒れた場所を訪れた。セントラルパークに隣接したダゴダアパートの前。私はそこで彼を想いながら御題目をお唱えした。

 私は、彼ほど仏教的である表現者はいないと確信している。それは、「イマジン」の中に宗教を否定した歌詞があるとか、天国もないと言ったとか、彼がインドのヒンドゥー教に傾倒していたとか、「ゴッド」の中でイエスもブッダも信じないと明言しているとか、そういうことでは分からない。ある意味では、宗教が人々の思考を停止させ、人間らしさを奪うこともあるではないか。宗教による選民思想が人種間の軋轢を生み出し、聖地を奪還するために多くの血が流されることもあるではないか。そういう意味では、「イマジン」や「ゴッド」に書かれた歌詞を超えて、私はジョンを理解したいし、理解すべきだと思っている。真の宗教はあらゆる意味で「普遍」でなければならぬのだから。
 彼の生涯をつぶさに見聞きして、私は仏教的というよりも「佛立的」であると思うのだ。

 

 こうした動画がどうして見れるのかは分からない。しかし、私のような者にとっては、You Tubeで見れることは有難いとしか言えない。



 私は、「唯一聞いても良いクリスマス・ソング」と周りにも言っているのだが、彼が皮肉たっぷりで書いた「Happy Xmas (War Is Over)」に込められたメッセージを大切に思っている。
 最近、オノ・ヨーコさんが監修したであろう「レノン・レジェンド」というフィルム(DVD)が発売された。私はそれを買い、とても感動したのだが、その映像までYou Tubeにあるとは。何ということだ。しかし、是非このブログで紹介したいと思ってしまった。
 この「Happy Xmas (War Is Over)」の映像は、ジョンと一体とも言えるヨーコさんが製作されたものだが、かなり衝撃的なシーンもあるので見たくない方は避けた方が良いかもしれない。しかし、世界の現実である。戦争や紛争、テロに翻弄される人々、そして愚かな人類の歴史を振り返ることができる。

 私は、これを一般的な「クリスマスソング」とは思っていない。そう思うのは無知すぎるのではないか。
 第一次世界大戦も、従軍した若者たちは「クリスマスまでには帰れる」と希望を抱いて戦地に行った。結局多くの若者たちが故郷に帰ることなく散っていった。
 また、戦争している双方の国の兵士たちが、「神」の名が刻まれたバックルや煙草ケースを支給されて持っていた。神や宗教が、戦争という愚行を助長していることも分かるはずだ。
 戦争が繰り返され、愛すべき子どもたちまでが傷つき、家族が離散する。「そんなことになっているのに、クリスマス」。突き詰めれば、そういう歌だと思う。
 西欧の神。一神教。私にはジョンがキリスト教への宗教心やイエスが生まれたことを賛美する心からこの歌を書いたとは思えない。彼一流(ヨーコさんも)のたっぷりと皮肉と愛、理想と思想と情熱から出た歌詞なのだと思っている。
 そして、私は思う。この歌から「なにがクリスマスですか?何がめでたいの?」というメッセージを感じるのだ。子どもたちに、一般的な年間行事として「クリスマスおめでとう」と言っているけれど、ヨーコさんが製作したであろうレノン・レジェンドのこの歌の映像は、最も激しく恐ろしい。教えるべきことは「War is Over if you want it(キミさえ望めば戦争なんて終わるんだよ)」ということであった。

 仏教は唯一宗教戦争を起こさなかった宗教と言われている。「いや、仏教国である日本も太平洋戦争をしたではないか」と言う人があるかも知れないが、「仏教そのものに戦争を助長・賛美する教えは全くなく、それは完全なる誤解である」と答える。聖書の中のヨシュア記等を読めば、どれだけ「戦い」を助長するDNAがユダヤ教、キリスト教、イスラム教にあるか分かるだろう。いや、ここで書いても仕方がない。
 いつも言っているように、「素敵な宇宙船・地球号」ということは、実は御仏が説かれた法華経本門の教え、お祖師さまの宗教の中にしか無いではないか。あらゆる諸天善神、諸仏、諸宗教を一つに結び、宇宙の在るべき姿を解き明かされ、人種も、地位も、何ら関係なく、「たった一つの乗り物(一仏乗)」の教えであることを御仏自らが明言された教えなのだ。
 そういうことを考えながら、私はジョン・レノンの曲を聴き、その歌詞と対比して御仏やお祖師さまの教え、思想を思い起こし、明日へのご弘通の活力・エネルギーが湧いてくるのだ。単純に「謗法だ」などと切り捨てたくない。

翻訳した歌詞を下に載せてみた。
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(クリスマスおめでとう、キョウコ。クリスマスおめでとう、ジュリアン)

そういうわけでクリスマス、、、
キミらの今年はどうだっただろう
また一年が終わってしまい
新しい年が始まるよ
そういうわけでクリスマス、、、
楽しくやって欲しいんだ
親しい人、愛しい人
お年寄りでも若くても

とても楽しいクリスマス、、、
そして幸せな新年とがくるように
みんなで、一緒に願おうよ
なにも脅えずにすむような

そう今日はクリスマス、、、
負け組にも勝ち組にも
お金持ちでも貧乏でも
この世はすごく変だから
そうせめて楽しいクリスマスを

白人にも黒人にも
黄色人種にもネイチブにも
喧嘩なんか止めようよ

とても楽しいクリスマス、、、
と幸せな新年とがくるように
みんなで、一緒に願おうよ
なにも脅えずにすむような

そういうわけクリスマス、、、
僕らの今年はどうだっただろう
また一年が終わってしまい
新しい年が始まるよ

そういうわけクリスマス、、、
楽しくやって欲しいんだ
親しい人、愛しい人
お年寄りでも若くても

とても楽しいクリスマス、、、
と幸せな新年とがくるように
みんなで、一緒に願おうよ
なにも脅えずにすむような
戦争は終わるんだ
君が望みさえするならば
戦争は終わるんだ
たった今すぐに



 こんなにブログの中に「クリスマス」という言葉を書いたら叱られるだろうか。いや、この「Happy Xmas (War Is Over)」のビデオを見てもらったら分かってくれると信じている。
 他にも好きな曲はたくさんあるのだが、それを書き出したら終わらない。

 常々、私は「裸で立てる人間が一番強い」と思っている。脚色したり、背伸びすることも時には必要なのかも知れないが、結局そんなことを繰り返していたら自分が弱くなってしまう。だから、ありのままの自分を磨くということしかなくなる。自分の愚かさやマイナスも含めて、全てテーブルの上にあげて、素直に過ちや誤りを認め、そこにしっかり足をつけて、その上で為すべきこと、果たすべきこと、夢や理想に向かって必死に生きていけば良いと思う。そういう人間が最も強いのだし、それこそ仏教的な生き方、人生観だと思う。
 私は、ジョンが自分の過去や過ちを含めて、まさに裸で立ち、理想に向けて生きていたことを素晴らしいと思うのだ。

 そして、この「マザー」という曲も、彼が自分の両親への思い、少年の頃の心の傷を歌っていて、私はいつも胸をしめつけられる。





2007年6月17日日曜日

長松寺の開導会

 晴天の下、京都長松寺の開導会が奉修された。

 これから横浜に一旦帰る。 明日、10時から御総講・先住祥月ご命日法要を勤めさせていただく。夕方はご回向がご信者さん宅で勤めさせていただいて、そのまま京都へ戻ってくる。

 有難い。



2007年6月15日金曜日

誉めてもらったので、ポルトガル語で

 ブラジルからメールが来ていた。
 吉川淳省師からのメールで、先月リンスの大宣寺で青年会の会合をした時の写真だった。

 これは有難いと思って、ポルトガル語で返信をすることにした。メールにはブラジルの青少年のメールアドレスも載っていたので、頑張ってポルトガル語で返信してみた。

 淳省師から返信が来て、なかなか読めるポルトガル語でしたよ、ということだったので、安心。調子に乗ったので、ここに掲載してみようと思う。


Querido Todo o mundo,

Arigatougozaimasu.

