2008年5月29日木曜日

5月の月末

 月末が近づいている。ということは、月始総講の準備ご奉公があり、寺報や役中テキストの原稿があるということで、少々集中する必要がある。
 明日は、佛立第八世講有 日歓上人の祥月ご命日の法要と会議があり、明後日は青少年の一座の実行委員会がある。それぞれにとても大切なご奉公だから、それまで御法門の作成や寺報の原稿などは終わらせておかなければならないなぁ。
 今夜も19時から局長室会。集中して、頑張らないと。ありがたい。

2008年5月28日水曜日

立正安国論 上奏750年

 夏を思わせるような穏やかな日。

 ニュースでは連日恐ろしい事件ばかりが報道されてる。あるいは、四川大地震の被害状況や救援活動、ミャンマーのサイクロンの被災者と救援活動について報じられている。すぐにでも飛んでいきたいところだが、いまは義援金をお願いするほか術がない。本来、救援にかけつける術を持っていなければならないし、持つべきだと思うのだが。

 ブラジルの御導師が「日本は怖いですね」と言っていた。「なんで?」と問い返す。ブラジルは非常に犯罪の多い、連日殺人事件や強盗が起きているのに。「いや、ブラジルの犯罪には理由があります。金が欲しい、女を取られた、復讐してやるとか、日本は理由がないのに人を殺すんですよね?人を殺したいから殺す、誰でもよかったって言って駅のプラットフォームから人を突き飛ばして殺すんでしょ。本当に怖いですよ」と。そうだ、そういう見方があるのか。

 日本は、これほど豊かで、犯罪も少ないと自負していたのだが、犯罪大国だと思っていたブラジルの方にこのように思われているのか。確かに、ここに何度も書いたように、大地震の横死者に匹敵するほどの方々が自ら命を絶っている日本。昨日、やはり昨年も自殺者は3万人を超していたと発表があったばかりだ。大地震もなく、テロも戦争もないのに、これほどの自殺者を擁する日本。しかも、四川大地震の救援にかけつける人々、そこで救い、救われしている報道の陰で、陰湿な殺人事件、それも一昔前なら世紀の猟奇的殺人事件とされても不思議ではないような凶悪な殺人事件が立て続けに起こっている。これをどのように考えたらいいのか。

 心の鬼に呑み込まれている人が余りにも多い。お祖師さまが、今の世をご覧になれば、あまりの状態に再び立正安国論を上奏されるに違いない。

 「旅客来りて嘆いて曰く、近年より近日に至るまで、天変地夭、飢饉疫癘遍く天下に満ち広く地上に迸り、牛馬巷に斃れ骸骨路に充てり。死を招くの輩既に大半に超え、悲まざるの族敢て一人も無し。然る間或は利剣即是の文を専らにして西土教主の名を唱へ、或は衆病悉除の願を恃みて東方如来之経を誦し、或は病即消滅不老不死の詞を仰ぎて法華真実の妙文を崇め、或は七難即滅七福即生の句を信じて百座百講の儀を調へ、有は秘密真言の教に因りて五瓶の水を灑ぎ、有は坐禅入定の儀を全うして空観の月を澄し、若くは七鬼神の号を書して千門に押し、若くは五大力の形を図して万戸に懸け、若くは天神、地祇を拝して四角、四堺の祭祀を企て、若くは万民百姓を哀みて国主、国宰の徳政を行ふ。然りと雖も唯肝胆を摧くのみにして弥飢疫に逼り、乞客目に溢れ死人眼に満てり。屍を臥して観と為し尸を並べて橋と作す。観れば夫れ二離璧を合せ五緯珠を連ぬ。三宝世に在し百王未だ窮らず、此世早く衰へ其法何ぞ廃れたるや。是何なる禍に依り、是何なる誤りに由るや。主人の曰く、独此事を愁へて胸臆に憤?す。客来りて共に嘆く、屡談話を致さん。夫れ出家して道に入る者は法に依つて佛を期する也。今神術も協はず佛威も験なし。具に当世の体を覿るに愚にして後生の疑を発す。然れば則ち円覆を仰ぎて恨を呑み、方載に俯して慮を深くす。倩微管を傾け聊か経文を披きたるに、世皆正に背き人悉く邪に帰す。故に善神国を捨てゝ去り、聖人所を辞して還らず、是を以て魔来り鬼来り、災難並び起る。言はずんばある可からず、恐れずんばある可からず。客の曰く、天下の災、国中の難余独り嘆くに非ず、衆皆悲しむ。今蘭室に入て初めて芳詞を承はる、神聖去り辞し災難並び起るとは何の経に出でたる哉、其の証拠を聞かん。」

