心の中に鬼がいて、心に闇が訪れる。
心の中に菩薩がいて、光を届け、寂光へ導いてくださる。
心の闇を照らす妙法、その光。
闇に堕ちないように、谷底へ転落しないように、過信せず、慢心せず、朝に夕に御題目を唱えて、御題目を離さず、ご信心から離れず、生きてゆくことが大切。
信心修行は油断してはならない。続けなくてはならない。やったり、やらなかったり、したり、しなかったり、来たり、来なかったり、ではダメだ。
油断すれば、闇が訪れる。力を抜けば、谷に堕ちてゆく。
恐ろしい世の中に、複雑な心を抱えて生きる私たちに、「懈怠謗法」と、厳しくお戒め、ご注意くださる御教歌でございます。
御教歌再拝。「信行は山に車をおす如く 手をやすむれば谷におち入る」
み仏の教えが、この世界に不可欠であると、つくづく感じます。
悪世末法、末法の娑婆世界。恐ろしい世の中と言っても、ほとんどが茶番です。
巻き込まれても、流されても、貴重な人生がもったいない。
何より、私たちの心。本当に複雑で、取り扱いが難しい。
トリセツが見つからないので、空回りしたり、壊れたり、脱落したりする人も多い。
そうならないように、というご信心、御教歌、御法門です。
月始総講で拝見した御指南、あらためて拝見しますと。
「道は暫くも離るべからず。離るべきは道にあらずと〜」という原文です。
「正しい道からは、片時も離れてはならない。離れてしまう道があるなら、それはもはや道ではない。真っ暗な夜に灯火を手放して歩くことはできない。通い慣れた道でさえ、灯りがなければ人にもぶつかり、しばらく通っていなければ、水たまりもできるし穴もあき、常にそこに落ちる危険がある。仏の大いなる教えも同じ。ろうそくを懐に入れていても、火を点けなければ暗いまま。信徒となっても御題目を唱えなければ、御利益は顕れない。口唱を怠ることは信行がゆるみ始めている証だ。」
やったり、やらなかったり、来たり、来なかったり、ではダメだということです。
よくご存知のはずの、開導聖人の御指南を拝見いたします。
「人、一日一夜に八億四千万念の念慮おこるなり。その一念毎に信には信のひびき、謗には謗のひびきあり。故に行住坐臥に口唱すべし。片時も信心を忘れるは謗法なり。」
謗法のいましめ・聖典一三七
「一日に八億四千万の念慮が起こる」とあります。
本にも書きましたが、一日というのは八万六千四百秒なので、これを八億四千万で割ると約〇.〇〇〇一〇三秒になります。
仏教の説く「刹那」という時間の単位がありますね。この「一刹那」は一秒の七十五分の一と言われる。ですから、〇.〇一三三秒となります。
つまり、刹那より短い瞬間にコロコロと「念慮」、「想い」や「考え」が発生し続けていることになります。
毎日、笑ったり、泣いたり、喜んだり、怒ったり、いろいろあります。
イライラしたり、フワフワしたり、本当に人間は生もので、コロコロと変わる。
変わっていないようで、変わってる。
思いや考えは、次から次に浮かんでは消え、浮かんでは消えてゆく。
でも、その一つ一つに、とてつもない力があり、とてつもない影響があるんです。
信には信の響き、つまり影響、作用、謗法には謗法の響き、つまり、報い、結果があるとお示しで、これをおさえた上で、だからお看経だぞ、御題目口唱を、欠かしてはならないよ、と説かれているのです。
油断していると、やられてしまう、と感じる世の中です。
この複雑な世界も、この複雑な自分も、一瞬たりとも止まってはいないし一瞬たりとも油断できない。
何度言っても、分からないんです。伝わらない。危ない、やばい、と言っても無理。
「今一度 大きな罰が出て来ねば まことの信は起らざりけり」
本当に、油断していては、ダメという御法門です。
「信行は山に車をおす如く 手をやすむれば谷におち入る」
月始総講で闇堕ちの話、「もののけ姫」と「夜叉」のお話をしました。