Obrigado por enviar uma fotografia.
Eu estou alegre muito.
Eu sinto falta de brasileiro tudo de você.
Eu me lembro de alguns em uma fotografia.
Há filho de Bispo Houmei, também.
Eu espero atividade com o 100º aniversário de tudo de você.
Bispo Nissui Shonin era um grande Bodhisattva.
Você leva o benefício.
Apresente você pode não entender o significado fundo, mas seguramente entende isto algum dia.
Me convencem assim.
Você tem uma família no mundo inteiro.
Nós somos as crianças de Buda.
Então nós somos as famílias.
Nós não temos nem uma borda nem uma raça
Se as pessoas no mundo acreditarem ensinando de Buda, não haverá guerra e terrorismo.
Nossa fé é Budismo primordial.
Façamos seu melhor

Namu Myoho Renge Kyo,,,

Yours in the Finest Dharma,

Seijun Nagamatsu,

アキラ君の新築御礼

 アキラ君の新築御礼の御講が、三ツ沢教区の教区御講に併せて奉修された。

 アキラ。僕にとっては特別な思いがある。中学校から高校にかけて、彼を預かったことがある。今からすれば何年前だろう。15年以上も前だろうか。

 その頃のアキラは、かなりグレていて、中学3年になると「板前になりたい」と言って高校に行くことを拒んでいた。もちろん、それも彼の人生であれば板前になることも何ら問題はないのだが、あまりに唐突で、本心からではないように思えた。家庭の中でも生活がまともに送れておらず、友人の間で流されているだけのようにも思えた。

 先住と私は、アキラをお寺に呼び、なぜ板前になりたいのか、どういう人間になりたいのかを懇々と聞き、話をした。
 先住は、そのアキラを妙深寺から学校に行かせることにした。アキラは、先住との約束をキッチリと守るようになり、朝一番にお寺にお参詣をして、私の母がお弁当を作り、そのお弁当を持って学校に行くようになった。

 学校が終わると、またお寺にお参詣し、食べ終わったお弁当箱を母に返して家に帰っていった。そんな生活が続いた。アキラは、生来真面目でやさしい。恥ずかしがり屋で寂しがり屋のところもあるが、それは家庭の環境がそうさせたのだと思うし、アキラが良い子であることに変わりはなかった。

 高校を卒業し、彼は介護の勉強をするために専門学校に行くようになった。恋をし、家庭を持つようにもなった。先住の御遷化の後のことで、結婚式を妙深寺で挙げさせていただいた。その時にも感慨はひとしおだった。

 結婚後にも、いろいろなこともあった。仕事のことや家庭のことで、彼なりに悩んでいることを聞いたこともあった。二人っきりで焼き肉屋に行って、いろいろな話をしたこともあった。しかし、その時にも奥さんの英子ちゃんは、本当に素敵な女性で、ずっとずっとアキラを見守ってくれていた。

 そんな彼が、今日は家を新築し、御礼をするという。仕事も変わり、二人目の子どもも生まれて、何とも有難いことだった。嬉しかった。


 この前にも書いたが、今月は若い夫婦の新築御礼の御講が続いた。家庭の中にご信心があることの大切さを感じる。

 夫婦であっても、親子であっても、私たちは御仏の教えからすれば「凡夫」であって、欲も深いし、大事なものを大事と思えず、流されてしまうことも多い。

 それを確かめ合い、近づけ合う御法さま、ご信心である。家族を一つにするための御宝前である。

 そのことの大切さを噛みしめて、アキラ、新たなスタートを切ってもらいたい。

 人生の大切な時々に、私は彼の側にいようと思う。ずっと見つめていて、彼を見守っていきたいと思う。

2007年6月14日木曜日

長松清凉師について

 長松清凉とは、妙深寺の先代ご住職のお名前である。

 平成12年6月14日にご遷化になられてから、「松風院日爽上人」とお呼びしているが、「長松清凉」とお呼びした方がまだ分かりやすい方々がおられると思う。私とて同じだ。

 先代のご住職は、私の父でもあった。佛立宗とは本来世襲制ではないのだが、私が次の住職になってしまった。もう7年も経つのだろうか。あの頃のノートを見ても、恐ろしい重責に押しつぶされそうになっているのが分かる。

 若い頃からヤンチャで、特に「親の七光り」というものから逃げよう逃げようとしていたように思う。小さな世界だが、お寺の中だけでは「ご住職の息子」といわれて、そのままではバカでもチョンでも関係ないような気持ちがして恥ずかしかったのだ。だから、まずは中学時代、甘えてグレたのだろう。そのままだったらアホの極みだが、その後にジェットスキーというスポーツと出会えたことで救われた。

 なぜ、このスポーツを選んだかと話し出せば長くなるのでここでは止めておくが、私はそれに没頭した。友だちと10人で友人の父親(花屋さんの社長だった)に頭を下げ、みんなで誓約書を書いてお父さんへのローンを組んでジェットスキーを2台買った(結局、約束を守れない友だちもいて、お父さんには迷惑をかけてしまった)。
 夏も冬も、みんなで交代で練習した。夏はよかったのだが冬になり、私たちはお金が無くて冬用のウェットスーツを買えなかった。だから、母がトイレ掃除に使うゴム手袋を、ショートジョンという半袖半ズボンのウェットスーツにガムテープで縛り付けて、母のストッキングを履いて、雪の降る江戸川で練習した。

 とにかく、スポーツの世界、私の場合にはレースの世界だが、親だの何だのは関係なくなる。実力の世界であり、自分のセンスや練習の積み重ねを全国・全世界の人と対比し、勝負するのであるから、まさに求めていたものだと思えた。東日本選手権、西日本選手権、ノービス・クラスからエキスパート・クラスと駆け上がることが出来た。そして、全日本選手権で優勝してアマチュアとして年間チャンピオンのタイトルを取った後、プロテストを受けた。

 私のプロテストにはお寺まで密着取材が入って、取材する人が家に泊まるという騒ぎだった。何とかプロテストに合格した後、父に報告に行った。その頃は、全く師弟関係という以前の単なる親子だったのだが、

「オヤジ、プロになったよ」
と庫裡の二階で報告すると(忘れもしない、階段を上がって左側の部屋だった)、
「はん、なんだ、お前はやっとジェットのプロか。俺は人間のプロだ。悔しかったらなってみろ」

