2008年8月21日木曜日

教務の覚悟

 明日、特別御講。今日は13時からその準備ご奉公として「前助行」をさせていただいた。住職と受持教務全師、各教区長と全お役中が本堂に参集し、明日と明後日に奉修される鈴江日原上人御唱導の特別御講に、遺漏無きようにご奉公してくださっていた。
 先住ご遷化から鈴江御導師には毎年一度の御講奉修を御願いさせていただいてきた。私は30才を少し過ぎた程度で住職となってしまった。先住ご遷化直後、住職に就任したものの「佛立の生命」である御講、特に住職として奉修する「教区御講」を勤めさせていただくには果報も備わっておらず、あまりに未熟すぎた。鈴江御導師は、毎月横浜までお越しくださり、私を横に据えて御講を奉修くださり、私にも所属のご信者みなさまにも、丁寧に、細やかにご教導してくださった。
 一年が過ぎた頃、「もう、清潤師が勤めたらよろしい」とのお話しがあり、そのようにさせていただくようになった。しかし、一年に一度は妙深寺のご弘通を見ていただき、以前のようにご教導いただけるようにと、「特別御講」を奉修させていただきたいと御願い申し上げているのである。
 その間、鈴江御導師の妙深寺、そしてこの特別御講に対するご奉公の姿勢から学ばせていただくことが数え切れないほどあった。御法さまのお導きとは、このようにピタッとしたタイミングで、私たちに教えてくださるのかと、本当に恐ろしくなったのだが、一年に一度の特別御講のその日、鈴江御導師の奥さまが帰寂遊ばされたのだった。かねてからご病気で入院されており、何度かお見舞いにも行かせていただいていた御導師の奥さまが、私が例年のように相模原に御導師をお迎えにあがっている途中で危篤、そのままご家族に見守られて息を引き取られたのだった。
 これ以上ない哀しい日。私は病院に向かわせていただいた。病院の裏口で御導師をお迎えした。「御導師、今日はこのようなことですので、妙深寺の特別御講は延期させていただきます」と申し上げた。すると、「行くよ。ご奉公を断ったら富士子に怒られてしまうよ。清潤師、行くよ」と仰った。涙が溢れた。御導師をお乗せして、横浜に向かった。御導師は、車の中で何度か涙を流されていたと思う。御法門の途中でも、経緯をお参詣者に説明されながら言葉に詰まられていた。
 赴任された昭和30年代の後半、相模原は現在のような住宅街や国道沿いに並ぶ賑やかなレストランや店舗などなく、一面の畑に囲まれていったという。お寺のある国道沿いから駅が見えたらしい。今では家が建ち並んでいて、全く見えない。所属のご信者も少なく、数10軒しかなかった。そのお寺を、長グツを履いて、ドロドロの道を歩いて、靴や下駄を何個もダメにしながら、ご弘通された。そのご弘通を、奥さまと共にされてきた、戦友、妻がいたからこそ、とのお言葉。涙されながら、一生をご弘通ご奉公に賭けた日々、奥さまと共に奮闘された日々を振り返っておられた。
 その、奥さまの帰寂の日に、特別御講のご奉公に来ていただいた。その覚悟、その行動、何とも言葉にならない。言葉が見つからない。恐ろしいまでのお手本を見せていただいた。本当に、まさに、恐ろしいまでのお手本だった。佛立教務道とは、このようなものか、と。
 鈴江御導師のお師匠さまである日博上人も、愛するご長男、現在の大和・法深寺の御住職が大けがをされて危篤となった時にも、病院へ向かっていただきたいとの御弟子方やご信者の声を制止して御講にお出かけになったという。そして、見事に九死に一生を得て、現在まで健康にご奉公されている。頭蓋骨が骨折し、脳まで見えている状態、そこに砂がたくさん付着している状態からの回復である。
 私は、自分の信心前が到底そこに及んでいないことを恥じ入るしかない。佛立教務道の厳しさ、ご奉公の筋を、今からでも学ばせていただくしかない。御講、ご奉公への教務の覚悟、姿勢である。
 お祖師さまの御妙判、開目抄にも厳しい選択についてのお諭しがある。お祖師さまご自身が突きつけられた選択、そのご心境。
「日本国の位をゆづらむ、法華経をすてゝ観経等について後生を期せよ。父母の頸を刎。念佛申さずは、なんどの種種の大難出来すとも、智者に我が義やぶられずば用ひじとなり。其外の大難風の前の塵なるべし」
 法華経を捨てて他の信仰によるならば日本の国をあげよう、あるいは念仏を唱えなかったら父母の首を刎ねるぞ、と様々な大難があっても、本化仏教の義が破られなければ用いない、しない、ゆれない、とお諭し。愛する家族を本当に救うために、どちらの道を選ぶか。凡夫は常に、教えていただくこととは逆の選択をしてしまう。「愛」と言えば聞こえは良いが、「信」「義」を通すことによって愛する家族を本当に導き、救い、助けるということを教えていただいているようだ。
 事実、鈴江御導師の奥さまはお喜びになったであろうし、法深寺の御住職は今でもお元気である。本当の御利益は、このようにいただくものだという恐ろしいまでのお手本。凡夫の意のままにいては、正しい道は選べないのだろう。
 御教歌にも、
「妻や子が娑婆に帰れととりすがり ゆくにゆかれぬ寂光の道」
とある。言い方は難しいが、誤解を恐れずに書かせていただくと、いくら、愛していた、愛している妻や子どもだといっても、それだけではお互いに幸せの道から離れてしまうことがあるということなのだ。もっと、もっと、本当の愛に昇華させなければならないし、本当の愛し方があるということなのだろう。
 本当の家族の愛、愛の生かし方がある。こうした点からも、私たちの生き方、愛というものの考え方、選択の仕方を学ばせていただける。人生は選択の連続。欲や迷いの強いまま間違った選択をして、迷いを深めたくないものだ。
 明日、午前中に相模原・妙現寺まで御導師をお迎えに上がり、13時から御講の奉修。土曜日は10時30分からの奉修である。有難い。

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