2025年10月30日木曜日

妙深寺のなりすましアカウントにご注意ください🙏

 

またInstagramに「妙深寺」を語るなりすましアカウントが登場し、詐欺をしようとしていると思われます。


こちらでも確認をし、Instagram側にすぐに「なりすましのアカウント」として通報しております。残念ながら現在はそれ以上の対応ができないようです。


Amazonには『こころ仏る』の「転売ヤー」が一冊2930円から4230円で販売しようとしています。定価は税込み1800円です。どうか高い値段で購入などなさらないでください。


ご迷惑おかけしますが、これもたくさんの方が注目くださっているからだと思います。ただ、1人でも被害に遭ってしまったら、それも悲しいことです。


どうかご注意いただきますよう、よろしくお願いいたします。

2025年10月29日水曜日

この世界は美しく、人生は甘美だ。

 

本門佛立宗の開導日扇聖人の御教歌に次のようなものがあります。


「空は顔 月日はまなこ山は鼻 海山かけて我身也けり」(明治14年・1881)


のちに「ガイヤ仮説」など地球を「生物と環境の結合体」と見る考え方や「地球システム科学」も登場してきましたが、彼は明治14年(1881)にこれを詠みました。少なくとも指南書3ヵ所に記しています。


飛行機も宇宙写真もない時代に、「世界」=「我身」と言い切り、世界を「道具」でなく「身体」として捉える。のちに宇宙から届いた地球の写真「ブルー・マーブル」が人びとの意識を変えましたが、仏教者は内観としてこの宇宙観に達していたのです。心の内側から宇宙をひらく視座です(南無妙法蓮華経、一念三千、依正不二、一心一念遍於法界)。


地球を一つの生命体と捉え、その地球を自分そのものと感じる。とてつもないことです。人間はここまで行ける。人間の心はここまで使える。人類にはこれができるということ。


地球が一つの生命体で、その地球が自分そのものであるならば、「環境破壊」は「自己破壊」であり「自傷行為」となります。仏教徒が到達する人生観や宇宙観。客観説明(地球はこう見える)ではなく、主客未分の実感(我身即宇宙)なのです。


とはいえ、世界は我他我他しているし、生命は争いの中に置かれてる。空想の中では生きられないし、それぞれの場所で負けるわけにはいかない。


ただ、バラバラから世界を見るのではなく、一つだったところから世界を見るということ。何もないところから組み立てるのではなく、崩れたパズルのピースをあるべき場所に戻してゆく営みが仏教徒の生き様ということ。エントロピー増大の法則に、一瞬逆らって動的平衡を取るのが生命であるように。仏教は生命そのもののようだ。


ただ、さみしい。賞味期限は切れそうだし、さほど需要がないと自覚している。世界の混沌。さらにバラバラになってゆく気配。宇宙が背負う宿命、エントロピー増大の法則、さみしいものだ。


ハチドリのひとしずく。微力だが無力ではない。心を一つにして、日蓮が弟子旦那、佛立仏教徒として、生き切りたい。


「日蓮が一類は異体同心なれば、人人すくなく候へども大事を成じて、一定法華経ひろまりなんと覚へ候。悪は多けれども一善にかつ事なし。譬へば多の火あつまれども一水にはきへぬ。此一門も又かくのごとし。」異体同心事 / 日蓮聖人


「日蓮の一門が異体同心(体は違っても心を一つにすること)であれば、たとえ人数は少なくとも大事を成し遂げ、必ず法華経は広まると確信します。悪は多くても一つの善には勝てません。たとえば、多くの火が集まっても少量の水で消えるようなものです。わが一門もこれと同じなのです。」


数ではなく、志の一致が力となる。悪は多くても、真実の一善には勝てない。異体同心が大切。ここが修行、挑戦です。


ズルい人はズルいし、ズルいという自覚がないからズルいまま生きてゆけます。ズルい自分に気づいたらかわいそうなくらい、宇宙の真理は厳しい。


苦諦から始めたブッダの御法門は、「世界は美しい。人生は甘美だ。」という理想の感慨への到達で結ばれます。『大パリニッバーナ経(涅槃経)』のパーリ本や梵文(サンスクリット本)にあるブッダの言葉を手塚治虫は『ブッダ』で「アナンダよ、世界は美しい・・・」と表現しました。


