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2022年12月24日土曜日

戦争は終わる。あなたが願えば。

今夜はクリスマスイブ。クリスマスソングといえばこちら。

ジョン・レノンの代表作の一つ、John & Yoko Plastic Ono Band + Harlem Community Choirによる“HAPPY XMAS (WAR IS OVER)”です。

オノ・ヨーコさんご本人が付けた映像はこちらです。衝撃的な映像です。それぞれ確認してご覧ください。

人間の愚かさを痛感しながら過ごす夜です。

「我々が歴史を勉強すると我々が歴史から学んでいないことが分かる」ヘーゲル

「人間が歴史から学んだことは歴史から何も学んでないということだ」チャーチル

極寒のウクライナで震える人びと、戦争と紛争、差別や搾取、理不尽な理由で理不尽に扱われ、過酷な環境に置かれて苦悩している全ての人びとを想い、祈ります。

人間が成長しますように。
人間の価値観が少しでも上昇しますように。
人びとが妄想や幻想から抜け出しますように。
人びとに悟りの光が現れますように。

戦争は終わる。あなたが願えば。

Namu Myo Ho Ren Ge Kyo 

ヨーコさんがこの映像を付けた意味を受け止めましょう。

“HAPPY XMAS (WAR IS OVER)”
https://youtu.be/yN4Uu0OlmTg

2011年4月1日金曜日

班長さんへの手紙 平成23年4月1日

ありがとうございます。
東北関東大震災が発生してから二十日が過ぎました。桜の開花の声を聞くようになっても、被災地では厳しい寒さが続いています。
千年に一度の大災害と言われています。覚悟していたとはいえ、まさに末法万年の中で最も厳しい時代に直面していることを痛感しました。巨大地震だけではなく、最大二十三.六メートルの大津波が人々や家々を呑み込みました。さらに、福島第一原子力発電所の原子炉が制御不能に陥り、炉心溶融から放射性物質の拡散を続けるという負の連鎖が今なお続いています。

数え切れない方々が亡くなり、家を失い、避難生活を余儀なくされています。豊かで穏やかな生活を、一瞬にして奪われた方々。原発事故は国家的、世界的な大問題となり、誰もがこの大災害の被災者であることを突きつけました。日本経済は大きく変わり、それは全ての日本人の生き方、暮らし方を一変させるに違いありません。

私は「日本人は強い」「日本人の団結力は素晴らしい」という言葉を聞いて嬉しく思いますが、果たしてそうだろうかという疑問も浮かびます。つい先日まで無縁社会を危惧し、親の遺骨を捨てる者が続出し、介護放棄された高齢者、孤独死や自殺率の増加が懸念されていた日本です。経済でも政治でも、行き詰まりと迷走や錯綜が続き、社会の生命がギリギリの状態であることを感じていたのではないでしょうか。
未だその傷痕は被災地に残っていると感じます。行政を過信してはいけません。人と人のつながり、絆が大切だったのです。行政だけを頼りにしていても必要な物資が届くか分からない。日頃からどのような輪を持って生きているか。考えるべきです。「一人でも生きていける」という考え方は、これ以上ない大きな慢心なのです。

今回の大災害で、日本人は本来持つべき輪が失われていたこと、最も必要であったことに気づきました。不幸の後に気づくのは哀しい。しかし、それでもいい。

御教歌
「世の中をうらむはおろかかひもなし 苦楽はおのが 報ひ也けり」

原発事故に関しては天災よりも人災の懸念があると言います。残念ながら原発を推進してきた政治も勢力も、豊かな生活を享受しつつ認めてきた全国民の問題です。人を批判するのは簡単ですが、自分に非があることを受け容れなければなりません。「知らなかった」というだけでは「無智宗」というより「浅識」という謗法になります。
全世界が被災者となった今回の大災害には、人類全体が受け止めるべき「サイン」「メッセージ」が隠されていると確信しています。今回の出来事から何を学ぶべきか、これは私の生涯を通じて一人でも多くの人にお伝えしていきたいと思っています。
妙深寺のご信者の皆さまにお願いです。不安定な時代となりました。今まで以上にご信心を改良して、堅固にしてください。「火不能焼」「水不能漂」の御文のとおり、地震や火事や津波にも、放射性物質からも、必ずお守りいただけるのが妙不可思議の御題目です。自分だけではなく、こうした時代となったからこそ、お互いにご信心の大切さを語り合い、励まし合ってください。口唱行、お助行、御講参詣に励みましょう。中途半端なご信心では、もうダメなのです。
私は、命を削り、捨てても、みなさんの先頭に立ってご奉公させていただきたいと思っております。生きたお寺の真骨頂、苦難の時代だからこそ、人を救い続ける、佛立寺院の真価を発揮したいと思います。みなさま、どうか、お力をお借しください。

2010年9月5日日曜日

奈々ちゃんのブログ

いま、入院している奈々ちゃん。7日の手術に向けて、治療を受けています。
先日、極めて厳しい状態と聞きました。病状だけではなく、先生から説明を受けて精神的な負荷が高まっているのではと、病院にお見舞いに行かせていただきました。
もともと、奈々ちゃんは心臓が悪いのですが、もし、今その心臓を手術するとなれば、極めて厳しいものになる、命がけの手術になる、と説明を受けたそうです。

また、いま最も恐ろしいのは、血流が悪いことから全身に菌が回っている、それを薬で抑えようとしているのですが、この治療の間にも、時々、その細菌が脳に飛んで一時的な脳梗塞が起きているというのです。いつ、大きな細菌が流れ出て脳に飛び、そこで大きな脳梗塞を起こすか分からないという、本当に厳しい状況なのです。

7日には、細菌の集まっている箇所を取り除く手術。これも、どのようになるか分からない、様子を見ながら進める、とのことでした。横浜市大の先生方がついているから大丈夫だと思いますが、後はご信心で力をいただきたいと思うのみです。お助行で、今回の手術にも、御法さまのお力をお借りしたい。

本人こそ、本当に、哀しく、辛い状態であると思っていましたが、それでも、奈々ちゃんは元気でした。お母さまに、「メソメソしていては駄目」と活を入れてもらったそうです。病室のベッドの横に、信仰師からいただいたお花や、新堀さんからいただいた素敵な画が飾ってありました。それぞれオレンジや黄色など明るい色で、見ているだけで元気になりそうですす。
どうしても面会時間外になってしまいまして、同室の他の方々に話し声などが聞こえたらご迷惑だと思いましたが、ベッドの奈々ちゃんが比較的元気そうで安心し、小さな声で少しだけ話をしました。
彼女の強さに感心しました。お助行の後押しもいただいているのだと思いますが、現実を受け止め、前向きに、立ち向かおうとしています。そうです、立ち向かうしかないから。
病室で携帯電話が出来ることを知りました。私は、病気の彼女に、ブログを始めてもらいたいと言いました。奈々ちゃんだからこそ、出来るご奉公がある。奈々ちゃんだからこそ、してもらいたいご奉公があると思いました。

もちろん、プレッシャーを与えたくもないし、ゆっくり休んで治療に専念して欲しい。でも、いま現在、自分の命の大切さを忘れている人がいたり、感謝できなくなっていたり、罪障に押し潰されそうになっている人もいるから、その人たちに、奈々ちゃんの自然な気持ち、状況、思いを届けてもらいたい。それが、命を輝かせることだから。

奈々ちゃんの出来るご奉公。もうすでにたくさんご奉公してくれているけど、それだけじゃないはず。病室でも、何度も言いましたが、「とにかく、命を輝かそう」「人間には世界を変える力がある。命を輝かす」ことを、いつ、いかなる時も目標にして。泣きながらでも、善いことをする。それしかない。

今日、敬老松風大会の前に、奈々ちゃんからメールが来ました。きっと、無理をさせていると思うけど、等身大で、そのままで、病気と闘っている奈々ちゃんの声を、みんなに届けてもらいたい。そして、僕らは勇気をもらう。そして、僕らは奈々ちゃんに御題目を届ける。弱音でもいい。それでも、僕らは、だからこそ、僕らは、奈々ちゃんのためにご祈願が出来るから。

みんなも、読んでいただければと思います。
http://ameblo.jp/7tuboshi/

2010年5月2日日曜日

Think different. 本気で信じる人

 アップルのCMのコピーを載せましたが、少し違っているようですね。申し訳ない。ずっとずっと前から、ずっと頭の中に残っている素敵な言葉なのに、間違っていては申し訳ない。

 それは、本当は、こんな言葉です。

「自分が世界を変えられると、
本気で信じる人たちこそが、
本当に世界を変えているのだから」

  そう、もう古いCMだから、観たことのない人たちもいるでしょう。是非、観ておいて欲しいですね。忘れちゃいけません、こういう気持ち、こういう姿勢。ずっと、少年のように、若年寄りみたいなことを言わないで、本気で信じましょう。世界は、もっと良くなる。僕たち次第。

 便利になりました。You Tube。ありがたい世の中ですね。Macからはじまり、i Podやi Phoneやi Padと、完全に世界を一新してきたアップル。創業者のジョブズについては、そのスピーチを紹介したのですが。今回は、有名な「Think different」というCMを紹介します。


2010年2月19日金曜日

源平咲き ~世にも珍しい梅の花~

 今日、準備ご奉公中の、妙深寺の境内地で撮影しました。素晴らしいでしょう。咲き始めました、妙深寺自慢の梅です。

 この梅の名前は聞いていません。ただ、以前も書いたように、妙深寺のご信者さんで有名な植木職人であった山忠さんのおじさんから、「住職、この梅はすごい梅だから、絶対に切っちゃなんねぇよ。大事にすんだよ」と言われたことがあります。

 私は知識もあまりないので、品種も正確な名前も分からないのですが、今朝この写真を撮ってから自分なりに花びらの形状などを見比べてみました。

 「蓮久」かなぁ。「八重松島」かなぁ。分かりません。でも、みなさんもアップで見てください。まだ、満開にはほど遠いのですが、素晴らしく可憐で美しい。「五色梅」とか「思いのまま」「巻立山」「楠玉」という梅もあり、少し似ています。