 立正安国論の冒頭。来年は立正安国論の上奏から750年。今一度、拝読させていただかなければならない時が来ていると思う。

2008年5月23日金曜日

心の中に住む鬼

 心は海の砂のように掴みづらく、フワフワ、サラサラ、「こうしよう」と思ってもなかなかどうなるというものではない。しかし、人間として生きているのだから、このどうしようもない「心」という奴を、どうにかしたいと奮闘してしまう。
 イヤな出来事があっても、あっさりと受け流す人もいれば、そこでクヨクヨ、そこからイライラしてしまう人もある。同じ出来事でも、その人の「受け止め方」、つまり「心」の持ちよう、過ごし方で、千差万別の変化、結果が伴う。とにかく、心とか人間性とかと言うけれど、これを何とかしないと幸せに生きていくことなど出来ないとつくづく思う。
 お祖師さまは御妙判に「心の師とはなるとも心を師とせざれ」とお諭しになられている。これは諸経の中から引用されているのだが、仏教徒にとって含蓄に富む教えだ。「心」の師匠になっても、「心」を師匠にするな、と。かくも「心」を客観的に見ておられる。「自分」?「心」?と、「?」マークが続いてしまう。
 このブログで難しいことを書こうとは思わない。御題目口唱の背景には宇宙の全ての「現象」を整理・吟味・整頓したほどの哲理があり、その上で本地甚深の奥蔵は明らかにされたわけだが、その「哲理」をブログという限られた中で書くことも難しく、理解することも難しい。故に、御題目口唱という「行」を立てて、「理」を後ろに置く。
「一念三千、十界互具、開会観心をしらねば、成仏せぬといはば、愚者悪人のたすかる大法にはあらず。ただ御本尊にむかひ、無始の罪障消滅を願ひてあれば、かの御本尊のたかにてよきやうにあそばされくださるなりと信ずべし。本尊問答抄、観心本尊抄、諸御抄の御意。門祖の御指南、みなこれなり。仰いで大切に口唱すべき也」
「開会観心、広学多聞は謗法起こす基也とて御誡めあり」
 ところで、こうしていても、日々に感じるのは、人々の心を何とか御仏の教えの下に近づけさせていただかないと、大変なことになるのではないか、という危惧だ。今の社会問題のすべてを、カルト的に「正しい仏教を信じないからこうなるのじゃ~」とは叫びたくない。しかし、考えてみれば明らかだが、人間の「心」が曲がれば「行動」も曲がる。「心」を導くのは宗教の役割であり、実際には「科学」や「学問」とは違う。一人の心の乱れは、隣の人にも移るし、心の乱れは社会に伝播する、仏教的に考えれば自然界にも伝播するだろう。一人の心はミクロの宇宙法界であり、この世界・宇宙はマクロの宇宙法界で同一と言えるのだから。
 何を書いているのか分からなくなってきたが、勿体ないので載せてしまおう。書きたいことは山のようにあるのだが、つまり、どうか考えすぎないで御題目をお唱えしよう、お唱えしなければならない、ということ。複雑怪奇な「心」に翻弄されず、「信」を根っこにして生きてゆければ、これほど幸せなことはないのだから。「信」がなくなった状態こそ恐ろしい。
「心の鬼が地獄へ連れ行き、心の菩薩が寂光へ導くと云う事、此の一句を口癖のように云いなれて、よくよく味わい、御法門聴聞に行く道々にも、心にたくわえ、お看経の時にも、心に忘れず、朝起きても、一番に思い出し、一日暮れて、夜臥す折にも、心の鬼が地獄につれ行き、心の菩薩が寂光へ導くと、一日、二日、三日、乃至、一年、十年、一生の間、忘れざれば、臨終の時には、心の菩薩が寂光へ導かせたまふものなり。御臨終の夕べには、日蓮必ず御迎えにらむかうべしとは是なり」
「家の出入り、常の時も、御本尊を生身の尊体也と、忘るる間なく仕へ思ひ奉りある人なれば、万事物事に恐るる事なし。舟に乗る時も、夜行く時も、夜臥してある其の間も、御守りを、慥に喜びある故に、されば生死に恐れ無き御題目の信者にてあるなり。忘れ、怠る間ある人を、持ち奉る人とは申しがたし」
「吾祖曰、心は如何様に起こらうとも口に南無妙法蓮華経と唱ふればと云々。されが起こる心は私にあり、此の私頼むに足らず、我が口唱の声を頼りにして心を声ばかりにせよ。其の時五字と信心と和合して行者の一心ご本尊と顕るものなり。唯、我と云うもの、私と云うもの消えはてて御題目ばかりになること肝要なり」