と言われた。その当時、何で息子がスポーツで成長していくのを喜んでくれないのかと口惜しく思っていたのだが、その後に痛いほど父の気持ちが分かるようになった。
 
 とにかく、普通では考えられないような悲喜こもごもの果てに、今があると思っている。

 先住は平成12年6月14日、今日から丸7年前にご遷化された。ご遷化の後、父の書斎から一枚の写真と、私に宛てた手紙のようなメッセージのような紙切れが出てきた。

 私は、それを見て、嗚咽して泣いたのを覚えている。普通の父と息子以上に近く、そういう関係を作ってくださった中で、普通以上に愚かで、ヤンチャで、どこへ飛んでいってしまうか分からないような息子を育ててくださった。そして、最後の最後に、メッセージを残してくださった。
 しかも、それは、闘病で、もはや筆を持つこともままならない中で、敢えて最後の力を振り絞って書いてくださった文面、筆致だった。

 文面には、いくつか間違いがある。「なやみまま」「したたが」と。それほど、気力、体力ともに衰えていた中で、私に宛ててくださったのだった。

 そして、その横に置いてくださっていた写真は、名古屋の清優に宛てた手紙と同じ写真。一番、自然な優しい、哀れさや慈しみを感じさせる写真だった。「苦難を乗り越えなくては、末法のご弘通はさせていただけません」、「そう教えたんだぞ」「苦難をものともするな」「苦難をむしろ当たり前だと思え」と。

「苦難」であって「困難」ではない。きっと「困る」という程度ではなくて、「苦しい」のだろう。そういう「難」「難しいこと」「状況」が、この世界の中で御仏の教えを奉じて生きていく、ご奉公させていただこうとすればあるのだろう。 そのことを教えてくださったのだ。

 父の教えてくれた最後の手紙である。恥じないように頑張りたい。

 祥月ご命日の夜に。
 先住、ありがとうございます。

塚原根本寺を訪れて

 あっという間に時間が過ぎていく。
 佐渡に行っていたことも忘却の彼方。そんなことではいけないが、充実した毎日を送らせていただいている。各教区、各ご家庭で御講が連日奉修され、毎日さまざまな方々とお話をさせていただける。有難いことである。
 佐渡から帰った翌日から連日御講で、特に昨日は御総講、御講席2席、帰山して18時から関内でご奉公であった。帰山は23時、今朝は先住の祥月ご命日。机に向かう時間が無く、ブログの更新もままならない。ただ、「忙しい」とは文字通り「心」を「亡くす」と書くのだから、「忙しい」などと言っている場合ではない。
 メールも一日に30通は送っていただける。「いただける」というのは、何もなかったらご奉公など出来ないのだから有難い。当たり前のことだが、生きている間のご奉公。自分が死んだら返信など出来ないのだから、最高に幸せなことだ。
 ようやくPCの前に座れた。
 佐渡での記憶が薄らぐ前に書いておかなければならない。
 それは、歓要寺でお看経中に感じたこと、その後の根本寺、妙照寺へ訪れて感じたことなど。
 お看経をさせていただきながら、涙が溢れてきた。御導師の御法門では、あらためてお祖師さまの佐渡島でのご苦労についてお説きいただいた。聴聞させていただいて、また胸に込み上げるものがあり涙が出てきた。
 なぜお看経中に感激したのかといえば、そこで拝唱する「観心本尊抄(「如来滅後五五百歳始観心本尊抄に曰く~」と無始已来の後で読ませていただくもの)」も「如説修行抄(私たちが毎朝、御講でも拝読する「如説修行抄、夫れ以れば末法流布の時、生を此土に受けて此経を信ぜん人は、如来の在世より猶多怨嫉の難、甚だしかるべしと見えて候なり~」という御妙判)」も、この佐渡でお祖師さまがお認めになられた御文なのであるから。私たちが世界中で拝唱し、拝読する御文が、この地で認められたのだから。
 また、服部御導師の御法門で、そのことを再確認させていただけた。同時代(お祖師さまよりも少し前)に佐渡に流罪となった順徳上皇ですら、この佐渡で亡くなっておられる厳しい時代、流罪という刑罰にあたって、むしろそれを喜びされたお祖師さまの御覚悟。
 私たちは、『開目鈔』上下二巻を撰述されたと伝えられている「根本寺(実際には異説もあり、前回は妙満寺の近くの遺跡を訪れたのだが)」と観心本尊抄等を撰述された一の谷(さわ)の「妙照寺」を訪れた。
 お祖師さまは、佐渡島への島流しを御生涯の中で必要不可欠のことと感得されていた。
 立正安国論に書かれたとおり、蒙古から日本の服従を求める国書が届き、お祖師さまは再び幕府へ「立正安国論」を上奏された。
 そのことをお祖師さまは、
「同十月十日に依智を立つて同十月二十八日に佐渡の国へ著ぬ。十一月一日に六郎左衛門が家のうしろ(後)みの家より塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に、一間四面なる堂の佛もなし。上はいたま(板間)あはず四壁はあばらに、雪ふりつもり(降積)て消ゆる事なし。かゝる所に所持し奉る釈迦佛を立まいらせ、しきがは(敷皮)打しき、蓑うちきて夜をあかし日をくらす。夜は雪、雹、雷電ひまなし。昼は日の光もささせ給はず、心細かるべきすまゐ(住居)なり」(種種御振舞御書)
とお示しになっておられた。この最初に拘留された「塚原」といわれる場所、手を伸ばせば四方に手が届いてしまうような狭いお堂、屋根も隙間があり、外の風景が見える風の通り抜けるような壁の部屋で、お祖師さまは耐えねばならなかった。
 そこでは、自分たちの信じる念仏を悪く言ってお咎めを受けた悪僧がいると聞きつけて、多くの者がお祖師さまを切ってしまおうと詰めかめる。阿仏坊もその一人だった。
 阿弥陀仏を悪く言う坊主など狂人に違いない、叩き切ってやる、と意気込んで塚原の三昧堂を訪れたのだが、逆にお祖師さまに説き伏せられてしまう。阿仏坊は妻である千日尼と共に、その後はひもじい思いをされているお祖師さまに日々に御供養をされた。そのご奉公を偲ぶために、私たちは最も寒い一ヶ月間、「寒参詣」をさせていただくようにもなった。
 また、佐渡から奇跡的に赦免され、山深い身延に入られたお祖師さまを、阿仏坊と千日尼は佐渡から3度も訪問し、御供養の品々を常に届けられた。そのご信心を、遠い佐渡から続けられたのであった。
 法蓮鈔にお祖師さまは、
「殊に今度の御勘気には死罪に及べきが、いかが思はれけん。佐渡の国につかはされしかば彼国へ趣く者は死は多く、生は希なり。からくして行つきたりしかば、殺害、謀叛の者よりも猶重く思はれたり。鎌倉を出しより日日に強敵かさなるが如し。ありとある人は念佛の持者也。野を行き山を行にも、そば(岨)ひら(坦)の草木の風に随てそよめく声も、かたきの我を責むるかとおぼゆ。やうやく国にも付ぬ。北国の習なれば冬は殊に風はげしく、雪ふかし。衣薄く食ともし(乏)、根を移されし橘の自然にからたち(枳)となりけるも身の上につみしられたり。栖にはおばな(尾花)かるかや(苅萱)おひしげれる野中のの(野)三昧ばらに、おちやぶれたる草堂の上は、雨もり(漏)壁は風もたまらぬ傍に、昼夜耳に聞者はまくら(枕)にさゆる風の音、朝に眼に遮る者は遠近の路を埋む雪也。現身に餓鬼道を経、寒地獄に堕ぬ。現身に餓鬼道を経、寒地獄に堕ぬ。彼蘇武が十九年之間、胡国に留られて雪を食し、李陵が巌窟に入て六年、蓑をきてすごしけるも我身の上なりき。今適御勘気ゆりたれども鎌倉にも且くも身をやどし、迹をとどむべき処なければ、かゝる山中の石のはざま(間)松の下に身を隠し心を静れども、大地を食とし、草木を著ざらんより外は、食もなく衣も絶ぬる処に、いかなる御心ね(根)にてかく(斯)かきわけ(掻分)て御訪のあるやらん。不知、過去の我父母の御神の御身に入かはらせ給か。又不知、大覚世尊の御めぐみにやあるらん。涙こそおさへがたく候へ」(法蓮鈔)
 お祖師さまは、亡き両親の魂がお二人に入って私を労ってくれているのではないかと感激されておられた。
 同じ法蓮鈔には、
「信なくして此経を行ぜんは手なくして宝山に入、足なくして千里の道をくわだつるがごとし。但近き現証を引て遠き信を取べし」(法蓮鈔)
 私たちが、学ばなければならない不屈のご信心と、それを支えるご奉公の素晴らしさを教えていただいていると思う。

