見ていられない。
しかし、目を背けるわけにはいかない。
いま中東で起きているのは単なる国家間の戦争ではない。神の名、選民の物語、終末の幻想、聖地の独占、そうした宗教的「妄執」が政治権力と結びつき、軍事と宣伝に転換された戦争だ。
しかも、この戦争は弱い立場の人たちの命を踏みにじっている。子ども、病人、老人、貧しい人、逃げる場所を持たない人たちが、一顧だにもされず、泣かされ、傷つけられ、黙らされ、操られ、狂わされ、殺されてゆく。
インフラへの攻撃の応酬。石油プラントだけではない。発電所を狙い、飲料水の施設も攻撃対象となり、電力を失い、明かりが消え、病院も、学校も、日々の暮らしも破壊される。
再び戦争は前線で人を殺すのみならず、生きるために必要な条件そのものを壊していってる。もうむちゃくちゃで、終わりが見えない。終わったとしても、むちゃくちゃな世界。とにかく、むちゃくちゃだ。
2003年11月、私はイスラエル、パレスチナ自治区を訪ねた。エルサレムの旧市街、それぞれの聖地を歩きながら、仏教者として人類が抱えた負の「カルマ」を胸に刻んだ。人類の歴史は宗教と切り離せない不可分の歴史でもある。
エルサレムは、どちらか一派の神話を完成させるための舞台であってはならない。宗教の均衡が破れれば、血の海になる。何度も繰り返してきた。それらは歴史に刻まれている。
聖地を壊し、別の聖地を建て、預言を爆撃によって成立させようとするなら、それは信仰ではなく「妄執」や「狂信」だ。それは「敬虔」などではなく極めて危険な「思想」ではないか。
2012年に刊行した拙著『仏教徒 坂本龍馬』では「危険な遺伝子」と題して旧約聖書の「ヨシュア記」など危険な宗教思想の系譜について述べた。無論、それぞれに誠実な信仰者や優れた人格者がいる。しかし、普遍性を欠き、排他性や暴力性を正当化しうる文言や思想が、長い歴史の中で政治に利用されてきたことを、どう考えるべきかを書いた。そもそも坂本龍馬率いる海援隊は『閑愁録』で耶蘇教(キリスト教)の危険性について論じていたのだ。
仏教が説くのは、選ばれた者だけが救われるという思想ではない。すべてのいのちは等しく重いという平等の智慧、真理だ。ある意味で科学の基本原則のように人間の「主観」を排して人間そのものを「見つける」ことが仏教だった。偏狭な人間によって作り出された「宗教」を「妄想」と喝破する確信こそ仏教の本質なのだ。
いま、一部の特権階級や権力者たちの幻想、利権、誇大妄想のために、全世界の人びとが危険にさらされている。
遠い砂漠の爆撃を「遠い国の話」で終わらせてはいけない。すでにエネルギーが「人質」のように扱われ、世界中の価格を揺さぶり、物流を止め、食料と薬を不足させ、最も弱い人から順に追い詰められている。もはや私たちは当事者であり、戦時下にある。
均衡を破る理由はなにか?
国際法は均衡を破ることを許したのか?
均衡を破ることに合意した国家は?
今後どのように均衡を保つのか?
いや均衡は生まれるのか?
そもそも出口はあるのか?
いま世界で起きていることは、文明の進歩とは真逆だ。最も賢いはずの人間が、最も愚かな妄想に支配された時、ここまで残酷になれるという証明だ。だから私は、この戦争を文明の敗北であり、宗教性の堕落だと言っている。
過去数千年、人間たちはこうして殺し合ってきた。人間の凶悪性は事実誤認、反ダルマ、つまり謗法によって最大化する。神の名で子どもを殺すな、聖地を憎悪で破壊するな、電気と水と燃料を兵器にするな、弱い者から先に死んでいく世界を見過ごすな。
これから数百年、数千年続く憎悪を撒き散らして、何をしているのか。
世界は、一部の特権階級の妄想に付き合わされている。その代償を払わされるのは名もなき弱い人びとだ。
目を覚まさなくてはならない。
一刻も早く。
私たちの弛緩と怠慢が、今の世界を生み出した。
世界は影に過ぎない。
地獄の蓋は開いている。
もはや他人事などあり得ない。
写真
・嘆きの壁(エルサレム)
・岩のドーム(エルサレム)
・聖墳墓教会(エルサレム)
・世界ホロコースト記憶センター(エルサレム)
・生誕教会(ベツレヘム)
2003年11月、エルサレムとベツレヘムで撮影。聖地はどちらか一派の神話を完成させる舞台であってはならない。均衡が破れれば祈りの場所は血に染まる。








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