妙深寺の「本化桜」が満開を迎えようとしていた。
実は、老いたのか、衰えたのか、最近の気候のせいなのか、大きな枝振りなので上の蕾が花開く頃は地面に近い枝の桜の花びらは散ってしまっていることも多い。今年もそうなりそうだ。しかし、見事に咲き誇る桜を見ることができて、本当に嬉しい。嬉しく思えた。
この前から、ご信心をされていない方々とお話しする機会が多かった。神奈川新聞を見て来てくださった方々、バーにも観桜会にも、そうした方々が多い。そして、ご信者の方がお連れになったお友だちも、大勢来てくださった。お会いできて、お話しできて、嬉しかった。「来年の桜まつりで、踊りのチームで参加したい」と申し出てくださる方も。もちろん、お願いします、とお話しした。夜の近隣の方を招いて行われる観桜会では、カラオケに代わる企画を待ち望んでいたのだから。
司馬遷の「史記」に、有名な言葉がある。「桃李不言 下自成蹊」=「桃李ものいはざれども、下おのづから蹊(みち)を成す」と読むのだが、「桃や李(すもも)は何を言うわけではないけれど、花実に惹かれて人が集い、その下に自然と小路ができるものだ」という意味。
長松寺の玄関を入って真っ正面。庭へ通じる窓の上に、開導聖人の御真筆で「無声呼人」という扁額を掲げている。この扁額の意味は「声無くして人を呼ぶ」というもので、まさに。「桃李不言 下自成蹊」と相通じる。上っ面の愛想笑い。硬軟を使い分け、パフォーマンスに頼った生き方。それでいいか。上手に上辺を繕って生きていても、そこに真実がない、実がない。結局、孤独、孤独、孤独。言葉で誤魔化せない。言葉で誤魔化さない。内面のギラギラしたエゴや下心を、言葉巧みに繕っている人間が多いが、それでは結局誰も付いてこないぞ、もっともっと奥を、謙虚に磨いていけ、と戒められているのではないだろうか。
桃や李、そして、この桜も、声無くして人を呼ぶ。自然と人が集まる。だから、たくさんの人と出会えたし、お話しすることもできた。自分も、この桜のように、奥の奥の人間性を磨いて、悪いところを改めて、成長したい、本当に人間を練りたい、と思う。つまりは、信心を磨くことが大切で、そこが心の最も深い分を司るものだ。そうでなければ、また誤魔化す癖が出てくる。人間に許されたコミュニケーションの全てを否定するわけではないが、人間が年を重ねて生きてきて、テクニックやパフォーマンスで人を呼ぶのではなく、その人柄で人を呼ぶ、そういう人間になれなければ淋しい。
古来から、「桜梅桃李(おうばいとうり)」という言葉がある。桜、梅、桃、李(すもも)。それぞれ独自の花を大いに咲かせよ、と。みんな、それぞれ良いところ、個性を磨きながら、美しく、その花や実によって人が集うように生きてゆけ、と。それぞれが、声無くして人を呼べるように。だから、本当の仏教、私たちのご信心とは、一つの極端な教義に押し込めようとするものではなく、様々な個性を持った人が御題目の下に集い、御題目をお唱えし、人を思いやる菩薩へと昇華し、現証の御利益を持って仏の境涯に近づくことを目指している。
お祖師さま(日蓮聖人)が「桜梅桃李」をお使いになられてご指導されていたことが御義口伝の中に残されている。
「本門の心は無作の三身を談ず。此の無作の三身とは、佛の上計りにして之を云はず。森羅万法を自受用身の自体顕照と談ずる故に、迹門にして不変真如の理を明す処を改めずして、己が当体無作の三身と沙汰するが本門事円三千の意なり。是れ即ち桜梅桃李の己己の当体を改めず無作の三身と開見すれば、是れ即ち量の義なり。今日蓮等の類ひ、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は、無作の三身の本主なり云云。」
とにかく、上っ面ではなく、人間を磨くことが大事。そうでなければ、どんなに言葉を巧みに使えるようでもボロが出る。本物じゃない。孤独になる。もっと、足下を見て、焦らずに、磨いていこう。人が集まるように。
あなたはサクラ、あなたは梅。それぞれ素敵な花を咲かせられる。ピーチでもプラムでもいい。とにかく、言葉やテクニック、パフォーマンスで誤魔化さず、厳しい冬も耐えて、春を迎えよう。お互いに、根っこを育てよう、磨いていこう。
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