 いずれにしても、こうした咲き方は、『源平咲(げんぺいざ)き』と言うそうです。昔から日本では大きく二つに分かれて戦う時、「紅白戦」とか「紅白対抗」と言いますが、もともと源氏の旗が「白」、平氏の旗が「赤」だったことからそう呼ばれるようになったそうです。つまり、『源平合戦』なのですね。

 品種改良や接ぎ木を重ねて、こうした咲き方をさせることもできますが、本当に素晴らしいのは、自然に育つ中で、こうした『源平咲き』をする梅の木だそうです。だから、山忠さんは「大事にしろよ」と教えてくれたのですね。

 こうした源平咲きは、梅に限ることではありません。桃やツバキ、皐月や白粉花などにもあるようです。少し調べてみると、当たり前のことですが、一本の木は遺伝子が一種類。ですから、一つの木(株)に形も色も同じ花が付くのが普通です。

 しかし、「源平咲き」は赤やピンクの花の木に突然変異で色の違う細胞が混ざって、一本の木に2色の花や斑入りの花が咲きます。一本の植物に、2種類以上の遺伝子のある物を、植物学では「キメラ (chimera)」と呼ぶそうです(「接ぎ木」の雑種も「キメラ」というそうですが、ただの「接ぎ木」を「キメラ」とは呼ばないそうです)。

 キメラ植物は、一代限りで、出来た種を植えても、2種類の色や実がなることは無く、元の色が出るそうです。増やす時は、挿し木や、株分けで苗を作らなければなりません。ですから、妙深寺にあるこの『源平咲きの梅』も、本当に貴重なのですね。

 ちなみに、この「キメラ」という語源は、ギリシャ神話に出てくる怪物の名前にちなみます。頭がライオンで胴がヤギ、尾がヘビという「キマイラ(Χίμαιρα, Chimaira)」から取っているそうです。少し怖い。ギリシャ神話とは、そうしたものですが。

 また、『源平咲き』の梅が、法華経本門の教えをいただく妙深寺の境内地に咲いていることにも感激です。法華経の教えというのは、「右か左か」という二元論を超越した教えです。法華経本門の教えの前では、実は「小乗仏教」も「大乗仏教」もなくなってしまいます。仏教という枠も超えて、世界を、いや宇宙を、一つに結ぶ教えが説き明かされているのが「法華経」の教えです。

 つまり、「源平」も「紅白」も、宇宙法界のDharma(法)、上行所伝の御題目の下で、互いに共生し、見事に、美しく、生まれ、咲き、実れる。源平咲き、本当に見事です。

 とにかく、明日、明後日の妙深寺の門祖会にお参詣していただき、三ツ沢の丘の上に咲く、世にも珍しい梅の花を見ていただきたいと思います。池の近く、池を見て左側にある背の高い梅です。本当に、不思議な気持ちになります。青空であれば、もっともっと気持ちが良くなります。

 もしかすると、満開になるのは、今月末くらいになるかもしれません。百日参詣をはじめて、梅の咲くのを楽しみにしても良いですよね。毎年毎年、あっという間に過ぎてしまいますが、花の成長や開花までの日々を楽しみにして過ごす春なんて、素敵でしょう。

 昔、日本人は、この季節に着物を新調したと言います。そして、新しい着物が来たら、その着物を梅の木に掛けておいたり、わざわざ新しい着物を着て梅の花を見に行ったりしたといいます。そうすると、新しい着物に梅の薫りが移って、それを楽しみにしたのだそうです。すごい感性ですね。「昔の人は鼻がよかったのかもしれません」と正教師も仰っていました。それにしても、日本人の豊かな感性、文化性は、やはりすごいです。

 この春、僕たちも、少しは感性を磨いてみましょう。妙深寺の『源平咲きの梅』で。

2009年12月26日土曜日

世界中が盲目になってしまう

 昨夜、連絡を受けて、驚きました。

 「金スマ」という番組。オノ・ヨーコさんが出ていて、まさに、先日書いた記事の内容と同じことが放送されている、と。そして、同じく紹介した「HAPPY XMAS(WAR IS OVER)」のビデオクリップが全編にわたって放送された、と。素晴らしい機会を与えていただきました。あの、衝撃的な映像が、民放で流されるなんて。すごいことです。

 そうでしたか。よかった。世界が、分裂と対立、中傷や誤解から解放されるよう祈りたい。恐ろしい兵器や銃器が人を殺すのではなく、一人一人の心の中にあるものが人を殺すということを、世界中の人々が気づくように。 

 「目には目を、では、世界中の人が盲目になってしまう(ビデオクリップの最後に紹介されるマハトマ・ガンジーの言葉)」

2009年12月4日金曜日

『泣きながらでも』

 今年も年の瀬を迎える。出会いもあり、別れもあり、喜びも痛みもあった一年を振り返る時。

 立正安国論の上奏750年目を記念した御正当年。お祖師さまの御意の一分でもご理解いただけただろうか。簡単に申し上げれば、それは正しい信仰を持たない限り、様々な問題が解決することはない、安穏で幸せな日々が訪れることはない、ということだ。

 三年間、このことを繰り返して学び、肝に銘じようと呼びかけてきた。一人一人の心に、暮らしに、このお祖師さまの御意がどれだけ深く刻まれ、活かされているか、振り返っていただきたい。

 古いお経文に残る御仏の教えに、「泣きながらでも善いことをせよ。悪いことをするな」とある。日々の生活に追われていても、因果の法則を忘れて生きてはいけない。「泣きながらでも」、為すべきこと、善いことをしなければならない。

 仕事でも家庭生活でも、自分の努力や忍耐次第で何とかなることもある。そう思っても間違いではないだろう。

 しかし、それだけでは世や人を焼き尽くす「業火」は消せない。それは、自分も、家族も、友人も、周りの人をも焼き尽くしてしまう。誰の心の中にも貪瞋癡という三毒の炎がくすぶり、燃え続けている。

 残念ながら、私たちの「気持ち」「気分」は常に三毒に左右される。故に、真理の側にあることの方が少なく、それ以外のことで満足や気持ち良さを得る。自分の気持ちに任せて生きることの方が気楽で、自分のやりたいように生きた方が常に都合が良い。

 怠けた方が楽。奪った方が簡単。怒った方が正直。愚痴ったら気も晴れる。断った方が面倒じゃない。しかし、そのままでは、恐ろしいことになり、恐ろしい結果になり、信心も良い生き方も出来はしない。

 万物の霊長と称えられる人間が動物よりも愚かで恐ろしい存在、鬼か悪魔のような存在になるのは、実に、「気分」「気持ち」に任せて生きているからだ。気分に任せて生きる人間よりも、本能に従って生きている動物の方がよほど安全で信頼に足るということだ。

 こうした人間の本性を踏まえて、

「心の師とはなるとも、心を師とせざれ」

とお祖師さまは六波羅蜜経の文を引かれ、古いお経文では、

「泣きながらでも善いことをせよ。悪いことをするな」

と御仏のお言葉を伝えているのである。ご信心とは、真理に寄り添って生きることである。

 ご信者とは、真理に寄り添って生きる「生き方」を身につけた人のことだ。「真理」とは「南無妙法蓮華経」の御法であり、御題目を据えた因果の法則、因果の道理そのものを指す。

 私たちが教わる「冥の照覧」は、私たちには見えなくても御法さまは常に見ておられるということだ。しかし、これは何も本門佛立宗の信徒に限ったことではない。この宇宙に存在しているものは全て、宇宙に見られており、自分が見ている。すべて繋がっている真理だ。

 誰にも見つからずに悪いことをしたとする。見つかったら「「運が悪かった」、バレなければ「セーフ」。因果の道理を忘れた人はそう思う。しかし、それは愚かだと教わる。それは、なぜか。

 突き詰めれば「自分が見ている」から恐ろしい。その行為は、自分の魂に刻まれ、宇宙に記憶されてしまう。ありとあらゆる私たちの行為、発した言葉や書いた言葉、思ったことまで、「水に流す」ことも出来ず、この宇宙に記録されてしまう。だから恐ろしい。仏教が、時に冷酷だとか寛容だと言われるのは、ここに由来すると思われる。

 あらゆる「アクション(行動)」は、ミクロのカプセルに「種」として保存され、永遠に貯蔵される。それは、現代の科学では見えないエネルギーのカプセル、種である。

 種はいつか必ず萌芽する。来年、再来年、五年後、百年後、千年後かは分からない。しかし、必ずや芽を出すに違いない。

 現代でも「大賀蓮」という古代の蓮の種が二千年の時を経て花咲いた。同様に、いや、それ以上の法則と可能性で、隠れて行っていようと、独り言だろうと、すべての行為が種として貯蔵され、芽を出す時を待っている。

 美しい花の種ならば芽を吹く日を楽しみに待てる。しかし、毒や棘のある花ならどうだろう。狂気や殺意、怨みや嫉みの種が、自分に向けて芽吹く時が来るとしたら恐ろしい。これが宇宙普遍の真理、因果の法則だから避けがたい。

 物理学の最も基本的な法則に、「エネルギー保存の法則」がある。宇宙全体にあるエネルギーの総量は変化しないことを指している。これは一体どういうことか、仏教的に考えてみると、まさに因果の法則であることに気づく。私たちが行った「行為」は、様々な形態に変換され、「エネルギー」として宇宙に記録されていることを指し示している。分かるだろうか。

 私たちは、今回、この宇宙に、生まれてきた。一人一人、無限の可能性がある。それぞれの身口意を使って、何でも出来る。生命のエネルギーを使って何らかを行う。その行為は形を変えながら宇宙に広がっていく。そして、それは、永遠に宇宙の中に蓄積されている。

 あなたが宇宙の一部であるから宇宙のエネルギー総量は変化せず、新たに発生もしない。ただ、一人一人の全てのアクションは宇宙に記憶され、自分からも離れない。

 「泣きながらでも善いことをせよ」とは、些末な「善いこと」を指しているのではない。それならば泣かないでも出来る。「泣きながら」とは、私たちにとって最も難しいはずの、「ご信心をする」「ご奉公をさせていただく」ということに違いない。それこそ真理に寄り添って生きる道であり、因果の法則の中で最も功徳の積める生き方だからである。

