令和七年二月十五日 門祖会 第一座
御教歌「つとむれば罪障滅し つゝしめば 身をおこすべき利益蒙る」
開化要談(五)・扇全十三巻一三八頁
ありがとうございます。
今年最初の春の御会式、門祖会にお参詣、ご奉公いただき、ありがとうございます。
令和七年も二月中旬となりました。
ものすごい勢いで世の中が変わっています。とんでもない、圧倒的なスピードです。
こんな時代だからこそ、絶対に変わらないものを大切にしなければ自分を失います。
仏教は、きっと世界で初めて「情報リテラシー」を説いた宗教です。
「情報リテラシー」とは、情報を収集したり、理解し、活用する能力のことです。
毎日毎日、私たちは情報の洪水の中で溺れそうになりながら生きています。正しいニュースもあれば、完全に間違ったもの、デマ、罠、詐欺、いっぱいあります。
仏さまは「狂った象を恐れるよりも、間違った情報を恐れなさい」と言われました。
間違った情報は人生を台無しにする。人生を台無しにするということは、大切な時間を奪うということです。遠回りをさせる。無駄な生き方をさせる。愚かな道を選ばせる。
人間は、間違った情報によって、狂ってしまうんです。
自分のことも、家族のことも、子どもたちのことも、今こそ、昔から絶対に変わらない、み仏の教え、御題目のご信心で守らなければなりません。
つくづく、そう感じています。
とんでもない時代に突入しました。
AIであっても、悪い情報を入れれば暴走します。国と国、民族と民族が争う時代。
きっと、それぞれがAIに悪い情報を入れて、戦わせることになるでしょう。
アメリカのAIと中国のAI、「情報戦争」に「リテラシー」はあるでしょうか?
AIを狂わせることは簡単です。間違った情報をインプットすればいい。
人間と同じです。
そうなった時代の恐ろしさは計り知れません。もう、終わりだと思います。
彼らは疲れません。AIを狂わせないための「教え」も仏教の中にあるはずです。
とにかく、今こそ、仏教の時代です。正しい教えを説かなければなりません。守らなければなりません。実践しなければなりません。
人間らしさの詰まった、究極の人間学です。
ただ一つの命、たった一度の人生を、幸せに生きるための教えです。
迷うことなく、罪障を消滅して、功徳を積み重ねて、生きる道を示してくださいます。
今生人界、この教え、このお寺、この御題目にお出値いできたことに感謝して、信行、ご奉公に気張らせていただきましょう。
では、本日の御教歌を拝見いたします。
御教歌に。
「つとむれば罪障滅しつゝしめば 身をおこすべき利益蒙る」
佛立開導日扇聖人、お示しの御教歌でございます。
「つとめる」、命を価値を知り、自分の使命や目標を明確にして、努力を惜しまない。
「つつしむ」、自分の愚かさを知り、慈悲の心を失わず、周囲と調和して生きる。
この二つを念頭に生きてゆけば必ず充実した人生になる。ゴールにたどり着ける。
佛立教講の人生の指針、「つとめ」「つつしむ」大事をお示しの御教歌。
御教歌再拝。「つとむれば罪障滅しつゝしめば 身をおこすべき利益蒙る」
なぜ、ここにいるのか。
なぜ、こうなのか。
なぜ、こんなことが起こるのか。
なぜ、この人と出会ったのか。
なぜ、この人と別れるのか。
なぜ、なぜ、なぜ。
答えは、どこにあるでしょうか。
すべてに理由があります。
すべて、突然、降って湧いた出来事ではないということです。
これは、楽しい話ではありません。
とても、受け入れ難い、冗談じゃないという人もいるでしょう。
何も悪いことはしていない、どうしてこんな目に遭わなければならないんだ。
そう言いたくなることも事実です。
赤ちゃんの病気や、あまりにも不幸な環境に生まれた子どもたちを見てみれば、それが「本人のせい」ということは、「仏教とはなんて冷たいんだ」と言いたくなります。
しかし、一人ひとり、果てしもない過去から、現在に至るまで、持って生まれた果報、謗法や罪障、ポジティブなカルマ、ネガティブなカルマ、様々なものを背負い、過去からの延長線上に立って、ここにいます。
とにかく、何もないところから、真っ白なところから、ゼロから、パッと生まれてきて、何もないところに消えていく存在ではないということです。
これは、絶対の真実、絶対の条件、絶対のことです。
お金持ちの人もいるでしょう。健康な人もいるでしょう。恵まれた人もいるでしょう。
貧しい人もいるでしょう。病気を持って生まれてきた、あるいは病気になってしまった人もいるでしょう。
人生の初めの頃は良かったけど、後半はどうしようもなくなってしまった。あるいは、最初はどうしようもなかったけど、徐々に良くなった、という人もいる。
本人の努力もあるし、周りの協力もある。本人の怠慢もあるし、本人の悪い面もある。周りの邪魔もある。
なぜか、恵まれている人もいる。なぜか、幸せに、穏やかに、生きている人もいる。
