2025年4月6日日曜日

宮川禎一先生による講演会
















昨日は幕末史、特に坂本龍馬研究の第一人者、3月31日で京都国立博物館を退官されたばかりの宮川禎一先生にお出ましいただき、京都佛立ミュージアム「真説・坂本龍馬展」の特別講演会を開催しました。


たくさんの事前予約をいただき、幕末史や龍馬、海援隊に造詣の深い方々が参加くださいました。


先生の講演のテーマは「日本近代国家の形成一坂本龍馬の新国家構想一」でした。邪推や類推、予断や先入観が歴史研究の道を誤らせる。真実に迫るには専門性はもちろんですが、敬意と謙虚さが欠かせません。素晴らしいご講演でした。


ここから先は、読まない方は読まないで良いのですが、少しだけ資料を載せさせてください。今回、京都佛立ミュージアムでは坂本龍馬が暗殺される5日前に自ら書いた手紙の真筆を展示しています。いわゆる「新国家」書簡。150年間、未発見だったものです。


これに先立って坂本龍馬の「越行の記」と呼ばれる出張報告書も発見されていました。暗殺される10日前の手紙です。この2つ「越行の記」と「新国家」書簡の書体や筆跡は極めて類似しており、「龍馬のものではない」としたら2つともそうなってしまいます。


実は毎年龍馬の手紙なるものはたくさん発見されていて、そのほとんどが偽物なのです。ですから、研究者によっては意見が分かれ、実際に手紙を見てもいないのに偽物だとかなんだとか言う人がいます。愚かなことなのです。


そうした研究の先頭に立ってきたのが宮川先生で、ご苦労も多かったと思います。今回の講演は本当に記念すべきものでした。


龍馬の「越行の記」の現代語訳は下記の通りです。暗殺の10日前、慶応3年11月5日、後藤象二郎に対する出張報告書です。


現代語訳

「十月二十八日福井に到着しました。奏者役(取り次ぎ役)の伴圭三郎が来たので(後藤から)預かった書簡(八月二十五日付松平春嶽宛て山内容堂書簡)を渡しました。直柔(私)の役名を問うので、海援隊惣官と答えました。

その日の夜、大目付村田巳三郎が来て、用向きを問うので、近頃の時勢などを申し上げその上で越前藩(春嶽侯)のご意見を伺い、およそ明白な国論を海外までも聞かせなければならないと考えていることを伝えました。さて、この度こそ私たちも御国論を伺うことを心から願っています。村巳(村田)が言うには、老主人(春嶽)の出京は来月(十一月)二日に決まったが、多忙なのでお目にかかれませんでした。しかし、前条お尋ねのこと(国論を伺いたい旨)は、拙者(村田)より申し上げます。そうなれば、老主人出京後、かれこれ手順もあるでしょうが、将軍家が政権をお返ししたとなれば、将軍の職も共にお返ししなければ、とてもご反省していると申しても天下の人心の折り合いが付きません、と福井藩では考えています、云々。翌二十九日奏者役伴圭三郎が来て、返書を受け取りました。


三十日朝、三岡八郎及び松平源太郎が来ました。但し、三八(三岡)に面会したい事は昨夕村巳に頼み置いたことです。三八は先年、罰を受けて幽閉されており、他国人に面会は堅く止められていたので、藩の政府の議論により、藩主側の中老が差し添えられました。それゆえに、三八が来た時、松平源を見て、「私は悪党ゆえ君側より番人が参りました」と言えば松平源も共に笑っていました。それより近頃の京都情勢を前後残らず談論し、話し尽くしました。

深くお考えください。三八が言うには、将軍家が真に反省すれば、どうして早く形を以て天下に示さないのだろうか。近年来幕府は失策ばかりで、その上言葉で言うだけでは、天下の人が皆信じないだろう云々。(行動で示せということ) これより国で用いる金銭の事を論じました。かつて春嶽侯が総裁職(政事総裁職=文久三年=一八六三年)だった時、三八自ら幕府勘定局の帳面を調べたところ、幕府の金の内情は、ただ銀座局ばかり(本来、金座・銅座・銭座などがあるが機能していないという意味か)で、気の毒がっていました。お聞き置きください。総じて金銀物産等の事を論ずるには、この三八を置いて他に人はいません。