 気分に合わせて生きる愚かさは、動物以下の人間の顕著な特徴だ。不安定な厳しい時代だからこそ、気分に流されず、気持ちに従わず、信心をせよ、しなければならない、正さなければならない、と励む。それが立正安国論の結論である。

 ご信心とは「泣きながらでも」行うべきことで、ご奉公や菩薩行は「泣きながらでも」させていただくべきものだ。それが本来の道、罪障消滅の道、功徳の道。気分に合わせて、気持ち次第で、「やる」「やらない」「行く」「行かない」としているのは最も愚かで仏教の大原則から外れていることになる。

 さあ、泣きながらでも、朝参詣、朝夕のお看経、ご奉公、菩薩行を。

2009年12月3日木曜日

班長さんへの手紙

 ありがとうございます。

 立正安国論上奏七五〇年も、残すところ一ヶ月となりました。お祖師さまのご命日は十月十三日ですが、旧暦ですと本年では十一月二十九日となります。秋が終わりを告げ、寒風の厳しさを思い知るような季節の変わり目だったと思います。お弟子方やご信者方は、偉大なお師匠さまのご遷化に、季節と同じく寂しさや厳しさ、今後の不安、恐ろしさを感じていたに違いありません。

 立正安国論で、お祖師さまは何を教えてくださったのでしょうか。それは、簡単に申しますと、正しい信仰を持たない限り、様々な問題が解決することはない、幸せが訪れることはない、ということです。勿論、自分自身の努力や忍耐は必要です。しかし、それだけでは世や人を焼き尽くす「火」は消せないのです。根本を見据えて、ご信心を強くせよ、とお戒めになられました。

 台風が来る前の準備は終わりましたか。自分問題や家庭に迫る危機を乗り切る手段は見つかりましたか。生・老・病・死、「恐怖悪世」といわれる末法の中で、枝葉末節に囚われることもなく、気を紛らわすだけの享楽に命を費やすこともなく、芯を貫く生き方をスタートさせていますか。

 立正安国論で教えていただいたことは、

「汝、早く信仰の寸心を改めて、速やかに実乗の一善に帰せよ」

というお言葉のとおりです。信心を改良し、ご弘通ご奉公、菩薩行に進み出すことです。そこに、本当の幸せがあり、お見守りと、お導きに満ちた「無敵の人生」があります。この一年を終えて、ここが分かっていない、ここに歩み出せないのであれば、全く情けないことです。どのようなことになっても、ご宝前を恨むことのないように。それらは全て自分の怠慢であり、罪障によります。

 ご信心やご奉公は、本当は自分の気分に合わせてするものではありません。ご信者とは、真理に寄り添って生きることを身につけた人のことです。宇宙誕生以来、真理は負けたことがありません。曲がったり、折れたりしたこともありません。この御法の真理に寄り添って生きるのが佛立宗の本物のご信者です。

 私たちの「気持ち」「気分」は、三毒に左右されています。ですから、「真理」の側にあることの方が少なくて、それ以外のことで満足や気持ち良さを得るものです。

 人間にとっては、自分の気持ちに任せて生きることの方が気楽です。しかし、そのままであれば本能に従って生きる動物の方が気分に任せて生きる人間より勝れていると言われるでしょう。人間が動物よりも恐ろしい鬼のような生き物になり得るのは、この「気分」に合わせて生きているからです。

 ですから、お祖師さまは、

「心の師とはなるとも心を師とせざれ」

とお諭しです。

 怠けた方が楽。奪った方が簡単。怒った方が正直。愚痴ったら気持ちいい。断った方が面倒じゃなくていい。しかし、です。

 古いお経文のお釈迦さまのお言葉には、「泣きながらでも善いことをしなさい」とあります。「泣きながらでも」なのです。ご信心も、ご奉公も、「泣きながらでも」という気持ちで「させていただく」ことが本来の道、罪障消滅の道なのです。

 来年度、共に新しい一歩を踏み出したいと思っております。それも、今年のご奉公をどのように締めくくれたかによります。よくよく、御正当年を振り返っていただきたいと思います。

 泣きながらでも、朝参詣してください。泣きながらでも、朝夕のお看経、お助行に、ご奉公に、気張らせていただきましょう。

2009年9月26日土曜日

アベヤギリヤ

 この場所は特別な場所。世界遺産、アヌラダープラにあるアベヤギリヤ大塔。スリランカに紀元前1世紀から12世紀まで栄えた大乗仏教の総本山である。既に法華経の経典が遺跡から発見されており、仏教史を新たにするような発掘と研究が続けられている。

 コロンボから離れて難民キャンプを訪れる前の中継地として、やはりアヌラダープラが選ばれていた。明日のための書類を手にして道を急いだが、アヌラダープラには日が暮れる頃の到着となってしまった。荷物を下ろして、一座の口唱会を行うためにアベヤギリヤ・ダゴバ(大塔)に向かった。

 圧巻。夜の闇に浮かぶ姿。そして、天には幻想的な巨大なダゴバに降り注ぐかのように星が出ていた。三日月もこれを照らす。懐中御本尊を安置させていただいて口唱会を行ったが、何ともいえない気持ちになる。紀元前にワッタガーミニ・アバヤ王によって創設された当時は110メートルあったというのだから巨大さが分かるというもの。廃墟のように見えるが、今でも十分その偉容を誇っている。アベヤギリヤの住職とは三度目となる再会。突然の来訪と口唱会だったのだが、「部屋の中にいたら御題目の声が聞こえたので出てきたらあなただった。全て開けて待っていた」と言ってくれた。本当に、ありがたい。今後も、この大塔の研究と修復を含めて、ご協力をお願いした。

 既に夜も遅くなっていて、明日が本番。視察をしてくれていたとはいえ、現地のメンバーも難民キャンプの中までは入れていないらしい。それはそうだ。政府の関係者ですら入ることが難しい場所。ガマゲさんの会社は週に2回キャンプに水を供給しているらしいが、それでもキャンプ内部には入っていないという。どんなことになるかは、明日、明日。とにかく、精一杯、ご奉公させていただきます。

2009年9月3日木曜日

神藤さんのこと。ビデオを観て…涙。

 ありがたいのは、妙深寺の、お通夜と告別式のご奉公。本当に、あたたかく、本当に、まごころで、お見送りすること。

 私たちは、戒名料や塔婆料、墓地販売で生計を立てる葬式仏教や既成仏教でもなく、政治活動や広報活動をする、霊感商法などをする新興宗教でもない。「普通のお寺」だ。しかし、この世に「普通のお寺」がなくなっていることが、不幸の元凶だと思う。本門佛立宗、特に、ご奉公の責任がある「妙深寺」は、徹底して、「普通のお寺」であることを追求したい。「普通のお寺」とは「本来のお寺」であり、「御仏の御本意に叶ったお寺」ということだと信じている。

 その一生涯のご奉公の功徳、生き様が「法号(戒名)」となる。本来、死んだ時にもらうものではない。後でお金で買うものなどではない。自分の積んだ功徳で、お師匠さまから頂戴するもの。お師匠さまにご奉公ぶりを見ていただいて、お付けいただくもの。

 いずれにしても、人間の一生の最後に当たるのだから、大切なものに違いない。最近は、「お寺で葬式なんてやりたくない」「意味がない」と思っている人が猛烈に増えているという。哀しいことだ。それほど、お寺がない。信頼できるお寺がない。「信」がない。もう、底が見えてる。だから、意味が感じられない。「信」がなければ、確かに意味はない。葬式など、やる必要を見出せないだろう。それも分かる。

 しかし、人間にとって大切な臨終、最期の時は、単純な「終わり」ではない。人間には、短い命と長い命があって、短い命は100年そこらで一旦消えてしまうが、長い命の寿命ははかりしれない。「死」とは「魂の宿替え」である。古くなった家も、時間が経過すれば傷む。何とか修理してもたせようとする。修理して、修理して、それでもダメな時が来る。その時は、家族はちょっと外に出ておいて、建て替えなければならない。「死」とは「魂の宿替え」とは、これと同じだ。

 同じように、魂は身体に宿る。その身体は、時と共に傷む。傷んだ場所を見つけて、一生懸命に修理する。修理して、修理して、一日でも長くもつように、大切に過ごすことが大切だ。しかし、その宿も、70年か80年、100年そこらで朽ちていくものだ。そして、「宿替え」の時が来るのである。「魂」が無くなるのではない。「宿を変える」のである。

 しかし、一般的に考えても、貯蓄が無ければ「建て替え」など出来ない。貯金もないのに新しい家を発注することはできないだろう。そこを、「功徳を積みなさい」「他の人を思いやる生き方、菩薩行に励みましょう」と教えていただくのである。それが、「魂の宿替え」のための「貯金」である。「死」を迎えた時に、「功徳」という名の「貯金」がない人は、「立て替え」「宿替え」ができない。誤解して欲しくないのは、「貯金」という言葉を使っているが、分かりやすくするために書いているだけで、「魂の宿替え」の場合、これは「お金」ではない。

 神藤さんも、牧野さんも、本当に素晴らしいご奉公をしてきてくださった。岡野さんも先月末に帰寂された。3人共に90才を越える素晴らしいご信者さんだった。身体を使い、時間を使い、コツコツ、コツコツ、ご奉公くださった。その功徳によって、速やかにご奉公に戻ってきてくださるだろう。きっと、「宿替え」は、とても楽だ。功徳が、たくさん積み上げられている。そう考えると、佛立信者にとって「死」は恐れ、悲しむべきものではない。

