今日は、大変暑い中に、皆さんがお参詣してくださいましたことは、非常に喜ばしい限りでございます。
先日、NHKの「その時、歴史は動いた」という番組でブラジルの特集をやっておりましたが、今日も動いております(笑)。
100年に1度しかない機会だと思って、1年と4ヶ月も前から楽しみさせていただいておりました。3日前からゆっくり眠れませんで(笑)、緊張して、家内もびっくりしてました。今日は家族全員でお参詣させていただきました。10年に1回しか家族全員で参詣させていただくことはできません。ですからなお、今回は思い出深い参詣になっております。これもひとえに先師上人、日博上人、お参詣のお教務さん方、お参詣の皆さまのおかげでございます。
特にこの前のブラジル団参では長松ご住職に大変ご活躍いただいただきましたおかげで、ブラジルの100周年も無事に勤めることができました。この場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございました。そのおかげで、有り難く、新時代の大スタートを切らせていただくことができました。
実は、100周年というのは、大きな目標がであったけれども、大きな壁でもあったのです。是が非でも100周年を成就させていただかなければならなかったので、他のことが何もできておりませんでした。しかしこの100周年のご奉公が無事に終った以上、今度は恩返しです。200周年に向けての新時代のご奉公をブラジルで切らさせていただきましたし、今日ここで、歴史が動いていることを感じて、更なるご奉公への精進を誓わせていただきます。
全然遠い日本だとは思っておりません。だからこそ心を一つにして。皆さんのエネルギー、支援を向こうでも感じさせていただきながら、きっとご奉公に倍の精進・エネルギーが湧いてくるものと大変喜んでおります。
本当に皆さん、この度のお会式の機会を与えてくださってありがとうございました。また局長さんもブラジルまでご信者さんと共に来てくださって、本当にありがとうございました。
それでは御法門を拝まさせていただきます。
佛立開導日扇聖人の御教歌に、
「ほしいまゝに 身をな持ぞや 妙法の 修行は娑婆の いのちなりけり」
さて、人生面白くないというときは二通りあります。それは「個人として面白くないとき」と「全体として面白くないとき」の二つです。個々が面白くないということが多いのは、それぞれ「我」が衝突するからで、これは決してなくなることはありません。
しかし、自分を殺す必要はない。信心の眼を持って、だんだんと全体の中の自分を見つめ始めますと、何と有り難い、今までの至らなかった自分の愚かさと、本当の自分の素晴らしさとに目覚めていくことができるのです。いわゆる、全体の中にこそ、私たちが生きる命の本当の値打ちがあるのです。そう見れば、「修行」というものは、決してお坊さんを対象にしたものではなく、きっと誰でもしたくなる面白い生きがいのあるものになってゆくのです。
そんな修行の中で、本当の自分を引き出してくれる修行に、「南無妙法蓮華経」の力に勝るものはない。だから安心して、2つとない最も大事な宝…「この命」をお預けして、存分に生きることです。
具体例として、クリチーバ如蓮寺、私がご奉公させていただいているお寺のご信者さんにエジソン・ユカという50歳の方がおられます。一昨年前からご信心にお出会いして、今までの生き方をきっぱり捨てて、妙法の修行を中心に生きるようになりました。それからというものは、無職であったのに仕事が見つかり、必要としていた家の補修もでき、いろいろな御利益を頂かれました。
ところが、夜の仕事で、朝の五時までの勤務ですから、気が付けばお寺から足が遠のいていました。しかしそれに気付いた本人は、早速改良して、仕事場から直接朝参詣するようになり、先週の13日に、初めて冬季参詣(今ブラジルは冬です)の個人目標を達成することができました。
その喜びに、「時間はかかるかもしれませんが、必ず奥さんを教化させていただきます、50年にしてやっと感謝と喜びに生きることを覚えました。全くご信心のお蔭です。今までは転々と色々な宗派を試してみましたが、この本門佛立宗は、初めて私を、本当の人間に作り変えてくれました」と喜びいっぱいに語ってくれました。妙法の修行に純粋に生きればこそ頂ける御利益なのです。
私たちが拝まさせていただく御題目、お祈りは物事をよりよく考えていくためだけのものではないのです。逆につまらない考えをやめて、すぐにしなければならないことを速やかに実行に移すために、「命の修行」のために祈らせていただくのです。言い換えれば、頭で分かりきって、今までできていなかったことが、自然にできるようになるのです。そうしたものはみな、妙法修行の功徳の力なのです。
そこで妙法修行の力について、少し触れさせていただきます。ひとことで言えば、「自分、人、ともにそのままの姿で救える、唯一の修行法である」ということが言えます。事実そうでなければ、私は今ここに居ることができなかったのです。あと半年で、お寺に入ることを許されてから三十年目を迎えますが、「そのまま救う」という佛立宗に救われました。
教務になりたいと思ったのは七歳の頃からです。最初はキリスト教、後にプロテスタント、念仏、真言いろいろな教会、寺院を周り、体験しましたが、いずれを訪ねても先に「君は悪すぎる。もっと良くならなければ信仰はできない」と教会や天国に入ることを拒まれたのです。自分で良くなれるくらいなら、入らんわいと(笑)。どうも善人ばかりしか救えない宗教だなと思いました。「善人も悪人もそのまま救いましょう」というのが本門佛立宗、妙法の口唱の修行です。
具体的に申しますと「お前、いつになった分かるんだ。俺がこれだけ教えてやってるのに」と言うことがありました。でもそれではダメなんです。そういうふうに言う人は、仮に相手が分かっても変わっても、心に慈悲がないので、結局はいつまでたっても人を救うことはできません。
