2008年7月2日水曜日

本心を取り戻す (妙深寺報 巻頭言)

 「本心と申すは法華経を信ずる心なり」と、お祖師さまは御妙判をお残しくださっている。
 一般的に「本心」とは「本音」と混同され、普段は口に出せない、内側に秘めた思い、という意味で使われている。
 しかし、仏教では、個人個人の思いや好き嫌いを表す言葉でなく、普遍的な真実に最も近い心を指すのだと説かれている。宇宙と心は実は一体不二であるから、「本心」こそ最も自然な状態で、尊い真理に近い心であるはずだ、と。
 世間では「自分に正直でいたい」「自分に素直でいたい」等ということを言うが、未熟で、欲の深いまま「自分」に「正直」「素直」でいられたら大変なことになる。
「俺はアイツが嫌いだから刺した。自分の気持ちに素直になったよ」
「あの人にイヤなことを言われた。俺もイヤだから、もう行かない。自分の気持ちに素直に生きる」
 そんなことを言い出して実際の行動に移していたら、人間関係も社会もうまくいくはずがない。
 仏教では、感情で生きることの危険性を教えている。なぜなら、私たちの「感情」は、最も三毒の影響を受けてしまうからだ。三毒という貪欲(貪り)、瞋恚(怒り)、愚癡(無知)が終始感情を毒して、人生の浮沈を決定してしまう。
 愛すること、喜ぶこと、哀しみ、憂いなど、私たちの感情は人生を豊かにする意味でも欠かせない。しかし、一方でその感情が、怒り、憎しみ、妬みという強烈な苦悩ももたらす。三毒の影響を受ければ、一層コントロールは効かなくなり、暴走をはじめてしまう。
 昨今、世を騒がしている事件の本質は、人々が本心を失っていることに起因しているに違いない。秋葉原の無差別殺傷事件、大阪駅では女通り魔事件、土浦で起きた無差別殺傷事件も記憶に新しい。 ハンマーで四才の孫を撲殺する祖父もいる。老若男女を問わずに襲っている狂気の連鎖の本質とは何なのか。
 発展を続ける科学文明社会は、人の生活を豊かに、便利に変えた。不十分で腐敗を問い糾されているとはいえ、社会保障制度もある。パソコンに携帯電話。人間の生活も劇的に変わった。
 ほんの十五年前まで携帯電話を高校生が持ち歩く世の中など想像もつかなかった。ポケベルですら画期的だった。特殊なお金持ちが持つお弁当箱のような高価なもの、それが携帯電話だったが、今では小学生で持っている子すらいる。
 1983年、任天堂からファミコンが発売された。ゲームボーイやパソコンも家庭の中に浸透して、大人から子どもまで生活や遊びは一変したといっても過言ではない。教育史の中でも重要視されているほどの出来事と刻まれている。
 技術革新が問題ではなく、人間の心の成長にとって、携帯電話やパソコン、ゲームが演じた役割を見つめ直すことが必要だ。新しい技術やツールによって、人間同士のコミュニケーションは増えた。しかし、その機会が広くなることによって浅くなり、簡単になったことで弱くなったことも否めない。
 掲示板への書き込みやメール等、自分の思いを気軽に表現し、話し相手を探せる社会。孤独を埋めるためのコミュニケーション手段や機会が増え、それが簡単になればなるほど、現実社会とのギャップで受ける苦しみが増大するのではないかと心配になる。
 近年の技術の進歩で、便利さは増した。しかし、現実社会は一層複雑になり、生きる難しさは増す一方ではないか。2000年以降、グローバリズムが世界を席巻して、安定した就職先を見つけることも困難な現実。「勝ち組」「負け組」と焦燥感を募らせる社会。それは、ゲームやパソコンの世界とは全く異なる世界で、圧倒的な「現実」が彼らを困惑、苦悩させるはずだ。
 戦争シュミレーションゲームが発展したロールプレイングゲーム。対戦型の格闘ゲームなど、どれも魅力的で大いに楽しめる。しかし、没頭し過ぎれば人格に影響が出る。
 「脳内汚染」の著者で精神科医の岡田氏によると、「保護者を対象にした調査では、ゲームを長時間やっている子供は、あまりしない子供に比べて『イライラしやすく、カッとなると暴言や暴力になってしまう』、『あまり自己反省をしない』と答えた人が3~5倍に上っている」等と述べている。過激なゲームを続けることにより「後悔しない脳」になる可能性があるという。
 ゲームを楽しむこと自体が悪いのではない。それが「心」「精神」「脳」に与える影響が懸念されているのである。
 対戦相手の顔も見えない二次元の世界に没頭している青年たちを見ていると、今後彼らが現実社会、本当の世界とのギャップをどうやって埋めていけるか、埋めることができるか、かわいそうになる。 彼らは、テレビゲームやコンピューターの画面では味わったこともない屈辱感、無力感、術の無さ、挫折を味わうことになるだろう。また、味わわなければ人間として成長は出来ない。それは、きっと普通以上に苦しく辛いに違いない。
 ゲームならリセットもできる。イライラしたら画面を消せばいい。「一時停止」で、ごはんでも食べ、気分を変えて再スタートもできる。
 しかし、現実社会は甘くない。帰りたくても帰れない。言いたくても言えない。簡単にリセットはできない。気分転換も再スタートも容易ではない。 頭でっかちで、内向的で、現実と虚構の間が乖離して育ってきた多くの青年たちがいる。バランスを失った彼らがどこに向かうのか、上手にサポートする以外にない。
 子どもだけに許された特権が、自分の感情に素直でいることだ。子供たちは無邪気に「好き」「嫌い」「欲しい」「いらない」と言う。それを同じように大人がしていたら 不自然で、社会が成り立たない。 御仏から見れば、あらゆる人が子どもに見える。本心を失って、ダダをこねている子どもに見える。勝手なことを言い、親を困らせる。
 だから、本心を取り戻すのだ、と諭される。人間としての本心は「法華経を信ずる心」。迷っているのは、「本心」の上に積もった部分、被さってしまったアクセサリー、付属品、オプションが本体よりも前に出てしまっているからなのだ。
 社会がどんなに悪くなっても、希望とは世界の状態ではなく心の状態。人間にとって「信じる心」こそ希望であり、人類にとっては仏教こそが希望。老若男女一同で信心をせよ、本心を取り戻せ。

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