2008年5月22日木曜日

菩薩の心

 随分と長い間更新できずにいた。このまま止まってしまうなんて勿体ない。
 日々のご奉公に追われ、やはりブラジル以来の疲れも出ていて、しっかりご奉公をさせていただくことと、体調を整えることで精一杯だったように思う。5月の教区御講も、明日臨海教区の教区御講があり、明後日は長野のご奉公があり、日曜日は京都にて宥清寺700周年のご奉公があり、息つく暇はない。堤婆達多品「情に妙法を存ぜるが故に 身心懈倦なかりき」の金言(御仏のお言葉)を拝見すれば、「疲れた」などと言っている場合ではないか(汗)。
 それにしても、すでに今日の夕方、寺報に掲載する内容を整理して担当の御講師方にメールした。寺報で連載している「菩薩の声」というシリーズでは、主に教区御講でお参詣者からお聞きするお話。教区御講13席~14席の全てを知っているのは私しかいないから、この情報を編集してくれる方々に送らないと寺報が出来ない。今月の御講席でも素晴らしいお話を次々に聴かせていただいて、本当にありがたかった。
 特に、お教化のお話が続き、各教区で御法さまに吸い寄せられるようにしてご信心をされるようになった方々、そうして御縁をいただいた方々のお教化のお話を聴かせていただいた。それが一つの教区だけではないから、お寺全体に得も言われぬ「雰囲気」が満ちているのかも知れない。こちらからお教化させていただいているというよりも、先方からお寺を訪ねてきたり、ご信者さんにお願いをされたりしてお教化になるケースが多いのだから驚いてしまう。
「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅し 無量の菩薩をして 畢竟して一乗に住せしめん」
 御法さまの「光」をそのままお伝えできれば、心に闇を抱えている方々は御法さまの光に吸い寄せられるようにお寺に近づいてこられるだろう。また、そこでご信心する人の心が、温かい慈悲の心で満ちていれば、妙不可思議な縁が働いて、お教化のご奉公をさせていただけるのだと思える。妙深寺では、いま誰もが率先してお助行に励み、誰かのためのご奉公をしてくださっている。だから、こうしたお話がたくさん聞けるのだろうか。すべて、お助行の功徳、御題目口唱の功徳。芽衣ちゃんが教え、導いてくれているとも言える。「衆生病む故に菩薩また病む」「菩薩の病は大悲より起る」であろうか。子どもたちが、菩薩の心を教え、育ててくれている。涙が出る。
 何でもいいから、更新しないといけない。もっともっと元気を奮い起こさないと、たくさんの方を励ますことも出来ないから。
 あっという間に新緑の季節から初夏。

2008年5月12日月曜日

お助行、ありがとうございました

 みなさま、

 有難うございます。

 柴田芽衣ちゃんのお助行、心から御礼申し上げます。

 13:40から手術室に入り、先ほど17:20前に連絡が入り、手術が終了いたしました。

 いま、ICUに入っているということで、小さな小さな心臓にメスを入れているので予断を許さない状況に変わりはありませんが、手術は無事に成功したという連絡でした。

 本当に、本当に、ありがとうございます。伏して、御礼申し上げます。

 取り急ぎ、ご報告させていただきます。

 長松清潤拝、

2008年5月11日日曜日

ご祈願をお願いしたい

 上手に文字に出来ないことが、多々続いており、なかなか書き込みが出来なかった。情けないかな、頭の一番上にあることが文字に出来ないと、その他のことは些末なことのように思えてブログも更新が出来なくなるようだ。大変に申し訳ない。

