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御教歌「思へ人 祖師御出世のなかりせば 御題目は誰が手よりきく」
ついに二月十六日、高祖日蓮大士ご降誕から満八百年を迎えます。この末法悪世にお祖師さまがご出現くださらなかったら、いったい誰から、いったい全体どうやって、私たちは「南無妙法蓮華経」の御題目さまを頂戴することが出来たでしょうか。永遠に出来なかったはずです。
法華経に説かれたとおり、そのお約束のとおりに末法へお出ましになり、大難四度、小難は数知らず、数多の苦難困難にお遭いになりながらご奉公くださったおかげで、様々な現証の御利益を頂戴し、寂光参拝の可能性も頂戴することが出来たのです。
今こそ、八百年分の感謝を込めて、その大慈大悲の大恩の一分にお報いするべく、骨惜しみなく、ご奉公させていただこうではありませんか。
寒参詣の御法門で拝見いたしましたが、凡夫は損得勘定が逆さまで、損を得と思い、得を損に思うものです。
御教歌「諸の 願ひのかなふ近道は みのりの為に骨をしみすな」
凡夫の転倒した価値観、考え方のクセは、近道を遠回り、遠回りを近道だと思い込む。願いは叶えたい。近道があるならその道を選びたい。でも、その道を選べないし選ばないのですね。そんなもったいないことはありません。
「骨惜しみ」は「体を使うことをいやがらない」ところから生まれた言葉で、「どんな苦労・めんどうをもいやがらずに励む。」という意味になったのでした。
関連する御教歌はたくさんあります。
御教歌
「損するとおもふな得のある事ぞ みのりのために骨惜みすな」
「成丈けの分相応の御奉公 かげひなたなく骨をしみなし」
「骨をしみ油とりとりくらすなら 心はやみのくらがりの牛」
それぞれ、凡夫の損得勘定を乗り越えて、御法さま、お祖師さま、先師上人のために、骨惜しみないご奉公を勧めておられます。
また、開導聖人は御教歌に。
「たゞなりのデモの坊主と清風は 骨のをりよがチトちがふなり」
とお示しになられ、開導聖人が他の僧侶と違うのも骨惜しみなくご奉公してきたのだから大きな差がついて当然であろう、と喝破されています。その通りでしょう。
骨惜しみしてきた人と、骨を惜しまずにご奉公に精進してきた人とでは、大きな差が生まれます。それはあとから埋めようと思ってもちょっとやそっとのことで取り返せるような差ではありません。外側だけの「デモ坊主」か、骨惜しみのない本物か。後悔は先に立ちません。
誰だって無駄が嫌い。苦労は避けたい。ストレスは感じたくない。時間にも心にも余裕のある過ごし方がしたいものです。
しかし、それだけでは謗法や罪障の深い凡夫が凡夫のペースに合わせて過ごしているだけで、功徳も薄い、罪障消滅もない、だから御利益も顕れないのです。
何よりも大切なのは意志、目的、目標。ご奉公の成就に向かって、骨惜しみなく、明るく、楽しく、精進いたしましょう。
(妙深寺 役中テキスト 住職 清潤)
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