本日より京都佛立ミュージアム 終戦80年特別展「トランクの中の日本 〜戦争、平和、そして仏教〜」展がスタートいたしました。
7月1日から今朝まで、スタッフ一同みんなで力を合わせて無事にスタートを切ることが出来ました。本当に、ありがとうございます。
これまでで最も大切で、しかし同時に最も虚しく、開催準備をいたしました。
最初にこの写真展を開催したのは2015年、今から10年前です。仏教のミュージアムとして終戦70年の企画展を考えていた時、杉崎さんから『トランクの中の日本』をお預かりしました(この時にお預かりしたその本の実物そのものがローマ教皇フランシスコに送ったものです)。
「この写真こそ!」と思い、すぐさま小学館に電話をし、伝説の編集者・大原哲夫先生をご紹介いただき、神保町にあった先生の編集室にお伺いしました。情熱を込めて「トランクの中の日本 〜戦争、平和、そして仏教〜」の企画をご説明し、オダネル家へご連絡いただけることとなり、ついに開催のご許可をいただくことが出来ました。
写真の中に立つ、少年と歩んだ10年。
今回の写真展は、虚しさと共に開催します。
この10年を振り返れば、戦争や紛争は増す一方で、平然と国際法を無視し、他国に侵略し、あるいは攻撃し、報復し、力による現状変更が公然と、至るところで行われ、80年前からして最も核兵器の使用が現実味を帯びていると言わています。そんな中の、終戦80年、幼い兄弟の写真展です。
今回の写真展についてSNSで発信したところ、海外からメッセージが届きました。
「悲惨な写真を見るために美術館に行く必要はない。ウクライナで、ガザで、至るところで、私たちは今日も、幼い弟や妹を殺され、無言で死体を運ぶ少年や少女を見ている。」
本当に、そのとおりです。
リミニでは念願だった映画『火垂るの墓』との共同イベントを開催しました。多くの人が「焼き場に立つ少年」の写真や映画に登場する節子ちゃんや清太くんを見て涙してくれていました。
それぞれ大変な反響を得ましたが、その後の世界の情勢を考えるとひたすらに虚しくなります。人間は、しばし感傷にひたるだけで、子どもの血や、母親の涙にさえ、教訓を得られないのか、と。
今回、オープニングの文章と映像に、想いを込めました。冒頭は10年前に書いた原稿を再び使用しました。
「我々が歴史を勉強すると、我々が歴史から学んでいないことが分かる」 ドイツの哲学者・ヘーゲル
「人間が歴史から学んだことは、歴史から何も学んでないということだ」ウォンストン・チャーチル
「恐怖の描写をするだけであれば、われわれは正しく戦争に反対することにならない。しかし、生きることの喜びや無駄な死の非情さについて声高く述べるだけでも、同じように正しく戦争に反対することにはならない。数千年以来、母親の涙について語られて来た。だがその言葉も、息子が死ぬことを妨げ得ないことをしっかりと認めなければならない。」サン=テグジュペリ
サン=テグジュペリが言っているのは、わが子を失った母親たちの涙を見ても、子どもたちの血を見ても、その死を見ても、本当のところ、私たちの心には届かず、戦争が無くなることはない、ということです。
全身から、力が抜けてゆくようです。
今回のオープニング動画はYouTubeに公開しません。衝撃的な映像を含むため年齢制限がかかりましたし、不用意に観れば心身の負担を感じる方がいると思うからです。館内にも注意書きを置きました。
世界の現実や戦争の真実を直視することが大切なのに、それもなかなか出来ない、ホワイト化が進む世の中です。
人は、しばし感傷にひたるだけで、子どもの血や、母親の涙にさえ、教訓を得られないのでしょうか。
この写真展は、ただ感傷にひたるものではありません。敵愾心に燃えてやってきた米兵が、敵と味方の境界を超えて、人間性に目覚めてゆく過程を、追体験するものです。
仏教のミュージアムが開催する終戦80年の記念展示は、悲しみや、怒りや、憎しみや、涙を超えて、人間とは何なのか、戦争とは何なのか、では平和とは何なのか、その一分を感じていただくための写真展となります。
一人でも多くの方々にご来館いただきたく思っております。
よろしくお願いいたします。
ありがとうございます。
京都佛立ミュージアム
館長 長松清潤拝
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