世界は混沌としている、人生には苦しみがつきもの。その「苦」を明らかにすることが仏教の核ではあるけれど、その最終章に「ああ、世界は美しい。人生は甘美だ」という心境に到達する。これほど理想的な旅の終わりはありません。すごいことです。とても素敵な目標、お手本を示してくださっています。


つらいことも多いけれど、お寺がある、御法門がある、ご宝前に座れる。その有難さ。素直に、正直に、前向きに、お参りし、御法門を聴聞し、ご信心させていただきましょう。


南無妙法蓮華経

ありがとうございます。

長松清潤

世界を護る二つの明るい番人

 

園美さんの投稿で田口ランディさんを知り、エッセイを読むようになりましたが、今回の考察には深く考えさせられました。


最近、ずっと「恥」について考えてました。恥や慚愧の座標が、世の中と共に圧倒的に変化したのですが、なかなか言語化できず、ランディさんの視点は一つの窓に感じました。


仏陀は「世界を護る二つの明るい番人」は「慚(hiri)」と「愧(ottappa)」であると説きました。「hiri」は「自分の良心・自尊に照らして悪を恥じる心」、「ottappa」は「悪い行いをした結果を恐れる心」。この二つの性質が人びとの心にある限り、世界の秩序は保たれると仏陀は説いたのです。逆に、もしこの心が失われれば人間社会は獣の世界と変わらない無秩序な状態に陥る。


世界は知らず知らずのうちに変わってゆきました。そして、知らず知らず、僕たちの心も変わってしまった。もしかしたら、その正体が「恥」や「慚(hiri)」「愧(ottappa)」ではないかと思うのです。


日蓮聖人は最重要御書の一つ『開目抄』の結びで以下のように述べられました。


「愚人にほめられたるは第一のはぢ(恥)なり」 


日蓮聖人は「いいね!」の数や登録者数、再生回数ではなく、拍手の「質」が恥の座標を決める、と逆転の価値観を力強くお示しです。「法」を軸とした「いいね!」でなければ逆に「恥」となる。アルゴリズム時代に日蓮聖人の御妙判は大変鋭い処方箋だと思います。


今こそ、じっくり、世界を護る二つの明るい番人、「慚(hiri)」や「愧(ottappa)」の根っこにある「恥」について考えなくてはならないと思います。


大変な人気の政治家の方々を批判する内容ではなく、あくまで時代と人間の考察です。下記、田口ランディさんの考察の骨子をピックアップしてみました。

https://www.facebook.com/share/p/14LHkFSvUFH/?mibextid=wwXIfr


・今や「X」が特殊な場所に変貌して、「公共倫理」が逆転した。


・正しさを演じることが正しさの否定になる。


・腐臭を放つ正しさの横行。


・みんなが匿名で正義のコスプレをしてる。


・倫理が倫理を食いちぎって空洞化した「X」


・それを最大限利用する政治家の登場。


・トランプ大統領は「恥じない」ということを政治的なスキルに変換した。全く新しいネット時代の政治家。


・彼らによって「恥の感覚」は再定義された。強い正義は恥じる必要なし。恥じなければ正義!そうやって「倫理が倫理を食いちぎって空洞化」した「X」を最大限に利用している。


・トランプ大統領は「恥を失った世界」で「恥の不在」そのものを権力の源泉にしていった、めちゃくちゃ時代感覚が鋭い人。


・だから彼を批判しても通じない。恥を感じる言葉の体系の外側に出てしまい、超越している。


・インターネット上の「X」のネオ倫理観を、とうとう実社会まで拡張させてしまった。


・昔の恥は、共同体が与えてくれる座標だった。今は、その座標が消えてきてしまって、昨日恥だったことが、今日は称賛されたりする。


・「恥」がとろけちゃって、「それは倫理に反して恥ずかしい」なんて言っているうちに、後ろからボカされる……そんな時代になった。


・「私が恥ずかしいと思うことと、他者が恥ずかしいと思うことの落差はどれくらいなんだろう?」その問いかけは、すごく、すごく、すごく大事だよね。きっと。


・きっと、アメリカの人たちも国レベルで問うているんじゃないかなあ。


・どういう恥の感覚を持っている人をリーダーとして選ぶのかも問われてる。


・そういう「恥のスクラップ&ビルド」の時代なのかもしれない


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田口ランディさん、すごいです。深く、考えさせられました。


あらためて、古い仏典では「hiri(内なる慚:自らの非を恥じる)」と「ottappa(外への畏:他者や法を畏れて慎む)」を「世界を護る二つの明るい番人」(sukka lokapāla)と呼んでいます。良心としての「恥」と「畏れ」や「慎み」が健全な社会に欠かせないという設計図。


