ほら、見てみると、やっぱり本堂に向かって咲き始めてる。嬉しいなぁ。今年、見られなくて残念。きっと帰ったら散ってしまってる。本当に、妙深寺の境内にいる桜は特別だから。
なぜ特別だと感じるのか。それは、この桜満開の時に父が倒れ、そこから人生が回転し始めたから。その全てを、桜は見ていた。だから、私にとってこの桜は特別なのだ。
私は、桜の花びらが散ってしまっても桜の木に話しかける。桜の木というのは、可哀想なほど春しか見向きもされない。表面はゴツゴツしていて、虫も付きやすく、夏や秋や冬には誰の目にも止まらない。ただ、春だけ異常なほど注目される。それも良い。仕方ない。でも、桜が好きなら、やはり、一年を通じて話しかけ、春を待ち望むのも大切ではないかと思って、そうしているのだ。
「散りますと、花のいふのを きいて呑め」
先住が大好きだった開導聖人の御教句である。なんとも粋な、何とも深い歌であろう。この御教句を噛みしめながら、今年も妙深寺の桜の満開、そして散りゆく姿を見たかった。
世間は、コンビニエンスな文化が花盛り。集客のためにライトアップされる花々、木々。綺麗なものに違いはないが、果たしてそこに「心」はあるのか。綺麗は綺麗、ムードはムード。でも、それだけ。つまらないなぁ。
この時期、さまざまなメディアで桜の名所が語られるが、観光客の誘致のために、そこそこに「桜」を利用しているものが多い。そんなコンビニエンスな名所や、下心に溢れている場所に行くのもいいのかもしれないし、そこで酔うもの人の勝手だ。でも、私はそんな場所に行きたくない。
ぜひ、この桜を見に来てもらいたい。ここは特別なのだ。下心なしだ。見事だ。大きな3本の桜が、空を隠すように覆い茂る。咲き誇る。
父が亡くなる2ヶ月前も、父の肩を抱きながら、その下に立った。父は、最後になるであろう満開の桜を、「寒いから、もういいだろ」という私の言葉を制止して見つめていた。
「散りますと、花のいふのを きいて呑め」
「散りますと、花のいふのを きいて呑め」
なんと素敵な歌だろう。父を想いながら、一晩中、一献汲みながら、桜を見つめて過ごすのが例年の習いだが、今年はブラジルでのご奉公に精を出そう。
0 件のコメント:
コメントを投稿