京都国立博物館の宮川禎一先生とじっくり、ゆっくり、たっぷりと打ち合わせをさせていただきました。
2012年出版の拙著『仏教徒 坂本龍馬』(講談社)を書いていた頃には想像もつかないことでした。宮川先生は龍馬研究の第一人者、トップ・オブ・ザ・トップと言っていいほど大変な方ですし、僕なんて相手にしてくださらない、むしろ叱られるのではと思っていました。
坂本龍馬について、しっかりと資料を読み込めば分かることを分かっていない人、懐疑的な先入観で見落とす、わざと見過ごしてる人たちがいることなど、膨大な資料をもとにお聞きして、まったく同感、感激でした。お話を聞いていると「快感」と言っていいほど心が晴れます。
勝ち組となった側からではなく、たとえば福井藩から見た幕末史は全く違う景色が広がります。横井小楠と松平春嶽ライン、中根雪江と由利公正、そして永井尚志、坂本龍馬。さらに、長岡謙吉と中井弘(鹿鳴館の名付け親)についてなど、幕末維新史の研究家にとって極めて興味深いお話が出来ました。
とはいえ、今回の面談の主たる目的は2025年2月21日から開催予定の京都佛立ミュージアム「真説・坂本龍馬展」についてです。ご指導いただき、ありがたいです。
今回の企画展では坂本龍馬に関する数多くの資料の中でも重要文化財に匹敵する数点を展示させていただく予定です。
それは暗殺直前の5日前、慶応3年11月10日に書かれた書簡と、龍馬が幕府による長州征討の様子を矢印(一説には日本初の矢印)を用いて描いた「長幕海戦図」の実物を展示する予定です。
暗殺される5日前の書簡の中には「新国家」という言葉が綴られています。当時、幕府も薩長の面々も、権力闘争に明け暮れ、新しい国をどうするか、どのような新国家を建設するのか、というビジョンや方策は持っていませんでした。
龍馬にはそれがあった。長岡と中井を横浜に派遣して議会制度を学ばせたり、国家観、国体論、議会制度、国際関係など、様々な手を打ち、方策を練っていました。しかし、自分は新政府人事案の中に名前を入れていない。この人事案を薩摩に見せたところ不審に思われる。
陸奥宗光がこの時の様子を回想録で述懐しています。
「坂本さァ、こん中に、おまんさァの名が落ちちょりもんど」
西郷や薩摩の面々が龍馬に尋ねると、龍馬は答えたと言います。
「窮屈な役人になるがは性に合わん。世界の海援隊でもやりますかいのう……」
後年、名外務大臣となった陸奥宗光はこの場面を次のように残しました。
「その時の坂本は西郷よりも二枚も三枚も大人物に見えた」
宮川先生とお会いし、坂本龍馬の真価や思想、もし彼が日本に暗殺されずにいたら、という仮説について語り合えたことは、最幸の喜びでした。
「新国家」の書簡、「長幕海戦図」は実物展示になります。絶対に、またとない貴重な機会になりますので、お越しいただきたいです。
されど、弾丸の京都往復は本当に厳しい。重要な連絡も次から次へと入るし、締め切りの過ぎた原稿に追われているし、トホホです。
がんばります。
ありがとうございます。