日蓮聖人は主要御書『開目抄』で次のようにお諭しです。


「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」 


そう、「恥」を知らない者は愚かだが、恥の基準は「誰に褒められているか」でなければならないと宣言されています。


鎌倉期の武家社会には厳格な「名誉」「羞恥」のコードがありました。日蓮聖人はそれを「法」に対する「慚(hiri)」と「畏(ottappa)」の座標に据え直した。共同体や他者の評価より、御法さまの前で「恥ずかしい行為」か否か、「誇り得る生き様」なのかという座標です。


シンギュラリティ (singularity) を前にして、今や人類は史上最も巨大な分岐点に立っています。


「世界を護る二つの明るい番人」、「慚(hiri)」と「畏(ottappa)」は絶滅の危機に瀕していて、すでにその定義や座標が変わっています。日蓮聖人は「世界の番人」の本質を見抜き、「御法」に照らして「褒められる」ことこそ大事で、他者や匿名の「いいね!」はむしろ「恥」ではないかという大切な座標を示しておられました。


田口ランディさんの文章から、たくさんのことを学び、考えさせていただきました。考えすぎて、エネルギーを使い果たしてしまった感じです。


どちらにしても、みなさまも本件について考えていただければ幸いです。


ありがとうございます。

https://www.facebook.com/share/p/14LHkFSvUFH/?mibextid=wwXIfr

2025年10月27日月曜日

涙のご宝前結婚式

 













これほどに泣いた結婚式はありませんでした。ご両家のご家族が中心の20人ほどの披露宴、ほぼ全員が最初のご挨拶から泣きっぱなしのご挨拶、本当に素晴らしい、最高の結婚式でした。


英史くん、沙紀ちゃん、本当に、ありがとうございました。ヒマラヤくらい、とてつもなく高い山を越え、深い谷をわたって、この日を迎えました。そう、2年前の10月、ヒマラヤを見渡すシバプリのホテルで受けた連絡、忘れられない。本当に、二人で支え合って迎えた結婚式。心から感動しました。


今月は、二組の結婚式を奉修させていただきました。森本家、神田家、本当にかけがえのない、こちらこそ学ばせていただく、素晴らしい結婚式でした。


沙紀ちゃんのご実家は北海道で農業をなさっていて、ご縁をいただくことが出来、夢が広がりました。お父さまの嗚咽しながらのご挨拶、ハラハラと涙を流しながらご挨拶くださったお母さま、同じく嗚咽しながらご挨拶してくれた弟さま、どれだけ素敵なご家族か、心から感動しました。


神田家も全員が涙を流しながらのご挨拶。淳慧師にしか出来ない司会でした。胸の内にある想いを、言葉にする機会を与えてくださいました。おばあちゃまの言葉も忘れられません。


東京で仕事を始めた英史くんが愛子さんに連れられて妙深寺にお参りするようになりました。妙深寺に所属した英史くんが沙紀ちゃんをお寺にお連れし、沙紀ちゃんも素直にお参りするようになって、いろいろな日を積み重ねて、その日を迎えました。もう、言うことないです。


ありがとうございます。おめでとうございます。


どのお寺でもそうだと思うのですが、本門佛立宗の結婚式はみんなご奉公で式を作ってくださっています。「ご奉公」ということは全て無償のボランティア。みんなが心から「二人に幸せになってほしい!」という思いだけで集まってくれています。昨日は朝9時に7名が長松寺に集合してご奉公くださいました。このことを決して忘れないでいただきたいです。目には見えない、本当に価値ある結婚式。みんなの真心の結婚式であったこと。本当にありがたいです。


今週のFMヨコハマ「横浜ラグーン」では10月に迎えた結婚式のご奉公についてお話いたします。よろしくお願い申し上げます。


おめでとうございます!

ありがとうございます!