 神藤さんは、帰寂された後もご奉公くださっている。神藤さんは、大正5年生まれ。横浜に生まれた。ご結婚され三男一女に恵まれたが、ご主人を戦地に送り出さなければならなかった。終戦を迎え、夫からの連絡はなく、途方に暮れた。夫を送り出した妻は、ほとんどの人が戦死した連絡が来るか、あるいは音信不通。終戦から二年経っても、一向に連絡はなかった。戦死したのか。子どもたちを抱えて、途方に暮れていた。しかし、妙深寺の井上房江さんの「ご祈願すれば、必ずご主人は生きて帰ってくる」というお話に、ワラを掴む思いで飛びついた。そして、その日からお参詣、御題目口唱、ご祈願を続けた。1ヶ月後、何とご主人が帰ってきた。その驚愕の出来事に、ご信心は確信に変わった。

 今でこそ、「シベリア抑留」などというが、当時の、日本で夫を待つ人たちにとっては暗中模索どころか、何の情報も無い中で、戦死したのか、生きているのか、迷いに迷って必死に生きるしかなかった時代である。事実、抑留先のシベリアなどで命を落とした方々も多くいる。神藤さんは、本当に歓喜にむせび泣いただろう。その証拠に、その後の神藤さんの人生、ご信心の姿は、伝説のようになっている。

 御導師や御講師から「この有難いご恩はお教化で返しましょう」、つまり「あなたが助けていただいたならば、他の人も助けてあげるべき」という言葉を素直にいただいて、このご信心を、出会う人ごとにお伝えしていった。素直に、正直に、マインドコントロールをされているわけでも、霊感商法で変な壺を売り歩くわけでもない。ただ、ご信心をお伝えする、御題目をお伝えする、「普通のお寺」を紹介していったのである。

 いま、神藤さんの教区は「泉教区」といわれている。その教区には、お寺を代表するようなご信者さんがおられる。「小山さん」「瓜生さん」など、どこに出しても恥ずかしくない佛立信者の方々。こうした方々も、神藤さんのお教化による。神藤さんがいなければ、こうした方々もいないと考えると恐ろしい。なぜなら、瓜生園子さんのお母さんである瓜生みやさんがお教化になっていなかったら、先住の、あのお怪我の時の、家族がうろたえていた時にも、園子さんがいないということである。とんでもない!考えただけでも恐ろしい。あの時、現証の御利益をいただくために、欠かせない役割が人それぞれにある。あぁ、ありがたい、と思うのである。

 神藤さんは、96才で帰寂された。妙深寺では、各お通夜、告別式ではどんな方でも必ず「歎読」というものを拝見する。ご宝前に言上しつつ、棺の中の霊位に対しても申しつける、口語体の、言上なのだ。もちろん、神藤さんのお通夜と告別式でも、歎読を拝見したが、その最後に、若輩だから僭越なのだが、
「願わくはこの哀愍の歎徳を受け、寂光の本宮に安からしめんことを。かつ生々世々、行菩薩道の誓願に任せて、師壇世世生を共に相まみえ、浄佛国土の大願成就、共に菩薩行に精進せんことを請い願うのみ」
と言上させていただいた。いつも、抱き合っていたからね、神藤さんとは。いつも、お参詣するたびに。最後に抱き合ったのは、開導会の時、7月19日だった。だから、「師匠」とは言えないけれど、また一緒にご奉公させていただきたい、と。そう思う。

 神藤さんには、悩みがあった。それは、子どもたちのご信心。しっかりと、ご信心して欲しい、と願っておられた。最後に抱き合った開導会から病院に直行されたとのことだった。それほど身体が悪いとは、全く感じられなかった。いつもの、明るい、元気な、おちゃめな、神藤さんだった。

 しかし、その開導会に神藤さんは長男の方と三男の方を連れてお参詣された。その時と同じように、帰寂される1週間前、二人の息子さんを呼び出された。そして、部長の桜井さんも神藤さんから自宅に来るようにお願いされたのだという。病院から外出してきた96才の神藤さんは、自宅の御本尊の前に息子さん二人と部長さんを並べて引き合わせ、息子さん二人は「御本尊拝受願い」を書かれた。念願を叶えるため、そう、神藤さんは生涯最後のお教化を、お二人の息子さんで締めくくられた。その為に、自宅のご宝前に戻らなければならなかった。その時しかなかった。息子さん達が入信書を提出するのを見守り、見届けて、その後すぐに、救急車で病院に連れられたとのこと。さすがの神藤さんに、言葉がない。本当に、凄すぎるよ、神藤さん。

 息子さんはじめ、ご家族一同は、突然の訃報に驚かれ、何から手を付けていいか分からなかった。しかし、喪主となるご長男の仕事関係の葬儀社に手配を依頼して驚いたという。「妙深寺…」と言ったら、その葬儀社が妙深寺をとてもよく知る方々で、「妙深寺でのお葬式なら任せてください」と追われたという。他にもたくさんあるのだが、こうした妙不可思議なサイン、「偶然」では片付けられない「必然」に、二人揃って、「母親の信心のすごさを感じた」とお話くださった。本当に、有難い。

 それでも、通夜・告別式と、いろいろ分からないことだらけだったろう。ご信心も、上手に伝えられているか分からない。いろいろと、思案していた。

 実は、妙深寺の広報部で、昨年の5月に神藤さんの特別インタビューを行っていた。妙深寺の伝説的な先輩ご信者の声を残しておきたい、という広報部の熱意から生まれたご奉公だった。1年と少し前だから、撮影当時の神藤さんは95才か。いつも、敬老会で踊りを見せてくれていた神藤さんらしく、お茶目で、ケラケラと楽しく笑う姿が収められていた。

 私たちは、ご家族やご親族に、是非このビデオを観ていただきたいと思った。96年を生きた神藤さんの、生の声、事実、真実、愛、希望、思いを、この時、感じていただきたいと思った。この時、感じていただかなければ、きっと、チャンスはない。お通夜の会場で、一座が終わった後、会場の壁に映像を映した。受持でもない妙深寺の信仰師や清従師が司会やビデオを回すご奉公をしてくれた。もう、このビデオを観ながら、導師座で涙が止まらなくなった。ご家族も、ご親族も、お祖母ちゃんの「思い」が伝わり、ずっと涙を流されていた。本当に、有難かったと思う。

 是非、このビデオを紹介させていただきたいと思う。96才の真実。一つ一つの言葉が、重たい。本当に、ありがたい。



 佛立信心とは、本当に有難い。本門佛立宗の葬儀、妙深寺のお通夜や告別式は、本当に、有難いと思う。みなさんのまごころが、一つになっている。「普通のお寺」「本来のお寺」として、神藤さんのように本物のご信心をさせていただきたいと思う。

2009年8月18日火曜日

いざ、青少年の一座

 青少年の一座が、直前に迫ってきている。いま、九州の実行委員会の方々は寝食を惜しんでご奉公くださっている。

 横浜でも、東京でも、全国で、この青少年の一座のご奉公を支えようとサポートスタッフがフル稼働。特に映像制作ではカメちゃんや清康師が徹夜でご奉公している。ひろし君がプロデューサーとしてナレーション原稿を書き、カメちゃんは千葉や鎌倉までロケに行き、清康師は信翠師や登光師の構想を忠実に映像化し、第3回 青少年の一座に参加する方々が、ご信心の尊さや有難さを実感し、『本当に来て良かった』と言ってくださるようにと頑張っている。

 本当に、ありがたいなぁ。いつも、このご奉公の姿に感動し、映像化されるものを見ては涙が出てくる。これまでのご奉公、これまでの体験談、吏絵ちゃん、夕香菜ちゃん、遙ちゃん、木村くん…、本当に、おはからいをいただいて、確かな未来を歩んでいるみんなを見て、感動する。

 今年、この時、再会できる喜び。「九州で会おう」「九州でまっとうばい!」と言ってくれている実行委員会の方々。本当に、ありがたい。

 徹夜で作っているオープニングの映像を見ながら、「今」ということについて考えさせられる。『今』は、永遠の時間の流れの中で奇跡的に巡ってきた『今』であり、永遠に戻ってくることのない貴重な『今』だ。『今』を共有していることが奇跡的な出来事であり、『今』から同じ方向を見て生きていけることの尊さははかりしれない。

 宇宙の誕生、星々の誕生、地球の誕生。その地球に命が生まれ、人類が生まれ…。生命は多くの困難を乗り越えて『今』にいたり、人類は多くの災禍に出値い、自らも災禍を巻き起こし、累々たる屍の上に「現代」という『今』の社会がある。その『今』に生きる人間たち、僕たち、私たち。何を思い、何を求め、何ができるのか。

 平成21年8月21日、22日。九州。私たちが、この場所に集まれることこそ、奇跡的な出来事。ここに参加し、同じ時間を共有できることこそ、奇跡的な出来事に違いない。そのことを痛いほど感じて、実行委員会の方々はご奉公してくださっている。遠く離れた私たちも、そのために、寝食を忘れてご奉公している。絶対に、参加した方々に、伝えたい、伝えたいことがある、と。

 この大会が開催できること。そこに参加できること。それは、本門佛立宗の、宗門を挙げての壮大な意志があり、全世界の地域、全国の支庁や布教区の支援があって、一人一人が参加させていただける。このことを、決して無駄にしないために、みんな、必死に頑張っている。参加する人たちも、その意義を確かめて欲しい。そのことを、考えて欲しい。感じて、参加して欲しい。それだけで、いい。

 先日、少し、青少年の一座について、評論めいた意見を聞いたが、そんなもんはいらん。みんなが評論家ぶって、偉そうに言うのを聞いていると、情けなくなる。未だ、こんなことを言っているのかと愕然とする。批評や評論する前に、あなたが何が出来ているかだ。そこで前向きに努力しなければ、信心でもご奉公でもないではないか。それを慢心という。喜びと謙虚さがなければ、仏教徒ですらない。

 貴重な命だということを、痛感していた。宇宙から地球を眺めると、そう思う。かぐやの映像を見ていて、またそう感じた。漆黒の宇宙。誰だったか、ある宇宙飛行士が、窓に映る地球を見て、生命のかけらも感じられない暗黒の宇宙の中で光り輝く青い星・地球を見て、涙があふれて仕方がなかったという。真っ暗闇の中で、唯一、命に満ちた星が地球だった。それは、繊細で、か弱くて、孤独に耐えて必死に輝く地球。

 その星の上で、生を受けた私たち。『今』を一緒に生きていける。本当に、奇跡だ。いつも、私は「ありがたい」と言う。何度も言うが、この「ありがたい」は英訳の「Thank you」ではないのだ。むしろ、英語に訳すなら「rare」だろう。あるいは、「unusual」「uncommon」「seldom」「exceptional」などでもいい。とにかく、「希有」なのだ、「有ることが難しい」から「有難う」なのだ。

 みんなで、九州で出会い、「有難う」と喜び合いたい。






2009年7月22日水曜日

日蝕、見ました?

