御教歌
「今日よりは心をかへてつとめなん おもひたえなば かひやなからん」
「今日よりは」=「いま、この瞬間から」
「心をかへて」=「方向転換・リセット」
「つとめなん」=「努めて、実行しよう」
「おもひたえなば」=「志が途絶えれば」
「かひやなからん」=「価値は失われる」
未来でも、昨日でもない、今、今日、今日から、ということ。
その今、今日から、やり方を変える、方向を正す、再起動する。
「つとめなん」、小さくても続ける。小さくはじめてみる。それを続ける。続ける。
その決意がしぼむ、途絶えれば、甲斐が、価値が、なくなる。
結局、改良の思い、改良の誓い、その決意の継続、その行動が続いているか、どうか。
人間の心は放っておけば低い方に流れる川のように、楽な方へ滑っていきます。
実は、みんなしっかりしたいんですが、でも、ほとんどの人がズルズルと落ちていってしまう。
「あとで」「明日から」という言い訳をつぶやき、スマホの動画を見続けて、気がつけば今日も終わってしまう。そのまま頑張れない日々を重ねてしまう。
いかがでしょうか?そんな自分はいないでしょうか?
実際、怠けるのは自然現象、その方が普通、私たちはそう設計されていると言うこともできます。
私たちの脳みそは「省エネ設計」だと言います。先の見えない努力をするより、確実で、身近で、手頃な「快楽」を求める。そう「快楽」はボーズワードですが、本当の意味は真逆。でも私たちは目先の気持ちよさを選ぶ。
その反対を選んでいると逆に黄色信号、赤信号が点灯するようになってる。
脳は生存のために「少ない努力で確実な報酬」を優先するように出来ています。「即時性バイアス」、遠い利益より今の、目の前の小さな快楽、気持ちよさを選ぶように設計されてる。
さらに、負の感情の回避するために、不安や退屈、面倒なことを感じないで済む、そういう選択へ流れてゆくように決められている。こう考えると、怠けてゆく、やすきに流れてゆく理由が分かります。
だって、そう設計されているんだもん、ということですね。
スマホを見続けてしまうのも理由があります。
「低摩擦の無限ガチャ」だからだそうです。
当たり前ですがスマホは指一本で操作できる、超・低摩擦設計です。
そして、私たちの脳は、大変な作業、運動、行動よりも、超省エネを選ぶように出来てますね。
だから、指一本で開始できるスマホは大好き。しかも、次々に新しい情報、動画、投稿を見られるとなると「新奇性ドーパミン」というホルモンが出る。「新しいものを発見できた!」と脳の発見回路が点灯するんだそうです。
こうして無限スクロールに入ってゆく。指一本、超低摩擦で開始、そして「可変報酬・スロット型」という「たまに当たる」面白さがあり、繰り返していると麻薬のような常習性、抜けられない習慣になってしまうのだそうです。
これらは私たちが「怠ける」というか「頑張れない」設計や背景の一部ですが、自然に、そちらの方向に行ってしまう、ということの実例です。
だからこそ、よほどの思い、決意、誓いが必要ということです。
「今日よりは心をかへてつとめなん おもひたえなば かひやなからん」
「エントロピー増大の法則」「悲観は感情、楽観は意志」
心を、しっかり定めなければ、得られるものは少ない。甲斐のない日々、人生になります。
コンパスは誤差を引きずらないためにカシャっと振って「北」を取り戻す。
僕たちの「心のコンパス」も同じ。いったん降らないと引きずります。
「南無妙法蓮華経」「南無妙法蓮華経」と唱えるご信心、声に出す修行は心のリセット、コンパスを戻す、針を正常に戻すための営みです。
こんなに具体的で、ありがたい、実際のアクションはありません。
怠りの正体は気付けないことです。
怠っていることにすら気付けなくなったら、本当に恐ろしい。
「懈怠」とは自分だけの罪障では済まなくなります。
自分で自分を許すようになり、勘違いした自分を正当化して人にも伝わります。
御教歌「をこたりを人に見するもわろきをば かたりすゝむる よほど重罪」
「重罪」と厳しくお戒めなのは「懈怠は伝染する」からです。
頑張っている人が一人でもいると周りの人も勇気をもらい、頑張れるようになります。
逆に、怠けている人が一人いると、頑張っている人の心も萎えさせてしまいます。
「そんなに頑張らなくていい」という言葉は悪魔のささやきです。
ただ一つの命、たった一度の人生ですから、懈怠せず精進することが大切。
あえて言うなら頑張る方向を正しくしてあげることが本門佛立宗のご信心です。
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