2025年10月26日日曜日

空から海ほたる

 

一人ひとり、昨日も今日も明日も明後日も、かけがえのない大切な日、待ちに待った日、特別な日。そんな日に立ち会わせてもらえることが何よりありがたいです。


今日は京都で結婚式。長松寺のご宝前で二人の門出。しっかりと大切にご奉公させていただきます。


空から撮った東京湾、海ほたると船の灯りと夜の海。幻想的な一枚となりました。


みなさまにとっても素晴らしい10月26日となりますように。

南無妙法蓮華経

ありがとうございます。

2025年10月25日土曜日

心の中に鬼がいて、心に闇が訪れる。闇堕ちしないための仏教。【 10月 教区御講 】


心の中に鬼がいて、心に闇が訪れる。
心の中に菩薩がいて、光を届け、寂光へ導いてくださる。
心の闇を照らす妙法、その光。
闇に堕ちないように、谷底へ転落しないように、過信せず、慢心せず、朝に夕に御題目を唱えて、御題目を離さず、ご信心から離れず、生きてゆくことが大切。
信心修行は油断してはならない。続けなくてはならない。やったり、やらなかったり、したり、しなかったり、来たり、来なかったり、ではダメだ。
油断すれば、闇が訪れる。力を抜けば、谷に堕ちてゆく。
恐ろしい世の中に、複雑な心を抱えて生きる私たちに、「懈怠謗法」と、厳しくお戒め、ご注意くださる御教歌でございます。

御教歌再拝。「信行は山に車をおす如く 手をやすむれば谷におち入る」

み仏の教えが、この世界に不可欠であると、つくづく感じます。
悪世末法、末法の娑婆世界。恐ろしい世の中と言っても、ほとんどが茶番です。
巻き込まれても、流されても、貴重な人生がもったいない。

何より、私たちの心。本当に複雑で、取り扱いが難しい。
トリセツが見つからないので、空回りしたり、壊れたり、脱落したりする人も多い。
そうならないように、というご信心、御教歌、御法門です。

月始総講で拝見した御指南、あらためて拝見しますと。

「道は暫くも離るべからず。離るべきは道にあらずと〜」という原文です。

「正しい道からは、片時も離れてはならない。離れてしまう道があるなら、それはもはや道ではない。真っ暗な夜に灯火を手放して歩くことはできない。通い慣れた道でさえ、灯りがなければ人にもぶつかり、しばらく通っていなければ、水たまりもできるし穴もあき、常にそこに落ちる危険がある。仏の大いなる教えも同じ。ろうそくを懐に入れていても、火を点けなければ暗いまま。信徒となっても御題目を唱えなければ、御利益は顕れない。口唱を怠ることは信行がゆるみ始めている証だ。」

やったり、やらなかったり、来たり、来なかったり、ではダメだということです。
よくご存知のはずの、開導聖人の御指南を拝見いたします。


「人、一日一夜に八億四千万念の念慮おこるなり。その一念毎に信には信のひびき、謗には謗のひびきあり。故に行住坐臥に口唱すべし。片時も信心を忘れるは謗法なり。」
謗法のいましめ・聖典一三七


「一日に八億四千万の念慮が起こる」とあります。
本にも書きましたが、一日というのは八万六千四百秒なので、これを八億四千万で割ると約〇.〇〇〇一〇三秒になります。

仏教の説く「刹那」という時間の単位がありますね。この「一刹那」は一秒の七十五分の一と言われる。ですから、〇.〇一三三秒となります。
つまり、刹那より短い瞬間にコロコロと「念慮」、「想い」や「考え」が発生し続けていることになります。

毎日、笑ったり、泣いたり、喜んだり、怒ったり、いろいろあります。
イライラしたり、フワフワしたり、本当に人間は生もので、コロコロと変わる。
変わっていないようで、変わってる。
思いや考えは、次から次に浮かんでは消え、浮かんでは消えてゆく。
でも、その一つ一つに、とてつもない力があり、とてつもない影響があるんです。
信には信の響き、つまり影響、作用、謗法には謗法の響き、つまり、報い、結果があるとお示しで、これをおさえた上で、だからお看経だぞ、御題目口唱を、欠かしてはならないよ、と説かれているのです。

油断していると、やられてしまう、と感じる世の中です。
この複雑な世界も、この複雑な自分も、一瞬たりとも止まってはいないし一瞬たりとも油断できない。
何度言っても、分からないんです。伝わらない。危ない、やばい、と言っても無理。