 しかし、すいません、更新させてもらわなければならない。

 明日、午後から大切な赤ちゃんの手術があります。彼女の名前は「柴田芽衣(めい)ちゃん」。生まれた時から心臓に問題があり、明日動脈管の結紮、肺動脈のバンディング手術、肺生検をするとのことです。大変にお忙しいと思いますが、会社でも学校でも、どこでも構わないので、お助行をお願いできますでしょうか。

 よろしくお願いいたします。

 ありがとうございます。

あなたのように強くなりたい

 北半球と南半球では、正反対に季節が巡っている。北半球の日本が冬なら、南半球のブラジルは夏。イタリアは冬でもスリランカには真夏の太陽が照りつける。全世界、各地には季節の違いがあり、温度差もあれば時差もある。
 しかし、この宇宙法界、地球上、北も南も、国境も人種の別もなく、真に普遍的な教えが真実の仏教。一月にスリランカ、二月イタリア、三月から四月にかけて、アメリカ、ブラジル、フランスでご奉公する機会に恵まれ、痛切に感じたのが季節や時差、言語や文化の違いを超えて、活き活きと受け継がれる真実の仏教、本門佛立宗のご信心、そこで随喜する人々の姿だった。大変な勉強となり、刺激になった。 
 特に、ブラジルでのご奉公では、現地の御導師、御講師やご信者方と一緒にご奉公させていただき、遙かブラジルで息づく佛立信心の真髄を感じて、喜びに打ち震えた。
 今や一五〇万人を越える日系人社会は、一九〇八年四月二十八日、お祖師さまの立教開宗の記念日に開始した第一回移民が原点である。その移民の創始者、水野竜氏は、東京・清雄寺所属の本門佛立宗の信徒であった。 水野氏は、過酷な新天地開拓に佛立信仰は欠かせぬと、日教上人を訪ねて教務員一名の派遣を依頼。日教上人は、暫し沈思された後、二二才の若き青年僧、茨木現樹師を選任。後のブラジル弘通初祖、権大僧正日水上人が師命を帯びてブラジルに渡ることとなった。
 かくて、第一回移民七九八名を乗せて笠戸丸は神戸港を出港した。希望に胸を膨らませていた一行を待ち受けていたのは想像を絶する過酷な環境と労働であったという。日本からの移民者たちは、永らく苦渋の生活を強いられ、その中で日水上人もまた血涙をぬぐいつつ生き抜かれ、希望を捨てなかった。
 この日水上人の壮絶な御生涯を、ブラジルのコレイア・教伯御導師が編纂し、第一級資料を駆使して「日水上人伝」として刊行された。ブラジルに仏教を伝えた日水上人の実像と偉業とが明らかになれば、本年が日系人に限った記念の年や一宗派に限られた記念の年でないことが分かるはずだ。人種の坩堝、南米・ブラジルの全国民にとって記念すべき、「仏教伝来百年」が、今年の真の意義ではないか。生涯を賭して仏教を伝えた菩薩たちの物語、この本の発刊こそが偉業だ。
 ブラジルに移民した佛立信徒が、最初に建立したリンスの大宣寺。記念すべき大法要には、日系人を中心として多様な人種の参詣者が溢れていた。これこそ日水上人をはじめ、先亡教講の血の滲むようなご弘通、菩薩行の結実である。日系人がもたらした真実の仏教は、百年を経て確実に人種の枠を超え、ブラジルに根付き、真に花開いた。
 日水上人の薫陶を受けた教講は、百年のたゆまぬ菩薩行を振り返り、それを噛み締めるようにご奉公を進めてきた。日本からブラジルに赴任し、ご奉公くださった御導師や御講師方、ブラジル本門佛立宗の功労者、世代を重ねてご信心を相続してきたご家族など、細やかに配慮して顕彰されておられた。 ブラジルの過去、現在、未来。ブラジル教区長・斉藤御導師は、「今後は、ブラジルのみならず、南米全体を視野に入れて、ご弘通ご奉公を進めてゆく所存です」とご挨拶くださった。温故知新、歴史を振り返り、未来を切り拓く。その篤い志に、つくづく感激した。
 昨年、準備ご奉公のためにブラジルを訪れた際、はじめて『日水上人の歌』を聴いた。日本の風情を感じさせるイントロ、ラテンの独特な旋律、ポルトゲスの歌詞。この歌は、まさに記念ご奉公の柱として機会ある毎に歌われていた。ブラジルに生きる佛立信徒の想いが込められ、作られた曲であった。 私は、彼らがこの曲を歌うのを何度も見ていた。何となく歌詞も覚えて、口をモゴモゴと動かしてメロディを追う。しかし、昨年はポルトガル語だったため、意味を知らずに帰国してしまった。今年、この意味を知って、涙が溢れた。
   『日水上人の歌』
  大きな夢を背負った彼は
  遙かな国よりやってきた
  強い信心と根気強さとで
  希望でしかなかったものを実現した
  森林や珈琲畑の中に於いては強風や嵐に挑んだ
  歩み行く道にも何もかも
  信じられなくなった人々を勇気づけた
  ああ、日水上人
  あなたのように強くなりたい
  法華経のみ教えを学び
  どこへ行っても信を伝えたい
  肥えた土に植えられた種が
  珍しく美しい樹になるように
  良質の土に強い根をはり
  すべて自然の力が現れる
  やさしさを表情に浮かべながら
  謙虚に信心を説き弘め
  決定して躊躇わず唱えた
  南無妙法蓮華経と
  ああ、日水上人
  あなたのように強くなりたい
  法華経のみ教えを学び
  どこへ行っても信を伝えたい