闇に堕ちないでください、闇堕ちしないでください、という御法門。
「そなたの中には夜叉がいる」
映画を見ていると、もののけ姫だけではなく登場人物全員の中に夜叉がいると分かる。
「夜叉」とはサンスクリット語の「ヤクサ」、パーリ語の「ヤック」、「鬼神」のこと。
「そなたの中には夜叉がいる」
「あなたの中に夜叉がいる」
「私の中に夜叉がいる」
鬼をテーマにした映画とか漫画、多いです。怪物やゾンビの物語もあります。
なんで、こんなに鬼やゾンビの話が多いのだろう?と考えたりします。
心の病も多いし、心を病んでしまうこともたくさんある。
ラジオにも同じようなお便りがたくさん届いきます。
みんな、孤独で、孤立していて、寂しくて、でも人付き合いは苦手で、仲間作りも面倒くさいと言う。願望は強いし、プライドも高いけれど、なるべく疲れないようにしたい。
心の健康というか、心から力が抜けてしまっている感じ。
鬼の話が多くなるのは、時代の空気を背負っているのだと思います。
つい先日、町田市のマンションで面識のない七十六才の女性を、包丁で刺して殺害した辛酸な事件がありました。犯人は自称派遣社員の四十才、桑野浩太という男でした。
「抵抗されなさそうな人を狙った」
買い物帰りで両手のふさがっていた高齢女性を狙った悪質、残忍極まりない犯行です。
ご遺体には十ヶ所以上の刺し傷があったほか、殴られた打撲痕もあったそうです。
どれだけ恐ろしい、残忍な、極悪な、悪魔のような、まさに鬼のような心だったか。
本人は警察に。
「人を殺して人生を終わりにしようと思った。そう言っていたそうです。
と言っていたそうです。身勝手で、どうしようもない。
逮捕されて姿が映されましたが、顔まで痩せ細って、見るからにゾッとするというか、やはり何かに取り憑かれているような雰囲気。
逮捕されてボーッとしていましたが、間違いなく鬼に取り憑かれていたはずです。
鬼の物語に「鬼滅の刃」という漫画、アニメがあります。映画にもなってる。
『鬼滅の刃』は大正時代の日本で、家族を鬼に殺され、妹を鬼にされた少年・炭治郎が、妹を人間に戻すために鬼退治に奮闘するという物語です。
鬼を退治するために努力する姿、仲間との絆、家族愛、そして「敵である鬼にも悲しい過去がある」という点が大きな魅力だそうです。
もともとは鬼も人間だった。人間だったのに、鬼になってしまった。
この犯人の両親が泣きながらインタビューに答えていました。
「中学で友達見つけられず」
「人生に絶望感が溢れていた」
犯人が中学生だった頃の写真も報道されていましたが、いい笑顔の、普通の子です。
なんで、わが子がこんなことになったのか、分からない。
分からないです。本当に。
中学で友だちが見つからない、根の暗い子だった、就職活動は頑張った、就職したけど上司とうまくいかなかった、そして仕事を辞めてしまった、それから派遣社員だった。
何度でも言おうと思います。
み仏の教えは、この恐ろしい悪世末法で、なんとか闇に陥らず、ただ一つの命、たった一度の人生を、心を健康に、みんなと一緒に、幸せに過ごすためにある。
でも、心はコロコロ、十面のサイコロ、本当に難しいんです。
だからこそ、御題目、だからこそ、ご信心。だからこそ、お看経。
みんな抱えている闇、みんな持っている鬼。
一念三千という法理は、理解できなくても、厳然と存在する宇宙の真理です。
刹那より短い瞬間、〇.〇〇〇一〇三秒に一つ湧き起こる「一念」に、三千、宇宙全体が具わってる。どこまでも上れる可能性と、どこまでも堕ちれる可能性、恐ろしさ。
「信行は山に車をおす如く 手をやすむれば谷におち入る」
サンスクリット語の「ヤクサ」、パーリ語の「ヤック」は「鬼神」です。鬼。夜叉。
これは、あまりにも恐ろしい存在だけど、お教化を受ければ「八部衆」となり、守護の善神として自分を守ってくれる存在になります。