「今一度 大きな罰が出て来ねば まことの信は起らざりけり」

本当に、油断していては、ダメという御法門です。
「信行は山に車をおす如く 手をやすむれば谷におち入る」

月始総講で闇堕ちの話、「もののけ姫」と「夜叉」のお話をしました。
闇に堕ちないでください、闇堕ちしないでください、という御法門。

「そなたの中には夜叉がいる」
映画を見ていると、もののけ姫だけではなく登場人物全員の中に夜叉がいると分かる。
「夜叉」とはサンスクリット語の「ヤクサ」、パーリ語の「ヤック」、「鬼神」のこと。
「そなたの中には夜叉がいる」
「あなたの中に夜叉がいる」
「私の中に夜叉がいる」
鬼をテーマにした映画とか漫画、多いです。怪物やゾンビの物語もあります。
なんで、こんなに鬼やゾンビの話が多いのだろう?と考えたりします。
心の病も多いし、心を病んでしまうこともたくさんある。
ラジオにも同じようなお便りがたくさん届いきます。
みんな、孤独で、孤立していて、寂しくて、でも人付き合いは苦手で、仲間作りも面倒くさいと言う。願望は強いし、プライドも高いけれど、なるべく疲れないようにしたい。
心の健康というか、心から力が抜けてしまっている感じ。
鬼の話が多くなるのは、時代の空気を背負っているのだと思います。

つい先日、町田市のマンションで面識のない七十六才の女性を、包丁で刺して殺害した辛酸な事件がありました。犯人は自称派遣社員の四十才、桑野浩太という男でした。
「抵抗されなさそうな人を狙った」
買い物帰りで両手のふさがっていた高齢女性を狙った悪質、残忍極まりない犯行です。
ご遺体には十ヶ所以上の刺し傷があったほか、殴られた打撲痕もあったそうです。
どれだけ恐ろしい、残忍な、極悪な、悪魔のような、まさに鬼のような心だったか。

本人は警察に。
「人を殺して人生を終わりにしようと思った。そう言っていたそうです。
と言っていたそうです。身勝手で、どうしようもない。

逮捕されて姿が映されましたが、顔まで痩せ細って、見るからにゾッとするというか、やはり何かに取り憑かれているような雰囲気。
逮捕されてボーッとしていましたが、間違いなく鬼に取り憑かれていたはずです。

鬼の物語に「鬼滅の刃」という漫画、アニメがあります。映画にもなってる。

『鬼滅の刃』は大正時代の日本で、家族を鬼に殺され、妹を鬼にされた少年・炭治郎が、妹を人間に戻すために鬼退治に奮闘するという物語です。
鬼を退治するために努力する姿、仲間との絆、家族愛、そして「敵である鬼にも悲しい過去がある」という点が大きな魅力だそうです。

もともとは鬼も人間だった。人間だったのに、鬼になってしまった。
この犯人の両親が泣きながらインタビューに答えていました。
「中学で友達見つけられず」
「人生に絶望感が溢れていた」
犯人が中学生だった頃の写真も報道されていましたが、いい笑顔の、普通の子です。
なんで、わが子がこんなことになったのか、分からない。
分からないです。本当に。
中学で友だちが見つからない、根の暗い子だった、就職活動は頑張った、就職したけど上司とうまくいかなかった、そして仕事を辞めてしまった、それから派遣社員だった。
何度でも言おうと思います。

み仏の教えは、この恐ろしい悪世末法で、なんとか闇に陥らず、ただ一つの命、たった一度の人生を、心を健康に、みんなと一緒に、幸せに過ごすためにある。
でも、心はコロコロ、十面のサイコロ、本当に難しいんです。
だからこそ、御題目、だからこそ、ご信心。だからこそ、お看経。

みんな抱えている闇、みんな持っている鬼。
一念三千という法理は、理解できなくても、厳然と存在する宇宙の真理です。
刹那より短い瞬間、〇.〇〇〇一〇三秒に一つ湧き起こる「一念」に、三千、宇宙全体が具わってる。どこまでも上れる可能性と、どこまでも堕ちれる可能性、恐ろしさ。

「信行は山に車をおす如く 手をやすむれば谷におち入る」

サンスクリット語の「ヤクサ」、パーリ語の「ヤック」は「鬼神」です。鬼。夜叉。
これは、あまりにも恐ろしい存在だけど、お教化を受ければ「八部衆」となり、守護の善神として自分を守ってくれる存在になります。

そうすること、そうさせることが大事。闇堕ちしない。鬼に食べられない。入れない。乗っ取られない。うっかりすると、油断していると、堕ちる、やられる、食べられる。

開導聖人の御指南に。
「鬼神に二あり。一には善鬼、二には悪鬼。善鬼は法華経の怨を食す。悪鬼は法華経の行者を食す。」
「善鬼、信心つよきを守り、悪鬼、よわきを害す。よわきは一無間等なり。つよきは成仏道理顕然なり。」品品供養抄・扇全二十五巻二三六頁