 機会を設けるので、この美しい曲を聴いていただきたいと思う。ポルトゲスだが魂に響いてくる。
 私は、この歌詞にある、「あなたのように強くなりたい」という一行に特別の感慨を抱いた。ブラジルの、特に若い御講師方を含めて、一同が日水上人の「強さ」に近づこうとしているのを感じるからだ。それは自分自身の弱さを認め、素直な謙虚さの上に立って、「あなたのように強くなりたい」と目標を立てているように思う。
 ブラジルの御講師方は約二十名。日系もいれば、ヨーロッパ系も、アフリカ系もインディオ系もいる。日本語、ポルトゲス、スペイン語、英語が飛び交う。情熱的で明るく、和気藹々の彼らが日水上人の強さを目指してご奉公しているのだ。ブラジルは世界を教化するための母胎。近い将来、彼らこそ佛立の世界弘通を担うだろうと思う。
 人間は弱い。つくづくそう思う。少しでも気を緩めれば、流されて、挫けて、倒れてしまいそうになる。その弱い私たちが、共に支え合い、励まし合い、互いに幸せになろうと歩んでいる。それがご信心だ。だからこそ、師の強さに学んで、それを目標として生きていきたいと願うのである。
 ブラジルの方々から学びたい。私も、誰も彼も、苦しみや迷いや、不安に満ちた末法に生きながら、あなたのように強くなりたい、と。

『妙深寺報』 5月号

 苦しい苦しい、5月号が出た。やはり、ブラジル等での長期海外ご奉公と、帰国直後からの御講奉修で身体に不調が出ていた。我ながら、少々弱った。でも、そろそろ回復しつつある。いや、完全復活しなければならないことが多々あるのだから、弱っている場合などではない。
 既に連日教区御講が奉修されている。先月より、一日三席の奉修となり、御講の奉修もさらに工夫を凝らせるようになっている。席主の想い、役中の配慮、お給仕、縁者の将引、そして感動ある交流。ごく当たり前にあるべき御講内での交流が溢れる。有難い。それぞれが、真剣勝負。有難いのだ。これは、奉修導師、受持教務、教区長、役中、願主、席主、信徒等々が、揃って志をもってご奉公に当たらなくては出来ない。それが出来るということが有難い。
 また、ブラジル留守中にも、さまざまなお教化があった。お教化のご奉公だけではなく、お助行のご奉公も展開されていた。私がいなくても、受持御講師、教化親、お役中やお参詣の方々が自発的にお助行の体制を組んでくださる。しかも、それが薫化会から婦人会、壮年会、松風会までにいたって、全寺院をあげた菩薩の輪になる。有難いこと極まりない。もう、いてもいなくても、ご弘通の勢いは止まらないなぁ。
 寺報は遅れた。実は、私のせいである。降りてこなかった。いろいろなご奉公が頭にあって、文章にならなかった。ただ、教務部はよくご奉公してくださった。今月も、ご弘通の糧として読む方々のご奉公の一助となると思う。有難いことだ。