 京都からも、雲の切れ間から日蝕が見れた。
 すごいなぁ。天文少年の血が騒ぐ。少しだけ、気持ちがやわらぐ。地球、月、太陽。想像を絶する、壮大な営み。生かされていることに気づけば、今目の前にある問題も小さくかすんでしまう。
 宇宙に。太陽に。本当に、すごいなぁ、ありがたいなぁ、と感謝の言葉を伝えたくなる。
 漆黒の宇宙に浮かぶ、地球を感じられる、素晴らしい機会。戦場で戦っていた兵士たちが、日蝕を見て戦うのを止めたという故事を思い出す。
 人間が、その存在の小ささ、命の貴重なること、生きとし生けるものとの尊い絆を思い返したら、謙虚になれるのに。もっと、いい生き方ができるのに。御宝前に、御本尊に向き合う私たちは、いつも、こうした壮大なものに頭をひれ伏す大切さを知っているはず。
 それにしても、今年は、いろいろあるな。立正安国論上奏750年、人類月に到達して40年、ダーウィン誕生200周年と『種の起源』出版150周年。いろいろ、あるなぁ。

2009年6月1日月曜日

『あなたの知らない佛立信心』

「ひもにてつりたる横槌(よこづち)を向ふへおして手をはなてば我方へ来る」
「世の中は横槌を宙に吊りたるが如し。押せば此方(こなた)へ来る也。引けば向へ逃ぐる也」
 開導聖人は、幸せを求めているのにもかかわらず、いらぬ労力や無駄な時間を費やすばかりで目的から遠ざかっている人々に対して、考え方や生き方を変えてみなさい、と促されている。
 除夜の鐘で有名な京都の古刹(こさつ)。数十トンもあるその大きな梵鐘(ぼんしょう)を鳴らすためには、四メートルもの撞木(しゅもく)を操らなければならない。
 巨大な撞木には数十本の引き綱が取り付けられており、その親綱を十七名もの僧侶が揺らしてゆく。地面まで反り返り、勢いをつけてようやく梵鐘を突くことができる。
 開導聖人が「横槌」とお示しになられているのは、こうした巨大な撞木のことだろう。それを世の人が幸福を求める姿に譬えている。
 人間は、自分の方に幸せを引き寄せようと努力している。不幸を忌み嫌い、面倒なことは遠ざけ、巻き込まれないように努めている。節分に限らず「鬼は外、福は内」は人間が平生から求めるところだ。
 幸せよ、こっちに来い、こっちに来い。そう思って、よいしょ、よいしょ、と引いてこようとする。しかし、幸せは巨大な撞木や横槌のようで、此方に引き寄せるには想像を絶する力がいるし、やっとのことで引き寄せても、こちら側に引き止めておくことは難しい。手はプルプル、足腰はガクガク。少し気を抜いたら、あっという間に横槌は反対側に振れて、逃げてしまうだろう。
 だから、開導聖人は簡潔明瞭に、「押してみよ」と仰ったのである。こちらに引き寄せようとのみしているから無駄な力がいる。フッと押して出せば、彼方から此方へと戻ってくるのは天地自然の理だ。
 これこそ、佛立信者が実践する幸福を手にする生き方ではないか。真実の仏教徒とは、「押す」ことの大切さを知り、実践する人だろう。
 他人のことなど構ってられない。自分のことで精一杯。そう思って、人は小さな殻(から)の中に閉じこもる。仕事にしても、日常生活にしても、本当の慈悲や思いやりを忘れて、他人を利用するだけで利己主義に陥ってしまうのが凡夫。
 詭弁(きべん)を弄(ろう)する人も多い。狡賢(ずるがしこく)くエゴを隠しても、何事かがあれば保身を優先して他の人を切り捨て、平然と自己を弁護する人もいる。これでは少しの間は取り繕えても、末路は恐ろしく寂しくなるだろう。
 誰もが必死に生きている。ただ、こうした生き方を続けていたなら、無駄な労力と時間を費やすだけで、幸せの横槌はあなたから離れようとする。引き寄せようとする力が強ければ強いほど離れようとするから、生き方を変える必要がある。
 幸せの横槌を押すということは、「自分のために」という生き方を改めて「誰かのために」と生きることだろう。欲が深くエゴの強い私たちには実践しにくい生き方に違いないが、御題目をいただいていたら出来ると教えてくださる。財力でも能力でも難しい理論でもなく、上行所伝の御題目をもって人さまの支えになれる、と教えてくださっているのである。
 開導聖人は御教歌に、
「やみ重み 医者もすさめぬ 貧乏人 いたくなわびそ われぞたすけん」
とお詠みになられた。この御教歌には現代人に馴染みの薄い言葉が使われている。それは開導聖人が、
「山たかみ 人もすさめぬ 桜花 いたくなわびそ 我見はやさむ」
という古今和歌集の歌を引かれて詠まれたからだった。
 「山高く、近くで人に賞賛されることもない桜よ。ひどく嘆くことはない、私が褒めてあげるから」。誰も見てくれない、と嘆いて早く散ったりしないでおくれ、と作者は詠んだ。素晴らしい歌だ。
 それを開導聖人は、
 「病が重く、医者さえも遠ざかる貧しい人よ。そんなに嘆くことはない、私がいる、助けてみせる」
と、佛立教講の気概としてお詠みになられたのだった。
 残念ながら、こうした御教歌を拝見して、恥ずかしい気も起こる。いま、この上なく尊い万法具足の御題目、法華経本門の教え、真実の仏教にお出値いしながら、一人信心に甘んじている人が余りにも多過ぎはしないか。自宅に御宝前をお奉りし、お寺にお参詣もする。しかし、その願うことと言えば、自分や家族のことのみ。身体健全、災難除滅、商売繁盛、家庭円満。他の人を心から思いやり、祈り、願っていない。自分の周囲のことだけに終始している。それで真の佛立信心と言えるか。幸せになるために「押して」いると言えるか。
 「菩薩の誓い」「菩薩行の実践」と声をかけているのは、スタッフを増やすためでも、世間の倫理観を持ち込んで世直しをするためでもない。そんな些末な考えで「佛立菩薩を育てよう」などと言ってるわけではない。
 宇宙を貫く真理を体現しよう、彼も助かり我も助かる道を歩もう、幸せを手にするために横槌を押す生き方をしようと提唱している。これこそ徹頭徹尾(てっとうてつび)、佛立信心なのである。
 確かに、御題目は尊い。祈って祈りの叶わぬことはない。私たちは御法のお導きの中で、サインに溢れて生活させていただいている。
 しかし、どれだけ「お看経してます」「お参詣してます」といっても、この尊い御題目を一人占めにして、自分の願いを通すだけなら佛立信心の半分にも至っていないことを知って欲しい。本当の佛立信心はその先にある。他の人を、思いやり、世間の人が疎んじる、遠ざける人にまで手をさしのべて、「私が支えてあげる」「助けたい」と行動を起こすのが真の佛立教講なのだから。
 敷居が高いだろうか。自分には無理なことだと尻込みしてしまうだろうか。いや、そうは思わないで欲しい。能力や体力が必要だと言っているならば分かる。しかし、他の人のために祈ることからはじめて欲しい。お助行へと足を運ぶことからはじめて欲しい。それは、他の人を助けるためだけではなく、自分が幸せになる生き方の出発点となるはずだ。
 先月も書いたように、私たちの先輩は「いたくなわびそ」「われぞたすけん」という信念を抱きつつ多くの方を支え、救ってこられた。私たちはそうした方々の功績の下に生きている。今の教講が半分に満たない信心前で、佛立を知ったような顔で語るなど笑止千万(しょうしせんばん)だ。もっと速やかなる現証を感得したければ、横槌を押すことである。

2009年5月7日木曜日

『おくりびと』

 アカデミー賞・外国語映画賞を受賞したことで、全世界から注目を集めた映画「おくりびと」。各国で上映され、高い評価を得続けている。暗いニュースばかり溢れる中で、久しぶりの朗報となった。

 日本映画として初めてオスカーを受賞した快挙に日本中が沸いた。世界が認めたその映画の内容とは、実は日本人ですら馴染みの薄い、ある職業に関するものだった。

 主人公は東京で夢に破れ、妻を連れて生まれ故郷である山形へと移り住む。就職先を探している中、ふと目にとまった求人広告。「旅のお手伝い」と書かれていた広告に、旅行代理店だと思って面接へ行く。

 面接を受けてみると、その業務内容とは「旅」は旅でも「死出の旅」をサポートする葬祭業、特に遺体の「納棺」をする仕事だった。

 親の遺体すらまともに見たこともない主人公は戸惑うが、社長に連れられて仕事を始めてゆく。

 映画は、現代で社会の片隅へと追いやられている「死」とそれに関わる人々や出来事を描き出した。
 本来、あらゆる人間にとって「死」は欠かせない通過点であり、誰もが経験してゆくものである。しかし、今やそれらは病院の中に閉じこめられたり、特別な人々にのみ委ねられたりしている。見て見ぬふり、本能的に忌み嫌われて、敬遠しがちな世界が、最も身近で遠い「おくりびと」の世界ということになる。

 履歴書にも目を通さず、二万円を渡されて即採用となった主人公。月給は五十万円と言い渡される。特に仕事のあてもない彼は、迷いながらも就職することになった。

 最初の仕事で、孤独死した老婆の遺体を納棺する。数週間を経過した遺体に身も凍るほどの経験をしたが、幾たびか「死」や「遺体」と向き合って仕事をしてゆく中で、充実感や使命感を抱いてゆく。