2007年6月13日水曜日

ボロボロに泣いてしまった

 今朝はお祖師さまのご命日。御総講を奉修させていただいた。同時に、先住松風院日爽上人の祥月ご命日の御逮夜でもある。

 御法門は、先住の御法門をテープで拝聴した。平成7年の時の御法門。いま、そこで御法門を説いてくださっているようで、ボロボロに泣いてしまった。

 こうしてお声を聞けることを、有難いと思う。ご弘通ご奉公に対する決意を新たに出来た。

2007年6月12日火曜日

ジェンキンス氏

 佐渡の歓要寺へのお参詣を終え、私たちは佐渡歴史博物館に行った。
 そこには北朝鮮に拉致された曽我ひとみさんのご主人、チャールズ・ジェンキンス氏が働いておられるという場所。お会いできることはないと思っていたのだが、案内に従っていくと意外にもごくごく自然に太鼓番というおせんべいを売っておられる氏の姿があった。
 これについては、後述したいと思うが、佐渡団参での特別の思い出となった。国際政治の中で翻弄された多くの拉致被害者の方々やご家族を理解していただくためにも、ジェンキンス氏は真摯な姿を見せ、この「仕事」を通じて佐渡のため、拉致被害者のために生きておられるのだと思う。
 氏の書いた「告白」という本には、拉致問題だけではなく、半世紀近く前の世界の情勢や人間の弱さ、北朝鮮という異常な国家体制、社会主義、主体思想、人間の本性、思想やイデオロギーの限界について学べる貴重な本である。
 この出会いを自分の中でしっかりと消化したいと思った。

答えがある

 それと、もう一つ。(もう、御講の準備をしなきゃ)

 ひろし君と話をしていて、彼が言っていたこと。

 つまり、ひろし君は変わった。ご信心をさせていただいてから、本当に人の話を聞くようになったし、誰かのためにいつもいつも考えていることをひしひしと感じる。今でもいい加減なところもたくさんあると思うのだが、最近はそれすら見えない。

 「昔から兄貴肌だったし、面倒見もよかったからね。しかし、それでも変わったね」

と話をしたら、ひろし君が言っていた。

 「昔は、答えがなかった。もちろん、仕事を紹介したり、何でも言ってみろ、相談に乗るからってやってきたけど、それはいっつも世間的なことだったり、一般的な話、対処療法のようなことばっかりだった。でも、今は答えがあるんです。その人の根っこの部分を何とか出来るものが」

 そう言っていた。この言葉は重い。考えてみるべきだ。

生きる喜び

 骨董のおじさん、ありがとう。○△さんは、あなたに救われた。

 昨夜、ある記事を見ていたら、下町のとんかつ屋さんのことが出ていた。
 親夫婦と息子さんが店に出ている小さなとんかつ屋さんだそうだが、美味しそうなお店でそこに入ってみたという。

 記事を書いた人は舌鼓を打つつ美味しいとんかつを食べ、そのご主人と会話をはじめた。その時、「こんなに美味しいけど、毎日とんかつを揚げているとそれだけでお腹がいっぱいになって、食べたくなくなるでしょう」と聞いたという。
 すると、そのご主人が、

「いや、そんなことはありませんよ。自分が『美味しい』と思っていなかったらお客さんが喜んでくれるはずがないし、毎日毎日『美味しい』と言ってくださるお客さんの顔を見るのが自分の生きる喜びなんです」

と言っていたという。
 本当にそうだ。自分が「有難い」と思っていなかったら、誰も幸せにできっこないし、誰も救えない、喜んでももらえない。
 誰かの幸せ、喜びが、自分の幸せ、自分の生きる喜びであることが、人生の極意、ブッダの教えであろう。

 そのことを、今朝は骨董のおじさんや、とんかつ屋のご主人から教えていただいているように思った。

骨董のおじさん

 佐渡から帰ってきて、まだ佐渡島でのことも書けないでいるのに、次々に良いお話がある。
 昨日は佐渡から新幹線で帰ってきて、16時にお寺に着いたのだが、そのまま17時に東京に行かなければならなかったので東海道線に飛び乗って新橋へ。タクシーでホテル・ニューオータニまで行き、帰ってきたのは21時だった。ちょっとだけ疲れた。
 今日からは御講席が5席続く。今夜も事務局会議だ。
 ひろし君が今朝お参詣をされていて、ある女性とのやりとりを話してくれた。彼女はひろし君の昔からの部下であったのだが、うつ病を患い、お寺にお参詣するようになった。懐中御本尊をいただいて、ひろし君がそれこそ大変なサポートをしてあげながら、薄皮をはぐように良くなってくれればと思っていた。その間、清顕師も彼女の自宅まで何度もお助行に行ってくれて、お供水をお届けしたり、電話で励ましたりと続けてきた。
 御法さまは、そんな彼女と周りの努力をご覧になってくださっていた。いつもそうだ。
 メールを転送してもらったのだが、彼女の感じた一つ一つ、そして何よりもひろし君の優しい言葉に私は胸打たれた。彼女の感性が戻ってきたことも嬉しいが、ひろし君の彼女に対する思い、姿勢がありがたい。昔のひろし君からは想像できない。

 ここに、紹介したいと思う。彼女については「○△さん」とさせてもらいたい。また、ひろし君は彼女がまだご信心の言葉を知らないということから、「御法さま」という言葉ではなく「仏さま」などと使って教えていると言っていた。文中にドナーの件が出てくるが、彼女は骨髄バンクに登録しており、彼女と符合する患者さんが見つかったと連絡があったのだが、うつ病の薬を飲んでいることから今回は断念せざるを得なくなった。一度は人のために役に立てると喜んだのだが、ダメになったと聞いて逆にさらに落ち込んでしまっていた。

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ご住職様 清顕師様

 ありがとうございます。本日はお疲れのところ本当にありがとうございました。
 お話をさせていただいた最近の○△とのやりとりです。
 お二人のおかげで、○△はここまで前向きになりました。
 ありがたい。
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>おはようございます。
>私はあれから、なんとか基礎代謝と筋力をあげるべく、生体院(本来は骨盤矯正の所です)に定休日以外毎日通ってます。
> 週2日の掃除のバイトは思った以上に重労働だったので、生体院は無理せず、時々休みながらやろうと思います。
> やり過ぎて息切れをするのが私のダメな所だとよく分かりましたから。