十一月五日京都に帰り福岡参政(福岡孝弟)に春嶽侯の御返書を渡しました。

大よそ右のようなことです。謹言

直柔

後藤先生


近日、中根雪江(越前藩重臣)は、春嶽侯のお供。村田巳三郎は越前に残る。他の家老はかなりの者が京都へ出るとのことです。

再拝再拝」


後に由利公正が龍馬が越前に来たときのことを書き残しています。坂本龍馬と三岡八郎はどんなことを話し合ったのか、その内容は下記のとおりです。


「坂本君履歴編纂時、岡内君ヲモテ予龍馬君ト會スルノ実ラ記サル。然ルニ当時ノ書類先年罹災ノ時総テ烏有ニ属ス。故ニ其記臆ノ概略ヲ記シテ事実ノ一班ヲ表ス。公正」


この後は現代語にします。


「私は言いました。金・穀・兵力というものは即ち天下を支配するための財力・物資・軍事力そのものです。これらは集められたり散らばったりする性質を持つので、あれこれと頼りにすべきものではありません。  

 今や天皇がおられます。だからこそ天皇が天下に命じ、乱れた世の中を正し、秩序ある治め方を計らい、暴力に代えて仁(人に対する思いやりや優しさ)をもって治めるべきです。信義(誠実さと正義)は天下へ明確に示されなければなりません。

 天皇位は天下における至宝であり、信義こそが皇国の精神です。精神が明確で至宝を保持し、天下の財をもって国民を思いやるならば、金・穀・兵の多寡を気に病む必要はありません。たとえ天下に多くの問題があったとしても、国民を安心させることが第一です。国民を安心させるためには国の財政を適切に整えることが要となります。われわれの国はまだ財政のあり方が十分に整っておらず、今こそ革命の勢いを利用して流通の道を開き、開国の機を捉えて国を豊かにすれば、それはすなわち王政復古の実現となるのです。

 かつて私は金札を発行して当時の天下の財政需要を補おうと試みたことがあります。彼は大いに賛同し、あなたに任すと言い、その詳細や手段、応用の実情に至るまで漏れなく議論し、辰の時(午前7時〜9時)から子の時(午後11時から午前1時)にかけて続き退出しました。翌日、十一月三日に、あの方は京都へ帰られました。」


そして、京都に戻った龍馬は危ない橋を渡り続けます。幕府の最重要人物、将軍 慶喜の右腕である永井玄蕃と面会を重ねる。これは武力討伐を望む薩摩や長州からすれば裏切り行為に見えなくもありません。そして、松平春嶽公の最側近である中根雪江とも面談を重ねていたのです。「新国家」書簡は中根雪江宛です。


中根雪江の「丁卯日記」の慶応3年11月15日には下記の記述があります。龍馬が暗殺された当日です。


現代語訳:

「坂本龍馬も(こちらへ)参りましたが、これまでの嫌疑もあり夜中に出かけてくるとのことで、実は昨夜も参りました。後藤象二郎よりさらに一層高大な人物に見受けられます。その説も興味深く、彼の言うところはまったくもっともなことでしたが、私は『まだ時期が来ていない』と申し聞かせました。すると彼(龍馬)は、『それは薩摩と土佐に任せておけば、必ず実現できる』と言いました。

しかし兵力によって成し遂げれば朝廷に対して申し訳が立たなくなる。それゆえ私は『時機が至っていない』と述べました。龍馬は、『決して兵力に頼らずとも実現できる道理がある』と言うので、それならば何とかなるだろう、と私は言い置いた、という話です。

(私見としては、龍馬の秘策、持論というのは、将軍や関白に関することだったのではないかと密かに思っております)」


最後に書き添えた私見が極めて重要です。翌日、龍馬の暗殺を知った中根は次のように日記を書きました。


「昨夜坂本龍馬、刀殺され候よし、

相手はおそらく新選組中ならんとの事のよし。」


この「新国家」書簡の封書には「龍馬の暗殺に関することだから誰にも見せないように」と言う注意書きが書いてありました。この注意書きがあったからこそ150年間隠されていたのです。


歴史的な展示会、講演会となり、本当にありがたく思います。


ありがとうございます。

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桜、ありがとう🙏

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