西洋思想では、悪の人格化として「悪魔」というものをよく強調します。ある日、テレビ番組に出演しておりまして「悪魔についてあなた方仏教徒はどのように思いますか」と聞かれて、「教化の対象です」と即答したら、アナウンサーが大変びっくりしました。そしてさらに「悪魔を救える宗教こそ本物です」と念を押すと、しばらく黙っておりました。
いろいろな宗教、神仏にも色々ありますが、みな一緒くたにするのは正しくありません。佛立は勝劣の立場を取り、優れて最も信仰の対象となりうるみ仏は、誰でもそのまま救える、南無妙法蓮華経のみ仏です。いわゆる「救済力で勝負」です。そうなればこそ誰も迷わなくなります。論よりは証拠です。本当に困り果てた人、誰もが「あんたなんか知らん。あなたなんかもういらん」という人を、み仏、御題目の力で、そのまま助けてくださるのです。
ブラジル開教の祖、茨木日水上人は尊い上に、大変面白いお方であられました。ある日、道を歩いているときにある人に呼び止められて「私、この右腕が病気です」と言われて、差し出されたその人の腕に、筆で南無妙法蓮華経と書いて唱えさせたところ、腕が治ったというのです。聞くところによると、日水上人は、名前さえお聞きにならなかったそうです。これは「そのまま救う」ということに他なりません。妙法の力を以てすれば、誰もが救える、みなが救える状態が自然に整えられます。
人が、「もういい」という心から「良かった」という気持ちになります。
「君がやれ」という気持ちから「させていただきます」に。
「お前つまらないことばかりする」から「よくしてくれて本当にありがとう」に。
「これだけしているのに誰も分かってくれない」から「みんなのおかげだ」に。
「みんなが悪いんや」という気持ちから「すみませんでした」に。
「もう二度としない」から「いくらでもやり直させていただきます」に。
「大嫌いだ」から、「愛してる」…とまではいかなくても「好きだよ」と言える心に。
「何かしなさい」から「ちょっと手伝ってくれませんか」。
そして、「自分自身が偉い」と思う気持ちから「どうか助けてください」
と御法さまに素直にお願いができ、人さまと喜んで共存できる人間に、不思議に自然になっていきます。そのままの状態で、心に御題目を頂いたらこんなに素晴らしく生まれ変わることができます。
パラグアイの首都はアスンシオンでございますが、別にお寺もご信者さんもあるわけではなかったのですが、とにかく1年半前に頂いた一通の手紙を頼りに出発しました。行き先も時間も相手もはっきり定まらない修行の旅も、また楽しいものでした。
アスンシオンに着いたときに、行き先の町は、なんと、さらに400キロ離れていたことに初めて気付きました。そこでお計らいを頂き、ブラジルの免許でもパラグアイで運転できることを知り、レンタカーを借りて飛んで行き、4、5時間かかって着きました。ところがそれから12時間かけても手紙をくださった74歳のオイカワ・ユウイチロウさんという方を見つけることができませんでした。
住所も変わっており、電話もない。運転しながら「ここまで来た以上は、ひと目でも、何とかして会いたい」と涙を浮かべることもありました。
そうすると、「その人なら知っている」という人が現れて、知人に迎に行ってもらうことができ、2時間後、お互いに路上で抱き合い、涙を流し、木の枝に御本尊をお奉りして、拝ませていただきました。まさに、「妙法の修行は娑婆の命なり」の文字通りの教えを実感させていただくことができました。
オイカワさんは、元、八王子清流寺所属のご信者さんでありましたが、9年前にパラグアイ人の奥さまと一緒になられて、9人子供がいるのですが、その方とパラグアイに佛立宗の組を作りたい一心で渡れたといいます。
本当に食うに事欠く状態だったそうで、ごっつい大きな手で、爪の中には土がいっぱいでしたが、何にもないところに行って、ご弘通させていただきますというのは、従来の佛立信心をお持ちになっている方だな、これは本物の菩薩だな、ご弘通が血管の中を流れているご信者さんだなと痛感いたしました。
お互いが、服も真っ黒な状態でしたが、ご弘通を誓いあって、30分の感動のうちに別れてブラジルに戻りました。一生忘れられないご奉公となりました。私は本当に心からその方を敬い、そのまま救われた気分になり、人生再出発の決意を立てさせていただきました。
佛立開導日扇聖人の御指南を頂きますと、
「つなげる犬が柱を回りて、われとクビをしめるようなことを思い捨て、大恩教主のお慈悲にすがり、現在も未来も助けさせ給えと、打ちもたれて、御題目を一心に受持口唱せよ」
とお示しです。
おたがいに、身も口も、心も閉じないで、縄を取る命の修行、苦しい中にもリラックスが感じられる救いを、本門佛立宗の御題目さまがもたらしてくださいます。
そしてこの妙深寺がそのオアシスなのです。そのことを忘れずに、一人でも多く、そして人を選ばずに、我も人もこのままの状態で、とにかくご信心をさせていただこうと、一人でも多くの人をお寺にお連れして、一緒に御題目を唱えさせていただこうと務めさせていただくことが大事です。この生き方、修行を命とすればこそ、頂ける御利益です。しなければ逆に命取りになることもあります。欲しいままに生きようと思えば簡単ですが、ツケは必ず回ってきます。現代人は、ない金で買わなくていいものを買い、敬ってもいない人に、自分でない自分を演出します。そういった生き方はもったいなく、命をすり減らすことになってしまいます。
どうぞ一日一日が一生、永遠の時です。ゆえにそれを浪費することなく、速やかにご信心に入り、み仏のお救いに共にあずからせていただきましょう。そのことをお教えいただく御教歌でございます。
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