そうすること、そうさせることが大事。闇堕ちしない。鬼に食べられない。入れない。乗っ取られない。うっかりすると、油断していると、堕ちる、やられる、食べられる。
開導聖人の御指南に。
「鬼神に二あり。一には善鬼、二には悪鬼。善鬼は法華経の怨を食す。悪鬼は法華経の行者を食す。」
「善鬼、信心つよきを守り、悪鬼、よわきを害す。よわきは一無間等なり。つよきは成仏道理顕然なり。」品品供養抄・扇全二十五巻二三六頁
鬼神、鬼には二種類あります。一つはお教化を受けた善なる鬼。これは法華経にアダを為す人を食べる。そのままの悪鬼、悪い鬼は法華経の行者を食べる、法華経の行者の邪魔をする。善鬼はご信心強い人を守る。悪鬼はご信心の弱い人を害する。
また、すぐ続く御指南に。
「今本尊の中、梵王の次に魔王あり。されば信心つよきを守り、よわきを食す。善鬼悪鬼共に仏法を守る。」品品供養抄・扇全二十五巻二三六頁
御本尊の中に魔王もいる。それすら味方につける。必ず守ってくださる。そんな無敵のご信心、宇宙全体を味方につける、究極の仏教が、南無妙法蓮華経のご信心。
絶対に、離してはダメ、離れてはダメ、したり、しなかったり、来たり、来なかったり、やったり、やらなかったり、ではダメだ、ということ。
いつの間にか、鬼にやられて、鬼に騙されて、流されて、とんでもないところに行く。
気づいたら、とんでもないところにいる。気づいたら、狂ってた、ということもある。
開導聖人の御指南。
「心の鬼が地獄へつれ行き心の菩薩が寂光へ導くと云ふ事、此一句を口ぐせの様に云ひなれて、能々(よくよく)味ひて、御法門聴聞に行く道々にも心にたくはへ、御看経の時にも忘れず、朝起きても一番に思ひ出し、一日暮れて夜臥す折にも、心の鬼が地獄へつれて行き心の菩薩が寂光へ導くと、一日二日三日乃至一年十年一生の間忘れざれば、臨終の時には心の菩薩が寂光へ導かせ給ふもの也。御臨終の夕べには日蓮必ず御迎ひに罷向ふべしとは是なり。」開導要決十六 四四オ 聖典六四九
現代語
「心の鬼が地獄へ連れてゆき、心の菩薩が寂光へ導く。
この一言を口ぐせにして、よくよく味わいなさい。御法門を聴きに行く道中も心にたくわえ、お看経の時にも忘れず、朝起きたら最初に思い出し、一日が終わり寝る時にも同じように唱えなさい。これを一日、二日、三日、一年、十年、一生のあいだ忘れず続けていれば、臨終の時には、必ず心の菩薩が寂光へ導いてくださいます。
『臨終の夕べには日蓮が必ずお迎えに参る』というのは、このことです。」
心を鬼に食べられないように、お守りいただけるように、忘れてはならないのです。
離れてはならないのです。やめてはいけないのです。
別の御教歌に。
「信心をやめて悪魔に手をひかれ 地獄におつる人ぞかなしき」
悪縁用心抄・扇全十二巻二七七頁
悲しいです。とにかく。それでは。何度も教えていただいているのに。
怖い世の中、自分の心も怖い。だからこそ、御題目。だから、ご信心です。
夜叉まで、鬼まで、魔王まで、味方にするから、怖い人からも守ってもらえる。
どうか、このことを忘れず、絶対に油断せず、御題目、ご信心を離してはならない。
心の中に鬼がいて、心に闇が訪れる。世の中にも鬼がいっぱいいる。数えきれない。
闇に堕ちないように、谷底へ転落しないように、過信せず、慢心せず、朝に夕に御題目を唱えて、御題目を離さず、ご信心から離れず、生きてゆくことが大切。
信心修行は油断してはならない。続けなくてはならない。やったり、やらなかったり、したり、しなかったり、来たり、来なかったり、ではダメだ。
油断すれば、闇が訪れる。力を抜けば、谷に堕ちてゆく。
恐ろしい世の中に、複雑な心を抱えて生きる私たちに、「懈怠謗法」と、厳しくお戒め、片時も力を緩めず、信心修行することが大切と、お教えくださる御教歌でございます。
故に御教歌に。「信行は山に車をおす如く 手をやすむれば谷におち入る」