北半球と南半球では、季節が正反対に巡っている。北半球の日本が冬なら、南半球のブラジルは夏。イタリアは冬でもスリランカは30度。世界各地、季節には違いがあり、自らそこには温度差がある。時差もそうだが、短期間に世界各地を飛び回るとなれば、これがなかなか身体に堪える。
この宇宙、この地球上、北半球だろうが南半球だろうが、季節や温度が変わっても決して変わらないのが御仏の真実の教え、上行所伝の御題目。そうであるし、そうでなければならない。本門佛立宗、本物の仏教、仏の教えに温度差があっては残念なことだし、そうであってはならないのだ
何度か紹介したが、ブラジルの教講は本門佛立宗のことを「Buddhismo Primordial」と題してご弘通しておられる。これは、茨木日水上人がブラジルに仏教を紹介した、ブラジルの仏教のルーツは本門佛立宗からである、ということもあるが、教えの上からしても「根本の仏教」であることを標榜したものだ。そのとおりである。
ブラジルの御導師から聞いた一言の中で、心に残る一節がある。その言葉とは、「本物の仏教が難しいわけはない」というものだった。「Primordial Buddhism must be not difficult.」。本物の仏教なのだから、普遍的で、シンプルで、人種や国の垣根を越え、誰もが修行できる、誰もがその効果を、すぐ実感できる、と。それが本物の仏教ではないか、と。
カルト化したり、原理主義かすると普遍性が欠落していくことがある。真理よりもディテールが先行する。「幸せです」と豪語する人がいても、極端に矮小化した経験から導かれたものであったりして、少数化し、先鋭化する。宗教は自己の価値観の中で閉塞すると恐れられている面がある。本物の仏教がそうであってはならない。
ひろし君がブラジル団参の感想文を書いた。その中にブラジル社会で根付く佛立信心を見て、「仏教は、元々インドから始まりました。しかし、お祖師さまは日本にお生まれになりました。世界の歴史を考えた時、日本以外の場所では真実の仏教は継承されなかったはずです。インドではなく、まず日本でなければならなかった。このように考えた時、伝統や「文化」のみを重んじるのであれば、全てはインド風であるべきでしょう。しかし、私たちが重んじるのは「伝統」ではなく「真理」であるべきです。ですから、インドも日本も、そしてこの「ブラジル」も関係なく、上行所伝の御題目が弘まり、そこで生きる人々が中心となり、その国々の文化を許容しながら、とにかく菩薩行を展開していくべきだと思います。「インド文化」「日本文化」ではなく、「真理」にこだわっていきたい」と書いていた。ポイントを押さえているんだなぁ。
温度差、季節の差、 時差があっても、変わらないのは上行所伝の御題目。ご信心。現証の御利益。そして、何より、そのご信心から生まれる「随喜」である。
去年は彼女を連れて全ブラジル弘通部会議にオブザーバーとして出ていた。その印象が強い。それだけで私は感覚的にぶっ飛んだ。会議の輪の外側に座って、彼女と肩を組みながら会話を聞いている。時々、イチャイチャしたりして。開放的で、何とも「ラテンだなぁ」と感じたものだ。大人たちも全く気にせず、「ご弘通ご奉公の会議に参加してくれているだけで有難いではないか」という感じ。そういうオブザーバーを交えながら、みんな真剣にご弘通を語っているのであった。
そのミノル君が、1年後に会った私に如蓮寺の本堂の後ろで袖をまくって腕を見せてくれた。な、な、なんと、彼の腕には「仏丸」が。仏丸の入れ墨、仏丸のタトゥーが入っているではないか!?うぇー、なんで?どーしたの?
「お、お、お前、入れ墨なんて入れてると、日本では怖い人に間違われて、スパもサウナも入れなくなるんだよ?なんでまた」と言うと、「いや、僕もそれは知っています。でも、ブラジルではファッション感覚で若者が入れるんです。僕は、どうせするならご弘通のためになるようにしたいと思った。みんなが『このマークは何?』って聞く。そして、僕は答える。『これはPrimordial Buddhismのマークだ。俺はブッディストなんた。お寺に来てみないか』って。これでもうお教化も出来ましたよ」と。
入れ墨が良いとか悪いとか、そういうことを言いたいのではない。日本の感覚からすれば、親からもらった身体に傷を付けるのは良くないだろう。それでも、このミノル君の思いを汲んでいただきたい。彼は、上行所伝の御題目を口唱し、現証の御利益を感得し、ご信心に決定(けつじょう)して、この行動に出た。そのご信心への喜びと、ご弘通への思いを感じてもらいたい。私がこのブログで、山ほどの言葉を費やしてご信心を語るよりも、彼の喜びと覚悟の方が多くの人に真実を訴える。
日本で「法灯相続が難しい」と言うのはこちらに問題があると思えてしまう。日本から最も遠いブラジルという国の若者が、佛立信心に対してこれほどまでに熱い想いを持っているということを知ってもらいたいのだ。その随喜を喚起する、喚起させずにはおかないのが、佛立信心であるのだから。
温度差、季節、時差はあるけど、ご信心への随喜、ご弘通への想いは、世界各地どこでも変わらずにいて欲しい。特に、日本の私たちは彼らに負けない熱い想いを持っていたい。