逆に、恐ろしい事件に巻き込まれて、恐ろしい目に遭わされて、トラウマを抱えてる、苦しんでいる、生きにくさを抱えている、つらく、悲しい日々を過ごしている人もいる。
人生です。人生の浮き沈み、アップダウン。いい人生、悪い人生。一人ひとり違う。
でも、ただ一つの命、たった一度の人生。
これだけは間違いありません。
仏教は、運命論ではありません。これだけは覚えておいてください。運命論ではない。
それぞれに、持って生まれた運命がある。はい、確かにそうです。
しかし、それは変えられないものか。いや、変えられる。そのために、ここにいます。
人生は、障害物競走、あるいはペナルティを課されたままスタートする人もいるし、シード権を持ってスタートしている人もいる。
でも、もうそれぞれにスタートしてしまっているのが「人生」なんです。
悔やんでも、うらやんでも、意味がありません。
好きとか嫌いとか、そういうことではなく、人生は挑戦であり、練習期間です。
だとしたら、逃げずに、あきらめずに、くさらずに、驕らずに、前を向いて、障害物を乗り越えて、飛び越えて、歩んでゆく、走ってゆくしかない。
そのために、南無妙法蓮華経の御題目があります。
そのために、お寺があります。
そのために、仏教があります。
持って生まれた謗法、罪障を消滅して、功徳を積んで人生の意味を最大化しましょう。
「つとむれば罪障滅しつゝしめば 身をおこすべき利益蒙る」
仏教は運命論ではありません。本当に、このことは忘れないでください。
偉大な仏教学者、インド哲学者の中村元先生は、
「仏教の思想は時間論と言ってもいい。それは『今を生きる』ということだ」
と話されていたそうです。どういう意味か分かりますでしょうか?
仏教は時間論。時間は別世界に、別個に存在しているわけではありません。
過去も現在も未来も一体で、現在の理解と解決こそが仏教の説く核心なのです。
お祖師さま、日蓮聖人の有名なお言葉があります。結論です。
「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ、
未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ。」
「過去の原因を知ろうと思うなら現在の結果を見なさい。
未来の結果を知りたいと思うなら現在の原因を見なさい」
現在を見れば過去が分かる、現在を見れば未来も分かる。むちゃくちゃシンプルです。
仏教は「だから今なのだ」と言います。叫びます。徹底的な「現在主義」なのです。
「現実主義」「リアリズム」ではない。「プレゼンティズム」という言葉も少し違う。
言うなれば「ナウ・アンド・ヒアイズム」「今」「ここ」主義、「現在主義」です。
今が不幸であれ、今が幸せであれ、永遠にその状態が続くことはない。
今しかないです。今があれば何でもできる。
過去に囚われた「現在」から抜け出してください。
未来を夢見て不安にならなくていい。今しかないのだから。永遠に「今」なんです。
これが「因果の道理」の正体です。
絶対に忘れてほしくない教えがあります。
それは「過去の事実は変えられないけど、意味は変えられる」ということです。
これが仏教です。これがご信心です。南無妙法蓮華経です。
「過去の事実は変えられないけど、意味は変えられる」
だから「今」なんです。
ここから、やるぞ、ここから、生きるぞ、生きれるぞ、ということです。
旧約聖書の「ヨブ記」、あまりご存知ないと思いますが、本当に西洋の人、ユダヤ教もキリスト教も、イスラム教を信じている人たちも、不幸だと思います。
ヨブは神を信じる敬虔な人物です。
しかし、天上界で神と悪魔、サタンが話し合う。
神は「ヨブの信仰心は本物だ」と絶賛しますが、悪魔は「いやいや、もしヨブに苦難を与えればその信仰は崩れるでしょう」と言う。神は「いや、そんなことはない」と言う。
そして、なんの罪もないヨブを題材に、恐ろしい試練が始まります。
まず、家畜が略奪され、羊や羊飼いが天からの火によって焼かれてしまいます。でも、ヨブはこの試練に耐えて神への信仰を捨てません。神は喜び、悪魔は悔しがります。
そして、次。子どもたちが集まっている祝いの会の最中、建物が崩壊してみんな死んでしまいます。これほどの不幸はありません。それでも神への信仰を捨てない。
悪魔は怒ります。自分が恐るべき病気にかかればさすがのヨブでも神を疑うに違いないと言って、身体中に激しい痛みをともなう皮膚病を与える。
それこそ、人生に降りかかる、さまざまな不幸、アクシデントも、トラブルも、怪我も、病気も、全部、神と悪魔の相談で起こってる。それでも信心を捨ててはダメだ、という。
「神は死んだ」とニーチェが言いたくなるのも分かります。
だって、これでは神を殺さなければ自由になれません。