> ひろしさん、あと私先週すごくいい事があったので長文で申し訳ないんですが、読んで下さい。

> 中野の商店街の路地にある狭い広場で、たまに骨董市が開かれるのですが、3月に古くてきれいな手巻きのセイコーの時計を買ったんです(たいした金額ではないです、もちろん。たしか3000円です。ただメンテナンスが高くつきますが。)。
> そして先週の金曜に中野に行ったら、また骨董市が開かれてて、3月に時計を売ってたおじさんがまた同じ場所で時計を売っていたので近付いたら、私の事と、どんな時計が好きなのかまで覚えていてくれて、とても感動しました。

> それから「こんなのいいだろ?」と、また古い手巻きのセイコーの時計を見せてくれたんです。これも数千円だったんですが、この日私は小銭しか持っていなくて…〓。

> 聞いたらその日が最終日で、次回は7月2日~と言うので、おじさんに7月3日は私の誕生日なので、自分にプレゼントしたいから、その日までこの時計を売らないで欲しいとお願いしてみたんです。
> いろいろな場所を回るでしょうから、もちろんダメもとで、です。

> そしたらおじさんは、私の手を取って時計を渡してくれたんです。「信用してるから」って。

> 私は、とにかくびっくりして、嬉しくて、感動して、おじさんに何度も頭を下げて、絶対払いに来る事を約束しながら、泣いてしまいました。

> 2度しか会った事のない私を、「信用してる」なんて言ってくれて、もしかしたら払いに来ない可能性もあるのに、大事な商品を手渡してくれた事を、私はたぶん一生忘れないと思います。

> あと数週間節約して、代金と、おじさんに何かプレゼントしようと思ってます。こんなに自分の誕生日が待ち遠しいのは、数年ぶりです。

> やっぱり私は守られてるんだ、と思い、お題目を唱えました。ただ、感動しすぎて興奮したのか、その日は全然眠れませんでした…

> 長文で本当にすみません。
>
> ○△より
=============
 ○△へ
 良かったな。そうやって仏様は、お前に少しづつ「人生捨てたもんじゃないよ」って教えてくれているし、○△の言うとおり本当に仏様は、お前をお守りいただいているんだと思う。ありがたいなあ。○△が話してくれたドナーの件があるだろ?

 ○△が人に必要とされる喜びがわかったと言ってくれたよな。この信心は、まさにそれと同じだと思う。さらに骨髄ドナーであれば、人によって合う合わないがあるけど、この教えは誰にでもお伝えできる。

 そして、病気の人、困っている人などを助けてさせていただける。そして何より自分以外の人のために生きることが、どんなに尊くありがたいかを教えていただける。○△がお題目で立ち直り、その経験を同じように苦しんでいる人たちにお伝えできれば多くの人が救われるんだよ。お前にしか、わからない、その病気の苦しさを理解したうえで、たくさんの人を救うことができる。何故、仏様が、お前を助けてくれるか、わかるか?それはね、お題目を唱えるからだけじゃない。仏様が、○△だったら、その苦しみを乗り越えて、たくさんの人たちを救えると思ってらっしゃるからだよ。そして、まだ見ぬ苦しんでいる人たちが○△を待っているんだよ。

 だから、その人たちを救う為に仏様のお力を頂き、早く良くなろうな。お前が人に必要とされる喜びを
わかったのは、おはからいと思うよ。だから俺は、おまえは絶対に大丈夫だと思う。仏様、御法様がお前をしっかり守っていてくださる。俺は○△の話を聞いていて確信した。

 ありがたい。  ひろし拝、
=============

>ひろしさんのメールを読んで、せっかく型が合ったのに、私が健康でないばかりにドナーになれなかった、白血病の患者さんへの罪悪感でいっぱいだった骨髄バンクのこの経験の意味が、初めて分かりました。

>その後骨髄バンクからドナー保留の手紙が届きましたが、そこには事務局の方から、「ご自身のお体をお大事になさってください」というメッセージがあり、手書きのその言葉に罪悪感がやっと薄れ、本当にみんなが助け合ってる事を実感しました。

>骨董のおじさんとの出会いも、私に人と対話する、関わる事の喜びを与えてくれました。

>おじさんにまで「前見た時より痩せたな」と言われてしまい、今は早く健康になりたいという気持ちでいっぱいです。

>初めてお寺で長松さんに会った時に言われた、「気持ちを内に閉じ込めるな」という言葉も、やっと理解出来てきました。

>▼■さんとの一件がPTSD的になっていて、3月から5月まで掛った区役所とハローワークの手続きが、40代位の男性とやりとりをしていると、涙と手の震えと動悸が止まらなく、本当に心身共に疲れ果てた時期でした。

>でも昨日のひろしさんのメールを何度も読み、辛かった自分の経験を活かす事も出来るし、骨髄バンクの方や骨董のおじさんが私に与えてくれた喜びをいろいろな人に伝える事も出来るという事を知り、また少し前進出来た気がします。

>今は、来月3日の誕生日を目標に、食事と運動と睡眠に気をつけ、早くいろいろな人に会いたいです。(休んで以来、誰にも会ってないんです。手続きが多すぎて実家にも帰ってませんし。)

>ひろしさん、昨日のメール、本当にありがとうございました。

>○△より

=============
 以上のような内容だった。

 こうして、何の利害関係もない人たちが、お互いに励まし合い、支え合ってくれている。有難いことではないか。骨董のおじさん、本当に有難う。そういう気持ちを社会の中の全ての人が持てたら、何と素晴らしいことだろう。

 ひろし君の「良かったな。そうやって仏様は、お前に少しづつ「人生捨てたもんじゃないよ」って教えてくれている」という言葉。まさに、そうだと思う。

 何度も「サイン」という言葉を使っているように、ご信心をしていて何が一番すごいかといえば、「縁が動く」ということだ。あり得ないタイミングで人と出会い、電話がきたり、声を掛けられたり。道ばたの草花さえも語りかけてくれているような感覚。その言葉や出会いから学べる、感じられる心。それを「ご信心」という心が芽生えた人は養っているのだと思う。

 ありがたいことだ。

2007年6月11日月曜日

歓要寺・服部随要師

 佐渡・歓要寺の開導会は9:30から奉修された。
私にとっては二度目となる佐渡・歓要寺へのお参詣。人間とはそういうものだと思うが、自分の在り方で同じ場所を訪れても全く風景が異なり、感じることも変わってくる。以前、訪れた時には、若かったことや勉強不足もあって、これほどまでに感激しなかったように思う。いや、その時も感動していたのだろうが、感じる内容が今回とは全く違っていたはずだ。

 ホテルを出発し、佐渡の歓要寺に到着すると服部御導師をはじめ、佐渡のご信者さまや桐生・常薫寺のご信者さま方が外で待ってくださっていた。神奈川布教区では約100名の団参になったため、一座では奉修しきれなくなった。私たちが9:30の第一座、神奈川布教区の方々約50名は16:00の第二座へのお参詣となった。

 ご住職である服部日入御導師は桐生にある常薫寺のご住職であり、第6支庁の支庁長でもあり、現在は弘通顧問でもある。大変な激務のご奉公。この度も京都での弘通顧問会議から直接私たちの受け入れのために佐渡まで来てくださっていた。有難い。