 嘔吐するほどの経験をし、死臭が気になり、銭湯に行って鼻の中まで石けんで洗っていた主人公が、遺族と共に死者の尊厳を守りつつ、「死出の旅」へと送り出す仕事に感動を覚えていく。

 彼の仕事の内容を知って、妻は「穢らわしい」と言って出て行き、友人も「挨拶せんでいい」「もっとマシな仕事さ就けや」と言い放つ。しかし、その友人の母の死などを通して、彼らも彼の仕事に畏敬の念を抱くようになってゆく。

 納棺をする主演の本木雅弘氏の演技が美しかった。タブー視されがちな世界やそこに生きる人々を、ユーモアを交えて紹介してくれた。山形の田舎の小さな物語は、世界の人々の感動を誘った。「死」から学ぶことがある。「死」を除外した「生」などあり得ない。

 「先臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし」とお祖師さまが仰せになられたことを忘れてはならない。    

 しかし、「涙が止まらなかった」「感動しました」という観客の声を聞きながら、「ちょっと待てよ」と思う。この映画には僧侶の姿が見当たらない。出ているとしても、付け足しのようなものに過ぎない。やはり、何かおかしくないか。

 私たちにとって、「おくりびと」は珍しい話ではない。世間は忌避していても、本物の仏教徒は今も身近に死を見ているし、ご信者の中に亡くなった方がいれば特別なことでもなく駆けつけ、深夜でもその家に伺って枕経をさせていただく。「寂光で開導聖人にお目通りするのに、病院の浴衣では申し訳ない」と、生前の礼服に近い物をお召しいただく。私が補助講師で最初に教えていただいたご奉公は、ご遺体にお洋服を着けていただくことだった。僧侶だからではない。

 ご信者の皆さんと一緒にご遺体の枕もとで御題目をお唱えする。硬くなった身体が柔らかくなり、お召し替えをさせていただいたり、手にお数珠をかけさせていただいたり。このご奉公も教務とご信者さんでさせていただいてきたのだ。

 俗習のような、頭への三角布や手甲も脚絆も着けない。頭陀袋に六文銭など入れもしない。それは本当に仏教なのかと首をかしげる。御題目のみ。これが、普通なのだ。

 法号も死後に買うものではなく、故人が生前の功徳でいただくもの。何より、ご信心がなければ意味がない。生死に一貫しているものが信仰なのだから。

 本門佛立宗のご信者さんたちは、社会から敬遠されがちな場所や人の所へ、率先して出向いてご奉公してきてくださった。

 親しくない方でも、ご病気の方がおられると聞けばお伺いをしてお助行し、ご祈願する。貧しい方のお宅でも、その方が苦しい状態から逃れられるように心を尽くす。

 ご信者のご家族の訃報を聞けば、忙しい予定をやりくりして、枕経からお通夜、お葬式まで一生懸命にご奉公される。葬儀屋さんではない。「無償」の「ご奉公」である。これらは「おくりびと」の何万倍も有難いではないか。本門佛立宗のご信者方こそ、本当の「おくりびと」であり、目には見えないがアカデミー賞に輝いているはずだ。

 しかし、映画に僧侶の姿はない。それは映画の原点といわれている青木新門氏の著書「納棺夫日記」を読むと理由が分かる。そこには、実際に「納棺夫」として数多く葬儀の現場を見てきた著者の、葬式坊主に堕した僧侶への軽蔑が記されているし、世にある信仰への懐疑的な姿勢が明らかにされている。

 著作を読み進めていくと、次のような言葉が出てくる。
「『死』は医者が見つめ、『死体』は葬儀屋が見つめ、『死者』は愛する人が見つめ、僧侶は『死も死体も死者』もなるべく見ないようにして、お布施を数えている」

 本を読んでいると、何とも言えない気持ちになる。恥ずかしながら、僧侶の堕落は世の人の知るところだ。しかし、本門佛立宗の教講にこれは当たらない。私たちは、「死」も見つめ、「死体」も見つめ、「死者」も見つめる。これが、佛立の文化であり、教えであり、真実。それを著者は知らない。いや、知っていたとしても屈折して眺めている。

 「納棺夫」だった著者の経験は尊敬に値するが、親鸞に傾倒し、特に、御題目のご信心を屈折して見ていることが哀しい。全般に、広範な知識がありながら、隠者のような自己解釈が目立つ。宗教者でも信仰者でもないのだから仕方がないといえばそうだが、あまりに残念だ。

 浄土三部経・無量寿経の偈文、浄土真宗では「讃仏偈」というが、その冒頭にある「光顔巍巍」を、御仏の真意を脇に置いて著者が感じた世界として広げていく。このブログでも先日紹介したばかりの井村和清氏著「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」の言葉や宮沢賢治の詩、その他多くの言葉や著書を結びつけて、結果的には親鸞や浄土信仰の世界を紹介している。それは、現場に徹した著者個人の到達点ではあるが、無理に結びつけられた宮沢賢治や他の人にとっては心外な話ではないか。彼に指導できる浄土真宗の僧侶はいないだろう。現場主義者で博学な著者が真実の仏教を理解することも難しいように思う。

 「宗々の祖師におろかはあるまいと いふて佛によらぬ信心」

 「慢心のおこりはじめや師を捨て おのれ師匠にならんとぞする」

 「ものしりが信者の敵となるをりと しりて相手にせぬぞかしこき」

 死者への理解はできても他者への理解は難しい。やはり、著者にとって納棺とはあくまでも「仕事」であったのだと思う。このアカデミー賞を受賞した映画「おくりびと」は、「納棺夫日記」と一線を画した。著者の青木氏は、映画の舞台が富山ではなく山形になっていたことや上記のような本人の宗教観が反映されていないことなどから、映画「おくりびと」と関係することを拒否したという。これは、結果的には幸いだったと思う。偏った宗教観が映画化されなかったのだから。

 いずれにしても、葬儀社の進化は著しい。遺体のお召し替えや湯灌等、もう素人の出る幕ではないと言われてしまう。しかし、そんな時代になっても佛立信仰が色あせてはいけない。私たちは、仕事ではなく、亡くなった方の枕元に座り、ご遺体と向き合い、ご遺族とも向き合う。正しく御仏の教えを実践して寂光にお送りする、お帰りいただくのである。

 「生き恥かいても死に恥かくな」「死に化粧は自分では出来ない」「死に顔に責任を持て」とは先住が常に教えてくださったことであり、門下に受け継がれてきた教えだ。死体が腐ることくらい知っている。しかし、その「死」の姿の中に、私たちは「生」を見よと教えていただくのだ。

 今や「おくりびと」の充実感や使命感を抱いている佛立の信者も少なくなってきたように感じる。難しいことだと思う人が多いのかもしれないし、世間的な感覚でご奉公を敬遠する人が、佛立宗のご信者の中にもおられるようになったからかもしれない。もちろん、佛立信者全員に「納棺しなさい」とは言わない。しかし、まだこうしたご奉公をしたことがないという人にも、私たち佛立信者は「ご信心」で「おくりびと」の主人公が感じたような充実感や使命感を抱き、心が満たされるようになることを知ってほしい。ごくごく、自然に、自他を越えた生死に関与できる。その中で、膨大なことを学べる。「死」を見据えるからこそ「生」が輝きを増すことだけは真実だ。

 私は、佛立宗のご信者のみなさんが、アカデミー賞の受賞者のような気持ちでいる。一般的に遠ざけられがちな世界で、ひたむきにご奉公してきてくださった。本当に、ありがたい。みんな、一隅(かたすみ)を照らす人だったのだから。

 いま、国内でもこうした人たちにスポットが当たるようになったことは嬉しい。その上で、本門佛立宗のご信者みなさんが、常に「おくりびと」であったこと、「おくりびと」であることを知って欲しい。