班長さんへの手紙 (妙深寺役中テキスト)

 ありがとうございます。
 早いもので五月となりました。新社会人や新入生などはゴールデンウィークが過ぎると新しい仕事や生活に慣れてくると言います。しかし、新しい生活への期待や希望、やる気が、「慣れ」によって薄れてしまうと「五月病」と呼ばれるウツに似た症状に陥ることがあります。特に、五月の連休明けに多く見られることからこの名前が付いたということですが、今や長期休職の六割以上が心の病という日本社会ですから簡単に見過ごせません。
 彼らに限らず、働き盛りの中堅が心を病み、優秀な社員の休職で会社経営が成り立たなくなるというケースもあるようです。退職者の、喪失感からくる心の病も圧倒的な勢いで増え、社会全体の閉塞感を感じざるを得ません。
 信仰から遠く離れていても生活は出来ます。仕事も出来ます。信仰をしようが、しまいが、成功する人も失敗する人もいます。しかし、心の豊かさ、「生・老・病・死」の人生には、正しい信仰が欠かせないはずです。
 いま、米国の最先端の研究所で「信仰」が人間生活をどれだけ豊かにしているか、その必要性を証明する研究が始まったそうです。本当に、信仰は、人間生活に欠かせません。
 あらゆる人に、正しい信仰である佛立信心をしていただけるように、その必要性に気づいていただけるように、ご奉公させていただかなければならないと痛感します。五月病に悩む若い人にも、公私で日々に責任が増してゆく四十前後の人たちにも、これから退職後の人生を描こうとしている人たちにも、心の支え=「信仰」が必要であることに気づいていただきたい。それが今こそ求められているご奉公です。
 お助行の促進がご奉公の重点です。言上の上手い下手ではなく、思い切って、ご信心で、お助行に飛び込んでいただきたい。お助行は誰にでもできます。お助行もこちらの「信心」が大切で、「何とか御題目の御力をお借りして、このご家族に、この方に、ご信心が有難い、人生に必要だと気づいてもらいたい」という「思い」で飛び込んでいただきたい。必ず、自分にも、先方にも、「現証の御利益」が顕れます。動かなければ何も生まれません。
 古くから「助行で信心を鍛え、御講で信心を整える」と教えていただきます。この言葉、胸に刻んで、じっくり考えてみてください。
 日本も世界全体も、五月病かも知れません。発展や安定への期待や希望が薄れてしまって、不安が世界を覆っています。実際、原材料の高騰と食料の高騰から、世界各地で食糧難が発生している有様です。年頭に書いたように、本当に大変な一年間。食べ物を求めた暴動で死者まで出ており、ガソリンスタンドに並ぶのは平和な方です。中国の圧倒的な原油需要を背景にして、原油高も止まらないでしょう。
 いつ、自給率の低い日本で食糧難が起きるか分かりません。大局を見据えた真の政治家はいないようですから、本当に「立正安国」の精神に立ち返って、日本全体、世界全体に、正しい信仰を打ち立てなければ、社会の運営が成り立たなくなるのではないかと心配しています。本物の仏教、佛立信仰の必要性に、一人でも多くの人が気づけるように、ご奉公させていただかなければならないと感じます。
 人にも社会にも、ご信心は欠かせません。その喜びの輪を広げるのが「お助行」であり「御講」であると心得ましょう。一人一人がご信心を鍛えて、ご信心を整えられるように、お助行と充実した御講に注力いたしましょう。無常の世、季節の移ろう中でも、私たち佛立信者は、強く、明るく、正しく生きてゆけるように、正しいご信心の実践に気張らせていただきたいものです。ありがとうございます。

幸の湯、常さん、北九州

帰国後、成田空港から常さんの枕経へ直接向かいました。 穏やかな、安らかなお顔でした。こんなにハンサムだったかなと思いました。御題目を唱え、手を握り、ご挨拶できて、よかったです。とにかく、よかったです。 帰国して、そのまま伺うことがいいのか悩みました。海外のウイルスを万が一ご自宅へ...