 何より有難かったのは天候であった。この度の佐渡団参でもまた晴天のお計らいをいただいた。御導師からもご披露があったが、この週末は悪天候だと予報されていた。雷雨になるだろう、と。土曜日にバスが出発した後、朝参詣を終わってニュースを見ていると、群馬か栃木に大雨洪水警報が速報で出た。バスの道中が危ないと思っていたのだが、全く雨に降られなかったという。
降水確率は佐渡でも70%以上、昨日の予報でも60%ということだったそうだが、本当に有難いことに眩しいくらいの日差しで、キラキラと加茂湖の湖面が輝いていた。東京、横浜では大変な雷や豪雨だったと聞いたが、新潟でも大雨洪水警報が出ていたほどなのに、一粒の雨も降らないことはもちろん、太陽が燦々と輝いていた。有難い。

 佐渡の歓要寺は昭和16年から服部随要師がご弘通をはじめられた。随要師は、
「お祖師さまが上行菩薩として御自覚するに至り、観心本尊抄等の最重要御書をお認めになられた法難の聖地、佐渡に上行所伝の御題目が弘まっていないことは何とも耐え難い。何としても一宇を建立し、ご弘通をさせていただきたい」
と誓願を立てられた。その気概、ご信心、情熱には頭が下がるばかりか、今の教務にそれだけの佛立魂があるかと往事の熱い御導師や御講師方と比べると恥ずかしくはならないか。

 佐渡ご弘通の端緒は、この随要師からはじまり、徐々に徐々に島内に広がっていった。伝統的な気風や文化が残るという佐渡でのご弘通は辛酸を極めただろう。ある時には80戸のご家族がご信心をされていたという。そこに至るのも大変なご奉公だったと思う。しかし、現在は数軒、数人の方々しか残っておられない。佐渡は、現在人口の減少が昔に比べると半分ほどにまで進み、若い者の多くは佐渡を離れ、島内の「過疎」が進んでいるというし、あるいは伝統的な農村がそうであるように、お葬式になるとご信心をしている方でも村のお寺に頼むことしか出来ず、そうしたことからご信心が次の世代に受け継がれないという理由もある。いずれにしても、残念なことだ。しかし、だからこそ今の歓要寺を守ってくださっている方々が尊い。何とかご支援させていただきたいし、いつか聖地・佐渡のご弘通を担う若者が出てくるだろう。私も歓要寺の御宝前で随要師のお話をお聞きして、何らかのご奉公をさせていただきたいと思った。

 8世日歓上人、15世日晨上人は随要師のこの誓願をお喜びになり、乗泉寺門末に「おけさ会(佐渡おけさの「おけさ」)を作ってこれを支援されたという。そうしたご奉公が集約されて、現在の歓要寺となっているのだ。

 インドの聖地、あるいは奥地、スリランカの各地域でご奉公させていただいていることを思い浮かべた。そうした場所に本門佛立宗のお寺はない。当然ながら御本尊も奉安されていない。だから、インドやスリランカへは大御本尊をお供して出掛ける。ホテルのホールや様々な会場、時には山の上、時には草原や海岸で、その御本尊をお掛けしてお看経をさせていただくのだ。

 しかし、このお祖師さまの聖地・佐渡には歓要寺がある。歓要寺にお参詣させていただき、そこで御本尊に対し奉り御題目を心おきなくお唱えすることが出来る。そして、そこで御法門が説かれ、御法門が聴聞できるのだ。何と有難いことであろう。
 それも、服部随要師のご奉公の賜であり、物故功労の方々のお陰なのだ。

 そして、その服部随要師を養父とされているのが、現在のご住職である服部日入御導師である。ご因縁の深さを考えると、何とも有難い。

2007年6月10日日曜日

佐渡の朝

 佐渡の朝、清々しい風。赤松の林から窓に抜けてくる風。


 両津港から見れば反対側の日本海が遠望できるホテルに泊まらせていただいた。ホテルのロビーでインターネットが出来る。ホテルに入るとご信者さんが待ってくださっていた。玄関には清仁師と、この団参を企画してくれてきた瓜生さん、堀之内くん。長い時間、お待たせして申し訳なかった。インターネットができるなど想像もしていなかったのだが、ブログの更新やメールのチェックも出来た。ほんの数分だったが。
 いずれにしても、こう便利すぎてはお祖師さまに申し訳ない。


 新幹線に乗る前は「バルコニーででも寝てお祖師さまを忍ばにゃ」と清康師と話していたのだが、お祖師さまを忍ばせていただくどころか、ホテルにバルコニーはなく、案の定綺麗な部屋でゆっくりと休ませていただいてしまった。本当にすいません。

 ホテルも部屋も、本当に綺麗だった。お祖師さまは御妙判に「一間四面で天井には隙間があり、壁の板も外の風景が見えるほどのあばら屋」とお示しであったのに。想像も出来ない。
 しかし、妙深寺の方々と二晩も一緒に団参させていただくのは久しぶりのこと。なかなか親睦をはかれないと悩んでいたのだから、ゆっくりと食事をし、お話をする機会は貴重だ。バルコニーに出ている場合ではないかもしれない。 

 昨夜は和気藹々の中で夕食をさせていただいた。みんなの間をまわってお酌をしながら、ほんの僅かな時間なのだがお話が出来る。その短い会話の中でも、「普段、こうした会話をしていないなぁ」とつくづく感じる。そういう罪滅ぼしの気持ちにもなる。日頃お給仕をいただいているのだから、こういう日には「若造」に戻ってお給仕を返したい。何しろ、みんな私の先輩。今回の団参でも私が一番若いのだから。


 夕食後には、男性の方々だけ部屋に来ていただいてお話をした。日頃のご奉公のこと、新たに発足した事務局のことなどについて談笑。

 既に出発の時間でロビーに降りてきている。
 先ほど、いつものようにホテルの部屋に簡易の御宝前を設置。といっても懐中御本尊をPCの画面に御安置しただけなのだが。
 こうして旅の途中、出張の間でも、お看経出来ることが有難い。この話をしているとイタリアのミルト氏を思い出す。彼は彼女との初めての旅行でも、
「僕には毎日2回祈りの時間がある」
と言って20分間お看経をしたという。
 それを見ていたエンリーカさんは、不思議に思ったが、いつしか彼の御題目の声にやすらぎを覚え、自分も口ずさんでいたという。
 いま、彼らは結婚し、二人はイタリアの素晴らしいご信者さんになり、昨年の夏には子どもも生まれた。

 こうした、ごく自然のライフスタイルの中に、ご信心が根付いていることを、艱難辛苦の末に御弘通をなされたお祖師さまにご報告したい。

2007年6月9日土曜日

お祖師さまの「御覚悟」

 佐渡へは時速70キロで海上を走るジェットフォイルを使わせていただいた。久しぶりの海の上。お祖師さまの御妙判を拝見しつつ、新幹線、ジェットフォイルを乗り継いだ。

 お祖師さまの「覚悟」を佐渡流罪前後の御妙判に見出すと身震いがする。 いまは新潟港からこれほど便利に船に乗り、佐渡に渡るのだが、お祖師さまは風雨で佐渡渡海直前に足を止められた。「寺泊」という地から佐渡を遠望し、そこからお手紙を発せられていた。

「今月十月也十日、相州愛京郡依智の郷を起つて武蔵国久目河の宿に付き、十二日を経て越後の国寺泊の津に付きぬ。此れより大海を互りて佐渡の国に至らんと欲するに、順風定まらざれば其の期を知らず。道の間の事は、心も及ぶこと莫く、又筆にも及ばず但だ暗に推し度るべし。又本より存知の上なれば、始めて歎くべきに非ずと之を止む。法華経の第四に云く「而此経者如来現在猶多怨嫉、況滅度後」。第五の巻に云く「一切世間多怨難信」」