2009年4月5日日曜日

「声無くして人を呼ぶ」「桜梅桃李」

 妙深寺の「本化桜」が満開を迎えようとしていた。
 実は、老いたのか、衰えたのか、最近の気候のせいなのか、大きな枝振りなので上の蕾が花開く頃は地面に近い枝の桜の花びらは散ってしまっていることも多い。今年もそうなりそうだ。しかし、見事に咲き誇る桜を見ることができて、本当に嬉しい。嬉しく思えた。
 この前から、ご信心をされていない方々とお話しする機会が多かった。神奈川新聞を見て来てくださった方々、バーにも観桜会にも、そうした方々が多い。そして、ご信者の方がお連れになったお友だちも、大勢来てくださった。お会いできて、お話しできて、嬉しかった。「来年の桜まつりで、踊りのチームで参加したい」と申し出てくださる方も。もちろん、お願いします、とお話しした。夜の近隣の方を招いて行われる観桜会では、カラオケに代わる企画を待ち望んでいたのだから。
 司馬遷の「史記」に、有名な言葉がある。「桃李不言 下自成蹊」=「桃李ものいはざれども、下おのづから蹊(みち)を成す」と読むのだが、「桃や李(すもも)は何を言うわけではないけれど、花実に惹かれて人が集い、その下に自然と小路ができるものだ」という意味。
 長松寺の玄関を入って真っ正面。庭へ通じる窓の上に、開導聖人の御真筆で「無声呼人」という扁額を掲げている。この扁額の意味は「声無くして人を呼ぶ」というもので、まさに。「桃李不言 下自成蹊」と相通じる。上っ面の愛想笑い。硬軟を使い分け、パフォーマンスに頼った生き方。それでいいか。上手に上辺を繕って生きていても、そこに真実がない、実がない。結局、孤独、孤独、孤独。言葉で誤魔化せない。言葉で誤魔化さない。内面のギラギラしたエゴや下心を、言葉巧みに繕っている人間が多いが、それでは結局誰も付いてこないぞ、もっともっと奥を、謙虚に磨いていけ、と戒められているのではないだろうか。
 桃や李、そして、この桜も、声無くして人を呼ぶ。自然と人が集まる。だから、たくさんの人と出会えたし、お話しすることもできた。自分も、この桜のように、奥の奥の人間性を磨いて、悪いところを改めて、成長したい、本当に人間を練りたい、と思う。つまりは、信心を磨くことが大切で、そこが心の最も深い分を司るものだ。そうでなければ、また誤魔化す癖が出てくる。人間に許されたコミュニケーションの全てを否定するわけではないが、人間が年を重ねて生きてきて、テクニックやパフォーマンスで人を呼ぶのではなく、その人柄で人を呼ぶ、そういう人間になれなければ淋しい。
 古来から、「桜梅桃李(おうばいとうり)」という言葉がある。桜、梅、桃、李(すもも)。それぞれ独自の花を大いに咲かせよ、と。みんな、それぞれ良いところ、個性を磨きながら、美しく、その花や実によって人が集うように生きてゆけ、と。それぞれが、声無くして人を呼べるように。だから、本当の仏教、私たちのご信心とは、一つの極端な教義に押し込めようとするものではなく、様々な個性を持った人が御題目の下に集い、御題目をお唱えし、人を思いやる菩薩へと昇華し、現証の御利益を持って仏の境涯に近づくことを目指している。
 お祖師さま(日蓮聖人)が「桜梅桃李」をお使いになられてご指導されていたことが御義口伝の中に残されている。
「本門の心は無作の三身を談ず。此の無作の三身とは、佛の上計りにして之を云はず。森羅万法を自受用身の自体顕照と談ずる故に、迹門にして不変真如の理を明す処を改めずして、己が当体無作の三身と沙汰するが本門事円三千の意なり。是れ即ち桜梅桃李の己己の当体を改めず無作の三身と開見すれば、是れ即ち量の義なり。今日蓮等の類ひ、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は、無作の三身の本主なり云云。」
 つれづれに、満開を迎えようとする桜を見ながら思うところを書いていたら、こんなに長くなってしまった。
 とにかく、上っ面ではなく、人間を磨くことが大事。そうでなければ、どんなに言葉を巧みに使えるようでもボロが出る。本物じゃない。孤独になる。もっと、足下を見て、焦らずに、磨いていこう。人が集まるように。
 あなたはサクラ、あなたは梅。それぞれ素敵な花を咲かせられる。ピーチでもプラムでもいい。とにかく、言葉やテクニック、パフォーマンスで誤魔化さず、厳しい冬も耐えて、春を迎えよう。お互いに、根っこを育てよう、磨いていこう。

2009年4月1日水曜日

春季総回向 御法門

 今年の年頭からお話をしておりますが、いよいよ大変な世の中を迎えております。みんなで一生懸命、心を強く、ご信心を立てて暮らしていかなければなりません。法華経の教えは、蓮華の教えですから、泥の中にあってなお美しい花を咲かせる、人々に元気を与えるような人間を目指していただきたいと思います。

 それでは御教歌を拝見いたします。

「となへよや 上行所伝の 題目に  秘事も口伝も 入った物かは」

 この御教歌は、御題目口唱の中に、何をするよりも大切な功徳がある。その御題目口唱の功徳が彼方に届いて、現証が顕れる。御題目をお唱えしなさい。そこに全てが含まれますよ。そのことを知って、そして、唱えなさい。そうお教えいただく御教歌であります。

 「秘事」「口伝」というのは、各々の宗門に伝わる祈祷や呪詛、護符のような類、その他の伝えられている教え、ということです。 私たちがお唱えする「御題目」は、万法具足と申します。世にある法という法、御経という御経、神力という力、超能力だろうが霊能力だろうが、秘術、秘伝、どの国、どの地域、どの宗教に伝わる口伝も、全て「具足」、つまり「備わっている」「入っている」のです。

 それなのに、多くの人は、違うものをまぜこぜにして迷う。御題目を唱えず、あるいはそれに並べて、念仏を唱えてみたり、般若心経を唱えてみたり、違うものをやったりする。その方が効きそうだという。でもそれが実は不幸の原因になっている。届かない。助からない。ご回向にもご供養にもならないから、御題目一筋になることが大切とお教えいただきます。

 お祖師さま、日蓮聖人の御妙判(お言葉)に、「この南無妙法蓮華経に、余事(他のこと)を交えば、ゆゆしき僻事(ひがごと)也」(上野殿御返事)また、開導聖人の御指南に、「たとい、その宗その門の秘事・口伝といえども、本師(仏さま)の経文に合わざれば皆人師の私(わたくし)の邪説也」(佛立要談)とお示しで、御題目に混ぜものをしてはいけない、ゆゆしき心得違いであるぞ、と。また、いろいろな宗派がそれぞれの説を立てているが、それがもし仏教の根本、「仏さまの教え」に合わなかったら、それは人が勝手に作った邪説、間違った説である、とお示しです。

 さて、今日はお彼岸です。今日、この日は先祖を思い、亡くなった縁のある方を思い、お弔いをするとき、仏教の尊さを思い起こすときです。

 今日は、「御題目をお唱えすることが何よりのご回向になり、功徳になる。それは亡くなった方のためだけでなく、自分自身の人生をよりよくするものだ。他に混ぜるものや加えるものはないんだ」ということをお話ししたいと思います。

 「彼岸(ひがん)」と「此岸(しがん)」とは、亡くなった人の世界を「彼岸…あちらの岸」、現在私たちが住む世界を「此岸…こちらの岸」と言います。死なない人間は誰もいませんから、みんないつかは彼岸に行く。その、あちら側のために、今、こちら側でできることがあるということを知って、実践しなさいとみ仏は教えくだされているのです。

 あちら側。彼岸というと、私たちからは見えませんから、「遠くにある」と思う。しかし、実際は近い。見えないけれど、ここにある。だからこそ、こちら側に生きている人も、身近に影響を受けている。それで苦しむ人もいます。

 見える世界、見えない世界、それはハーバード大学理論物理学の教授、リサ・ランドール女史の示す多次元構造にも似ています。

 「西方極楽浄土」などといえば「彼岸」は「遠く」に感じてしまうが、真の宇宙の姿は私たちの身近にシャワーカーテンで仕切られたくらいの状態で、もっと大きな世界が「身近」にある。身近にある多次元の空間を「死後の世界」「霊の赴く先」と言い切るのは乱暴ですが、通常は「知覚」はできない世界が身近にあることには違いありません。そして、仏教では、彼岸と此岸は相互に関係していると考えます。

 その一つの顕著な、悪い例に世間でいう「霊障」のようなことがあります。彼岸からの影響で苦しむ人です。亡くなった縁のある人であっても、死んだらほったらかしで、誰も思い返さない、供養しない。それが「助けて」というような何らかのサイン、メッセージを送っていて、それを受け取って苦しむ。物事がうまくいかない。

 遠い「彼岸」に行ったはずの亡くなった方が、「此岸」に生きている人間に「なんらかの影響を与える」、こういうことは、信じられないかも知れませんが、現実にあるものなのです。

 深層心理学の世界的な科学者であるカール・ユングは、当時流行していた「降霊会」に二〇〇回以上参加して、それらの「ウソ」を見破ったほどの人です。そのユングの「オカルトの心理学」という本には、自分自身どうしても納得もできない、説明もつかない現象に遭遇したことが書かれている。

 ロンドンの古い屋敷で体験したこと。金縛りに遭い、廊下で衣をひきずる音が聞こえ、極めて奇妙な体験をした。彼はこの現象を科学者としてつぶさにレポートしています。彼だけではなく、同じ部屋に泊まったX博士も一緒の体験をした。その後、そこで亡くなった方が影響を及ぼしていたのではないかということが書かれています。

 いずれにしても、見える世界のことだけで生きていて、あちらの世界のことは全く知らない、死んだら終わりだ、信じないという人よりは、「人間には見えないものがあり、そうしたものとつながっている」と、見えない世界の大切さを思う人の方がマシです。しかし、単純に世間一般の「霊」の考え方に囚われていたり、何でも霊のせいにして済ますようなら唯物論者よりもタチが悪い。

 一般的な世間の人の考え、問題の見方、その対処、処方、薬、治療法は、正しい仏教とは異なる点が多い。間違った受け止め方をするのではなく、正しく受け止め、正しく解釈し、正しく対処するということが大切です。それが正しい仏教、私たちのご信心です。

 十六日の夜、あるご信者さんが京都の長松寺にお友だちをお連れになりました。この方は二十代の女性でしたが、話を聞いてみると、おじさんが亡くなったときから、おかしなことが続いているということでした。

 おじさんは一人身で、病気になってからお姉さんと彼女の二人がずっとお世話をしていたそうです。それで、おじさんが亡くなった後、真言宗のお寺でお通夜とお葬式をしたということですが、そのお通夜の最中にお姉さんの具合が悪くなり、身体が異様に重たくなって、頭痛とめまいがはじまり、お通夜を途中で退席した。その後、七日ごとの法要でもお経を聞くたびに苦しくなって、おかしくなってしまう。

 それで妹さんが心配になり、お友だちが本門佛立宗のご信者さんだったそうで、大阪のお寺にお連れして御題目をお唱えし、懐中御本尊をお借りして、ご回向をはじめた。それから、不思議とお姉さんの体調は回復していった。

 ところが、今月の十四日、こんどは妹さんの方に変な現象が現れてきた。夜中、一晩中うなされ、金縛りのように身体が動かなくなる。耳鳴りや身体の重たい感じも始まった。これは変だなと思って、もう一度本門佛立宗のご信心をしている友人に相談し、そして長松寺に来られた、ということでした。

 こうした方の抱える問題の見方、対処、お話の仕方を、世間の間違った考え方ではなく、正しい仏教の筋を伝えて、苦しみから抜け出していただかないといけない。こうした方は、実は長い間ずっと彼岸から人生に何らかの影響を受けて辛い経験をしている人が多いからです。

 実は、こうしたお話はよくございます。昨日の夕方にも、全く違うケースですが、同じようなお話を受けておりました。ですから、いろいろなケースがあると思いますが、変な考えにとらわれず、何とか正しい対処の仕方、お話の仕方を知って、そこから抜け出し、乗り越えるお手伝いができるようになっていただきたい。