鬼神、鬼には二種類あります。一つはお教化を受けた善なる鬼。これは法華経にアダを為す人を食べる。そのままの悪鬼、悪い鬼は法華経の行者を食べる、法華経の行者の邪魔をする。善鬼はご信心強い人を守る。悪鬼はご信心の弱い人を害する。

また、すぐ続く御指南に。
「今本尊の中、梵王の次に魔王あり。されば信心つよきを守り、よわきを食す。善鬼悪鬼共に仏法を守る。」品品供養抄・扇全二十五巻二三六頁

御本尊の中に魔王もいる。それすら味方につける。必ず守ってくださる。そんな無敵のご信心、宇宙全体を味方につける、究極の仏教が、南無妙法蓮華経のご信心。
絶対に、離してはダメ、離れてはダメ、したり、しなかったり、来たり、来なかったり、やったり、やらなかったり、ではダメだ、ということ。
いつの間にか、鬼にやられて、鬼に騙されて、流されて、とんでもないところに行く。
気づいたら、とんでもないところにいる。気づいたら、狂ってた、ということもある。

開導聖人の御指南。

「心の鬼が地獄へつれ行き心の菩薩が寂光へ導くと云ふ事、此一句を口ぐせの様に云ひなれて、能々(よくよく)味ひて、御法門聴聞に行く道々にも心にたくはへ、御看経の時にも忘れず、朝起きても一番に思ひ出し、一日暮れて夜臥す折にも、心の鬼が地獄へつれて行き心の菩薩が寂光へ導くと、一日二日三日乃至一年十年一生の間忘れざれば、臨終の時には心の菩薩が寂光へ導かせ給ふもの也。御臨終の夕べには日蓮必ず御迎ひに罷向ふべしとは是なり。」開導要決十六 四四オ 聖典六四九

現代語
「心の鬼が地獄へ連れてゆき、心の菩薩が寂光へ導く。
この一言を口ぐせにして、よくよく味わいなさい。御法門を聴きに行く道中も心にたくわえ、お看経の時にも忘れず、朝起きたら最初に思い出し、一日が終わり寝る時にも同じように唱えなさい。これを一日、二日、三日、一年、十年、一生のあいだ忘れず続けていれば、臨終の時には、必ず心の菩薩が寂光へ導いてくださいます。
『臨終の夕べには日蓮が必ずお迎えに参る』というのは、このことです。」

心を鬼に食べられないように、お守りいただけるように、忘れてはならないのです。
離れてはならないのです。やめてはいけないのです。

別の御教歌に。
「信心をやめて悪魔に手をひかれ 地獄におつる人ぞかなしき」
悪縁用心抄・扇全十二巻二七七頁
悲しいです。とにかく。それでは。何度も教えていただいているのに。

怖い世の中、自分の心も怖い。だからこそ、御題目。だから、ご信心です。
夜叉まで、鬼まで、魔王まで、味方にするから、怖い人からも守ってもらえる。

どうか、このことを忘れず、絶対に油断せず、御題目、ご信心を離してはならない。
心の中に鬼がいて、心に闇が訪れる。世の中にも鬼がいっぱいいる。数えきれない。

闇に堕ちないように、谷底へ転落しないように、過信せず、慢心せず、朝に夕に御題目を唱えて、御題目を離さず、ご信心から離れず、生きてゆくことが大切。
信心修行は油断してはならない。続けなくてはならない。やったり、やらなかったり、したり、しなかったり、来たり、来なかったり、ではダメだ。
油断すれば、闇が訪れる。力を抜けば、谷に堕ちてゆく。
恐ろしい世の中に、複雑な心を抱えて生きる私たちに、「懈怠謗法」と、厳しくお戒め、片時も力を緩めず、信心修行することが大切と、お教えくださる御教歌でございます。

故に御教歌に。「信行は山に車をおす如く 手をやすむれば谷におち入る」

Swallowtail Butterflyと横浜ラグーン

  インフルエンザが猛威を振るっています。コロナ禍の時と同様に、うがい、手洗い、移らないように、移さないように、お気をつけいただければと思います。特に、ご高齢の方々をお守りしたいです。 11月26日の「横浜ラグーン」をお届けいたします。今週は皆さまからのお便りにお答えました。ラジ...