 この御妙判の「又筆にも及ばず、但だ暗に推し度るべし」の御文が胸に痛い。新幹線で「パッ」と来るようなことはなく、江ノ島の龍ノ口の刑場から相模川の依智(先年、ここも訪れたが)の屋敷に拘留され、その地で「土篭御書」を認められ翌朝出発された。道中のことは筆舌に尽くしがたい辛さ、苦しさだったことが推し量られる。

 しかし、それも「覚悟」の上。御仏の説かれたとおりではないか、と自問自答を繰り返されていることが、数篇の御妙判から拝察できるのである。 一般の私たちですら苦難・困難が人を育てると知っているが、法華経の行者、御仏からの使命を抱かれたお祖師さまが、清澄の山の上で「南無妙法蓮華経」と高らかに立教開宗を宣言されて久しいが、こうした大難に遭うことがなければ、真に御仏からの使命を帯びた「上行菩薩」としての自覚には至らなかったと教えていただく。そうご自身でお認めになっておられる。

 佐渡御勘気鈔には、

「九月十二日に御勘気を蒙て、今年十月十日佐渡国へまかり候也。本より学文候し事は、佛教をきはめ(究)て佛になり、恩ある人をもたすけ(扶)んと思ふ。佛になる道は必ず身命をすつるほどの事ありてこそ、佛にはなり候らめとをしはからる。既に経文のごとく「悪口罵詈刀杖瓦礫、数数見檳出」と説れて、かゝるめ(目)に値候こそ法華経をよむにて候らめと、いよいよ信心もおこり後生もたのもしく候。死して候はば、必ず各各をもたすけたてまつるべし」

とある。その御覚悟の前に、私たちは一分すらお祖師さまのご信心を推し量れないと恥ずかしく思う。当然だが。

「命限り有り惜む可らず、遂に願ふ可きは佛国也」との結びで、よく御法門でも耳にする御妙判は、佐渡に着かれてから富木入道殿に宛てられた書簡である。 佐渡の気候風雨・寒風の厳しさと、その上での「法悦」「御覚悟」を表明されておられる。

「此比は十一月下旬なれば相州鎌倉に候し時の思には、四節の転変は万国皆同かるべしと存候し処に、此北国佐渡国に下著候て後、二三月は寒風頻に吹て、霜雪更に降ざる時はあれども日の光をば見ることなし。八寒を現身に感ず、人の心は禽獣に同じく主師親を知らず、何に況や佛法の邪正、師の善悪は思もよらざるをや。此等は且く之を置く。去る十月十日に付られ候し入道寺泊より還し候し時、法門を書き遣はし候き。推量候らむ、已に眼前也。佛滅後二千二百余年に月氏、漢土、日本、一閻浮提の内に天親、龍樹内鑑冷然外適時宜云云。天台、伝教は粗釈し給へども之を弘め残せる一大事の秘法を此国に始て之を弘む。日蓮豈に其の人に非ず乎。前相既に顕れぬ。去る正嘉之大地震は前代未聞の大瑞也。神世十二、人王九十代、佛滅後二千二百余年未曽有の大瑞也。神力品に云「於佛滅度後能持是経故、諸佛皆歓喜、現無量神力」等云云。「如来一切所有之法」云云。但此大法弘まり給ならば、爾前迹門の経教は一分も益なかるべし。伝教大師云「日出でて星隠る」云云遵式の記に云「未法の始め西を照す」等云云。法已に顕れぬ前相先代に超過せり。日蓮粗之を勘ふるに是時の然らしむる故也。経に云「有四導師一名上行」云云。又云「悪世末法時能持是経者」。又云「若接須弥擲置他方」云云。又貴辺に申付し一切経の要文、智論の要文、五帖一処に取集られべく候。其外論釈の要文散在あるべからず候。又小僧達談義あるべしと仰らるべく候。流罪の事痛く歎かせ給ふべからず。勧持品に云。不軽品に云。命限り有り惜む可らず、遂に願ふ可きは佛国也云云。文永八年十一月二十三日 日蓮花押」

信心とは覚悟

 妙深寺の朝、6:30分。
 憲史くん以来、どんどんとお参詣が増えている。「一人が変われば世界が変わる」と常々言っているのだが、憲史くんの開門参詣は一日も休まず続いており、その教化親であるひろし君も6月1日から開門参詣をはじめた。先日、京都にご奉公に行かせていただいた際にも、本山宥清寺に参詣し、続いて長松寺の御宝前でも30分はお看経していただろうか。

 ひろし君が第二弘通部の部門長であることもあって、O君は毎週土曜日に参詣しているし、黒崎さんやチカちゃんや路子ちゃんや、やっちゅや直ちゃんなど、開門参詣をはじめ、そして続けてくださっている。

 また、ひろし君とは同名で、一年前にご信心をされるようになったヒロシ君。彼は30前だが新進気鋭のグラフィック・デザイナーでロンドンで個展も開いたことがある。青少年の一座のポスターも彼のご奉公によるのだが、その彼までお参詣をするようになった。しかも、みんな家が遠い。白金や新木場、日野や中野からお参詣されている。何度も書いているように、今の世間の考え方からすれば、「朝参詣」など何の得もないのだ。それで無くても忙しいのだから、もっと寝ていた方が効率が良い、疲れない、お金も勿体なくない、身体にも負担がない、と。 それでも彼らはお参詣している。しかも、特別な病気全快などの御祈願があるわけではない。ご利益をいただきたいと強烈に思っていたり、目前にあるそれを目指して厳しい開門参詣・朝参詣を続けているわけではないのだ。

 ただ、自分の人間としての器を広げ、地に足を付け、他の人のために祈り、それを通じて必ず自分に欠けているものが見つかり、御法さまの御力、お導きとお見守り、サインをいただいて、人間としてバージョン・アップできると確信している。言葉には出さなくても、彼らの思いはそこにあると思う。 それは、少しだけ今までのお参詣と異なっているように感じる。新しい方々、まだご信心に出会って一年にも満たない方々、お仕事があり、最も多忙な時期にある方々のお参詣。そして、私たちが考えるような「特別な御祈願」のない方々のお参詣である。

 そのお参詣に気張っておられる方の口から「覚悟」という言葉を聞く。「ご信心は『覚悟』だ」と。私たちの言葉にすると「決定(けつじょう)」という意味であると思うのだが、生きていく上でも、特に仕事の面でも、「覚悟」の無い人間ではダメだということなのだろう。 いまの社会では、その「覚悟」を見つける、「覚悟」をする機会がない。学ぶ機会が限られていて、生きていく、仕事をしていく「覚悟」のないままに社会に出てしまう。 すると、根無し草や浮き草のように、水に漂い、嵐が来れば遠くに流されてしまう。そんなフワフワとした生き方ではダメであるから、ご信心で「覚悟を養え」、「覚悟をしてみろ」というのだろう。

 朝参詣、開門参詣、ご奉公で、「覚悟」をしてみる。 1ヶ月参詣するぞ、1ヶ月開門参詣するぞ、毎週お参詣するぞ、「3ヶ月間、私は毎週土曜日にお寺にお参詣します」「御講参詣を欠かさないぞ」と、若い方々が語り合って、励まし合っている姿は、微笑ましい以上に、「覚悟」を感じる。