 まず私たちは、そのご姉妹のようなお話を聞いても、「あぁ、それは霊のたたりだ」とか「うん、見えます、おじさんの霊が」とは言いません。「そういうこともある」という程度です。あちらの世界のことは、驚き、怯えることではなく、「知っている」というレベルで受け取る。仏教では単純な霊能力は禁じ手です。開導聖人も「霊感のある人」を誡められました。だから霊媒師のようなことをするのは、仏教でも佛立信心でもない。

 ご姉妹には「元来、感性の強い方ですね」と話しました。そして、「しかし、感性が強いということは幸せなことばかりではありません」と続けます。感性が強くても余計なものまで見えていたら不幸になる。人生という運転ができなくなる。危うくなる。最も大切なのは「では、どうするか」。それは「南無妙法蓮華経」とお唱えすることです。

 この「南無妙法蓮華経」の御題目というのは、仏教の究極の法、マントラです。「南無」という部分が似ているからと言って、「南無妙法蓮華経」を「南無阿弥陀仏」と同じように考えてはいけません。全く違う。本物の仏教は、仏や神の名前比べ、力比べということではありません。「南無阿弥陀仏」は「阿弥陀仏」に対して祈っている。これでは、じゃあ「大日如来と釈迦牟尼仏は?」「毘盧遮那仏は?薬師如来は?」というようになり、西欧まで広げれば「では、ユダヤ教のヤハウェは?」「キリスト教のエホバは?」「イスラム教のアッラーは?」と、どれが一番力が強いだろうかと、力比べになってしまう。 御題目は別次元です。御題目は「法」です。「なぜ、仏が生まれたか」「なぜ、神が生まれたか?」という、その奥の奥、根本に当たる「ダルマ」「法」です。諸仏諸天善神の出生の門。

 新約聖書に「ヨハネの福音書」というものがあります。そこには、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」と書かれている。この「ことば」についてキリスト教徒は本当の意味を知らないはずです。でも仏教徒なら分かる。

 御題目は究極の法、それは「音」「声」「バイブレーション」です。最初にあった法は「ナムミョウホウレンゲキョウ」。声と声、音と音でシンフォニーをつくる。それが、彼岸にも此岸にも行き渡る。

 もう一つ、私は本当に凄いと思った体験があります。松本依子さんという方が、その方は、大変な問題を抱えておられて、お助行をさせていただいたんですが、終わって帰ってきたとたん、私は体がどうしようもなく重くなってバタンと倒れて眠り込んでしまった。それから十七時間くらいずっと寝続けて、全然記憶がない。起きたら次の日の夕方でした。それで起きて本堂に上がりお看経しようとしたんです。そうしたら、口の所を誰かの手でグッと押さえられたようになって、御題目が唱えられなくなったんです。「あ~」しか言えない。こんなことは初めてだった。

 これは困ったなと思って、先住のところに行って「僕は何かに取り憑かれてしまったようです。御題目が唱えられなくなりました」と言ったら、先住は一言「おまえの信心が足りないからだ、バカ!」と一言。(笑)

 それで仕方なく本堂に戻ってきて、夕看経の当番だったので鑒座に座ってお看経を上げた。「あ~」「あ~」ばかりで御題目が出ないんです。それがずっと五十分くらい続きました。最後終わる直前で、ポンって取れて「南無妙法蓮華経、あっ」って唱えられたんです。そうしたらそれと同時に肩をポンポンと叩かれて、ビックリして飛び上がった。鑒座ですからね(笑)。普通、誰もお看経中に肩を叩きません。でも、それは越前さんだった。その時、もう一件お助行をしていた、行方不明の方が見つかったという連絡だった。しかも、松本さんと同じご病気の方だった。あの、同時のお計らいというか、不思議な現証は、もう鮮明に覚えています。

 御題目を唱えるということが、どれだけ力があって、見えない世界にまで行き届いて、それをグッと変えてくださるか、功徳を積ませていただいて、お計らいをいただくか、実体験として感じさせていただきました。その結論はやはり、先住が教えてくださった、「信心が足りないんだ、バカ」ということなんです。何を寄り道しているんだ、早く本堂に上がれ、とにかく御題目を唱えてみろ、ということなんです。

 世の中に「霊障」というものが確かにあるとしても、御題目を持ってるご信者さんは、「如風於空中・一切無障礙」。どんな障害があっても、風が空中で一切妨げがないように、御題目で障害をはらしていただける。風のように自由に、何ものにもとらわれない、霊のせいにもしない、本当に真っ直ぐな人間の生き方ができるようになる。変な護符も、お祓いも、御守りもいりません。秘術も俗説もいらない。それで霊は静まらない(笑)。自己満足のレベルです。

 とにかく、遠回りすることなく、とにかく実践で御題目をお唱えさせていただくことです。本当のご回向をさせていただき、晴れやかな人生を歩んでいただきたい。いま、霊障に悩んでいる人がいたら、伝えてください。御題目に全てが込められている。本当の自由を手にしてください。彼岸、此岸。亡くなられた方への感謝、供養をしっかりさせていただいて、人生をより幸せに。そのために、御題目を唱え重ねる、それ以外いらない、そこに全てがこめられている。とにかく、唱えなさい、とお示しただく御教歌です。

2009年2月24日火曜日

ルーリン彗星の接近

 天文少年。宇宙大好き。これは、母親の影響だろうか。
 母は、日博上人が「地球の外に、きっと私たちのような命を持つ生き物がいるはずだ」と聞いて、いつも眼を輝かせて話してくれた。私も、夜の空などを眺めながら、子どもの頃からそんなことを考えていた。そういう思いを「宇宙からの贈り物」という文章にした。
 NASA(米航空宇宙局)は3月5日に太陽系外にある地球型の惑星を探す初の人工衛星「ケプラー」を打ち上げるらしい。若田さんが乗るディスカバリーが延期されているので、これも延期されるかもしれないが、地球に似た環境で生命の存在も期待してワクワクする。果たして、太陽系の外、この銀河系の中にどれほど地球方の惑星があるのだろうか。
 ケプラーには、超巨大な宇宙望遠鏡を搭載されている。ケプラーは恒星の前をたまたま通過する小さな惑星の影を捉え、この現象によって地球型の惑星を検出するらしい。
 これまで地上での同様の観測などで系外惑星約300個が見つかっている。そのほとんどがガス惑星で生命の存在する可能性は希薄。しかし、今回ケプラーの検出器は地球の大気の影響を受けないので、検出の精度が高く期待されている。3年半以上、銀河系内の恒星約10万個を連続観測するとのことで、報道では第2、第3の地球の候補はそれほど珍しくないことになると伝えている。
 有名な「ドレイクの方程式」によると、天の川銀河(銀河系)に人類と同じような高度な技術文明を生命が存在するかを考える上で、次のような公式が導かれている。
「N=Ns×fp×ne×fl×fi×fc×L/G」
 この銀河系に存在する高等文明の数を「N」とすると、「Ns」は銀河系に存在する恒星の数。「fp」は、その恒星が惑星系をもつ確率。「ne」は、そのなかで生命が生存可能な環境をもつ惑星の数。「fl」は、そこに生命が発生する確率。「fi」は、その生命が知的生命体に進化する確率。「fc」は、その生命体が他の星に対して通信をおこなえる確率。「L」は、その高等文明の継続時間。「G」は 恒星の寿命。
 数式1つ1つに数字を当てはめ、科学的に推定を加えると、現時点で人類と同じような高等技術文明を持つ知的生命体が存在する可能性のある星は約1000個。これは、想定できる数値らしい。
 しかし、この数式で最も重要なのは「L」。皮肉なことに、高度な技術を持ち、宇宙の存在を知る高度文明は、わずか10000年(別の本には100年とされているのだが)で崩壊するとされている。智慧を発達させると同時に人類は愚かさから自滅するという。
 残念ながら、1000個の恒星までの平均距離は、およそ100光年。文明の継続時間がもし10000年だとすると、地球圏外の生命と交信することは極めて困難だと思う。
 実は今夜、ルーリン彗星が地球に再接近する。地球と太陽との間の距離の半分?どういう距離なのか分からない。「近い!ヤバくない?」と思うが、遠いらしい。6130万キロ。昨年、台湾の鹿林(ルーリン)天文台が発見したことでこの名前が付けられた。NASAの観測で、この彗星は毎秒3000リットルもの水を吐き出して飛んでいることが分かっている。今回、この彗星が太陽に接近するのは初めてという説もあるが、いずれにしても周回軌道は数万年に一度しか地球に接近しない。
 前回地球に接近したとすれば旧石器時代。歴史のロマンだなぁ。人類をどのように眺めたのだろう。次に地球に接近するのは数万年後。人類は存在しているのだろうか。先年行われたギャラップ社の調査では、米国の45%の人が「人類は約一万年前に神により創造された」と答えている。ちょっとスケールが小さく感じる。そんなん、ルーリン彗星が通った程度のレベルやん。とにかく、百年に一度の経済危機が世界を覆い、オーストラリアでは史上初の47度の熱波と森林火災、中国では60年に一度の旱魃。そして、極めつけは数万年に一度飛来したルーリン彗星。なるほど。
 今年、立正安国論上奏750年。三災七難の中に、「日月失度難」「星宿変怪難」などがある。今年は日本でも皆既日食もある。そして、彗星の飛来。いろいろなことが符合していて、お祖師さまの「立正安国論」を拝見し、襟元を正して御意をいただける。御意をいただいたなら怖いものなんてないから。そうお諭しくだされている。
 今夜、夜空が晴れていたら、天文少年になろう。

母とネパール

  来週の水曜日、11月11日にネパールへ出発します。 84才の母がネパールへの渡航を決意し、母と共に妙深寺ネパール別院、ネパール平和題目塔、カトマンズ親会場、そして大規模土石流洪水の被災地で、ご奉公させていただきます。 昭和17年、生まれて間もなく実母を亡くした母は、岡野町の妙...