仏教から見れば、これは宇宙の真理ではない。そんな運命、運命というか、神と悪魔が決める幸せや不幸は、真実ではありません。
「過去の事実は変えられないけど、意味は変えられる」
だから「今」。そのための、南無妙法蓮華経。そのための、ご信心。
一週間前はスリランカで御会式でした。大白蓮寺、本堂いっぱい、入りきれません。
スリランカの大白蓮寺に「アチンタ」という青年がいます。
優秀なカメラマンで、前回の八月は同じくカメラマンでご奉公しているディヌーシャ君のお友だちとして、ボランティアで撮影をしてくれていました。
あくまでもボランティア。彼は上座部も信じていなかったし、宗教とか信仰とか興味がないと言っていたからです。
しかし、実は、彼の心には深い傷がありました。彼には結婚の日取りまで決まっていたフィアンセがいました。その彼女がどうしても必要ということで六百万スリランカルピーを貸しました。叔父さんから借りたそうです。
しかし、その後、彼女は消えてしまった。消息不明。音信不通。アチンタ君の心は深く傷つきました。もう誰も信じられない。どうしようもない。
去年の八月、僕はアチンタ君に
「ご信心をさせていただかなければ罪障消滅は出来ないよ」
と言ったそうです。全然記憶がない。しかし、その言葉は彼の心に響いたと言います。
彼は良潤師に自分の胸の内を相談しました。
良潤師は、
「入信するかしないか決める前に、まずはお寺にお参りしてみたらどうですか?そして、自分でとにかく御題目を唱えてみてください。きっと、あなたには心のトリートメントが大切です。南無妙法蓮華経の御題目を唱えれば心のトリートメントが出来るのです。」
「心のトリートメント」、初めて聞きました。罪障消滅のことです。
そして、彼は朝参詣をスタートしました。毎日毎日、お寺にお参りしました。
すると、次々ととんでもないことが起こる。
今まで来なかった仕事の依頼が次々と入るようになる。除夜法要にお参りした時には、帰ってみたらずっと待ち望んでいたスタジオが空いて突然入れることになる。
ロータスカフェのご奉公をしていたら、そのご奉公中に取り扱っている商品のモバイルバッテリーの三百個の注文が入る。これらはあり得ないことで、本人がビックリしてる。
今回僕がいた時の出来事で、あまりにも不思議で、この売上の二割を御有志させてください、と申し出ていました。
そして、彼はメンバーになりました。
彼は良潤師に言ったそうです。
「こうして仕事で次々と不思議な御利益をいただきましたが、一番の現証の御利益は自分の心が変わったということなのです。私は自分の人生に起こる全ての出来事の受け止め方が変わったのです。これが一番の御利益です。」
過去は変えられない。でも、過去の意味は変えられる。
過去の意味を変えて、より良い今を生きられていますか?ということです。
それが出来るのがご信心です。
今回のスリランカで僕はアチンタのことを「アチンタ御導師」と呼んでいました。
一番のお手本だからです。歓喜踊躍、初随喜、感激、感謝。
つとめ、つつしむ、そのご信心。
ただ「これは初回限定御利益なので気をつけなさい」とも伝えました(笑)。
みんな、最初は、言われた通りにすれば、劇的な現証の御利益をいただきます。
しかし、またそこから、試される期間が始まるのです。
「罪障消滅トライアル期間」「定業能転チャレンジ期間」です。
今度は簡単にクリアできません。
なかなか御利益も現れない。謗法や罪障と向き合う期間です。
クリアする条件は「古法華にならないこと」です。
まさに「つとむれば罪障滅しつゝしめば 身をおこすべき利益蒙る」です。
お祖師さま、日蓮聖人の御妙判に。
「悦ばしからん時も今生の悦びは夢の中の夢、霊山浄土の悦びこそ実の悦びなれと思食合せて、又南無妙法蓮華経と唱へ、退転なく修行して、最後臨終の時を待て御覧ぜよ。」
松野殿御返事・昭和定本一二七三
「深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし。何様にしてか磨くべき。只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり。」一生成佛鈔・昭定四四
どうか、とんでもない時代だからこそ、心だけは健康に、病まずに、迷わずに、ご信心をしっかりと強くして、乗り越えましょう、幸せになりましょう。
過去の事実は変えられないけれど、意味は変えられる。未来は変わるのです。
「つとめる」、命を価値を知り、自分の使命や目標を明確にして、努力を惜しまない。
「つつしむ」、自分の愚かさを知り、慈悲の心を失わず、周囲と調和して生きる。
つとめ、つつしみ、素直に、正直に、ご信心に励み、みんなで幸せのゴールへとたどり着くことが大事大切とお教えいただく御教歌でございます。
故に御教歌に「つとむれば罪障滅しつゝしめば 身をおこすべき利益蒙る」