 そう、「覚悟」のお手本はお祖師さまが示してくださっていると思う。佐渡に着いて、それを考える。

新幹線に乗って

 この形の新幹線は久しぶりに見たように感じる。とても懐かしい。
 明治5年(1972年)、新橋~横浜間に日本初の鉄道が開業した。それを皮切りとして鉄道網は想像を絶する速度で全国に施設されていった。明治22年(1889年)には東京~神戸間が全通。
 そのことを開導聖人は、
「東京へ一日でゆかん世の中に 氣車をきらひてありくのはたれ」
と御教歌されている。
 それ以前、東京法論に向かうご信者が蒸気船で京都から海路出張されたことを、
「うなばらや追手の風のふかぬ日も 湯の気にはしるなだの大舟」
と詠まれた。進取の気風に富まれた開導聖人。産業革命の代表格といえる「蒸気船」「鉄道」を賛じておられることからも分かるように、それらを積極的に取り入れ、ご弘通の活力にされていた。そういうお方であった。
 まさに、
「文明の 御代にかなへる 本門の 佛立講は 開化第一」
であった。
 私が生まれた当時、横浜と京都は4時間くらいだったと思う。すぐに3時間半になった。そして、現在では2時間ちょうど。文明の発展は止まることがないから問題なのだろうが、時間は短縮に短縮を続けている。便利さを追求しすぎていることが良いとは思えないのだが。
 とにかく、「スローライフ」をしたくてもさせてもらえない世の中になった。子どもの頃、この新幹線に乗って、父や母と京都に行くことが楽しかった。そう覚えている。この新幹線の顔を見て、思い出した。特に、父との思い出に浸った。
 今は新潟に着き、ジェットフォイルを待っている。既に団参(団体でのお参詣をこのように呼ぶ)の方々は前の便で佐渡に渡られた。

初御法門

 乗泉寺の開導会にお参詣させていただいた。座の中では、御導師の御法門の前に得度してから初めての御法門を新発意(新たに得度した人のこと)がされていた。
 妙深寺でも清顕が得度をした時には御法門拝読の仕方を教えたものだが、初心は真心から大きな声で説かせていただく。清顕の初御法門を聴聞した時のことを思い出した。あの時、涙が出て止まらなかった。
 御法門の大きな声が、本堂に響いていた。

佐渡国へまかるなり

 清康師に送ってもらって、渋谷乗泉寺から東京駅に着いた。いまは東京駅のフォームの待合室で待っているところ。お寺がヤフーと契約しているので、モバイル・ポイントという無線LANが使える。便利な時代で、ちょっと時間があったらメールのチェックやブログの更新が出来る。

 佐渡へ。12:32分の新幹線「とき」で新潟へ向かう。お祖師さまのゆかりの地、佐渡へ。

お祖師さまは「土篭御書」に次のように書かれておられる。このお手紙は、鎌倉で捕らえられ土を掘って出来た牢に入れられていた日朗聖人に宛てられたもので、そのお祖師さまの師匠としてのお慈悲、情愛の深さには、ただただ涙、涙。
 ご自身も佐渡に流刑されるという前日に、このようなお手紙をお書きになるとは。新幹線でパッと行って、パッと帰るようなつもりではご奉公にならないだろうと恥ずかしく思う。

 その土篭御書には、
「日蓮は明日佐渡国へまかるなり。今夜のさむき(寒)に付てもろう(牢)のうちのありさま思やられていたはし(痛)くこそ候へ。あはれ殿は法華経一部を色心二法共にあそばしたる御身なれば、父母、六親、一切衆生をもたすけ給べき御身也。法華経を余人のよみ候は、口ばかりことば(言)ばかりはよめども心はよまず。心はよめども身によまず。色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ。「天諸童子以為給使刀杖不加毒不能害」と説れて候へば別の事はあるべからず。籠をばし出させ給ひ候はばとくとくきたり給へ。見たてまつり見えたてまつらん。恐恐謹言 文永八年辛未十月九日 日蓮花押、、、、 筑後殿」
とある。

 この御妙判の中でも、
「法華経を余人のよみ候は、口ばかりことば(言)ばかりはよめども心はよまず。心はよめども身によまず。色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ」
という部分が最も大切である。
口ばかりで読んでも心には読まない、心に読んだとしても身体(実行)には読めない。

 そうしたことを心の準備として、私としては二度目となる佐渡へ訪れたいと思う。

2007年6月8日金曜日

御戒壇について

 家庭の中に「御戒壇」を建立することほど、有難いことはない。実際、私も全てが先代からのお下がりを護持させていただいてきたのだが、昨年ついに自分自身での御戒壇を建立させていただいた。本当にその喜びというか、自立心というか、何とも言えないものがある。
「御戒壇を建立する」ことは、最も尊い信仰の体現。法華経の如来神力品に、
「汝等如来の滅後に於て、応当に一心に受持・読誦し解説・書写し説の如く修行すべし。所在の国土に、若しは受持・読誦し解説・書写し、説の如く修行し、若しは経巻所住の処あらん。若しは園中に於ても、若しは林中に於ても、若しは樹下に於ても、若しは僧坊に於ても、若しは白衣の舎にても、若しは殿堂に在っても、若しは山谷曠野にても、是の中に皆塔を起てて供養すべし。所以は何ん、当に知るべし、是の処は即ち是れ道場なり。諸仏此に於て阿耨多羅三藐三菩提を得、諸仏此に於て法輪を転じ、諸仏此に於て般涅槃したもう」
とある中の、
「若しは園中に於ても、若しは林中に於ても、若しは樹下に於ても、若しは僧坊に於ても、若しは白衣の舎にても、若しは殿堂に在っても、若しは山谷曠野にても、是の中に皆塔を起てて供養すべし。所以は何ん、当に知るべし、是の処は即ち是れ道場なり」
に私たちの信仰のあり方が極まるともいえる。
「園の中でも、林の中でも、樹の下においても、、、、、」と。「白衣の舎」とは「ご信者の家」という意味であるから、そこに「塔」を表す御本尊の奉安された「御戒壇」を建立すれば、その場所こそ「御仏が常にいらっしゃる場所となる」と。
 自分で建立する御戒壇に、御本尊をお迎えすることのうれしさ。何とも言えなかった。全てが親からのお下がり、あるいは言われるままにしていたところから、「自分で建立したい」となって、自分から求めるのとは格段の違いがある。お看経も全く違う。「凡夫だなぁ」と思うが、そういうものなのだ。
 スリランカに行った際、ミランダ女史が御戒壇を新しく建立されていた。全てがオリジナルのデザインで、業者の方と何度も何度も打ち合わせをして作り上げたと言っておられた。日本に何度か来られ、たくさんのお寺やご信者さんのお宅にお参詣をされ、そこで御宝前を見られてデザインを練っていったという。
 その新しい御戒壇に御本尊の御遷座をさせていただいた。ラジ女史やアマル氏、アベイ氏なども駆けつけて、とても有難い「御戒壇開き」となった。有難いことだった。

利害と損得だけじゃダメ

3年前、2015年9月26日に書いた文章。 何を思っていたんだろう。 写真は飯田の師匠の畑で撮った写真でした。 太陽の光を浴びる秋の花。 自然に比べて人間界の難しさや人間の愚かさを感じていたのかな。 「利害と損得。 利害と損得が定規なら信も義もない。 ...